シリンクス
音楽フォーラム


No.33/34
2000年 春・夏/冬


目 次

レビュー  演奏会  北岸 恵子  夏景色の琵琶湖を愛でながら

レビュー  演奏会  油井 康修  歌姫はお客を酔わせずには離さない! ─ 冬・リートの夕べ

レビュー  演奏会  油井 康修  時には厳粛に、時には楽しみを求めて

レビュー  オペラ  井上 建夫  モーツァルトはフィオルディリージを偏愛していた...

吉田秀和氏のピアニスト観について   田辺 健茲

花のまわりで   杉原 敏夫

コンサート・オン・エア (21)   高橋 隆幸  マルタ・アルゲリッチ

コンサート・オン・エア (22)   高橋 隆幸  1952年、ロンドンにおけるトスカニーニ

続・私の海外滞在と音楽(4)   北岸 恵子
  アメリカ ペンシルベニア州フィラデルフィア(1986年8月〜1988年5月)

インフォメーション

編集後記

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Review / Performance
北岸 恵子

夏景色の琵琶湖を愛でながら

サマースペシャルコンサート
釜洞祐子のうたとピアノトリオの午後

2000年7月16日
滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール 大ホール

 20代には月に2回以上、音楽会に行っていたように記憶しています。いつから今のように年に1、2回になったのでしょうか。それも知人関係の音楽会が多く、純粋な聴衆である機会はめっきり減りました。今回のコンサートも知人が出演するから、というのが動機でした。地元のびわ湖ホール、暇も金もなく、訪れる機会を逸していましたが、一度行ってみたいという気持ちが高まってきた折りでもあります。祇園祭の宵山の日、梅雨明け直前の猛暑の中、午後2時開演でしたので、最寄駅からJRで10分、JR膳所駅から京阪2分、徒歩3分とは言っても、ホールに着いたら汗だくです。ロビーに入れば、琵琶湖一望、観光船やヨットの帆がいかにも夏の風情で、音楽を聴く前に来て良かったと思いました。

 さて、コンサートですが、プログラムは次のようなものです。

 第一部 ソプラノ:釜洞祐子、ピアノ:松川儒
   ウェーバー 『魔弾の射手』よりエンヒェンのアリア「姿りりしい若者が」
   中田喜直  夏の思い出 〜 山本正美 ねむの木の子守歌
   日本にとけこんだドイツの童謡(メドレー)
   モーツァルト 『フィガロの結婚』からスザンナのアリア 「とうとう嬉しい時が来た」
   アリャビエフ 夜うぐいす
   トーマ    『ミニヨン』よりフィリーネのアリア「私はティタニア」

 第二部 ピアノ:小山京子、ヴァイオリン:鈴木公平、チェロ:山本祐ノ介
   ブラームス  ピアノトリオ 第1番 ロ長調 Op.8

 ロビーからの風景と甲乙つけがたく、楽しめるものでした。滋賀友の会が、全国規模の団体である友の会の70周年記念イベントとして企画したのが今回のコンサートです。客席は幅広い年齢層がおられましたが、特に年配の方が目立ちました。音楽を気軽に楽しむ試みは随所に見られました。出演者の服装は大袈裟でなく、男性3人は、夏のコンサートの定番、蝶ネクタイに白の上着ではありませんでした。女性も釜洞さんが黄色、小山さんがブルーと夏らしさを強調していましたが、シリンクス音楽フォーラムのコンサートレビュアー、油井さんの言う「結婚式の披露宴を模した悪趣味な派手ドレス」とは異なるものでした。
 
 気軽さの一環ということなのか、曲の間に演奏者の解説がありました。第一部の釜洞さんの歌では、一曲ごとに簡単な解説が入りました。私は大体において、この演奏者のトーク入りコンサートが嫌いです。というのは、演奏者の心の高ぶりが前面に出てトークが甲高かったり、悪いケースではトークに気を取られて演奏が散漫になることがあるからです。今回は、私にとって、曲の間に説明が入るコンサートとして初めての成功例の経験でした。まず、第一部の釜洞さんのトークは良いセンスのものでした。あえて笑いを取ろうとせず、自然に話が流れ、カジュアル過ぎず、スノッブ過ぎず、トークではコロラトゥーラ・ソプラノでない自然な声です。

 釜洞さんはドイツの歌劇場と専属契約していた本格オペラ歌手ですが、歌が話に引きずられず、高いレベルを保っていました。クラシックをあまり知らない人にも楽しめるというのが、この日のプログラムの意図でしょうが、楽しめるプログラムは散漫な印象につながります。この日は、プログラミングの散漫さがトークでつながれていました。結果として、釜洞さんいわく“色とりどりのお弁当”のような第一部の“うた”が、彼女のトークによって引き締まって聴こえました。日本の2つの歌、ドイツ童謡メドレーは伴奏の松川さんの編曲だったそうですが、個性が前面に出ていました。好き嫌いはあるでしょうが中途半端でなかったことは確かです。松川さんのピアノ伴奏自体、自己主張が明確で、しっかりした歌を聴かせる釜洞さんだからアンサンブルになっていたように思います。

 後半のピアノトリオも延長上で、チェロの山本さんのトークで始まりました。演奏は趣味の良さを強調していました。ヴァイオリンの鈴木さんはドイツ在住、チェロ、ピアノの2人は日本ですので、練習回数が多いとは思えないのですが、バランスとチームワークが良い演奏でした。音色や受け渡し部分など、室内楽としてのブラームスの素晴らしさは十分に伝わりました。ピアノを始めとして、もう少し線が太くても良かったような気はします。室内楽のコンサートではないことですが、各楽章間で拍手が入りました。眉をしかめた方もおられたでしょうが、私には聴衆の素人っぽさが感じられました。聴衆が音楽通を自慢するコンサートというのも逆に嫌みなものです。

 アンコールはピアノトリオ伴奏による釜洞さんの独唱2曲とピアノ伴奏でのドボルザークの「母の教え給いし歌」。特に最後のピアノトリオ伴奏によるレハール『メリー・ウィドウ』より「ヴィリアの歌」、編曲も歌も楽しめました。ただし、曲調の変わる部分で拍手が入ったのは、聴衆の素人ぶりも度が過ぎていて、演奏者に気の毒な気もしました。

 この日の入場料は、大人3000円(当日3500円)、中高生2000円(当日2300円)、小学生1500円(当日1800円)です。いろいろな意味でこの入場料はまったく高くありません。知人が出演するという贔屓目を差し引いても、音楽ファンの幅を広げることに貢献するお買い得なコンサートでした。(2000.7.25)



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Review / Performance
油井 康修

歌姫はお客を酔わせずには離さない!─ 冬・リートの夕べ

キャスリーン・バトル クリスマス・コンサート
1999年12月16日
サントリーホール

サイトウ・キネン・フェスティバル松本 冬の特別公演
小沢征爾/サイトウ・キネン・オーケストラ
2000年1月3日
東京文化会館

[I]

キャスリーン・バトル クリスマス・コンサート
キャスリーン・バトル・・・ソプラノ
J.J.ペンナ・・・ピアノ
ヘンデル、シューベルト、フォーレ、黒人霊歌 他

 もう一昨年になるけれど、たまたまもらったチラシの中にキャスリーン・バトルのソロ・コンサートのものがあった。最高2万円、S席だったようにも思うが、今回の演奏会のチラシではSS席となっているので、前回もそうだったかもしれない。いずれにせよ歌手1人に2万円! 正直な所、歌曲の方は余り得手ではないのでとくに求めて聴きに行くことは殆ど無く、この世界の事情に大変疎い。従ってひょっとしてかなりトンチンカンなことを言うことになるかもしれないが、それにしてもちょっと了解出来ない値段だった。一流どころのオーケストラのS席の値段と同じではないか。あのウゴルスキーやアファナシエフでさえ、そうピアニストの中でも今最も面白い弾き手達が6千円で聴けるのに、と私などは思ってしまう。いや、ソロでないアルバン・ベルク四重奏団だって6、7千円だったはずだ。どうして?

 そもそも歌曲、つまりリートの世界は音楽の中ではかなり地味な分野に入ると思う。しかし歌手はリートの世界と共にオペラの世界をも共有している場合が多い訳で、こちらの方は相当華やかな世界といえる。「三大テノール・武道館公演」なんていうのも最近随分話題になったものだ。本場ヨーロッパでは、オーケストラはいくらうまくてもオペラの演奏が出来ないとそのオケの評価も下がるとか。

 さてキャスリーン・バトルといえば「オンブラ・マイ・フ」、透明感あふれる美声でテレビのコマーシャルに登場し聴く者の心を奪って以来、矢張り日本では人気が高いのだろう。オペラの方はどの程度活躍しているのだろうか。特に日本でのオペラ公演ではどうなのか。この辺については私には分からないとしか言いようがない。今回キャスリーン・バトルを取り上げたのは何あろう、この2万円のコンサートとはどんなものかという、いわばただただヤジ馬根性から聴きに行こうというものなのである。読者には「何事であるか」とのたまう向きもあるかとは思うが、時にはこういうのもどんなものであろうか。

 それにしてもこのコンサート、「クリスマス・コンサート」と銘打ってはいるもののチラシに曲目が書いて無い。私の場合演奏会を選ぶ時は、もちろん演奏者にも大いに関心はあるが、どちらかというなら曲目優先である。いくら聴きたい演奏家でも「この曲ではちょっと・・・」と見送ったことも多々ある。したがって今回のコンサートはあくまで例外。そういえばこれまでに曲目未定のまま行ったコンサートといえばただ一度、恐らく予想のつく方もいらっしゃるだろうが、そう、スヴャトスラフ・リヒテルのものだけだ。バトルの場合は「クリスマス」と題しているのでそんな曲目が多いかと思いきや殆ど関係ないようで、クリスマスの時期のコンサートというに過ぎないようだ。

 彼女は黒いドレスに、それを隠すようなたっぷりしたピンクのモスリンで覆って、会場にいるのは全て自分を聴きにきたお客たちだという確信を示すかのような親しげな笑みを浮かべながら入場してきた。オペラ歌手の華やかなイメージからすると割合質素な出で立ちだろう。しかしセンスは悪くない。2万円ということであるいは室内オケぐらいが伴奏をするのかと思ったが、ピアノ1台のみだった。曲はヘンデルの「ああ、本当に死よりもひどい…まばゆいばかりに美しく清らかな」から始まった。

