シリンクス
音楽フォーラム


No.32
1999年 冬


目 次

レビュー  演奏会  油井 康修  東京文化会館・音楽のともしび

レビュー  演奏会  北岸 恵子  天才少年が大人になって

レビュー  演奏会  井上 建夫  ルネッサンスの蜂蜜の味は?

最近聴いた伴奏ピアニスト   田辺 健茲

イタリアの美術都市を訪ねて   大久保ゆかり

ザルツブルグ詣で   杉原 敏夫

コンサート・オン・エア (20)   高橋 隆幸  アナトール・ウゴルスキー

ピアノ奏法の技術移転(1)   井上 建夫

編集後記

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Review / Performance
油井 康修

東京文化会館・音楽のともしび

岡城千歳 ピアノリサイタル
1999年10月5日
東京文化会館小ホール

ガリー・ベルティーニ/東京都交響楽団 第499回定期演奏会
1999年11月13日
東京文化会館大ホール


 東京文化会館は、ここしばらく改装中で1年位だったかどうかはっきりした期間は分からないけれど、演奏会が開けなかった。ついしばらく前に新装オープンということで、久々に聴きに行ってみようという気になった。

 今でこそ東京都内にも、またちょっと外れた所にも随分素晴らしいホールが沢山出来ていてよくこれだけ日々コンサートがあるものだ、それにしてもそんなにお客さんが入るのかななどと、詰まらぬ心配までしてしまうほどだ。しかし私が演奏会に出掛けて音楽を聴き始めた頃には、というのはもちろん学生時代ということであり、そしてそれはおおむね京都か時には大阪だったが、東京といえばまずはこの東京文化会館の名が挙がったものである。

 大体において京都や大阪のコンサートでは曲目が割に無難なものが多く、ちょっと面白いものや、当時としてはかなり大胆な曲目のコンサートは皆東京で、随分悔しい思いがあった。しかし時には大枚をはたいて京都から長駆東京に馳せ参ずることもあった。まさしくそれは貧乏学生にとっては、清水の舞台から飛び降りるが如き行動であった。ハンガリー四重奏団によるバルトークの弦楽四重奏曲全曲演奏会など、一日置いて二日間にわたったので、友人の下宿に三日も泊めてもらって聴いたのである。その会場がこの東京文化会館小ホールだった。

 もう一つ、ジャン・ルドルフ・カールスによるメシアンの「幼子イエズスにそそぐ二十のまなざし」も忘れ難い。メシアンという作曲家は学生時代に初めて知ったのだが、なにしろレコードがなかなか手に入り難く、また楽譜も十字屋へ行っても見当たらず、どんな曲かは皆目見当がつかない。それでも漸くのことフィリップス盤のイボンヌ・ロリオのものが手に入って、やっとのことで渇きをいやすことが出来たのだが、この録音がまた珍妙なもので右と左の位相が違っていて、モノラルにしないと聴けないという代物であった。

 このコンサートも矢張り同じ小ホールであった。東京文化会館はあのころの私にとっては、云わば意を決して京都から乗り込んで行く場所であり、輝ける音楽のともしびの場所であったのだ。

その東京文化会館、一ヶ月程の間に大ホール・小ホール共に聴く機会があった。建物全体を建て替えた訳ではなく形態面での変化はない。演奏会場の内装が替わったかというと、それもそうでも無さそうだ。小ホールは例によって正面背後に銀色のついたてを上から垂らしたようなものがあったし(これは多少は前衛と伝統の調和を意識しているのか、それにしては少し大ざっぱで、伝統の側からするとキメの細かさがほしい感じといつも思ってしまう)、大ホールも側面の雲のような木片を張り合わせた装飾は変わりがない。ただステージのバック及びサイドの桟をそろえたような音響装置は前には無かったような気もする。

 この大ホールで今回は4階席をとった。実はもう一つ上にさらに5階席があり、いずれにせよこんなに高い座席があったことを今まで気付かなかった。こうして見るとこの大ホールも随分大きなホールだなあと改めて感じ入った次第だ。しかし聴いた限りでは音の通りはかなりよく、響き具合は悪くない。オーケストラを聴くにはまずまずのホールのように思う。もっとも以前はどうかというに、ベルリンフィル、ウィーンフィルを聴いたときも特に不都合は無かったから、実際はあまり変わっていないのかもしれない。問題はピアノだが、これはまたの機会に聴いて見なくては分からない。

 ひとつ前と違っているのは、正面から入ると演奏会場への入り口少し手前左に、書籍その他の音楽関係のグッズが置いてあるコーナーが新設されていることだ。これってちょっとこの場に合わないような気がするけれども。それに演奏が終わって皆がワッと出て来ると丁度邪魔になっているように思える。「ちょっと稼いでやれ」と云う風でなんとなくみみっちい。ゆったりした空間だからよかったのになどと私には感じられる。改装は多分表面の見えるところではなく、内部の設備等ではないかと思う。

[I]

岡城千歳 ピアノリサイタル

フランク:前奏曲、コラールとフーガ
ドビュッシー:前奏曲集より
雪の上の足跡、西風の見たもの、亜麻色の髪の乙女、花火
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」より
前奏曲、イゾルデの愛と死
スクリャービン:
アルバムの頁 Op.58
2つの小品 Op.57
ピアノ・ソナタ 第5番 Op.53

 職場の同僚からもらった「ぶらあぼ」なる雑誌を見ていたら岡城千歳というピアニストの記事が目に入ってきた。曰く「実力に評価が追いつかない」。ウン、これはなかなかの言葉ぞや、などと思いながら読んでいるうちになんとなく聴いて見たくなった。経歴を見ると桐朋学園大卒業後アメリカに渡ってそこで研鑽を積み、そのまま活動を開始してしまったようで、いまでは「プロ・ピアノ」というニューヨークのレコード会社の専属にまでなっている。

 つまり名前は日本人だが活動はアメリカ人という、このごろはこういう人も増えてきているのだろうか。それにしてもスクリャービンを得意としているらしいのがちょっと興味を引くところだ。このところウゴルスキーのスクリャービンを実際に聴いているので、聴き比べをして見たい気にさせられる。

 文化会館小ホールというのはなんとなくうす暗い場所で、華やかに音楽がかき鳴らされるという感じではないのだが、そこに彼女は黒いドレスに身を包んで楚々と現れた。実際ドレスというのも当てはまらない位地味なもので、これはマルタ・アルヘリッチやジュリェット・グレコと同タイプだ。ウーン、センスは悪くない。ここに結婚式のお色直しのようなドレスで派手派手しく現れたらやっぱり場違いだろう。

 それにしてもいつも思う事は(と、前にも書いたかもしれないが)、多くの女流演奏家の衣装に対するセンスの乏しいことよ。別に身につけている衣装が少々センス不足でも演奏の評価とは関係ないとは云うものの、音楽のセンスがよかったなら衣装のセンスももう少しとツイツイ思ってしまう。舞台の上は芸術の場なのだからと云いたい。あの派手派手ドレスは「女の子」としての憧れだろうか。それとも何か固定観念があるのだろうか。

 ついでに過去印象に残っている人を挙げて見ると、例えば堀込ゆず子。彼女のはもうドレスではなくて上下別の普段の服装に近いものといえるだろう。上は普通の袖で、ヴァイオリンを弾くにはこれでいいんだろうと思えたし、スカートはロングで身長と共に体を大きく見せ橙系の赤が実に彼女の若々しさとマッチしていて素敵だった。ラルキベデッリのヴェラ・ベスも印象的だった。薄絹を重ねたようなヴァーミリオンの衣装は大人の感覚に溢れていた。ただし少々透けて見え気味で、いまいち聴く側が音楽に集中しにくかったように思う。

 話を岡城千歳に戻すと、彼女は衣装も質素だが心持ちの方も随分控えめな感じの人のようだ。曲が終わって退場するとき、何度も何度もお辞儀をして少しずつ後ろに下がって行くが、それが最敬礼というより腰を折ってお辞儀をしていると云う風で控えめな印象を強めている。ウゴルスキーも前に書いたようにその立ち居振る舞いは大ピアニスト然と云うより、遠慮しがちにもみ手をしたりして商家の番頭さんのようで、どうもスクリャービンを弾く人は似た風情がある、とはいくら何でも結論づけられないか。

 彼女のピアノもこの雰囲気で、かなり難しい曲をしっかりしたテクニックで弾いているけれど別に大向こうをうならせるような感じのものではない。フランクにしても速いパッセージの細かい音は滑らかで美しい。ドビュッシーの「花火」は難曲だが必死で弾いているでもない、余裕でと云うほどではないにしても何でも弾けてしまうというところか。ただし少し意外だったのは、ドビュッシーの「雪の上の足跡」やスクリャービンはpないしppを中心に曲を構成していきたいところだが、案外大きな音量をバックにしていたし、またスクリャービンでは幾分固い響きの音も使っていたことだ。決してニュアンスに欠ける訳ではないが、この辺が変わるとどうなるかとも思う。

 ニュアンスという分野でいうなら、矢張りウゴルスキーが生まれながらにもっているあの毒素にも似た濃厚なロマンティシズムは彼女にはそれ程感じられなかった。それも当然で、もっと別のもので勝負する事になろう。もう一つダイナミック・レンジの点からいうと、どうも彼女の場合ffやfffがfからスムースに繋がってない感じがする。表現が控えめなのか、当日使用したピアノが不調だったのか。

 以上いくつか気になる点はあったが、全体としては充分楽しめた演奏だったし、何と云ってもワーグナーが圧巻として堪能出来たのがうれしいところだった。特に私自身ワグネリアンではないが、「トリスタン」はなんとなく興味があり少しずつかじっていたので、スクリャービンとは別にちょっと期待していたのだ。この手の編曲はともすると演奏者の腕自慢を誇示するものになりがちだが、そしてもともとそんな意図はあったのだろうが、彼女の場合そんな気配は微塵も無かった。

 しかしこういう類いの表現にも関心が深いということか。スクリャービンの「法悦の詩」も2台ピアノ用の編曲を一人で重ねどりをしていて、このCDはこれからの楽しみだ(先日購入してきたのだ)。「トリスタン」は幾分遅いテンポでじっくりじっくり、焦るでも無く急ぐでも無く延々と展開されていった。編曲自体あまり派手なものでは無かったのか、ひたすら最後の終末に向けて曲は徐々に盛り上がっていった。この間少しの綬みも無く弾き切ったのは素晴らしかった。ウーン、満足。曲後ブラボーの声が入ったのもよく分かる。また次の機会に聴いて見たい。