 なにしろテレビの「オンブラ・マイ・フ」しか知らないので彼女の実力やら調子やら何とも計り兼ねる。ただ感じとしてはあまり好調では無かったように思われた。声はさすがに素敵だった。それ程つやは感じられなかったが透きとおるような清らかさは見事だ。しかし声量はあまり豊かとはいえない。というよりやや押さえ気味に歌っていたのだろうか。その点では丁寧に歌っていたというようにも言えよう。もっとも歌手は大体最初は調子がよくないもので、後半位になると乗ってくるもののようだ。しかしこの夜の彼女はあまりそのような変化は見られなかった。それでも最後の方で2回ばかりかなり強い声を発し、そのときは広い会場にもかかわらず耳元で高音が共鳴して聴こえたので、なるほど彼女は声量が無い訳ではないな、とは納得した。

 ひとまとまり歌って退場するときの拍手はプログラムを歌っている間は、演奏者を舞台に戻すほどのものでは無かった。当然バトルのファンが多いだろうから、この拍手の具合からも彼女の調子がいまいちかなと思われた。また1曲毎にぱらぱら拍手が入ったのも彼女の集中を妨げていたようだ(プログラムでは数曲ずつのグループで、前半・後半それぞれ幾グループかを歌う構成になっていた)。2曲ばかり楽譜を見ながら歌っていたのもどうなのか。確かにシューベルトの1曲は速いピアノにちょっと乗りにくい所があるらしく、楽譜を見ながらも一度トチってしまった。しかしそこは落ち着いたもので、むしろ笑いを誘うようなしぐさで聴くものに不安感を与えず、2度目は見事に歌いはしたが。

 伴奏のペンナという人は私は全く知らないが、彼女との相性はすごくよかったと思う。それは曲のテンポの揺れがぴったり合っていたということだけではなく、曲が始まるまでの両者の呼吸、曲の途中時に二人の目が合ってうなずき合いながら雰囲気を作っていた様子などからうかがわれたことだ(ただし、遠目にそのように見えたということだ。このごろ大分視力が落ちてきて細かいところは実のところ余りよく分からない)。

 歌われた曲目も挙げると声楽ファンの方には興味が募ることだろうが、当方知っている曲が殆ど無くそれにグループによっては曲順を変えたり、どうも曲目も変えたものもあったようだ(英語で言われたので正確には分からない)。という訳で強いて曲目は挙げず、一曲一曲の評は割愛せざるを得ない。全体の印象はというと、透明感のある甘い声で美しいというよりはチャーミングさの方が目立つか。確かに実に素敵な歌姫という感じだった。

 そういえばシューベルトはドイツ語で書いていたはずだが、とてもそうは聴こえ無い、つまりいうところのドイツリートとは思われないまろやかな歌い振りだった。また、オペラ歌手を思わせるドラマチックな所も少なかったように思う。もっともこれは選曲にもよるだろうが。プログラムが終わって、さて二万円分楽しめたかといえばいささか物足りない感じはあったものの、それでもまずまずかなあなどと思っていたのが、実は彼女の真骨頂はこれからであったのだ。

 彼女自身この夜はまだ聴衆を十分魅了し切っていないと感じていたのだろう。アンコール−拍手−またアンコール−拍手・・・これが一向に止まない。いくらでもアンコールの拍手に応えてくれる、というより拍手が続いているうちに彼女の方がどんどんアンコール曲を繰り出してくるといった方が正確だろう。アンコール曲にはバッハの「クリスマス・オラトリオ」からのかなり大きな曲もあれば(これでクリスマス・コンサートになったか)、「荒城の月」まででてくる大サービス振り。「私に酔わねば帰しませんよ」とでもいうほどだった。

 結局アンコールは7曲か8曲を歌い、時間的にも曲数的にもほとんどコンサートの半分に及んだ訳だ。さすがに最後の方では聴衆も乗ってしまい、前の方の席はスタンディング・オベーション(といったかな)の状態になってしまった。ここまで来て漸く彼女も納得して演奏を終了したのだった。いやあ、歌姫のプライドというものを存分見せつけられた気分になった。全くすごいものである。

 さてさて、これだけアンコールが長く続くと当然時間の方も伸びる訳で、実は私としては気が気では無かったのである。場所が六本木(地下鉄駅で)なので東京駅の最終の特急に間に合わない恐れがあるのだ。しかしこんなことはそうあるものでも無いからと考え途中から心配するのはやめにした。終了したのはもう9時50分を回っていて、電車には間に合わない。一夜の宿を上野駅の近くでとり、翌朝一番の特急に乗り、眠い目をこすりながら1時間目の授業に滑り込んだ次第であった。

[II]

サイトウ・キネン・フェスティバル松本 冬の特別公演
指揮:小沢征爾 サイトウ・キネン・オーケストラ
ソプラノ:大倉由紀枝、コントラルト:ナタリー・シュトゥッツマン
合唱:晋友会合唱団、合唱指揮:関屋晋

マーラー:交響曲第2番 ハ短調 「復活」

 毎年9月初めに長野県松本を舞台に開かれるサイトウ・キネン・フェスティバルは、いまや有名な年中行事になってしまったようだ。しかし当方地元にいながらまだ一度も聴きに行ったことが無い。なにしろチケットが大変手に入りにくいのである。といっても私が聴きに行ってみようかとあれこれ探索し始めたのはここ2年ばかりのことだが。故斎藤秀雄の弟子たちが年に一度集い構成するオーケストラ(この中には有名なソリストも沢山いる)も是非聴きたいものだが、他にもさまざまな演奏家が招かれオーケストラから室内楽、ソロまで多様な形態の音楽が聴けるのも大変な魅力である。

 昨年はピアニストの内田光子も加わっていた。一昨年は電話予約で狙ったが一向につながらなかった。そこで昨年、ひょっとして同じ長野県ならこの上田の地でもチケットが買えるのではないかと調べてみると、何と、よく演奏会を聴きに行く上田市文化会館内で発売するというではないか。ここはどうも穴場になっていたようだ。当日ほくほくしながら、ちょうど授業の合間で発売開始時間少し前に会館に行くと、や、や、や、や、なんと100人近くはいるかと思われる長蛇の列。これでは順番が来てもチケットがあるかも分からないし、第一買えるまで並んでいては次の授業に間に合わない。いやはや読みが甘かったということだ。結局この時もダメ、授業に帰らざるを得なかったのである。しかし来年は何とかなるだろうという見通しはついた。

 ところがその後1999年の年末から2000年にかけてサイトウ・キネンの冬の特別公演が行われるという情報が入った、それも松本だけではなく東京においても。もちろんこの機会を逃してなるものかと早速手配したが、これまたやっぱりだめであった。ウーン、壁は厚い。しかし、である。キャスリーン・バトルのコンサートの時にもらったチラシの中になぜか、まだ若干のチケットがあります、というのが交じっていたのだ。半分だまされた気持ちで電話を入れてみると、まだあるというではないか。ここに初めてサイトウ・キネン・オーケストラを聴く機会を得たのである。思えば長い道程であった??それにしても正月の三日から東京に出掛けるかなあ、いや、松本の演奏会は12月31日の大みそかだからもっと大変だ。

 1月3日、醒めやらぬ正月気分の中をいそいそと東京に繰り出した。これは今年の演奏会人生を方向づけるかな、などと感じながら(確かに1月はこのあとさらに3回もコンサートに出掛けてしまった。そのうちもう1度は東京だ。先行きが恐ろしい)。演奏会場は東京文化会館、何かいつも以上にうきうきした気分が漂っていて、やはりここも正月だったのかな。正月早々すばらしいお年玉、ということにもなれば気も引き立つというものだ。お客もいかにも小沢征服爾とサイトウ・キネンを聴きにきているという風情。やがてオーケストラのメンバーも入場してきてザワザワしているうちにいつの間に入って来たのか指揮者の小沢征爾がメンバーに交じってニコニコしながら何か話していた。カラヤン調で、メンバーの間を縫って入って来たようだ。そのうち指揮台にたどり着き演奏開始になった。

 指揮者小沢征爾、もとより日本人指揮者の中では最も著名な人物であり、特に2002年からウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任するというニュースは最近の大きな話題である。著名といえば、そもそものスタートから小沢征爾は著名であったといえるかもしれない。ヨーロッパで指揮者コンクールに優勝したのは日本人として最初かそれに近い経歴で(記録的な面は正確には知らないが)、その時点で既に話題の人ではあった訳だ。その後もカラヤンの下での修業、名門ボストン交響楽団の音楽監督など着実にキャリアを重ね、今や日本を代表する指揮者の一人である。

 その小沢を私が初めて聴いたのは昨年の3月、新日フィルと演奏したブルックナーの2番だった。小沢征爾の演奏はレコードその他でも聴いたことがなかったから文字通り初めての体験であった。早い時期の2番とはいえ矢張りそこはブルックナー、かなりの大曲だしレコードで何回か聴いただけではとても分かっているとか知っているとかはいえないのだが、聴いた印象は実に分かりやすい演奏というものだった。何が分かったか?本当のところブルックナーにしろ今日のマーラーにしろまだ私の手に負える代物ではないので、それはあくまでそう感じられたというに過ぎない。出来るのは多少の印象を述べ得る程度だ。

 それにしても同じブルックナーでも逆に分かりにくいというのか、途中からついていけなくなる演奏もある。最近日本でしばしば指揮をとっているエリアフ・インバル、マーラー及びブルックナーの演奏者としてかなり有名のはずで、この人でブルックナーの4番と8番を聴いたが、いずれも途中で道に迷ってしまった。小沢の指揮振りだが、これも「分かりやすい」のと同様、実に小まめで丁寧、オーケストラに寄り添ってきめ細かく指揮をしているという印象であった。似たような指揮振りでちょっとクリストフ・エッシェンバッハの指揮を思い出した。

 彼が相手にするこの日のサイトウ・キネン・オーケストラは、名うての腕っこきを何人も擁したその構成メンバーからすると恐ろしくぜいたくなオーケストラだ。もっとも名手が集まればそのままいいオーケストラになるというものでもないし、特にこのオーケストラは年に一回しか集まれず短期練習にかける訳だからいろいろ難しさはあったと思う。しかし聴いた限りではアンサンブルも悪くないし、かなりのレベルにあるのではないかと思われた。特に耳に残ったのはチェロとコントラバスによる低音弦の歯切れのよさだ。たいがいのオケはどうしても音を引きずったり多少の重苦しさを免れないものだが、このオケはそのようなものは微塵も感じさせなかった。ただしマーラーではこれがよかったかどうかは分からない。

 この日の演奏の全体の印象を言うと、非常にうまい演奏だったかもしれないがなにかマーラー臭さが希薄な感じであった。マーラー臭さというのは、マーラー独特の人間臭さとでもいうか。人間臭さといえば他にもそんな作曲家はいようから、ここはマーラー独特のとでもいうしかない。それは例えば皮肉屋のマーラーであったり、プライドが高くてうぬぼれやでじきに有頂天になってカッコをつけたがるがまた足をすくわれやすくすぐ気落ちしてしまうようなマーラーだったり、どちらかというと泥臭い方面の人間臭さ、私の感じているのはそんなところだ。

 しかし一方では何かより高いもの、より奥深い者も追求するマーラーもいて、それがあのカッコづけたがりやのマーラーをも生み出している。それはちょうど歌舞伎で大見栄を切るあのような姿である。そして時にはやり過ぎて俗臭ふんぷんになる、その一歩手前で曲にするのが指揮者の腕の見せ所ではないか。この第二番など冒頭からそんな曲の作りになっている。かくしてのっけからぐいぐい曲に引き込まれて行く訳だ。この第二番は外にも随分聴かせ所がある。ちょっと挙げてみると、第四楽章のアルトの入りとか、第五楽章の合唱の入りとか。こういった聴かせ所にもう一つ強い印象がないのだ。

 私が初めてこの曲を聴いたのはクラウス・テンシュテット/ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団のレコードで、私がマーラーのイメージを作るうえで非常に影響を受けたもののひとつだが、それと小沢征爾/サイトウ・キネン・オーケストラを比べてみると、例えば先にちょっと触れた低音弦がテンシュテットでは実に第一楽章の頭で大きな役割を果たしているように思える。そう、チェロ・コントラバスが実に微妙にマーラーらしい表情を作っているのだ。テンポもかなりゆっくりだ。テンポといえば、気になって後で調べてみると、小沢征爾の場合別のオケで録音したものだがテンシュテットよりかなり録音時間が短い。他のいろいろのレコードと比べても小沢征爾のものは短い方に入る。テンポが速いからダメというものではないけれど、何かややあっさり目の表現に多少は係わりがありそうな気がする。

 朝日新聞に載った音楽評では(長木誠司評、この人は五日の演奏を書いている)、「音響のバランス構築は総じて見事だ」「しかしながら、最初のクライマックスが過ぎたあたりから、どうも音楽の展開感が希薄になってくる」「セクションごとの音のまとまりがよいぶん、かえって表現そのものはこじんまりと画一化してしまい、淡泊になる」としている。長木氏も私の印象とかなり近いものを感じているようだ。

 『シリンクス音楽フォーラム』の27号に高橋さんがかなり詳しく小沢征爾とサイトウ・キネン・オーケストラについて書かれている。そこでは小沢征爾のコスモポリタン的性格、重厚よりは軽やかでスリム、感情的・耽美的なものを排して清潔に、個性的であるより客観的といった特性を、場合によっては日本人演奏家に広く伺われるものとして指摘している。その源流をヨーロッパの新即物主義に求め、それがまた日本人によくマッチしているのではないかとされている。目下の私はそこまで小沢征爾を聴いてはいないのでこの見解に「その通りだ」と断言は出来ないにしても、なるほどとは思える。いずれにしても今後も機会があればさらに聴いてみたい指揮者ではあり、オーケストラではある。(2000.3.12)



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Review / Performance
油井 康修

時には厳粛に、時には楽しみを求めて

J. S.バッハ:ミサ曲ロ短調 BWV232
2000年6月1日
東京サントリー・ホール

レハール:メリー・ウィドウ
2000年6月18日
長野市県民文化会館

[I]

J. S. バッハ:ミサ曲ロ短調 BWV232
フィリップ・ヘレベッヘ指揮/コレギウム・ヴォカーレ(管弦楽と合唱)
デボラ・ヨーク(ソプラノ)
インゲボルク・ダンツ(アルト)
マーク・パドモア(テノール)
ぺーター・コーイ(バス)

 今年はバッハ没後250年に当たる、と雑誌やら何やらに出ていたのを見て、そういえばそうだと気づいたところだ。となると、今年の演奏会にはバッハが登場する機会が大いに増えそうだ。この日の演奏会もまさに没後250年にちなんだ一大企画の一部を成すものだった。それはフィリップ・ヘレベッヘが今回の来日で、「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」「ミサ曲ロ短調」の3つの大曲を演奏するというもので、これは聞くからに大変なことだ。

 このヘレヴェッヘという人、最近のバッハ演奏家としてはなかなか評価の高い人らしい。例によって当方そういった音楽界の事情に疎く、「らしい」という程度のことしか知らないのだが、全曲は無理にしても、今まで実際の演奏で聴く機会のなかった「ミサ曲ロ短調」だけでも聴いてみたいなと食指が動いたものだ。ところが丁度チケットが発売になるころ先立つものが心細い状態になっていて、ついつい買いそびれあきらめてしまった。ところがその後新聞の広告に載っているのを見かけ、まだ残っているのかと篤いて早速電話をして入手したものだ。こちらが思っていたほどには売れ行きは早くは無かったらしい。

 自分としてはバッハは大学時代以来かなり聴いてきたし、また他のもろもろの作曲家よりも練習はしてきた方だろう。最近もまたまた「平均律」を幾種類か買い集め、あーでもない・こーでもないと、聴き比べている。しかしバッハを聴いてきたとはいっても矢張りクラフィーア曲が多く、管弦楽曲では「ブランデンブルク」位、何といってもバッハの音楽の本質を形成していると思われる宗教曲では、カンタータが十数曲(このジャンルは曲数が多すぎる!)、今回ヘレベッヘが取り上げる3大宗教曲では、「ミサ曲ロ短調」はレコードで、「ヨハネ」はFMから取ったテープで、「マタイ」は2度演奏会で聴いたが、どうもこの分野ではあまり熱心な聴き手だったとはいえないだろう。

 もっともクラフィーア曲でも時にはすばらしく宗教的高揚感の高いものがあるのは皆さんご存じのとおり。「平均律第一巻」中のプレリュード変ホ短調や、とりわけプレリュード変ロ短調は希有のものとしかいいようがない。自分の手でバッハの宗教的世界に近づけるのはうれしい限りである。いずれにせよバッハというのは巨大すぎて、まだほんの一部に取り付いたに過ぎないと改めて思ってしまう。丁度こういう年に巡り合わせたのだから、今年はいささかバッハを聴きに出掛けてみようと考えているのだが、どうなることやら。

 さてそこで「ミサ曲ロ短調」。3大宗教曲の中でこの曲だけレコードがあるのは、初めて耳にしたときの印象に強いものがあったからで、のちのちまずはこの曲から買って聴いてみようという気になった訳だ。大学に入った年だったと思うが、「楽に寄す会」というクラブの例会の後、先輩の下宿へ皆で押しかけ聴かしてもらったものと思う。

 実はそれまでバッハの音楽といえば、ピアノを習いに行っていた時にやった「インヴェンション」位しか弾いたことも聴いたこともない(ラジオの音楽番組は中学のころからよく聴いていたから、バッハもいろいろ耳にしてはいたかもしれないが、印象に残ってはいない)。小学生にバッハの面白さが分かるでも無し、お定まりのごとくバッハはいささか退屈でよく分からない音楽という感じしか残っていなかった。従って宗教曲といった類いの音楽は多分初めてだったろう。大方は余りよく分からなかったと思うが、ただ一曲だけ、女声のソロが心に染み入るように聞こえてきたのだ。ヘルタ・テッパー歌うところの「アニュス・デイ」というのは、後に知ったところ。

 これは、「ミサ曲ロ短調」を大きく4つに分けた最終部分に出てくる曲で、最終曲の「ドナ・ノビス・パケム」が晴れやかにニ長調で幕を閉じる直前の、ト短調のしみじみとした安らぎの曲である。「ミサ曲ロ短調」の最終部分というのは、スメントの解説によれば(音楽之友社のミニアチュア・スコア)他の3部分に比べると幾分入念さに欠けるといっているが、この曲に関しては、必ずしも美声とはいえないが魂からの声ともいえるヘルタ・テッパーの歌唱は私に忘れ難い印象を残したのである。この曲自体、実はこの「ミサ曲」でのオリジナルではなく、少なくとも2度目の使用だということは調べて知ったことだが、それだけにバッハも何かしら愛着のあった曲だったのかもしれない。

 ヘレベッヘ率いるコレギウム・ヴォカーレは合唱メンバー20人ほど、管弦楽もやはり20人ばかりで、かなりこじんまりした合唱及び管弦楽団といえよう。私が聴いてきた今はなきカール・リヒター率いるミュンヘン・バッハ合唱団及び管弦楽団は、レコードで聴く限りもう少し編成が大きいように思う。しばらく前から割に小編成によるバッハ演奏が広がっているというが、ヘレベッヘもこちらに属するものか。こういった編成規模の違いも今回の一つの聴き所と思う(カール・リヒターの方は正確なことは分からないので、あくまで耳で聴いた範囲でのことだが)。

 冒頭のトゥッティは、厳しさと共に内に込められた激しさを持って、聴く者を一気に曲の中に引きずり込む。続いて息の長いフーガが幾分長い主題と共に開始され、次第次第に盛り上がって行く。この4度、5度、6度の跳躍と半音進行を巧みに組み合わせた主題は、罪を負って忍耐を強いられる人間の宿命のようなものを、暗い色調で描き出しているように見える。カール・リヒターを聴いているとまさしくこんなイメージが紡ぎ出されて来るのである。

 ところがヘレベッヘの演奏を聴くと、必ずしもそうではない。ミュンヘン・バッハの混沌としたそしてその中から崇高さと厳しさが浮かび上がってくる合唱に対し、ヘレベッヘの方はもっと透明で見晴らしがいいという印象で、とりわけ強く感じたのは美しい合唱だとことだ。そう、美しい。流麗でつややか、響きも濁りがなく所謂抹香臭さがない。うまい譬えではないかもしれないが、モーツァルトの交響曲を片やべ一ムで、こなたカラヤンで、といったら分かって頂けるか。勿論ヘレベッヘはカラヤン流だ。聴き進めば進むほど、何と流麗で美しい曲か、これがミサ曲だろうか、いやミサ曲とはもともとこのように美しい音楽なのかと思わせられてしまう。