[II]

ガリー・ベルティーニ/東京都交響楽団
マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」

 実は今年になって以来都響の演奏を結構聴いている。会員にはなっていないがしばしば案内状が来るし、私の名はコンピューターに登録されてしまったようだ。確かこのレヴューではまだ書いたことが無かったかもしれない。聴いた感じでは、曲によってはツボにはまるとすごく乗ってしまって面白い演奏をするが、まだ概して微妙なニュアンスやオーケストラ全体が醸し出すオーラのようなものに欠けるところがある、と云ったところだ。

 割りと聴くというのは曲目に面白いものを取り上げることが多いからだ。それは多分指揮者にエリアフ・インバルや今日取り上げるガリー・ベルティーニを迎えていることが関係しているかもしれない。インバルはマーラー・ブルックナーの両刀使いだ。これはどちらかというと珍しいようで、どちらか一人と云う方が普通のようだ。確かに近い時代の二人でどちらも交響曲作曲家だがその質は随分違う。違い過ぎるというべきか。ベルティーニはマーラーで著名だとのこと、しかし彼と都響が組んだプログラムを見るとかなり多彩で、レパートリーが相当広い人のようだ。

 このところオーケストラを聴きに行くときはブルックナーやマーラーを中心に聴こうとしている。マーラーは一時期集中的にレコードを集めたことがあり一応全曲そろっていたが、充分聴き込んだ曲はまだ余り無い。ブルックナーに至ってはやっと最近ほばレコードが揃ったところ。しかしどの曲も長大で子供三人がバタバタしているわが家では全曲通してじっくり聴くのは容易ではないのが実情だ。と云う訳でオペラもそうだがマーラー・ブルックナー級のものはとにかく実際の演奏会でゆっくり聴くを第一としてしており、これがまた楽しみであるのだ。今夜はマーラーだ。

 指揮者のベルティーニは写真を見ると渋い顔付きで幾分高僧の雰囲気(頭の方もツルリとしている)を感じさせるが、その指揮ぶりたるや実に元気活発、精力的で、似た人ではショルティを思い出させる。都響もかなり元気な演奏をする方だから、両者相俟ってかなり活気あるマーラーになったように思う。

 この曲のタイトルは「悲劇的」となっている。マーラー本人がつけた訳では無いそうだが本人も「悲劇的」ということは認めていたらしい。レコードの解説にあった話では、この曲のリハーサルを聴いてR.シュトラウスが飛び込んできて、「あす、君はその第六交響曲の前に葬送序曲かなにかを指揮しなければならないね。ここの市長が今死んだ、と。それほど野暮ったいようなものだ。その心配って何かね。ああ、では・・・」と言ったそうだ。

 しかしこの両者の取り合わせのせいか分からないが、タイトル程にはこの夜のマーラーは悲劇的では無かった気がする。マーラーには常に独特の人間臭さが感じられ、これが魅力だ。アイロニー、いたずらっぽさ、おおげさな身振り、恰好付けといったもので、時には俗悪っぽい位にもなる。第一楽章の展開部に入って間もなく、まさしくそんなところが出てくる(譜例:略)。

 ちょっと日本の時代劇で今まさにクライマックスに至らんとしており、主人公が敵の本拠に向かって勇んで突き進んで行くといった情景が浮かぶ。この俗な所がまたマーラーらしい。この点ブルックナーは全く逆で、いわば聖人君子か、清浄無垢の世界の音楽だ。マーラーもブルックナーもどちらもよく金管を吠えさせるが、その響きは全く違う。ブルックナーの純粋に対して、マーラーにはすぐに陰が付きまとって行方知れずになる。全体にマーラーの音楽は起伏に富みニュアンスに満ちているが、さりとてその行き着く先が見えないように思う。

 べートーヴェンやブラームスでは明らかに一つの到達点(それはすべての疑問が解決される大団円の地点)に向かって音楽は進むし、ブルックナーも広くはそれに近い。つまりカタルシスで音楽は終局となる。マーラーにはこれが無い。面白いが謎のままだ。その点に絡むかもしれないが、どうも私には面白いと思うものの「マーラーの美」というべきものが充分につかめていないようだ。緩徐楽章はしばしば非常に美しい。しかしそれもすぐに何か陰影に絡み付かれ、すっきり晴れ渡ったものではないし、実に怪しい崩れかかったとでも言うような美だ。これが後期ロマン派のものなのか(二十世紀はマーラーの世紀だ、という時はこの規定はどうなるのか)、ウィーン風というものなのか、はたまたマーラー特有のもなのか見極められるものではないが、矢張り揺蕩うなかに置き去りにされている感じだ。

この曲は見ていてもなかなか面白かった。つまり見栄えがするということ。金管はホルンが九人!マーラーのほかの曲でもこんなことがあるのだろうか。トランペットも六人は少なくないだろう。金管以外に打楽器の活躍というのも注意を引く。ブルックナーではこれはそれ程ではない。特に第四楽章では有名なハンマー打ち。音そのものは一回目は他の楽器の強奏と一緒で聴き分けられなかったが、二回目はガツンという感じの音が響いてきた。それにしてもあの重いハンマーを振り上げて打ち下ろし拍子に合わせるのはなかなか大変なもの、プロとは見事に合わせるものだ。(と書いていまふと思ったのだが、あのハンマーはそんなに重かったのだろうか。しかしそれ程重くなくても矢張り合わせるのはそんなに楽ではあるまい。)

 シンバル四人による一斉打ちも豪華というか派手というか、なかなかの見もので、これも見事に決めた。ティンパニも終楽章には二組使っていた。いやはや楽しい。こういうのは実際の演奏でないとなかなか分からないものだ。そのほか金属片をガラガラ鳴らすのも(カウベルというらしい)別に違和感はないが何とも奇妙なものだ。

 ベルティーニの全体の指揮振りは初めの方に書いた通り。第三楽章最後の方、弦楽合奏で静かに締めくくられて行くとき、ふと気が付くとタクトを持っていない、指が、手が、柔らかく、しなやかにと要求していた。各楽章の最後はしばらく腕を振り上げたままで、気持ちが静まって来ると漸く腕を降ろすという感じだった。終楽章が小さなピチカートで終わったとき、まだ腕は降りておらず聴き手は余韻の中で響きが遠ざかって行くのを味わっていたとき、何で拍手をする人がいるのかなあ。音楽評か投書で時々早すぎる拍手に異議を唱えている人がいたが、この夜については全く同感。ああ、あの余韻はどこへといいたい。総じてベルティーニの指揮は安心して付いて行けるものだった。

 それにしてもこの日は忙しかった。久々に東京で時間が取れたので、たまっていた美術展をあちこち巡り回り四つも見てしまった。これはいささか限界オーバーだ。しかも四つ目のものは場所を間違え、夕食に入った食堂ではちっとも注文の品が出てこなくて、ついに飯抜きで文化会館に飛び込んだのだった。なんといってもあの第一楽章の冒頭、勇壮な開始を聴き洩らしたのでは第六番を聴く意味がなくなってしまうから。



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Review / Performance
北岸 恵子

天才少年が大人になって

スタニスラフ・ブーニン ピアノリサイタル
(さきらピアノびらき PARTII 世界の銘器・スタインウェイ)
1999年11月13日
栗東芸術文化会館さきら大ホール

 夏のある土曜日、神戸に住む友人から電話がかかってきました。彼女はブーニンがショパンコンクールで優勝したとき以来のファン、栗東に新しくできるホールにブーニンが来るからチケットを買って一緒に行こうとの誘いでした。栗東の近くに住む私ならば、ホールの情報や地理感があるだろうと思って誘ってくれたようです。ブーニンの名前を知ってはいても、演奏についてはテレビで1、2回見た程度です。ショパンコンクール後のブーニン騒ぎも今は下火、久しぶりに外国人ピアニストのリサイタルに行ってみるか、と重い腰を上げました。

 滋賀県は昨年、びわ湖ホールが華々しくオープンし、その豪華さは県内外でも注目されました。びわ湖ホールは見てみたいものの、どうも最近は“豪華”という言葉が疎ましく、まだびわ湖ホールには足を運んでいません。栗東に新しいホールができると聞いて、こんな小県に入れ物ばかりいくつも作ってどうするのだろう、と思いました。しかし、興味はあります。この10月にオープンしたばかりの栗東芸術文化会館“さきら”、びわ湖ホールと同じく、大、中、小の3つのホールを持っていますが、中はどんな感じなのでしょうか。また、さきらは、スタインウェイD-274、ベーゼンドルファー 290、ファツィオーリF-278、ヤマハCFIIISの4台のグランドピアノを所蔵するという点で、地域ホールとしては珍しいようです。

 さきらのスタインウェイは、ブーニンによって東京のスタインウェイショールームで選ばれたものですが、ブーニンのコンサートはそのピアノ開きを兼ねています。ちなみに、ファツィオーリはアルド・チッコリーニがイタリアのファツィオーリで、ベーゼンドルファーはイヨルク・デームスがウィーンのベーゼンドルファー本社で選定したピアノであり、チッコリーニによるファツィオーリ開きが10月15日、デームスによるベーゼンドルファー開きが11月27日、行われています。バブルから時が過ぎ、長びく不況の中、我が滋賀県の税金は余っているのでしょうか。

 11月13日は晴天で暖かく、ホールでコンサートを聞くより、芝生に寝転がっていたいような気候です。栗東駅から徒歩5分、ホール前のスペースは広々としています。ホールは正面側がほとんどガラス張りで、中に入っても開放感があります。しかし、ホールロビー、大ホールともに内装、照明などは案外、地味でした。資金はピアノにつぎ込んだのかもしれません。

 この日のコンサートはショパンプログラム。前半が幻想曲 Op.49とソナタ第2番 Op.35、後半がソナタ第3番 Op.58と舟歌 Op.60です。よく言えばすっきりまとまった、悪く言えばショパン年に無難なプログラムです。幻想曲はゆっくりと始まりました。弱音の表現に不満があるものの、1曲目はこんなものかな、という感じで2曲目のソナタ第2番。これが当日のプログラムでは一番良かったように思います。