 そのような聴き方をしたせいだろうか、今回感じたのは、調性がロ短調となっているけれども、そこからくる暗く重いイメージより、交替で登場するニ長調の方の明るいイメージの方が印象に残っているということだ。「ミサ曲ロ短調」ってニ長調だったの?というように。楽しみにしていた「アニュス・デイ」もこうなると同じような演奏にはなるまい。声の質も違っていて、メゾ・ソプラノっぽさは余りなく、ソプラノに近い感じがした。それはそれでいいのだろう。ヘルタ・テッパーやカール・リヒターを聴きに来たのではないのだから。

 ヘレベッヘの演奏会の日本初日は6月27日、東京墨田のトリフォニーホールでのそれで(曲は「ヨハネ受難曲」)、この時の中村雄二郎氏の評が朝日新聞に載っていた。バッハの音楽の持つ普遍性を踏まえ、「バッハと取り組む指揮者は、人類の音楽史を意識し、それと立ち向か」う心掛けの必要性を説いているが、されはまさしくカール・リヒターに体現されていたものではないだろうか。氏はヘレベッヘの演奏の特色を「曲の持つ内的な力を引き出す」点に見ている。この内的な力=パトスとは、人類が体験しかつイエスが経験した「受苦」という聴き方の中に有るのだろう。そしてこれが多分バッハのような宗教曲の聴き方だろうとは思うが、キリスト教徒ではない私にはそう聴き取ることはいささか難しい。思いのほか美しく聞こえてしまった「ミサ曲ロ短調」などの宗教曲を、さらに他のヨーロッパの演奏家、はたまた日本の鈴木雅明氏などの演奏で聴いて見たいという思いが募る。

 最後に蛇足かもしれないが一つ、まだ演奏が始まるにはちょっと早いとき、パチパチと拍手が起こった。人々の目が二階正面席の方を向いている。「や、や、あれは皇太子御夫妻ではないか」。以前朝比奈隆/大フィルの演奏会で、天皇ご夫妻のご臨席に出っくわしたが、どうもサントリー・ホールは皇室御用達であるらしい。

[II]

レハール:メリー・ウィドウ
ハインツ・ヘルベルク指揮・演出/ウィーンオペレッタ劇場管弦楽団・合唱団・バレー団
ダニエル・フェルリン(テノール)
メラニー・ホリデー(ソプラノ) 他

 ヨーロッパ・クラシック音楽の華は何といってもオペラ、如何に高名な指揮者でもオペラを振らないのではいささか評価に関わるともいわれるとか。現在では実際にどれだけの人が教会に行くのか知らないが、或る時代までは教会は人々の良心や倫理といった分野のケアを担当して、宗教音楽もそういった側面の一部を担っていた訳だ。オペラはいうなればこの反対の側面、大いに発散する分野を担当しているといえなくもない。人間的な面に焦点を当てて時には楽しく、時には豪華に、時には深刻に人間を描く、そこに神の前の人間とは異なる別の姿を生き生きと描き出す、そしてそれを堪能する、こんなところにオペラの効用というか役割があると言えないだろうか。とはいっても、オペラ鑑賞の経験が少ない私にしてみれば、これは単なる当て推量に過ぎない。が、とにかくクラシックを聴くなら、オペラも聴けというのが、なんとなく呪文のように私の頭に入ってくる。

 それにしてもオペラというのは実のところまだ良く分からないというのが実感。オペラ好きの人からすれば分かるの分からないのというのが、もうまどろっこしいのではないか。まず楽しんでしまえと、オペラ好きなら言うだろう。ところが楽しむといっても、まず言葉が分からない。最近は字幕を活用するようになってこの点はだいぶ良くなったが、さりとて字幕ばかり見ていては場面に集中出来ない。それに寄る年波で少し遠いと字幕が良く見えない。ヨーロッパの人でも実際に言葉がすべて分かるものではないというのも聞いたことがあるがどうなんだろう。

 以前日本語による日本のオペラを見た事があるが(「修善寺物語」)、日本語でも良く注意していないと時々聞き取りにくい言葉があったものだ。歌詞や旋律のからみによっては、そういうこともあるのだろう。それにオペラのストーリーは案外わけの分からないこっけいなものがあったり、歌詞・台詞も、日本語の訳でみると「えっ、こんな言葉をまじめに歌うの?」なんていうのもあったりする。近代オペラではすごく深刻・シビアなものがある。以前演奏会形式で聴いたヤナーチェクの「イェヌーファ」とか、ベルクの「ヴォツエック」など、そんなオペラを書きたくなる内的欲求があるのだろうが、聴く方は実にしんどい。一度で沢山という気持ち(それでもこういう時代に生きているといつかまた聴きたくなるかもしれないが)、そんなオペラもある。

 オペラの音楽というのもアリアを並べていくのは楽しみやすいし音楽としても分かりやすいが、ワーグナー辺りから旋律がはっきりしなくなり、先程の近代オペラあたりではオペラの舞台場面がないと、音楽だけ聴いていくのはかなり大変という気がする。どうもオペラを論ずる以前のところで迷っているようだ。もっとどんどんオペラを見に行ければ案外問題解消となろうが、これがまた日本では価格がベラボウであるという現実。とにかく数少ない私のオペラ経験から、いささか短絡的ではあるが、最近はオペラは分かりやすくて単純に楽しめるものがいいんじゃないかということになってきた次第である。そこでオペレッタなのである。

 以前はオペレッタなど殆ど関心が無かった。オペラでさえなかなか足が運ばないところへ、もっと軽いオペラというので、関心もふわふわ何処かへ飛んでいってしまった。ところが上述の屁理屈でオペレッタ鑑賞が浮上して来てしまった訳だ。たまたま地元での公演というので、ちょっと行って見ようかというのが本当のところだが。「メリー・ウィドウ」の有名なワルツの旋律は以前から知ってはいた。しかしタイトルの「メリー・ウィドウ」の意味など考えてもみなかった。見に行こうとしたら急に「ウィドウ」、「そんな単語があったっけ」と脳みそが反応しだした。ウィドウはwidowで、確か未亡人という意味だ。となると、メリー・ウィドウは、楽しき未亡人?陽気な未亡人といったところか。そうなると「あれっ、メリー・ウィドウって英語のはずだ。レハールはイギリス人だったかな」などと余計な詮索が出没しだしたが、これはまあ省略。

 お話しは恋の物語で、勿論めでたしめでたしで終わる。さる国の大金持ちの未亡人ハンナはパリに出て来て婿選び。同国の外交官ダニロもパリに出て来ていて、彼は元ハンナの恋人、身分違いと親に反対されて二人は緒ばれなかったが、今も二人の心の中には愛情が燠火のようにくすぶっている。かつてと違い今のハンナは老銀行家と結婚したので大金持ち、ダニロとしては愛を伝えたいが金目当てと取られるのは絶対いや。ハンナにしてもダニロを憎からず思ってはいるが、彼が親の反対で結婚を決断出来なかったことが引っ掛かりになっている。かくして二人は出会う毎に鞘当てめいた言葉しか出ないというやり取りの展開。それに外交問題がからみ、いろいろドタバタが起こり、そんな中でこの二人が再びどう結ばれるかがストーリーのポイントだ。

 物語りは分かりやすいし、音楽も軽やかで美しいし、(それに旋律も明快だ)、道化的役者も配置されていて(ニエグシュ)適当に日本語を交え良く客を笑わせてくれるし、最後は無事二人が結ばれ、見る者もしっとりした幸せを胸に抱き家路に着く、という訳で、なるほどオペレッタもいいものだと思った次第だ。アンコールもオペレッタならではなのか、一際拍手が高いとそのままそこでもう一度演奏を繰り返すのがおもしろかった。

 勿論、主役のハンナも忘れては行けない。メラニー・ホリデイはこの世界では相当の人らしい。双眼鏡をのぞくと、年齢の方はいささか隠し様がないようだが、身のこなしといい踊りといい、オペレッタの雰囲気を作るには満点である。ウーン、堪能堪能、と思ったが、良く考えて見ると、特におもしろかったのはどちらかといえば劇としてのオペレッタの方で、音楽も勿論悪くは無かったけれど、さりとて音楽にたっぷり感じ入ったというほどでも無い。この辺もオペレッタというところか。でも次は「こうもり」とか、「チャルダッシュの女王」とか、機会があれば聴いてみたい気にはなっている。(2000.7.31)



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Review / Opera
井上 建夫

モーツァルトはフィオルディリージを偏愛していた...

モーツァルト「コシ・ファン・トゥッテ」
指揮:現田茂夫 管弦楽:オペラハウス管弦楽団
演出:中村敬一 制作:横田浩和
2000年7月23日
大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス

 コシ・ファン・トゥッテは6人の登場人物によるアンサンブル・オペラといった言い方がよくされます。フィオルディリージとグリエルモ、フェランドとドラベッラという二組の恋人同士、それに狂言回しのシニックな哲学者ドン・アルフォンソと彼に協力する小間使いデスピーナというリアリスト二人。グリエルモとフェランドはドン・アルフォンソと賭けをして、自分達の恋人を取り替えて、変装して誘惑にかかる、そして、それが意に反して成功してしまう...男女二人づつ三組の登場人物がシンメトリカルな動きをしていきます。アリアや重唱など、各歌手の出番は他のオペラのように一人あるいは二人の主人公、女主人公に偏ることがなく、6人の歌手に平等にわりあてられ、それぞれ美しい優れた曲を歌うチャンスに恵まれています。

 がそれにもかかわらず、モーツァルトはフィオルディリージを偏愛しています。このオペラではフィオルディリージが誘惑に抗し切れるかどうかがドラマの力学の中心です。陽気で浮わついた気分の登場人物の中にあって、フィオルディリージだけは異質で、いささか場違いな人物です。喜劇の中でより、悲劇の中にいたほうがふさわしいでしょう。嘘をつくのも、ドラベッラになら許せるてもフィオルディリージにはどうでしょう?フィオルディリージのような高貴で純粋な魂の持ち主を試したり、欺いたりすることが許されるのでしょうか。