 特に第1楽章は激しさと優しさがすっきりとまとまっていました。第2楽章はフォルテが目立ったものの、メリハリで聴かせる演奏です。第3楽章の有名な葬送行進曲を経て、第4楽章へ。うまいのですが、必要以上に速い。休憩後の第3番のソナタはもっと極端で、第3楽章が極めて遅く、第2、第4楽章は猛スピード。特に第4楽章の速さは今まで聴いたことがなく、高音から中音へ右手が駆け回る箇所の右手の動きのすざまじさ。私の席は最前列左寄りだったので、ブーニンの指の動きに圧倒されました。スポーツだったら優勝間違いなしです。音はもちろん美しいので、音楽的ではあるのですが、曲が終った後には場違いな感情が残りました。

 この超絶技巧披露の後の舟歌ですが、この日のプログラムを知ったときから最後の舟歌に妙な違和感がありました。ショパンの舟歌はショパン独特の微妙な色彩と感情のゆれが、曲全体を覆っています。曲は弱く始まり、うねりながら徐々に高揚し、最後のクライマックスに至るのです。ソナタ第3番の終楽章を弾いた後、ピアニストは心身ともにエンジン全開状態にあるはずです。聴衆もまた然り。そこであの舟歌を静かに弾き始め、聴き始める状態に戻れるのでしょうか。私の予想は的中し、前半はアンコール曲のように軽く、明る過ぎる響き。私がショパンの舟歌に抱いている高貴さ、水に映る光と影のうつろいとは違います。後半はさすがに持ち直して、うまくまとめましたが、やはりこれはプログラムミスでしょう。

 アンコールにはシューマンとバッハの小品。ここで私は始めてブーニンの描く微妙な色彩に触れることができました。弱音での音色の変化も味わうことができました。どうして、本プログラムではこれを聴かせてくれなかったのだろう、と思わず不満を言いたくなりました。

 私の友人は、ブーニンはショパンコンクールの頃が一番うまかった、あの時は先生がいて彼の演奏をある程度コントロールしていたが、今は自分の弾きたいように勝手に弾いていると言っていました。しかし、ピアニストのみならず、先生とずっと一緒にやっていける商売などあるはずもなく、自立するのが原則です。1966年生まれのブーニンはまだ33歳、ピアニストとしてのキャリアは始まったばかりと言ってもよいでしょう。今回のコンサートについては苦言ばかり書きましたが、何とか大きく育って欲しいものです。アシュケナージ、アルゲリチ、ポリーニなど、戦後のショパンコンクール成績優秀者は天才青年から成熟することがないような気がします。誰かその枠を砕き、大人の成熟したピアニストとして一世を風靡してほしい、そう思うのは私だけでしょうか。(1999.11.14)


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Review / Performance
井上 建夫

ルネッサンスの蜂蜜の味は?

エマ・カークビー&アントニー・ルーリー「甘い蜂蜜はいかが?」
1999年11月7日
文芸セミナリヨ(安土町)

 数年前、エマ・カークビーの歌うモーツァルトのコンサート・アリア集をCDで初めて聴いたとき、声にもオリジナル楽器に相当するものがあるのかと驚いた覚えがあります。近年は、ルネッサンスやバロック、更には古典派や初期ロマン派の音楽まで、オリジナル楽器による演奏が盛んになっていて、クラシック音楽の重要な一分野になっています。評者の興味は近代に偏っているので、オリジナル楽器による演奏や録音を聴く機会は少ないのですが、先鋭な現代性を持つ演奏も珍しくないようで、むしろ普通のオーケストラや室内楽、ピアノの方が保守的になっているのかも知れません。

 カークビーのビブラートの少ないストレートな澄んだ歌声のモーツァルトを聴くと、私たちの知るモーツァルトが、ずいぶん近代的な解釈を施されたものであることがよく判ります。モーツァルトのオペラのヒロインたち、スザンナなドンナ・アンナ、パミーナに感じていた官能性も女らしさも、近代という時代性を帯びたもので、18世紀には恋もドラマも私たちがふつうに思っているものとは大分違っていたのでしょう。

 何枚かのCDで聴いていたカークビーの声が実際に聴ける、しかも滋賀県で、となると行かないわけにはいきません。プログラムはダウランドのリュート歌曲集、リュートはもちろんカークビーとのCDではおなじみのアントニー・ルーリーです。「甘い蜂蜜はいかが?」と題されたプログラムは、ダウランドのパトロンたちをテーマに構成されています。

 前半は、エセックス伯にちなむ「ぼくの受けた苦しみを」「ああ、やさしい森よ」「その昔、愚かな蜜蜂も」、そしてリュート独奏2曲(ホルボーンの「ペンブロウク伯夫人の楽園」、ダウランドの「ため息のガリアード」)をはさんで、ベッドフォード伯夫人ルーシーにちなむ「ぼくは見た、あの人が泣くのを」「流れよ、わが涙」「悲しみよ、とどまれ」「早まって死んではいけない」「嘆け、昼は闇の中に去った」「珍品はいかが、ご婦人がた」。

 後半は、女王エリザベスT世にちなむ、「さようなら、あまりにも美しいひと」「時間は静止して」「愛の神よ、かつて出会ったことがあるか」、前半同様2曲のリュート曲(ホルボーンの「ペンブロウク伯夫人の葬送」、ダウランドの「ガリアード」)をはさんで、ヘンリー・リー卿にちなむ、「彼の金髪も」「‘時間’の長子」「ならば坐りこんで」「人が‘来たれ’と歌うとき」「華やげる宮廷から遠く」という構成です。

 コンサートのクライマックスは、ベッドフォード伯夫人ルーシーに献呈された『歌曲集第2巻』に含まれる「ぼくは見た、あの人が泣くのを」に始まる悲しみに満ちた5曲でおとずれました。カークビーの表現はニュアンスに富み、言葉にぴったりと寄り添ったものでした。Tearという単語のtの音を耳にすると、その響きはまさに涙という意味でなければならないような、sighの音は、まさにため息でしかありえないような必然性を感じさせます。しかも、天井の高いホールに響きわたる豊かな声です。これに続く「珍品はいかが、ご婦人がた」はピンやレース、手袋などを売る小間物屋の呼び声のユーモラスな歌で、これで気分を転換し前半をあざやかに締めくくりました。

 ルーリーはコンソート・オヴ・ミュージックのリーダーであり、カークビーの才能を見出した人でもあります。研究や企画、コーディネートなどに才能を発揮する人と思われますが、伴奏も精彩に富んだものでした。リュートのかすかな音がかえって沈黙を深め、アンコールのあとは誰もが拍手をためらい、しばし沈黙が流れました。

 さて、信長時代にあったイエズス会のセミナリヨにちなんで安土町が数年前に建設したこのホールはパイプオルガンを備えた380席のよく響くホールです。しかし、古楽のディーヴァが来ても、聴衆は100人ちょっとくらいです。このコンサートのことは情報誌のピアにも載っていませんでしたので、京都・大阪へ情報が流れていれば、もう少し入ったのかも知れません。この後、東京(2公演)、札幌、新潟と公演があるようですが、入りはどうだったのしょうか。地方でのクラシックのコンサートは、どれも苦戦しているようですが、結局、クラシック・ファンは一見増えたようでも数十年前とそれほど変わらず、依然極めて少数ということなのでしょう。

 なお、文芸セミナリヨはJR安土駅から歩くと30分はかかります。コンサートの時は予約制のシャトルバスを出しているようです。



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Accompanying pianists

最近聴いた伴奏ピアニスト

田辺 健茲


 本音を言うと、私はピアノという楽器はアンサンブルの中でこそ良さを発揮できるものと確信している。そんなわけで、近頃はピアノだけのリサイタルには滅多に行かない。これまでも本当に感心したのはアシュケナージ、ピリス(ピレシュ)、ヘブラーくらいで、ポリーニやブレンデルさえも私には退屈だった。理由を強いて言うなら、私とピアノの音との相性の悪さであろうか(昔はそうではなかったはずだが)。CDでもバッハのクラヴィーア曲をチェンバロでは聴くが、ピアノではあまり聴きたいとは思わない。

 一方、ピアノを伴ったアンサンブル(声楽、弦楽器など)で却ってピアノやピアニストのいろいろな面に出会うことがある。ということで、この2年ほどのあいだに私が住んでいる岡山市近辺で開かれた演奏会で聴いた著名な伴奏(アンサンブル)ピアニスト3人について印象などを語ってみたい。

ノーマン・シェトラー(Norman Shetler)

 この人はシュライヤーか誰かの伴奏でレコードでは随分昔から知られていたと思う。倉敷の大原美術館ギャラリー* で行われたウーヴェ・ハイルマン(T)、中村智子(S)リサイタルを、この高名な伴奏ピアニストが担当した。オール・シューマンというプログラムであったが、若手のホープといわれたハイルマンは歌い崩しがひどく全くがっかりだった。奥さんの中村智子はきちんと歌っていたけれど(旦那より2ランクくらい上等の歌手という印象はあったが)、高音が決まらなかったりして必ずしも完璧とは言えなかった。

 そのなかで白髪の老紳士といった風情のシェトラーはたとえようもなく美しいシューマンの世界をくりひろげた。ほとんどでたらめなハイルマンの歌にさえもきちんと寄り添い、でしゃばりもせず、引っ込みすぎることもなく、あのすばらしい「詩人の恋」のピアノパートを聞かせてくれた。そんなことがあったのでつい先頃、旧東ドイツのシャルプラッテンからこの人の弾いたシューマンアルバムが発売されたのを知って早速買って聴いてみた。こんなに暖かく美しい「子供の情景」をついぞ聴いたことがなかったような気がする。こんな演奏を聴くと、ピアノも悪くないな、と思う。

ローランド・ポンティネン(Roland Poentinen)

 この若いピアニストのことを知っているひとはまだ少ないだろう。しかし世界最高のヴィオラ奏者である今井信子さんがいつも演奏会やレコーディングのパートナーとしていることで、我が国では知られているかもしれない。私も「今井信子:ヴィオラ・ブーケ」というとても素敵なCDでこのピアニストを知った。上と同じく大原美術館ギャラリーで行われた今井信子ヴィオラリサイタルで彼は、オール・バッハプログラムのため、ピアノでなくチェンバロを受け持った。