 ドン・アルフォンソの仕掛ける賭けとは、現実を直視せよということです。喜劇も悲劇も脈絡なく含まれている現実の社会では、どんなヒーローもヒロインも、美しいものも、純粋なものもわけへだてなく不条理な力すなわち暴力にさらされていて、それから免れるわけではありません。フィオルディリージも例外ではない、その事実から目をそらせすのかね、というわけです。他の登場人物たちは、そうした現実を受け入れて、状況に流されるままフィオルディリージを追いつめていきます。ドラマは第2幕のフィオルディリージがフェランドの誘惑に屈する二重唱(No.29)へと収斂していきます。

 しかし、ここで、フィオルディリージを屈服させてはじめて、こんなことは決して許されることではないということがモーツァルトにもそしてすべての者に明らかになるのです。現実を受け入れたからといって、それで物事が解決するわけではない。現実の社会にも守らなければならない価値があって、ニヒリズムは許されません。ドン・アルフォンソの命題、現実を直視せよだけでは不十分なのです。力学としては成立しても内実が破綻したドラマは、「コシ・ファン・トゥッテ」という絶望の叫び(No.30)ののち、収拾策を求めてフィナーレへとなだれ込んでいきます。

 第2幕フィナーレの乾杯の場面、2組の新しい恋人たちが祝杯をあげるカノンは、このオペラの中でも最も美しい、そして最も危うい瞬間でしょう。ここでフィオルディリージの本来の恋人グリエルモは、思わず怒りの傍白を吐きます。「毒でも飲め、この女狐ども。」この怒りは、しかし、状況に流されるまま暴力に荷担した自分にも向けられています。そして、あの軽佻浮薄なデスピーナも終幕に至り、怒りをあらわにするのです。「私がだまされていたんだったら、今度はこちらがもっと大勢をだまし返してやる。」一見無傷の狂言回し、ドン・アルフォンソも怒りが自分に向かないうちに、おおあわてで幕を閉めるしかないのです。

 今回のカレッジ・オペラハウスでの中村敬一の演出では、舞台で終始鏡がよく使われ、衝立状の大きな鏡が客席に向けられたり、また、第2幕フィナーレの前の「コシ・ファン・トゥッテ」と叫ぶ場面では、照明が客席を照らし、更に、終幕には舞台の上から多数の鏡が降りてきて、歌手たちは、客席にはお尻を向け、奥の鏡に向かってお辞儀をします。このオペラが暴力とそれに対する怒りのドラマとするならば、これは観客に共犯者性を意識させるなかなか面白い演出です。

 上演は7月22日と23日の2日間(ダブルキャスト)で、筆者が見たのは23日。フィオルディリージ:馬場恵子、ドラベッラ:星野隆子、グリエルモ:川下登、フェランド:小貫岩夫、デスピーナ:石橋栄実、ドン・アルフォンソ:田中由也、合唱:オペラハウス合唱団、チェンバロ:平川寿乃という出演者でした。はじまりは、歌手も現田茂夫指揮のオーケストラも先行き不安を感じさせましたが、徐々に調子を上げていき、その過程と、ドラマが次第にシリアスに深まる過程が重なるあたりは、かえって劇的効果を高めたと言えなくもありません。装置や衣装、それに合唱も十分満足できる仕上がりで、いわゆるスターが出演しなくとも、オペラは総合力で優れた上演になることを力強く示しました。来年はドン・ジョヴァンニが予定されているようですが、ザ・カレッジ・オペラハウスの今後は関西の音楽シーンで特に注目すべきところでしょう。
(入場料は一般6000円)



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Pianists

吉田秀和氏のピアニスト観について

田辺 健茲

 文庫版の吉田秀和著「音楽・展望と批評」1〜3(朝日文庫)を読んで、色々なことを考えたり感じたので、今回吉田秀和氏のピアニスト観を中心に私見を述べてみたい。この3冊はかなり前に絶版になってしまっていたが、たまたまヤマハの楽譜・書籍コーナーで入手出来たものである。内容はおもに1970年代に書かれたものの集録である。ちょうどこの時期、私はとても演奏会には行けないような田舎(広島県竹原市)に住んでいた。それで、行きたくても行けなかった演奏会についての「音楽会批評」(1969〜1981)の部分を読むのがいささかしゃくで、買ってからもしばらく放っていたが、この度じっくり読むチャンスがあり、20年から30年前の音楽会の出来事をむしろ懐かしく読んだ、という次第である。

 私はこの三十年あまり、ずっと吉田秀和氏のファンである。(とは言っても氏の著作を全部持っているわけではない。ただし文庫本はたいていあると思うが。)その昔、ラジオの座談会「音楽時評」で毎回のように、ピアノとショパンこそは自分の縄張りだとばかりにいきりたつ野村光一氏に、年下の吉田氏が静かに丁寧にしかし決然と自分の意見を述べて譲らなかったことにひそかに快哉を叫んだものである。1995年春だったと思うが、東京出張の折に小澤征爾指揮の「セヴィリアの理髪師」を見に行った。そのとき偶然ロビーで吉田氏が奥様と寄り添って歩いておられる姿を見かけて、私は深い畏敬の念を覚えた。(小澤のオペラについては改めて書きたいと思っている。)

 今更言うまでもないことであるが吉田秀和氏の評論は何を読んでも面白く、心に訴える。表現が適切というより見事で,主張はきわめて明快である。しかしながらときには、矛盾というほどではないものの、建前と本音の違いのようなものに出くわす。そのような時、私はある種のスリルを感じることがある。たとえば指揮者G.ショルティに対する批評が一つの典型であろう。好きな指揮者だと言っておきながら欠点を列挙する。ほとんど罵倒している。「先生は本当にショルティがお好きなのですか?」と問いただしたくなるが、やはりこれは好きだからこそ色々言いたくなるものと解釈すべきであろう。むしろそこに真実が隠されていると私は思う。

 吉田秀和氏の音楽評論の原点にあるものは、氏が若いときから親しんできたピアノであろう。一般にある楽器が身近にあると、それに対する好悪、思い入れや反発が顕れるものである。吉田氏の評論の中でピアノはそういう意味でも特別な位置を占めるものと私は考える。ピアノを自分で何でも上手に思ったとおり弾ければ誰にも期待しなくて済むかもしれないが、普通の人は(相当な名手と想像される吉田氏といえども)そういうわけにはいかないものだろう。したがって、自分の好みの音、理想とするピアニストを探し求める。

 1970年代の氏の評論には数多くのピアニストが取り上げられている。もう既に亡くなった人(ギレリス、ゼルキン、アラウ、リヒテル、ミケランジェリ、A.フィッシャー、…)今や老大家となった人(70歳以上と規定すればブレンデル、デムス、…)、今最も円熟した中堅(アシュケナージ、ポリーニ、アルゲリッチ、ワッツ、ゲルバー、フレイレ、P.ゼルキンその他)、当時のデヴューしたての若手(A.シフ、コチシュ、ポゴレリッチ、その他)、日本人の若手(荒憲一、井上直幸、寺田悦子、海老彰子)、そしてもう活動をやめた人や今はやめたり(?)転向した人(エッシェンバッハ、クライバーン)という風に分けられる。

 これらのピアニストに対する吉田氏の評価を、私は次のように分類してみることにする:大変気に入った人(ゼルキン、ゲルバー、井上直幸)、必ずしもすべてを気に入ったわけではないが強い印象を与えた人(ブレンデル、ポリーニ、エッシェンバッハ、アルゲリッチなど)、期待外れだった人(ギレリス、ワッツ)、全く良くなかった人(コチシュ、海老彰子など多数)というように。

 このように並べてみたとき私がふと感じたことは、もし私の受け取り方が正しければ吉田氏がピアノという楽器やピアノ音楽、そしてピアニストという種類の演奏家を必ずしも好んでいないのではないか、という疑問である。無論これは誤解に違いなく、理想の音や、演奏を追求するほど要求するものが高くなるというのが本当であろう。第一、吉田氏がピアノを本当に嫌いならこんなに多くのピアノの演奏会に行くはずがない。(従って音楽評論もやらない。)

 この「音楽会批評」で取り上げられたピアニストに対する私の別け方の正否などは、20〜30年も経過した今ではそれ自体あまり意味あるとは思わない。むしろこれらの批評を通してピアニストやピアノ演奏に対する吉田氏の考えや理想像が読み取れる。最もよく現れる指摘を挙げると、フォルテ(強音)とペダリング。その他では、間の取り方とピアニストの音楽家としての知性のようなもの。

 フォルテとペダリングに関していくつか引用してみると、例えば「フォルテがこんなに柔らかく、しかも十分にフォルテであるピアニストは…」(フレイレ)、「…よい点ももちろんいくつかある。特にフォルテ(強音)がきれいなこと。」(デームス)、「こんなに気張ってやたらとフォルテでやられては、耳に痛いばかりにぶつかってくるだけで…」(弘中孝)、「音がフォルテもピアノもきたなくて…」(海老彰子)、「…ペダルが過剰で音の鮮明さが欠けていたり…」(リリー・クラウス)、「…ペダリングに問題があるのか、音の輪郭もとかくぼやけがちである。」(アントルモン)といった具合である。

 このような問題にしても、間の取り方にしても究極的にはピアニストの知性や感性(およびそれらのバランス)の問題に帰着されるのではないか、と思うし、吉田氏もそう思われているのではないだろうか。それは吉田氏の指摘にもあるように一つには教育の問題でもあろうし、売れる売れないといった演奏会のあり方とも無縁ではない。言いかえれば、吉田氏に象徴されるような高い感性と知性を備えた聴衆に対峙できるピアニストは、そう滅多にはいないのだ。

 想像をたくましくすれば吉田氏が感心しなかった多くのピアノ演奏会も、当夜の聴衆の大半は満足し熱狂しただろう。しかし、私は吉田氏の批評を信じる。それは80年代以降私が演奏会に頻繁に足を運ぶようになってから得た印象と良く合っているからだ。だから、70年代に台頭してきた若手ピアニストの演奏会をほとんど聞き逃した事を、今ではあまり残念に思っていない。(2000.7.31)(岡山市在住)



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A Story

花のまわりで

杉原 敏夫

  「花のまわりで、鳥がまわる。鳥のまわりで、風がまわる。
  まわれ、まわれ。風のように歌いながら、地球のように、まわろうよ」
   (昭和31年全国学校唱歌コンクール課題曲)