 いつもながら今井さんのヴィオラは豊かで暖かく、この夢よいつまでも醒めないでくれ、と祈るような心地だった。そして、J.Sならびにフリーデマン・バッハのヴィオラ・ダ・ガンバのソナタでは、ポンティネンは目の覚めるような見事なチェンバロを聞かせてくれた。チェンバロがこれほど表現力のある楽器とは、と驚かずにはいられなかった。この人はもともとピアニストだからあんな風にチェンバロを弾くのか、それともチェンバロも弾くからすぐれたピアニストなのだろうか。

練木繁夫(ねりき しげお)

 今やこのピアニストの名前を知らない日本人の愛好家は少ないのではなかろうか。名チェリスト、ヤーノシュ・シュタルケルの伴奏者として有名になったので、音楽雑誌などでよく取り上げられたことがあったと記憶している。このシュタルケル、練木繁夫の組み合せによるチェロリサイタルが倉敷の玉島文化センターという辺鄙なところで開かれたが、チェロを勉強している長女と一緒に出かけた。もう七十歳に届こうかというシュタルケルのチェロは、しかしながら神業ともいうべき完璧さと美しさで、我々を圧倒した。娘は感動したというよりショックを受けていた。

 このときの練木の伴奏ははなはだ不満だった。とにかくうるさかった。音が大きい、というよりペダルの踏みすぎである。ブラームスの微妙なチェロの音色を殆どピアノが塗りつぶしている。こんな経験が前にもあったことを思い出した。塩川悠子のこまやかなヴァイオリンを遠山慶子の無神経な(右翼の宣伝カーのような)ペダルが台無しにしていた。どうしてこうなるのか。考えられる理由を挙げてみると、そのピアニストの資質(とかく独善的になりやすい)、現代のピアノの性能の問題、ホールの広さ(いずれも広かった)、等々。練木くん、調子に乗りすぎてはいけないよ、などと忠告するのは早とちりだろうか。(1999年9月)

*このギャラリーはグレコの「受胎告知」、モローの「雅歌」など名画がずらりと並ぶ部屋で、コンサートホールにはない雰囲気を醸し出している。年に3回ほどここで世界的名演奏家を招いて演奏会(それも玄人向きの)が開かれている。



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Visiting Italy

イタリアの美術都市を訪ねて

大久保ゆかり

 思い切り自分の人生を生きること
 これがイタリアの美学だ
 あくまでも甘美で
 どこか悲しいこの生を
 とことん実感しないで
 生きる喜びはない

 ハインリッヒ・ハイネの言葉ですが、日本には自分の居場所がないと感じていた私にとって、初めて訪れた異国の地イタリアは、ふるさとのように安らぎを感じ、自分らしく生きることを、あたたかく受け入れてくれる国であると感じました。

 規則に縛られ、世間体を気にしながら、いつも自分の感情や意見を押さえつけながら生きている日本人にとっては、信じられないようなことを数多く体験して来ました。

 飛行機やバス、タクシーは、スピード違反は当たり前で、信号を守る人は誰一人いないという無秩序な道路を、カーレーサーのごとくスリル満点の運転で走り抜けるし、銀行員が計算ができず両替もできなかったり.....

 いったいこの国は、どうなっているのだろう?と最初は不安を感じていた私ですが、3日もすると、すっかりなじんでしまい、まず、一人一人の人間の気持ちを大切にするやり方が大好きになってきました。

 私は、音楽の勉強のために留学していたのですが、その授業風景は、日本とは全く異なり、先生のアドバイスに対して、必ず生徒が反論したり、疑問を投げかけ、まず、自己主張するところからレッスンが始まります。音楽家として生きていくための一番の条件は、テクニックではなく、いかに自己を表現するか、他の人にはない、自分だけの色を持っているか、ということが重視されるわけで、先生の教えをハイハイとすなおに聞いているだけでは、スタートの時点で、まず、その人の存在自体が認めてもらえないようです。

 日本では、たとえ白い物を黒と言われても、それが先生の言葉であれば、絶対、服従しないと破門になってしまう、という風潮が、いまだに根強く残っており、個性より伝統的な型を重んずるという傾向が強く、これでは、真の意味での芸術家は育たないはずだと感じました。

 もう一つのちがいは、時間のとらえ方です。日本では、いつも時間に振り回され、せかされて生活していますが、イタリアでは、人間が、一人一人、自分が好きなように時間を使い、ゆったりとした心で生活しているということです。たとえ授業中であっても出入りは自由ですし、飲み物を飲むのもOKです。お昼休みは3時間あり、練習は禁止で、ゆっくりとおいしい物を食べて、美しい物を見て、いろいろな人と楽しくつきあって、それがすべて芸術のこやしになるという考え方です。

 一見、無駄に過ごしているように見える、このボォーッとしている時間こそ、すばらしいアイディアがひらめいたり、次のステップの活力となるエネルギーがつくられる源となっているのだということがわかりました。

 人間がこんな調子で、みんな自分が好きなようにゆったりと生きているものですから、猫や犬、小鳥の顔も穏やかで、人を恐れず、安心しきった表情で、わがもの顔で町を歩いています。私のような異国人でさえ、ふるさとに帰ったような居心地の良さを感じてしまいます。

 ローマに滞在中、毎日、食事をしに行っていたレストランがあるのですが、そこのお店では、初日から、まるで家族の一員のように受け入れてもらえ、毎日、お店の人とジャムセッションをしたり、家族の皆さんと一緒にテーブルにつき、マンマの秘伝の手料理をごちそうになったり、と本当に親切にしていただき、私がピアノを演奏してくれたからという理由で、毎日、フルコースの料理を無料で提供してもらいました。最後の日には、常連のお客さんもみんな集まってきて、別れを惜しんで下さり、言葉は通じなくとも、人の心のあたたかさを肌で感じることができました。

 ローマで音楽の勉強を終えた後は、鉄道で西へ向かい、アドリア海沿岸の町、ペスカーラへ行きました。まず、詩人ダヌンツィオの生家を訪れ、それから、黄土色とコバルトブルーに輝く海を見に行きました。「乙女のように穏やかで南に向かって心持ち弧を描く海岸に沿って広がり、その輝きのうちには、ペルシャのトルコ石の光輝が秘められている」というダヌンツィオの「ペスカーラ物語」の一節がよみがえり、詩人の魂に触れたような気分にひたり、誰もいない砂浜で、静かな時を過ごしました.

 次は、ペスカーラから、アドリア海の沿岸ぎりぎりのところを、波しぶきを浴びながら走る鉄道で北上し、アンコーナ、ボローニャを通過して、フィレンツェへ向かいました。

 途中、列車の連結部で、シチリア出身の、いかにも悪人面した2人組の男性におそわれそうになり、寿命の縮まるような思いをしたかと思えば、今度は、フィレンツェの駅を出たとたん、ジプシーにおそわれ、スリル満点の一日になりました。幸いなことに、メガネケースを盗られただけで済み、無事、ホテルにたどり着くことができました。

 フィレンツェでは、まず、ジョットの鐘楼の414段の階段に登り、この世のものとは思えないようなフィレンツェの町の美しさに心を奪われました。夕日が沈む頃には、ミケランジェロ広場からの眺望が最高で、アルノ川、ヴェッキオ橋、すべての建物がオレンジ色に染まり、左手に見える、万里の長城を思わせるような城壁と調和していました。

 フィレンツェを拠点として、日帰りで、トスカーナ地方の二つの小さな町へ行ってみました。

 一つは、プッチーニの生家のあることで有名なルッカという町で、現在も完全に城壁で囲まれていて、中世の古風なたたずまいと美しい自然が残されていました.私は、オペラの勉強をするためにイタリアに来たのですが、中でも、プッチーニの作品が一番好きで、彼の生家を訪れることができたということは何よりもうれしいことでした。プッチーニが弾いていたピアノのある部屋では、「トスカ」がBGMとして流れていて、彼の霊が、やさしく見守っていてくれているような気がしました。こういう静かで美しい町で育ったからこそ、ああいうすばらしい作品が生まれたのだろうと感じ、私も老後をこの町で静かに暮らせたらいいだろうなあ、と思いました。

 もう一つは、コルトーナという町で、ペルージャから、鉄道で1時間くらいのところにあります。この町の歴史は古く、エトルリア人がやってきた頃には、すでに町が造られていたのですが、その後、ローマ軍の侵略を受け、後には象を率いたカルタゴの将軍ハンニバルに荒らされ、無名の村になってしまったということです。小高い丘の上に作られた小さな町ですが、周囲のなだらかな谷は、ぶどう畑、西はシエナの山々、南はトラジメーノ湖と美しい風景に囲まれ、珍しい中世の家も残されています。窓辺には、レースのカーテンがさりげなくかけられ、色とりどりの花が飾られ、住む人のセンスと心づかいの感じられる静かな町で、めったに日本人は訪れないということですが、私は、この町が一番気に入りました。

 フィレンツェの次は、ヴェローナへ向かい、世界的に有名なヴェローナ音楽祭で「カルメン」を見に行きました。古代遺跡をそのまま利用した野外の円形劇場で2万人以上の観客をあっという間に飲み込んでしまうスケールの大きさには驚きました。そして、次にびっくりしたのは、歌手の声量。マイクもつかわずに、一番後ろの席まで、これだけ迫力のある肉声が届くなんて、いまだに信じられません。

 そして第1幕が終わったとたん、大道具の人たちが出て来て、セットをすべてこわし、次のセットを作り出したのですが、家を一軒建てるくらいの大がかりな仕事を30分の休憩の間にやってしまう手際の良さには感心しました。というわけで午後9時に始まったオペラは、予定時間を2時間もオーバーして、午前2時に終わりました。日本人の姿は、ほとんどなく、ほとんどヨーロッパ系の聴衆ばかりでしたが、みんなリラックスしながら、笑顔で、見ず知らずの隣の席の人と楽しそうに語り合っているのが印象的でした。