 夏休みの全国学校唱歌コンクールの県大会を目標に六年三組の男女生徒20名は練習を繰り返していた。クラス担任は音楽の担当教員でもあり、指導に余念がなかった。明日はコンクールの第一回目の予選であり、早朝から駅に集合し、汽車に乗って松江市の公会堂に向かうことになっていた。彼はその担任から可愛がられていた。担任の人柄を尊敬していたし、言うことは素直に聴いていた。担任もおそらくはそのような点が気に入っていたと思われ、いろいろと興味を持って質問にくる彼に対して、めんどうくさい気配を見せることもなく対応し、また、積極的に手伝いをさせていた。本来は音楽などにはあまり関係はない境遇の彼に対しても担任は合唱チームの中に入れていた。彼も地味な要素の濃い田舎の小学校で、なんとなく華やいだ感じのあるこの合唱チームに少なからず嬉しい気持ちで参加していた。

 その夜のことだった。夕食後、母と義理の父が深刻そうに言い合っていた。家庭の生活費の件であり、母は明日、せっかくこの前出してきたいくつかの着物を再び質屋に持っていかざるを得ないと涙ながらに話した。彼は話を切り出そうと思っていた明日の松江市へのコンクールの件を言い出すことが出来なかった。常にぎりぎりの生活を強いられていた彼の家庭状況からそのような交通費は出費できるはずはなく、ましてや昼食代、小遣いなどは縁のないものであった。このことを言い出せば母は困惑することは目に見えていた。

 みんなと一緒のコンクールへの参加は簡単にあきらめることが出来た。しかしながら、期待し、かつ可愛がってくれている担任に対しての「申し訳のなさ」は彼を苦しめた。電話もよほどのことでなければ使えない時代、結局彼は明日の早朝に駅に行かないことに決めた。

 コンクールの翌日、彼は学校で担任と目が合わせられなかった。担任は近寄ってきた。小声で「さぼったな。期待していたのに・・・」、そして怒った顔つきで上から見下ろした。彼は事実を話せなかった。家庭の、母と義理の父の名誉は守らなければいけないと思った。こらえきれなくなって涙が頬を伝わった。担任は、日頃の彼の家庭の困窮状況から全てを理解した。そして、彼の頭を抱きかかえてみんなに分かるように言った。「夏風邪だって、今日は大丈夫か、無理せずに帰っていいよ。」

 「花のまわりで」は数ある唱歌コンクールの課題曲の中でも秀逸な曲だと思う。時折、小学校の夏休みの時期になると彼は子供の頃の出来事を思い出す。いくつかの社会人生活を経験し、子供の頃に描いていた夢も希望もすっかり記憶の背後に後退し、現実の社会の中での生活そのものに追われるようになる。

 そして、何気なく入った音楽ショップで見つけた「花のまわりで」のCDの驚き・・・聴いたあとの心の中に湧きあがった思い出は、そのときの合唱コンクールだけではなかった。

 夏休みの早朝のラジオ体操、水泳中の湖から見た紺色の空とわきたつような積乱雲、熟れすぎて真っ赤なトマトの匂い、青い青いミカン、登校日と白紙に近い「夏休みの友」、夕暮れの町全体を包み込む夕餉のかおり、明日までの無限に感じられる時間、そして何よりもこれからの全く未知の世界に対しての漠然とした夢など・・・このような思い出が奔流のように脳裏を駆けめぐる。

 みんなはどうしているのだろう。そして、あの頃の夢は何処へ行ったのだろう。自分はこのような感慨をどうして今まで思い出さなかったのだろう・・・。


 「先生、あのときは申し訳ありませんでした。今となっては言えますが、わずかな交通費ですがとても母には切り出せなかったのです。」

 「君が涙を流したのをみて、全てが分かったよ。僕も交通費ぐらい出してあげることは出来たのだ。後で悔やんだけど、君も辛い思いをしたのだな。言ってくれればなんでもなかったが、君も家に関してプライドがあったと思うから。実はあのとき一汽車遅らしてまで君を待っていたのだ。ぎりぎりで間にはあったけれど、調子が今ひとつだった。」

 「すみませんでした。でも、あのとき先生に合唱のチームに入れていただいて、本当にうれしかったのですよ。毎日の家庭状況の中で合唱チームの雰囲気はそれまでの僕には感じたことのないものでした。「花のまわりで」、とてもいい曲でしたね。確か、作詞は江間章子さんで、作曲は忘れたけれど、今でも全部歌うことが出来るんです。それにあの歌は、当時の気持ちと考え方など、今の私にとって忘れていたものを取り戻そうとしてくれるような気がします。テープに入れて持ってきました。一緒に聴きましょうよ。」



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Concert on Air

コンサート・オン・エアー(21):マルタ・アルゲリッチ

高橋 隆幸

 アルゲリッチはポリーニにも匹敵する高度なテクニックの持ち主であり、また優れた知性も持ち合わせているようであるが、近年は気まぐれな弾き崩しや、意味のない速いテンポが目立ち、私はほとんど興味を失っていた。しかし、昨年11月12日に行われた第2回別府アルゲリッチ音楽祭でのリストのピアノ協奏曲(テレビ放送)は誠に立派な演奏であり、彼女の底力を再認識させるものであった。丁度タイミング良く、アルゲリッチの若いころのライブのCDが発売されており、これを機会に手持ちの彼女のライブテープを整理し、私なりの考えをまとめる事にした。

 アルゲリッチのデビュー後間もなくレコーディングされたものの一つにプロコフィエフの第3ピアノ協奏曲がある(アバド指揮、ベルリンフィルハーモニー)。これは速いテンポで一気呵成に弾き上げたという感があり、まさに天馬空を翔けるという演奏である。同じ曲のライブ演奏はシャイー指揮ベルリンフィルハーモニーとの協演で聴くことができる(1983年9月6日)。演奏はレコード録音と寸分違わない素晴らしいもので、先のレコードがライブ的な状況で録音されたことが想像される。

 来日し始めた頃のライブ録音ではベートーベンのピアノソナタ Op.10の3、バルトークのピアノソナタ、およびショパンの24のプレリュード(1976年6月8日、東京文化会館)を聴くことができる。ベートーベンは美しい音で誠に滑らかに進行する音楽であり、特に第4楽章の美しさは出色のものである。音楽は絶えず淀みなく流れるが、ベートーベン的な音の論理あるいはドラマが不足する事はない。バルトークのソナタはバーバリズム的なリズムと不協和音に満ちた曲であるが、アルゲリッチは鋭いリズムながら、滞りなく音楽を進めて行き、むしろこの曲にもリリックな側面があることを我々に教えてくれる。

 以上にモーツアルトのピアノ協奏曲第25番 K.503の演奏(シモン・ゴールドベルク指揮、オランダ室内楽団、1971年5月6日)(CD)を加えればアルゲリッチというピアニストの大まかな特性をつかむことができる。この協奏曲の第1および第2楽章はポリーニも顔負けの知的にコントロールされた過不足のない演奏である。3楽章になるとアルゲリッチはもっと積極的に身を乗り出してくる。リズムは生き生きと弾み、例のイ短調に変わるこの曲の泣かせ所では軽いルバートと共に表情を大きくつけ、この時の音の粒立ちの美しさは心憎いばかりである。

 アルゲリッチの演奏を聴いてすぐに感じるのはスリムで敏捷な音楽ということである。これは比較的小粒な音を基調にして音楽を組み立てているためであろう。ちなみにこの反対の例がアルツール・ルービンシュタインで、常に鍵盤の底まで指をくい込ませた強い大粒の音が特徴である。個人的には、あの音はどうにも押し付けがましく苦手である。さて、アルゲリッチの個々の音は小粒であるが、ダイナミズムは大きく、表情も豊かであるので音楽の構成が小さくまとまってしまうことは決してない。あのスリムな音楽の秘密はここらあたりにあるのであろう。アルゲリッチの演奏のもう1つの特徴は音楽が実に滑らかに流れる事である。これはすばらしくよく廻る指に加え、天性のよく弾むリズム感の賜物であろう。要するにアルゲリッチは数々の美点を備えた傑出したピアニストなのである。

 ショパンのプレリュードにまだ言及していなかったが、この曲ではアルゲリッチのもう1つの面がみられる。これは吉田秀和氏がこの点について早くから「彼女の演奏には時に奇矯な点が少しみられるが‥」という言い方で指摘しておられる。この奇矯な点というのを私の考えで補足してみると、つっかかるようなリズム、瞬間的にある音を不自然に強調する(これがつっかかるように聞こえる要因でもある)、1つのフレーズを充分歌いきらないうちに、時間を切り詰めて次に移ってしまう、ということになろう。これは聴きようによっては気まぐれ、という印象を受ける場合もあり、吉田秀和氏が“奇矯”という言い方をされたものもこういったニュアンスを含んでの事と思われる。さて、このショパンのプレリュードであるが、今述べたような少々奇異な点が散見され、初来日時に同じ曲をとりあげたポリーニの演奏(1974年4月25日)に比べるとどうしても見劣りがしてしまう。

 アルゲリッチのこの奇矯というのは、1985年頃まではあまり目立たず、誰もが持っているちょっとした癖が時々出るといったものであった。しかし、1985年以後には首をかしげざるを得ない演奏が目立つようになっている。例をあげると、チェロのミッシャ・マイスキーと協演したベートーベンのチェロソナタ Op.5の2、この終楽章の乱心としか言いようのない猛烈な速さ、マイスキーがチェロをバイオリンのように扱ってかすれた音で辛うじてついて行ったのを今でも思い出す。また、フォーレのピアノ四重奏曲の第1番、あるいはシューマンのピアノ五重奏曲のピアノをアルゲリッチが担当しているのを楽しみに聴いてみたが、とんでもない速いスピードでアンサンブルをかき乱しており、この人はピアノ演奏のスポーツ的快感に浸るという一面があるのだと思い知った次第である。

 私は呆れて以上3つのコンサートのテープを消去してしまったので、日時や協演者等は不明である。今から思えばせめてデータを記録しておくべきであったと反省している。近年はチャイコフスキーの1番およびショパンの1番の協奏曲の演奏が放送されている。前者はアバド指揮、ベルリンフィルハーモニーの協演(1998年)。これもテープを消去してしまったがCDで発売されている。後者はデュトア指揮、モントリオール交響楽団である(1996年10月8日、モントリオール)。この2曲に共通するのは奔放とか自由闊達とかいった言葉を逸脱した例の彼女の奇矯さ、あるいは弾き崩しである。

 こういった理解に苦しむ演奏をするかと思うと、同じ時期にまともな、あるいは卓越した演奏を聴かせる点がアルゲリッチの不思議なところである。ネルソン・フレーレとのピアノ・デュオではブラームスのハイドンの主題による変奏曲、バルトークの2台のピアノと打楽器のためのソナタ、およびラヴェルのラ・ヴァルスを少しの違和感もなく弾いている(1984年11月10日、東京文化会館)。ザルツブルクの音楽祭ではアレクサンドル・ラヴィノヴィッチとのデュオでメシアンのアーメンの幻影をとりあげている(1990年8月18日)が、これも好演である。ただし、これらのデュオ・コンサートで少々気になるのは、アルゲリッチの鋭いリズム感あるいはダイナミズムの激しい変化がアンサンブルに落ち着きのなさあるいは何か不調和なものをもたらしている点である。

 アルゲリッチがさすがと思わせる素晴らしい演奏を聴かせるのはギドン・クレメルが協演者に加わった時である。クレメルとの協演は1987年11月13日、東京文化会館でベートーベンのソナタ(4,5,9番)(テレビ放送)をとりあげたのが始まりのようであるが、その後この二人はいくつかのソナタを録音し、もっとも優れた、最も前衛的なベートーベンとして全世界的な評判を獲得している。1994年の二人のデュオも興味深い(11月6日、サントリーホール)。曲目はベートーベンのソナタ第10番 Op.96、シューマンのソナタ第2番 Op.121、プロコフィエフのソナタ第2番 Op.94a、などである。

 ベートーベンではアルゲリッチの例のつっかかるようなリズムが少々みられ、万全の出来とは言いかねるが、プロコフィエフのソナタは非常に素晴らしく、私がこれまで聴いた最高のものである。このソナタのバイオリンで奏される冒頭の主題の終わりには速いパッセージの奇妙なオチのようなものが付いており、私はいつもこれを聴くたびに居心地の悪い気がしたものである。また、この曲は全体として平易なメロディーおよび和声で書かれたいわゆる新古典主義の曲であるが、モダニズムと印象派的感覚が混在する第1番のソナタほど魅力的でない、というのがこれまでの私の印象であった。クレメルは冒頭のあの奇妙な箇所を実にうまく処理しており、さすがと思わせる。

 二人の演奏は実にダイナミックでスケールが大きく、新鮮な魅力に満ちている。まるで折衷的な様式に走ったプロコフィエフをもう一度モダニズムの時代に押し戻しているかのようである。クレメルにマイスキーが加わったピアノトリオでも同様の姿勢が貫かれている(1988年5月19日、すみだトリオホール)。チャイコフスキーの「偉大な芸術家の生涯」はセンチメンタルな要素を排し、この曲のイメージを一新するものである。もっともアルゲリッチのあのしゃくりあげるリズムが少々気にならないことはないが。ショスタコビッチの第2番のピアノトリオでのアルゲリッチは申し分なく、この作曲家特有の非情な音の連続とエレジーとを余すところなく表現している。

 クレメルが協演者に加わった時のアルゲリッチの好演は何によるものなのか、すなわちクレメルがうまく彼女を自分のペースに乗せているのか、二人が相手の音楽に充分共感した結果、高いレベルの音楽を目指す意欲に燃えるのか、どちらかであろう。私はもちろん後者と考えるが、考えてみればクレメルの音楽はやはりスリムで、バイオリンの美音に寄りかかってたっぷり歌うというよりは、リズムとダイナミズムをより重視するタイプである。フレーズはあまり膨らまさず、平板にさっと次へ通り過ぎるのも彼のやり方である。これはアルゲリッチのスタイルとある程度共通するものであり、ここらあたりがお互いに長所を発揮できる要因ではなかろうか。アルゲリッチの演奏のムラが何に起因するのか、例えば個人的な人間関係が背景にあるのか等について我々が知る由もないが、彼女がひとたびある曲あるいはある協演者との演奏に意義を感じたならば無類の力を発揮することは確実である。



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Concert on Air

コンサート・オン・エアー(22):1952年、ロンドンにおけるトスカニーニ

高橋 隆幸

 トスカニーニはフルトヴェングラーと共に今世紀前半を代表する最も重要な指揮者であり、フルトヴェングラーのロマン主義に対し、古典的あるいは即物的な音楽様式の元祖とも言うべき存在である。しかし、実際の演奏がどんなものであったかを知る手がかりは意外と少ない。NBC交響楽団を指揮した多くのレコードが残されているが、これらは残響を極度に排したモノラル録音であり、はなはだ聞きづらい(これはCDの時代になってかなり改善されているが)。

 すなわち、これらのレコードからトスカニーニの本質を掴むことは困難なのである。これはスタジオ録音に加え、多くのコンサートの録音が残されており、その偉大さが充分に理解できるフルトヴェングラーとは際立って対照的である。極端に言えば、トスカニーニはフルトヴェングラーのように偉大な音楽家ではないが、今世紀における音楽潮流の1つの旗頭として重要な存在である、ということにもなりかねない。こういった中、トスカニーニの偉大さを証明するCDが出現した。1952年、ロンドンでフィルハーモニア管弦楽団を指揮したブラームスの交響曲チクルスである。

 本論に入る前に我々日本人とトスカニーニとの関係について述べたい。ただしこれは私のようにSPレコード、LPレコード(モノラル)、ステレオLPレコード、CDと順次経験してきた世代を中心としたものである。1950年代の半ば、それまでのSPレコードとは段違いに音質の良いLPレコードが出現し、海外の著名な音楽家の演奏が急速に日本人の間に浸透する事となった。この時期、RCAビクターの主力商品がトスカニーニ指揮、NBC交響楽団のレコードであり、ベートーベンの交響楽全集など、世界最高のコンビによる演奏とのキャッチフレーズのもと、かなりの数が日本に出回ったと思われる。ベートーベンの第9が1枚のレコードに収まったとして話題になり、またこれが結婚祝にもなり得た時代である。

 ところがこのLPレコードの時代は短く、1960年代に入るとLPレコードはすべてステレオ録音となり、モノラルレコード、特にトスカニーニのレコードは急速に不利な立場に追いやられる事になった。モノラルとステレオ録音とではこれまた格段の差があるが、ステレオの音に慣れた耳に特にトスカニーニのレコードが貧しく聞こえるのはあの残響に乏しい録音のためであろう。残響をあいまいなもの、あるいは演奏のごまかし、として嫌ったトスカニーニの録音がほとんど無響室に近いスタジオでおこなわれたのは良く知られた事実である。

 フルトヴェングラーのレコードもトスカニーニと同じくすべてモノラルであるが、ステレオ時代になってからも日本での人気が上昇する一方であったのは、充分な残響を取入れた録音がある程度の奥行きを感じさせ、耳あたりがよかったというのも大きな要因と考えられる。こういう次第でステレオ時代に入ってからのトスカニーニのファンが新たに生じるというのは極めてまれな事であったと想像される。

 今回発売されたCDのうちブラームスの第1と第4交響曲は数年前にもリリースされ、私も入手していたが、今回はこれに第2、第3交響曲、悲劇的序曲、ハイドンの主題による変奏曲が加わり、3枚のCDにまとめられている。会場はロンドンのロイヤルフェスティバルホール、聴衆の拍手、ノイズも入っており、臨場感に満ちたものである。コンサート会場での録音であるので当然、適度な残響があり、1952年のものとしては非常に良い音質である。ワルター・レッグとEMI録音チームのレベルの高さに感心させられる。

 当時のトスカニーニは85才、フィルハーモニア管弦楽団とは初顔合わせであるので、どこまでトスカニーニの意志が反映されているか多少の疑問はあるが、それはともかくとして演奏は素晴らしい。ブラームスの交響曲のCDは山のように出ているが、その中でも代表的な名盤として充分通用するものである。まず感心させられるのは、速いパッセージであろうが、第3交響曲の第一楽章のようにバトンテクニック上、厄介な代物であろうが全くゆるぎもしないオーケストラコントロールの高い能力である。80才を超えたベームやカラヤンがどんな状態であったかを考えるとまさに怪物である。

 テンポは全体に速めであるが速すぎる事はない。基本的にはイン・テンポであるが多少の伸び縮みはある。つまり快適なテンポで音楽は良く流れ、これに力強さ、清潔なフレージング(各声部はよく歌っている)が加わり、格調の高いブラームスとなっている。フルトヴェングラーやカラヤンと異なり、大きなスケールを志向する趣味はないようである。どの曲の演奏も素晴らしいが、特に第3、第4交響曲が印象的である。ちなみに、NBC交響楽団とのレコードでも第4番は名演であった。第一楽章の管楽器のアンサンブルが実に精妙で透明感がありこれがこの曲の虚無感/諦観に良くマッチしている。

 1952年のライブでもこの特色は充分に窺うことができ、このことからも、全体として、トスカニーニの考えが充分に浸透したコンサートであったと言えよう。1980年代以後、世界中のオーケストラの技術が格段に向上し、過去の名演が徹底的に研究、分析され、永遠の名演というものが存在し難くなっている今日、1952年の演奏がこれだけの高いレベルを示すのはやはりただ事ではない。

 しかしながら、このCDだけではトスカニーニの本質云々というわけにいかないのはもちろんのことで、結局のところ、NBC交響楽団とのレコードに戻らざるを得ない。私の頭からいつも離れないのは、LPレコードが出現した時期、我々の耳に実に豊かに鳴り響いたあのトスカニーニの音楽と、ステレオレコード時代のそれとの落差である。柴田南雄氏もどこかで“我々はかつてトスカニーニをこんな貧しい音で聴いていたのであろうか”という驚きを書いておられるが、私見ではこれにはオーディオの技術的な問題がからんでくると思われる。

 ステレオレコードの時代、あるオーディオ評論家がモノラルのレコードを再生するのにはステレオ用の針では駄目で、モノラル専用のを使う必要がある、と書いておられたのを今でも覚えている。この意見が正しいかどうかは私には判断できないが、近年のCD化に伴って音質がかなり改善されている事を考えると、やはりステレオ用の針では本来の音が正しく再生されず、くどいようだが、残響の乏しい録音が音質をさらに貧弱にしていたと考えざるを得ない。LPレコードの時代、我々が聞いたあの豊かな音はSPレコードとの落差が生み出した単なる幻であるとばかりは言いきれない、というのが今の私の結論である。要するに一人の音楽家の印象というのは音の再生技術の変遷に左右されるものなのである。