 さて、ヴェローナの次は、ファッションの町ミラノです。大都会のわりには、人が少なく、有名なドゥオーモも、並ぶことなく入ることができました。ローマが大阪なら、ミラノは東京というイメージで、町ゆく人々は、洗練されているけれど、少しクールな印象を受けました。スカラ座が修復工事のため見ることができず残念でしたが、オペラのスコアのリコルディ社の本社へ行って、珍しい楽譜に囲まれて、幸せな時を過ごしました。本屋さんにも行き、まだ、ぜんぜん読めないくせに、何冊もイタリア文学の本や、絵本を買い込んでしまいました。ミラノのCD屋さんでは、アンドレア・ボチェッリが大流行していて、すごい売れ行きでした。

 こうして最後の訪問地であるミラノを去り、ベンツのタクシーで、リッチな気分で飛行場へ向かおうと思ったわけですが、思ったとおり、ドライバーのおじさんは、すごいスピード狂で、時速80kmの標識の道路を時速 150kmで飛ばしまくるではありませんか。途中でパトカーにつかまりそうになりながらも、なんとか飛行場にたどりつき、飛行機に乗り込んでほっとしていると、アリタリア航空のスチュワーデスのアナウンスが入りました。「この飛行機は、約2時間、出発が遅れますが、定刻には日本に着けるよう、通常より、かなり速く飛びますので、ご安心下さい。」



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Visiting Salzburg

ザルツブルグ詣で

杉原 敏夫

 ザルツブルグという地名は昔から知ってはいた。しかしながら、格別な気持ちで、かつ「いつか行きたい」という意識を持つようになったのは京都大学でのサークル、音楽研究会の大先輩であるI氏によるところが大きい。I氏は私よりも5年程度(もっと以上かな)先輩であると思われるが、当時はモーツァルトの演奏に関しては伝説的な存在であり、「モーツァルトならばIさん・・・」、「ギーゼキングの域まで到達しているのでは・・・」といわれた人である。ちなみにI氏のK.330のソナタの第1楽章を聞いたことがあるが、ハスキルやギーゼキング(かなり古いね)との対比などとても分からない私でさえも澄んだ透明な音で飾り気のない演奏に強い印象を受けたことを覚えている。

 ある時、これも我が同級生の名バリトンのT君がI氏に対して「今、世界で行けるとすれば、どこに行きたいですか」と尋ねたら、I氏は間髪を入れずに「ザルツブルグ」と言われ、それ以来、私の頭には「ザルツブルグ」という地名が強く定着し、「いつかは行ってみたい」という願望にも近いものが気持ちの中に宿ってしまったのである。

 行くチャンスはこれまでに2度あった。1度は勤務した今をときめく大コンピュータメーカF社(当時は社名から運送会社と混同され、私にも就職先を訝る声もあったのは確かである)の研究所時代にベルギーでの国際会議において研究発表のチャンスがあったが、経費節減と言うことで、上司だけが参加(私は代わりに北海道での国内学会で発表)。もう一度は、某経営コンサルティングファーム在職時代、当時はしりであったOAシステムの研究ツァーの指導員で欧米を回る予定であったが、これも経費節減により上司のみが参加(このときは、クロスのボールペンのおみやげだけ)。

 昨年末、研究上の先輩より、「フェレンツェでの国際会議に何か出したら・・・」と聞いたときには、やっと今までの念願が叶うかもしれないと頑張ってまとめた長文のアブストラクトが何とか審査に引っかかり、発表となった次第である。ただ、おびえたのは発表も対応もすべて英語(当たり前か)であることであり、20分の発表はまだしも、その後に控える討論がどうなるか・・・考えても空恐ろしい気がしたが、いつものごとく「まあ、何とかなるだろう・・・」。それよりも、「ザルツブルグ」、3度目の正直、今度こそ行ってやる。

 前置きが長くなって、済みません。国際会議はどうにかクリアー。質問もいくつかあったが、全身を耳にして質問者の発言の単語をつなげて意味を類推(ヨーロッパの非英語国系の英語はとても分かりづらい)、間髪を入れずに返したら、何とかまとまっていたようであった。しかしながら、発表を待つ間の恐怖感、これは今までに似た経験があると思ったら、昔の音楽研究会(以下「音研」と略す。)での部内発表会(いまだにK.219の第2楽章はまともな精神状態で聴けない)、運転免許の仮免試験・・・どうもそのような気がする(大事な発表前になぜこんなことばかりが頭の中に浮かんでくるんだよ!)。終わって、万歳!。さあ、楽しい観光旅行ですよ。

 ウィーンには3泊し、一通り有名なところは回り、有名な食べ物は食べ、有名な音楽会(旅行者にかなり迎合したと思われるモーツァルトのみのプログラム、不幸にもK.219の第2楽章をたっぷり聴かされた、後述)は聴いて、翌朝9時過ぎにIC (InterCity Express)でウィーン西駅を出発した。ザルツブルグまでは約3時間半、天気は快晴、われながら日頃の心がけの良さを自慢する。隣で家内と子供が怪訝な表情を見せて、素直に同意しない。

 その兆候は直ちに現実となり、隣駅のST.Porten HBFで車掌が現れ、早口のドイツ語でどこへ行くかという。下手な英語と早口のドイツ語の長時間(と思われた)の応酬により、どうもこの車両が行き先が異なるらしいということが分かる。しまった、ヨーロッパの鉄道は車両ごとに行き先が異なる場合があるとテキストブックの「地球の歩き方」に書いてあった。かなり慌てたが、ザルツブルグに行くという初老の上品なご婦人の誘導により、なんとか正しい車両に乗り移れた。もう、心がけどうのこうのはとっくに効力が薄れており、家内と子供は本気に心配している。そうこうしている内に、列車はリンツに向かい、やっとほっとする。

 車窓からの風景がとっても伸びやかで、7月初旬の季節を反映して鮮やかである。これも音研のモーツァルト演奏ではI氏の後を継ぐI君が言っていたクリムトの絵画のいくつかを思い浮かべる。(家内と子供とは初老のご婦人と会話を適当に楽しんでいる。はて、きゃつらは英語も満足に話せないのに・・・と非常に訝しく思う)車窓からは少々色あせた赤褐色の、あのヨーロッパ特有の家の屋根の色が立ち並び、気持ちはだんだん、はるか昔の学生時代にタイムスリップした感に浸ってしまう。

 ザルツブルグ、どこもよかった。一言で言えば、透明感あふれる市である。人々の表情も伸びやかだ。フェレンツェで見かけたスリ集団の女の子たちの美しいが暗い瞳はここの女の子たちには見受けられない。公園でバイオリンを弾いてお金を集めている女の子なんかもいたって表情にゆとりがある。そして、どこに行ってもモーツァルト。モーツァルトの生家、モーツァルト広場、モーツァルトの家、モーツァルトチョコレート・・・モーツァルトの音楽に特徴的なあの透明感(時には、それが暗い情熱を帯びることがあっても)はこのザルツブルグの風土から大きく影響を受けているのではないかと思われるほどである。

 時折出くわす、魔笛のマリオネットのキャラクターも街全体のシンボルのようだ。まるでモーツァルト・シティ。I氏はさぞかしご満悦であろう。ここまでくれば、音楽祭も経験してみたいが、残念ながら時期が早すぎた。音楽祭はもう3日後から始まるようだ。できればもっと早く、若い時期に来てみたかった・・・もしも、この近辺の大学に留学などできたら、最高だったろうに・・・などと頭に浮かぶ。

 ホテルは市の中心部、ミラベル庭園のすぐ近くであり、庭園の早朝の散歩は言葉で言い表せないぐらい清潔感あふれる華麗さが堪能できる。今にもサウンド・オブ・ミュージックの7人の子供が飛びだしてくるかのような錯覚に陥る。あまり気分がよいので、公園のベンチに座り込んで家内と子供から離れてストライキをうつ。ザルツアッハ河の対岸の博物館は古城のようなたたずまいを見せている。ここは少なくとも3日は予定を組むべきであった。

 モーツァルトの生家は人が多すぎた。もっと少ないときに行けば十分に時間をとってゆっくりと回れただろう。小さい頃演奏したという、あの有名なピアノ(ハープシコードかな)も目のあたりにすることができたが、なぜかウィーンのフィガロハウスの方が好感が持てた。たまたまいた日本人のけたたましいツァーのガイドの影響かもしれない。

 さあ、かねてから望んでいたザルツブルグは一応訪れた。これからミュンヘンを経由して、ローテンブルグに向かう。なんとなく、長く担いでいた課題を終了した、あるいは子供の頃のお正月休みの終了時のような、長い間の楽しみが終了したような複雑な気持ちで駅の食堂で注文し間違えたビールとサラダのみの昼食をとる。子供は昼食のご馳走を期待していたせいか、はなはだ機嫌が悪い。

 駅の構内で日本人の学生に会う。京大生(大学院)でドルトムント大に交換留学生として来ているという。彼の顔は若々しく、夢に溢れているようだった。そして彼の顔はまぶしくて直視することができなかった。なぜ、こんなにまぶしいのだろう。かつては自分もこのような顔の時代があったかも知れない。自分もあのような時期に、こんなチャンスがあったら人生は今とは随分違ったものとなっていたかもしれない。なぜ、もっと早くここにこれなかったのだろう。チャンスはあったはずだのに。

 結局。自分はどのような人生の過ごし方をしてきたのだろう。与えられた課題に全力で向かい、それと格闘することをしなかったのではないか。できる限りの安全な道を選択し、状況に応じ、小利口に迂回して回ったことが余りにも多すぎたのではないのだろうか。その結果が現在の自分なのだ。とりわけ、現在において不満と言うべきものはない。しかしながら、最近の目立って出てきた「疲れ」はどこから来ているのだろう。人生の最も勝負しなければいけない時期において、本質的な勝負を避けて逃げ回っていたのではないだろうか。たしかにリスクは大きい。でもその代わりに、その課題を乗り越えた後に展開される新しいステージ、満足感と自信、そのようなものを喪失した生き方をしてきたのではないだろうか。

 なぜ、あのように簡単に就職してしまったのだろう。これまで描いてきていた夢はもうかなえられないとどうして安易に結論を出してしまったのだろう。自分は研究者としては価値がなく、生き方を変えてしまおうなどと早急に思い、とりあえずの生活が保障されると言う安逸な状況に入り込み、生き方の緊張感を見逃してしまったかもしれない。

 自分は音研にいて何をしたのだろう。雑学的な知識は増えはしたものの、本当に音楽を楽しみ、分かろうとする真摯な努力をしたのであろうか。あそこには大きな可能性を持つ空間があったのかもしれない。とりわけ、ピアニストのT君を中心とする本当に音楽の好きな、知的レベルの高いグループが間近にあり、勉強する気になればいくらでもできたはずだった。

 このような積み重ねが、現在の生活における理由のない「疲れ」と直線的に生きようとする人に対しての「まぶしさ」となっているのかもしれない。しかしながら、そのような小利口に迂回し続けた人生ももう50歳代の中盤にも達してしまった。

 ザルツブルグに来て何故このような疑問と反省が明瞭に想起されるようになったのだろう。それはこの市のもつ独特な透明感によるものかもしれないし、案外、ただのセンチメンタル・ジャーニのせいからかもしれない。

 原点に返りたいと思う。あの時点において異なった意思決定の可能性を追いかけられたら・・・と思う。しかしながら、時間反転はあり得るものではなく、多かれ少なかれ過去のメモリの流れに沿って生き続けるしかないのである。そして過去のメモリとは自分の過ごしてきた生き方の時系列的な産物に他ならないのだ。直線的な生き方・・・自分にもずっと昔はこのような生き方を志したこともあった。もうそのことは望むべくはないが、少なくとも鋭角性を忘れない生き方をしたい。たとえ、限りなく90度に近い鋭角であっても・・・

 目の前のザルツアッハ河の清流、その背後に流麗にたたずむミラベラ宮殿、そしてすべてモーツァルトの街。「ああ、いいなあ。もう一日いたかった、そして、できるならばもっと前に訪れたかった」。

 ICは流れるように進んでいく。すでに国境を越え、ローゼンハイムを通過した。もうミュンヘンまでに遠くはない。しかし、僕はこの夢とも現実とも分からない状態から覚めたくない。(July,'99)


Wiener MOZART Konzert プログラム (7/16)

  1. Symhponie Nr.35, D-Dur, "Haffner", KV385
    1.Satz: Allegro con spirito
  2. Aus der Oper "Don Giovanni", KV527
    Arie der Dona Elvira: Mi Tradi
    Duettino Zerlina-Don Giovanni: Laci darem la mano
    Canzonetta des Don Giovanni: Deh,vieni alla finestra
  3. Konzert fur Violine Nr.5, A-Dur, KV219
    2.Satz: Adagio
    3.Satz: Rondeau, Tempo di Menuetto
  4. Symphonie Nr.40, G-mol, KV550
    1.Satz: Molto Allegro
  5. Aus der Oper "Le nozze di Figaro", KV492
    Ouverture
    Arie des Figaro: Non piu andrai
    6. Aus der Oper "Cosi fan tuttte", KV588
    Arie der Fiordiligi: Come scoglio
  7. Eine kleine Nachtmusik, KV525
    1. Satz: Allegro
  8. Aus der Oper "Die Zauberflote", KV620
    Arie des Papageno: Der Vogelfanger bin ich ja
    Duett Papageno-Papagena : Pa-pa

  ※これにヨハン・シュトラウスのワルツが3曲、
   最後は "New Year Concert"よろしく、
   ラデッキー行進曲で手拍子で締めくくる。



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Concert on Air

コンサート・オン・エアー(20):
アナトール・ウゴルスキー ─ 現代の表現主義者


高橋 隆幸

 旧ソ連の政治体制下に埋没を余儀なくされていたアナトール・ウゴルスキーが7年前、西欧世界に登場し、一躍脚光をあびたことはまだ記憶に新しい。ロシアの音楽家が鳴り物入りで西側に発掘されることはそれ以前にも何回かあり、例えばリヒテルやラザール・ベルマン等があげられよう。リヒテルは前評判通り、今世紀を代表するピアニストの一人として活躍したが、ベルマンの場合は西側の音楽産業が新たな市場の可能性として登場させ、結局は消耗品として扱われた感が強い。

 さてウゴルスキーは第二のリヒテルかベルマンかと思いつつも、私には彼の演奏を聴く機会がなかなか無かった。私がはじめてウゴルスキーの演奏に接したのは前回の来日時(多分2年前?)、NHKのテレビで放映された時である。私はそのときムソルグスキーの「展覧会の絵」の一部を聴いたが、恐ろしく遅いテンポと盛大なペダルの使用にすっかり驚き、噂に違わぬ変人と感心した次第である。

 しかしその後、吉田秀和氏担当の「名曲の楽しみ」(NHK−FM、毎日曜日9:00〜10:00AM)で何の曲だか忘れたが、ウゴルスキーの演奏が紹介され(これはCD)、これは好感のもてるすぐれた演奏であったと記憶している。テレビの演奏とCDのそれとのギャップは何か、との思いがあり以来、ウゴルスキーの演奏を聴く機会を伺っていたが、最近、相次いで彼のコンサートがNHK−FMで放送された。

 3つの演奏会のうちの一つはルツェルン・コンサートホールでのリサイタルで(1998年11月20日)、曲目はバッハの左手のためのシャコンヌ(ブラームス編曲)、ムソルグスキーの展覧会の絵、プロコフィエフのピアノソナタ第6番。二つ目のコンサートは東京文化村オーチャードホールでのもので(1999年4月3日)、曲目はブラームスのピアノ協奏曲第1番、大野和士指揮、東京フィルハーモニーとの協演である。3つめは東京オペラシティ・コンサートホールでの独奏会で(1999年4月15日)、曲目はショパンのマズルカ Op.17、スクリアビンのピアノソナタ第3および5番、リストのピアノソナタロ短調である。

 曲目を羅列したのはウゴルスキーがどのような曲を好んでとりあげるか、すなわち彼のレパートリーを知るためであり、さらに現在入手可能なCDで補完すると、ブラームスのピアノソナタ1〜3番、ヘンデルの主題による変奏曲、メシアンの「鳥のカタログ」、ということになる。もちろん、以上の曲目はウゴルスキーのレパートリーの一部にすぎないとは思うが、大ざっぱに言って、リスト、ブラームスに端を発するロマン派、後期ロマン派(スクリアビン)、プロコフィエフやメシアンなどの近代、現代曲がレパートリーの中心と言えそうである。言いかえれば、ウゴルスキーは重厚、壮大、瞑想的、神秘的な曲を指向しているように感じられる。

 先のテレビでの演奏のこともあり、まずピアニストとしての技量について言及したい。ブラームスの協奏曲の放送に先だって山本直純氏の解説があり、氏はウゴルスキーを超絶技巧の持ち主と紹介している。しかしこれはかなりの誇張であり、ポリーニやアシュケナージ級のテクニックでないことは明らかである。しかし、以上3つのコンサートやCDを聴く限り、国際的ピアニストとしてのテクニックを身につけており、特に高音域での美しい音は特筆すべきものである。またペダルをやたらに使うこともない。それでは一体テレビでのあの演奏はなんだったのだろうかと考えてしまうが、一つにはその時のホールの残響が長過ぎたようにも感じられるし、また、テレビの音のステレオ効果は残響を強調し勝ちである。他の音楽番組でも感じているが、テレビの音での評価は注意を要するものと考えている。

 ウゴルスキーは非常に個性的で、既成の観念を打ち破るスタイルであるとよく言われる。確かに「展覧会の絵」等では通常、フォルテで大きな表情をつける箇所を逆にしたり、ブラームスの協奏曲の第1楽章で、オーケストラの導入部よりずっと遅いテンポでソロを弾き始める等、面くらうことも少なくない。しかしこれらを聴き直してみると、決して不自然なものとは感じられず、むしろこれまでの慣例を見直し、色々工夫した結果と考えられ、結果的にはなる程と納得させられることがほとんどである。

 ウゴルスキーの演奏で最も目立つ特徴はアゴーギクの多用と念入りな表情付けである。すなわち、音楽を通じて何かを表現したい、という姿勢が常に感じられる点である。同じロシア出身のピアニストであるアファナシエフも表現意欲という点ではウゴルスキーに勝るとも劣らない。しかしアファナシエフの場合、微に入り細をうがち、あちらこちらに寄り道という感が強く、私はどうも苦手である。そして、音楽というものにはスポーツ的快感という一面もあり、もっと弾き飛ばしても良いのではと言いたくなってしまう。一方、ウゴルスキーの場合、アゴーギクも念入りな表情づけも音楽の緩急の大きな流れの中にうまく処理され、その結果音楽の流れが滞るという欠点を免れている。これは彼の大きな美点である。

 ウゴルスキーの目指す音楽とは何であろう。今回聴いた中で最も彼の特質が出ていたのはリストのソナタである。このソナタがワグナーやR.シュトラウスに通じる大きな構成と精神世界を持った作品であることをこの演奏ほど感じさせてくれるものはない。プロコフィエフの音楽は諧謔、皮肉、無機的・機械的な運動性等の要素を持っているが、ウゴルスキーにかかると何か暗い運命的な予感といった曲想になってしまう。ショパンのマズルカは非常に瞑想的である。ただし甘美なものではない。要するに重厚、暗い情熱といったものがウゴルスキーの一つの嗜好であろうし、一方高音部の美しさは止揚、救済とも言うべき効果をもたらす。ウゴルスキーがブラームスを好んで弾く理由はここにあるのであろうし、特に第1番のピアノ協奏曲は暗い情熱と救済というのに正にぴったりの曲である。

 私が聴いたウゴルスキーの演奏は以上であり、その曲の数も少ないので見当違いのことを言っているかも知れない。しかし、ウゴルスキーの作り出す音楽世界に接していると何故か、R.シュトラウスの初期の作品である「交響曲ト長調」や、スクリアビンの交響曲第3番「神聖な詩」等といった広大な音の世界を思い出してしまう。そしてウゴルスキーはこういった後期ロマン派の精神世界の人なのだと勝手に決めつけている次第である。

 一方、その演奏スタイルは古い19世紀的なものへの回帰ではなく、20世紀半ばから現在に至るイン・テンポを基調とした様式を抜け出す、いわば現代あるいは未来の表現主義とも言うべきものになり得る可能性を持っている。今後、西欧世界での滞在が長くなるに従い、ウゴルスキーも後期のロマン派的精神世界がどの様に変化するか、彼の演奏スタイルとの関連で非常に興味のあるところである。




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Piano Technique

ピアノ奏法の技術移転(1)

井上 建夫


1 古いシュツットガルトのメソッド

 アンドー・ハーサニーはシーア・クロンボーグのような生徒を持ったことがなかった。彼女以上に知的に優れた生徒は一人もいなかったし、同時にこんなに無知な生徒もいなかった。初めてのレッスンでシーアが彼の前に坐ったとき、彼女はベートーヴェンの作品もショパンの曲も聴いたことがなかった。おぼろげながらその名前くらいは知ってはいたけれども。ヴンシュは、ムーンストーンの町にたどり着く前は音楽家であったというものの、シーアが彼の興味をかきたてた時には、もう彼の中に残っているものは多くはなかった。

 シーアはグルックとバッハの作品について少しは学んだし、彼はまたシューマンの作品をいくつか彼女に弾いて聴かせたものだった。彼のトランクにはシューマンの嬰へ短調ソナタのバラバラになった楽譜が入っていたのである。クララ・シューマンがこの曲をライプチッヒでのフェスティバルで弾いたのを彼は聴いたことがあった。演奏能力は衰えていたとはいえ、彼はこのソナタを彼女に弾いて聴かせてその美しさのいくばくかを判らせることができたのだ。

 ヴンシュの若い頃は、シューマンを好むということはまだ大胆なことだった。シューマンの作品に熱中することなど、若者の気まぐれと思われていた。多分これが、ヴンシュがシューマンをもっともよく記憶していた理由だろう。シーアはモーツァルトとクレメンティの小さなソナタ数曲のほか、「子供の情景」からの数曲も彼に学んだ。しかし、大概はツェルニーとフンメルに決まっていた。

 ハーサニーにはシーアが、すばやくそして知的に楽譜が読め、確実で力強い手を持った生徒であることが判ったし、豊かな天分があると感じていた。しかし彼女はどの方向に向かったらいいのか分かっていなかったし、情熱はまだ目覚める前だった。彼女は交響楽団を一度も聴いたことがなかった。ピアノのための作品群は未発見の世界だった。自分がやろうとしていることに対してほとんど何も知らないまま、よくこんなに一生懸命努力ができるものだと彼は訝っていた。

 彼女は古いシュツットガルトのメソッドで教えられていた。堅い背筋に堅い肘、極端に型どおりの手のポジション。練習に関して彼女の最も良い点は、並外れての勤勉さを発達させていたことである。彼は彼女が困難に立ち向かう時の方法にすぐに気がついた。長い間探し求めていた敵に出会った時のように駆け寄って、まさにこれが運命であるかのように掴んで離さないのだ。… [1]
 これはアメリカの小説家ウィラ・キャザーの2番目の長編小説「ひばりの歌」の一節です。1913年から15年にかけて執筆され、1915年に出版されたものですが、物語の時は、それより少し前の19世紀末と設定されています。コロラド州の田舎町ムーンストーンで育った少女シーア・クロンボーグがオペラ歌手として成功するまでを描いたもので、シーアはこの町に流れて来た飲んだくれのドイツ人、ヴンシュにピアノを習いますが、周囲の人たちの支援を受けて、シカゴ第一のコンサートピアニスト、ハンガリー人のハーサニーにつくことになります。これは、ハーサニーのもとでレッスンを始めた頃の描写です(第3部第3章)。作者のキャザーは熱心なオペラ・ファンだったようですが、上の短い引用からでも音楽に関する知識は相当なものだったことが判ります。

 さて、ここに「古いシュツットガルトのメソッド」という言葉が出てきます。ここの記述から判ることは、この小説の執筆当時、既にこのメソッドが古いものだと考えられていたこと、そして、ハーサニーのような一流のピアニストはこのメソッドとは違った演奏法をしていたらしいことです。

 「シュツットガルトのメソッド」については、レジナルド・R・ゲーリッグの「大ピアニストたちとその技術」という本のなかに解説が見つかります。この本は、チェンバロ時代から現代に至るまで、各時代の理論書を豊富に引用しながらピアノ奏法の理論の歴史をたどったものです。以下、拙文の歴史的な部分の多くは、この本に頼りながら進めていくこととします。

 19世紀の半ばまでに、ヨーロッパの音楽学校の多く、特にドイツの場合は、シュツットガルトのレーベルト・シュタルク派に倣って、硬直した腕による打楽器的な保守的テクニックを教えていた。この時代、あれほどまで多くの教師が、なぜ、このシステムが身体や音楽にもたらす害悪に目をつむり、リストやルービンシュタインの自由で奔放な演奏、あるいはクララ・シューマンの演奏に見られた、腕による微妙な圧迫によるタッチの影響をほとんど受けなかったのか、理解することが困難だ。しかし、考えてみれば、チャールズ・J・ハーク(Charles J. Haake)が指摘するように明らかな理由があるのだ。
 ………打楽器的なタッチは、圧迫によるタッチの演奏といった漠然としたものより、その内容と形式が明確なのだ。そしてメソッドというものは、きっぱりと断言され推奨されてはじめて発展していく。それにこのタッチは応用が簡単なのだ。6度やオクターヴのように、より力が必要なときは、手首を蝶番として手を動かせる、華麗なブラヴーラの効果を求めるときは肘が蝶番になる。これで、腕を肘まで使う完全な蝶番メソッドを得ることができるが、良いテクニックの基礎には自由な動きの腕が必要であることが理解されることはないのだ。
 このシステムが音楽学校レベルで確立されると、これがビジネスとしての発展の前提になり、それ自身で存続し始める。

 プラハでトマシェックとディオニス・ヴェーバーに学んだジギスムント・レーベルト(1822‐1884)と、ミュンヘンで学んだルードヴィッヒ・シュタルク(1831‐1884)はともにドイツ人で1850年代半ばのシュツットガルト王立音楽院の主要な創設者である。この音楽院は何年かの発展過程を経て、1865年にその公式名称を掲げることになる。レーベルトとシュタルクの4巻からなる「大ピアノ教程(Grosse Klavierschule)(初歩から最高の完成に至るまでのピアノ演奏のあらゆる分野におけるシステム的教授のための理論的および実際的なピアノ教程)」が初めて出版されたのは1856年だった。… [2]

 世紀の替わり目頃には、シュツットガルトのメソッドに代表されるような手や腕の柔軟性を無視した打楽器的な打鍵法がピアノ教育の世界を席捲していたことは、キャザーのフィクションの記述だけでなく、アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)のような実在の大ピアニストが受けた教育でも例証されます。

 マダム・エシポフは私に大変親切だった。私は練習曲を弾かされたが、主にツェルニーだったと記憶している。彼女は私の手にコインを載せて、それもドルの銀貨のような大きな銀貨(1グルデン貨)で、それを落とさずにツェルニーの練習曲を1曲弾きとおせたら、それを私にくれたものだ。これは彼女の親切からだったと思う。その後、私はピアノの弾き方を大きく変えたので、今では数個の音を弾くだけでコインは落ちてしまうだろう。‘静止した(スタティックな)’手で弾くテクニックは、音楽の表現のためには薦められるものではないと思う。幼い初心者なら、一時的にはこのメソッドしかないかも知れないが。
…………………………………………

 私は指による演奏を信じていない。指は馬の脚のようなものだ。体が動かなかったら、前に進まない。同じところに留まっているだけだ。…………指はハンマーとして使われるものではない。そうしようとすれば、あまりにも多くの訓練と注意力が必要になる。音に差異をつけるのが非常に難しく、確実性に欠ける。静止した(スタティックな)体勢から重みを落とすのは、非音楽的な光景だ。柔軟性、リラクゼーション、自発的な動きが、表現豊かな音楽的な演奏に必要な様々な動きを統合していき、固定した身体による演奏よりも、より少ない努力で、より良い結果を約束する。表現とは、外へ出て行くこと、上に上昇するという意味だ。表現がピアニストの目的なら、内への動き、下への動き、重みを落下させることは、自分で自分の前に障害物を置くようなものだ。ピアノのレガートを否定し、打楽器に分類する一派がいることは私も知っている。ピアノのために作曲された作品群が、この「科学的」と称する主張に対する最良の反証だ。
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 その頃以来、楽譜を見たことはないが、私はツェルニーの練習曲は今でも弾けるだろう。しかし、もし当時のように、手を規則通りにして弾こうとすれば、大変不安を感じてしまうだろう。私の弾き方で弾くとすれば、それは常にリラックスしたもの、円弧の動きによる、メリハリのあるものだ。そして、私は、身体は音楽に応じたメリハリのある動きがなくてはならないと思っている。音楽は波動だ。身体が波動していなければ、我々の手が規則で縛られていたら、弾くことはずっと難しくなる。これが、例のテクニックでは、あんなにも多くの練習が要求される理由だ。1日10時間もね。…[3]

 シュナーベルがレシェティツキーのもとで、その妻アネッテ・エシポフについたのは1891年頃でしょう。しかし、彼は自ら語っているように、「ピアノの弾き方を大きく変えて」、指の動きを主体にしたテクニックからすぐ離れていきます。(神童であったシュナーベルですから、むしろ、教えられたことを受け入れなかったということかも知れません。)

 レッスンの場でのこうした状況は、20世紀の始め頃もあまり変わっていないようです。日本の状況については、野村光一の興味深い回想があります。

 ショルツさんはベルリンの高等音楽院を卒業された人で、バルトという人の弟子だったと思う。バルトは小倉末子さんもついていたんだけど、ショルツはとっても優秀な学生であったそうだ。ちょうど、その時に東京音楽学校からピアノの先生を招聘したいという話があって、ショルツは卒業と同時に二十四才くらいで日本にやって来たんだよ。本当はバルトを呼びたかったんだけど、その代わりかも知れないね。だけど二十四才じゃテクニックはいいだろうけど、音楽的には発育し切っていないよ。

 それに当時のドイツのピアノのテクニックは古くて悪かったんだ。ヨーロッパでピアノのテクニックが良くなったのは第一次大戦後だから、ショルツは古いテクニックの秀才だったわけだね。ドイツ人だからベートーヴェンやブラームスはいいとしても、それ以外は駄目なんだ。しかもヨーロッパから離れちゃったものだから、ショルツの音楽性は二十四才で止まっちゃったことになって、それで教えたものだから、当時の日本の学生のテクニックはみんな古いガチガチしたものになって、ただピアノを叩くだけになっちゃった。

 その第一の弟子が高折宮次さんだけれども、それでも、日本ではじめてベートーヴェンだけの独奏会をやったのも高折さんだし、それで音楽学校の先生にもなったわけだ。それが、結局は東京音楽学校の主流になって、彼のところへ優秀な学生がみんな集まっちゃった。その一人が井口基成でね、ということはショルツの直系ということになる。(その井口さんがフランスへ行って、イヴ・ナットについたという話は前に出ましたけど……。)

 それはね、第一次大戦後、日本にはドイツの新しい風潮が入ってくる、フランスからも入ってくるということで、教育方針なんかが変わってくるんだよ。だけど習い覚えた腕というのはそう簡単には変わらない。大戦後に高折さんはベルリンへ留学されたんだけど、その時はもうホッホシューレの教授陣は新しい風潮を持った人に変わってるんだ。第一線にいたのがシュナーベルとクロイツァーなんだ。高折さんの古い奏法とは全く反対の方向なんだけど、自分はもう直らない、これでは駄目だということが分かった。そこでどうするか、ということになって、日本へ帰ってきてから是非クロイツァーを呼ぼうとされたんだけど、当時クロイツァーはドイツ最高の演奏家であり教師の一人だったからね、日本なんかへは来ない。でその代わりに、クロイツァーの推薦でその直系のコハンスキーが日本へ来たわけだ。…[4]
 ショルツが日本に来たのは1913年(大正2年)で、コハンスキーが来るのは1925年(大正14年)です。コハンスキーが来るのと同じ年、その6か月前に、ウィーン郊外のバーデンで日本のピアニスト久野久子が自殺するという事件がありました。彼女にレッスンをした大ピアニスト、エミール・フォン・ザウアーから酷評されたのが直接の原因とも言われています。日本で人気を博していたにもかかわらず、ヨーロッパへ来てみればそのテクニックは全く通用しなかったということでしょうが、学生ならともかく、国内では日本で第一のピアニストというほどの名声と東京音楽学校の教授という地位を得ていたので、そのショックがよほど大きかったのでしょう。同じ頃ドイツに滞在し彼女を知る音楽評論家、兼常清佐は、当時彼女の死の意味を理解したほとんど唯一の人ではないかと思えますが、追悼文で次のように書いています。

 久野女史は正に過渡期のニホンの楽界の犠牲である。本当にピアノを理解しなかった過去のニホンは知らず知らずこの哀れなる天才を弄んでいた。ピアノを聞く代りに熱情を聞いていた。ピアノそのものの興味の代りに久野女史の逸話に興じていた。ピアノの技巧の不備な処を逸話や、生活に対する同情や、空虚な文学的な形容詞などで補うていた。…………しかし、ベルリンではもはや逸話も同情も用をなさぬ。ピアノはただ強く早くたたきつける事ばかりが熱情と努力の現れではない。ピアノはまず純粋にピアノでなくてはならぬ。ベートーヴェンのゾナーテは文学上の形容詞でなく、純粋にピアノの音楽の形式の上で再現されなければならぬ。…[5]

 なぜ、シュツットガルトのメソッドのような弾き方が広まっていったかについて、ゲーリッグは次のように歴史的に説明しています。

 ハープシコード、クラヴィコード、初期のピアノの時代における大演奏家や教師たちは、指のテクニックに限定することを好んでおり、腕と体は最少しか使わないようにしていた。軽いアクションで音量も限られていた昔の楽器でなら、これが望ましいことであり必要なことでもあった。すべての指がそれぞれ独立して動くことは、音楽と楽器の両方が求めることに大いに合致していた。それでも、自由であること、柔軟であること、滑らかであることには価値が置かれていた。クープランやラモー、J.S.バッハとその息子カール・フィリップ・エマヌエル、モーツァルト、そしてフンメルやツェルニーでさえも、必要な場合は控え目で自然なかたちで腕を使うことが正しいと考えていたことに疑いを差し挟む余地はない。

 19世紀始めにピアノは徐々にそのパワーを増し、それに応じてタッチも重くなってきたので、それに応じた新たなことが求められてきたにもかかわらず、不幸なことに、これに合致するようなテクニックが進化しなかった。ベートーヴェン、ショパン、メンデルスゾーン、リスト、アントン・ルービンシュタイン、それにクララ・シューマンのような人も、鍵盤を扱う生まれながらの能力でもって、本能的に時代とともに進み、進歩的なピアノテクニックの最初の例となった。

 しかし、バロックと初期古典派時代からの正統派グループであるフィンガー・テクニック派の後継者たちの多くは、新しいテクニックに抵抗していた。彼らは19世紀が進むにつれ、ますます、ベートーヴェンの言う「フィンガー・ダンス」に凝り固まっていった。彼らは、フンメル、カルクブレンナー、ツェルニーとその仲間たちのテクニックのシステムを糧にしていて、ある程度までなら長所となる点もなくはなかったが、ハイフィンガー、固定した関節、音楽的表現においては表面的な表情にとどまるといった特徴を広めることとなった。効果的に様々な筋肉を働かせることはほとんど顧慮されなかった。…[6]

 C.P.E.バッハの有名な「正しいクラヴィーア奏法」を、現在のピアノ奏法の解説書あるいは理論書と思って読むと、全くあてがはずれます。後半がもっぱら通奏低音の演奏法に充てられているのはともかくとして、前半は装飾音の弾きかたばかりです。チェンバロやクラヴィコード時代における演奏者の表現とは、楽譜に書かれた、あるいは書かれていない装飾音をどんな風に弾くかということが、第一のことだったのです。「軽いアクションで音量も限られていた昔の楽器」で、いくら強弱をつけたところで、その表現能力は限られていました。演奏者は装飾音で勝負していたのであり、装飾音には指のテクニックが重要でした。

 これに対して近代のピアノは、響きも豊かになり、音量の微妙なニュアンスが出せるようになっています。クレッシェンドやディミヌエンド、スフォルツァンドやスビト・ピアノなど、ダイナミックな表現が可能になりました。和音を弾けば、構成する音の音量を加減することによって、色彩感あふれる音色を表現できます。こうしたダイナミズムと音色の表現は指先だけでは不可能です。

 チェンバロを弾いてみると気がつきますが、弱く弾きすぎると、ある抵抗に出会って音を出すことができません。チェンバロは弦をジャックで引っ掻いて音を出すので、少なくとも弦を引っ掻くだけの強さが必要です。つまり、チェンバロを弾くには一定以上の力が必要ですが、それを大きく超える力を出す必要はありません。

 ピアノの場合は、最弱音から最強音まで弾き方に応じた音が出せます。ピアノの最弱音は指の力だけでも弾けますが、コントロールは困難です。最強音は指の力だけでは出せません。また、和音を構成する音の強さをコントロールすることも指の力だけでは困難です。手や腕、肩からの柔軟な動きでもって、音の強さをコントロールすることになります。

 19世紀の始めにショパンやリストが実現したのはこういうことでしたが、レッスンの場では、ますます近代のピアノ本来の弾き方とは異なる旧来の弾き方の方が大勢を占めるようになってしまいました。

 多分、これはピアノの教育が芸術家たちとは全く別の場で行われるようになったからだと思われます。19世紀を通じてピアノを弾きたいという人たちは市民階級を中心に増え続けてきました。しかし、芸術的表現ができるテクニックを持ったピアニストはごく限られています。ピアノを弾きたいという人たちの需要を満たすために、芸術的表現と言うには程遠いテクニックの人たちも先生として参入することになったのです。

 ここで登場するのが練習曲集やメソッドです。ツェルニーをはじめとする練習曲集は、ピアノを習う生徒のためではなく、先生のためのものでした。こうした練習曲集を順番に与えておけば、ピアノを満足に弾けない先生も何とかレッスンを続けることができました。また、ゲーリッグが引用している文章にあるように、メソッドは単純明解なものが必要でした。指によるテクニック、すなわちすべての指の均等性とか指の独立性といったことは、先生も生徒も信じやすい理論でした。生徒ができないのなら、それは練習が不足しているか、才能がないかのどちらかにされました。

 世紀の替わり目の頃には、エシポフのようなピアニストとしても有名な人が、神童シュナーベルに、全く見当はずれのテクニックを教えていました。教育の場で広まった間違ったテクニックが、芸術の場にまで広がってきていました。ここまでくれば、転換が起こるのは必然でした。

(1) 'The Song of the Lark' in Willa Cather "Early Novels and Stories" (The Library of America 1987) p.446

(2) Reginald R. Gerig "Famous Pianists & Their Technique" (Robert B. Luce, Inc. 1974) p.230

(3) Artur Schnabel "My Life and Music" (Dover Publications, Inc. 1988) pp.11, 137-8

(4) 野村光一、中島健蔵、三善清達「日本洋楽外史」(ラジオ技術社 1978) pp.245-6

(5) 杉本秀太郎編「音楽と生活 − 兼常清佐随筆集」(岩波文庫 1992) pp.85-6

(6) Reginald R. Gerig, Ibid. p.229




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編集後記

 今回は常連の執筆陣のほか、長老?の寄稿もあって充実した紙面となり、予定のページ数をオーバーしてしまいました。今後とも、皆さんの寄稿をお待ちしています。
 先日、ふとしたきっかけでバレエを見に行きました。東京バレエ団の大阪公演ですが、パリ・オペラ座バレエ団出身のシルヴィ・ギエムの共演が看板になっています。中でも、バッハのヴァイオリン協奏曲2番2楽章をモーリス・ベジャール振り付けで踊る独り舞台「ルナ」は夢幻的とも言える名演だと思いました。ギエムの信じ難い程のしなやかさと、ベジャールのモダンでしかも優雅な振り付けが、バッハと見事に溶け合っていました。(三露)


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シリンクス音楽フォーラム No.32


発 行:1999年12月1日

編 集:シリンクス音楽フォーラム編集部

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三露 常男(編集長) mitsuyu□yo.rim.or.jp
井上 建夫(編集企画) tk-inoue□mx.biwa.ne.jp
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