 こういう次第でトスカニーニのCDが次々とリリースされるのは私には福音であり、めぼしいものは見逃さないように努めている。この中で印象的であったのはワグナーの管弦楽集で、管楽器の緻密なアンサンブルとその微妙な音色の変化は見事と言う他はない。トスカニーニの本質についてはすでに語り尽くされた感があるが、私が以前より感じている最も重要な美点は“格調の高さ”であり、これ故にトスカニーニは今世紀を代表する偉大な指揮者と私は考えている。これからも今回のブラームスチクルスの類が発掘され、また、多くのスタジオ録音が人工的なステレオ化(私見では、モノラル録音は原音を歪めていると考えている)を含む音質の向上で蘇ることを望んでいる次第である。


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Staying abroad

続・私の海外滞在と音楽(4)
アメリカ ペンシルベニア州フィラデルフィア(1986年8月〜1988年5月)

北岸 恵子


[セーリングとピアノ]

 前回の稿で触れたように、偶然にセーリングを楽しむ、いや苦しむようになった私は、週末にたびたびチャンス B. Chance のニュージャージの別荘に招いてもらった。お礼は食事の準備を手伝うことである。ニュージャージの別荘は大きな川に面していて、彼のボートで川を上り下りする。近くに魚屋が何軒かあり、新鮮な魚が手に入る。調理が簡単で美味しいので、私はよく平目を買い、ムニエルを作った。チャンスの自宅にはグランドピアノがあるが、この別荘にはアップライトピアノが置いてある。夕食後、ピアノを弾く。私はショパンのワルツやシューベルトのアンプロンプチュを、チャンスはラグミュージックやコール・ポーターなどを弾く。

 チャンスのピアノは数曲のレパートリーでワンパターンなのだが、レパートリーは完全に暗譜、シンコペーションのリズムが自分自身のものになっていて、楽しそうに弾く姿が見ていて気持ち良い。ある夜、チャンスが“Keiko, ポピュラーピアノを教えてあげよう”と言い始めた。教えてあげようと言っても、単に楽譜を薦めてくれるくらいである。私は初見があまり得意でないが、ポピュラーなら弾き違っても適当に楽しく弾いていれば格好がつくようだ。Night and Day やビギン・ザ・ビギン、聞き覚えがある曲は何とか弾ける。チャンスは“Keiko にポピュラーピアノを教えた”とご機嫌だった。

[就職の話]

 ニュージャージで過ごす何回目かの週末、チャンスのパートナー、Sさんが“今日は大事なお客様が日本から来るのよ”と言う。京大の先輩、Iさんと余分に2人分の食事を作って待っていると、日本人男性が2人現われた。一人は40歳前後、もう一人は私と同じくらいである。日本の中小企業の社長と、その会社がこのたび買収したアメリカのベンチャー企業の副社長ということだ。そのベンチャー企業を起こしたのがチャンスで、チャンスは自分の会社をその日本の中小企業に売ったことになる。2人とも長期海外滞在の経験があり、話題も豊富で、気楽におしゃべりして別れた。

 その次の週、研究室でいつものように実験していると、チャンスから“オフィスに来るように”との伝言である。私のいた生物物理・生化学学科のある研究棟リチャード・ビル Richard Building で、チャンス教授は絶対的な存在である。リチャード・ビルでのチャンスは週末のセーリングの好きなおじさんではない。すぐに駆けつけると、意外な話が待っていた。「週末にニュージャージで会った大塚電子の社長、中山氏が Keikoを採用したいと言っている。生体 NMRの部署を新しく作るので、ぜひ働いてほしいとの誘いである。中山さんの話だと、君の家は大塚電子の滋賀工場のすぐ近くだ。自宅通勤できるからぜひ就職したらどうか。」

 フランスへ行くとき、日本での就職はきわめて難しいと思っていた。フランス出国直前に、京都の女子短期大学への就職話があったが、アメリカのポストドクの話が決まっていて、タイミングが悪くて断った。それで日本での職はあきらめていた。この頃、私はアメリカで研究者としてやっていくことの大変さを実感しながら、そこでどうやって生き残っていくか真剣に考えていた。自信はないが、選択肢はないと覚悟していた。そこへ、突然、別の選択肢が舞い込んだのである。

 迷った。当時の日本はバブル成長期で、女性の就職状態が良くなっていたのが、その前に日本を離れた私には、信じられない。私は中山社長に手紙を書いた。「職を提供していただけるのは大変ありがたい。しかし、以下の2点について、どういうお考えかお答えいただきたい。第一には、給料はいくらか。第二には、女性でもそれなりの地位につけるのか。」 到底、職に飢えたポスト・ドクの手紙ではない。日本で長年、定職を得られなかった私は懐疑的になっていて、厚顔とも言える手紙を書いた。

 しばらくして、ニュージャージで会ったもう一人の男性、森重さんから連絡があった。中山氏がアメリカに来ている。ニューヨークのホテルで待っているので、朝来てほしい。厚かましい手紙を書いた以上、それなりの恩義がある。早起きしてニューヨークへ行った。手紙についての返事をきちんともらった私は、書面で給与額をください、と言ってその職を受けることにした。その就職には条件がついていて、チャンスの研究室で3ヶ月研修を受けること、研修の間は次年度、今の研究室からもらう予定のポストドクの給料を支払うことの2点であった。夏休みに帰国して、会社見学することも決まった。

 日本を離れて2年、フランスから直接アメリカに来て、ずっと両親とも会わずに暮らしてきた。これで両親を安心させられる。やっと一人前に顔を合わせられる。どんな職か、よくわからないのは不安だが、定収入が得られるという現実は、何年もアルバイトで生活してきた私には大きな魅力に思えた。大学卒業後、10年以上が過ぎて、同級の女子学生のほとんどは就職、結婚、出産、退職といくつかの関所を通って生きている。私は結婚はしたものの、出産に至る前に離婚、どの関所も通過できていない。これでやっと第一の就職という関所を通れる。それが思いも寄らぬ時期に、予想しない機会を得て、無性にうれしかった。

[初夏のフィラデルフィア・オーケストラ]

 フィラデルフィアの郊外にフェアマウント・パーク Fairmount Park という広々した公園がある。そこの一角にあるマン・ミュージック・センター Mann Music Centerで、毎夏、6月から7月にかけてフィラデルフィア・オーケストラ・サマー・フェスティバルが開かれる。初夏の夕、6週間にわたって催されるフィラデルフィア・オーケストラの野外コンサートだ。野外とはいっても、マン・ミュージック・センターは屋根があり、後部がオープンになっている。オープンになった部分の左右には外に向けて大型スピーカーが置かれている。屋根のある部分はそれなりの音響があってステージの音を楽しめるが、屋根のないところは、スピーカーからの演奏を聞く形となり、生の音ではない。屋根のある部分は有料席、屋根のないところは無料席である。無料席では、広々とした暮れ行く青天井の下、寝転ぶ人、ピクニック気分で飲み食いする人がそれぞれのスタイルでくつろぎ、申し分のないバックグラウンドミュージックに耳を傾けている。

 日本人のカップル、科学者のAさんと画家の美穂さんが私を誘ってくれた。フェアマウント・パークは車でないと行けない場所なのだが、Aさんが車に乗せてくれて、美穂さんがお弁当を作ってくれるという。その好意がうれしくて、甘えることにした。美穂さんは料理、特に日本の家庭料理がすごく上手なので、お弁当は魅力だ。Aさんと美穂さんの勧めで、屋内の座席をフェスティバルを通して予約することにした。6週間、計18回のコンサートで 100ドル、日本での高価なチケットと比べると、嘘のような値段である。サマー・フェスティバルは、指揮者、ゲスト、プログラム、すべての点で、レギュラー・シーズンと同じく豪華である。

 第1回はアイザック・スターンがブラームスのバイオリン協奏曲を熱演した。ヨー・ヨー・マによるドボルザークのチェロ協奏曲、マは自分のソロの後、フィラデルフィア・オーケストラのメンバーに混じってシューマンのシンフォニーを弾いていた。イツァーク・パールマンのバイオリン独奏によるメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲第2番も聴いた。レギュラー・シーズンにはなかなか演奏されないベートーベンのシンフォニー第9番も聴くことができた。夏の屋外コンサートで聴く第9、日本ではなかなかお目にかかれない。ベートーベン第9以外にも、歌を主体にしたコンサートは多かった。ソプラノのシャーリー・ベレット Shirley Verrettによるオペラアリア、ファリャのはかない人生のコンサート形式による上演、ソプラノ、ロバータ・ピーターズ Roberta Peters をソリストに迎えたコンサートアリアとオペラアリアの夕べなど。

 楽しいコンサートといえば、サマー・フェスティバルらしくヘンリー・マンシーニを指揮者として迎えたポピュラー・ミュージックの夕べ。ポップス・コンサートはこの1回のみで、シンコペーション・クロック、酒と薔薇の日々、など、懐かしいアメリカのポピュラー音楽が続いた。ヘンリー・マンシーニの作曲した映画音楽もたっぷり聴けた。この夕はお年寄りの姿が多く、日本人にとっての小学唱歌と似た音楽なのだと感じた。

 このシリーズで、私にとって忘れ得ない演奏は、ホルヘ・ボレットがソロを弾いたリストのピアノ協奏曲第1番、第2番である。ホルヘ・ボレットに関する予備知識はまったくなかった。ボレットは静かに舞台に現われて、落ち着いて演奏を始めた。その日のホルヘ・ボレットのリストは、私の持っていたリストのイメージ、ジョルジュ・シフラやアンドレ・ワッツによる華やかで、ある意味でけたたましい演奏から遠く離れたところにあった。彼のリストは、ゆったりと美しく、ロマンチックで夢のような色鮮やかな織物のようだった。上品さや知性さえ感じられた。後日、何度も考えた。リストってこんな素敵な曲を書いていたのか、私はなぜ長い間敬遠していたのか、自分の認識の浅さが情けなかった。

 ホルヘ・ボレットJorge Boletの略歴を紹介する。ボレットはキューバ生まれ、フィラデルフィアのカーチス音楽院で音楽教育を受けた後、長年、ルドルフ・ゼルキンの助手を務めた。一時、外交官として勤めたことがあり、GHQの一員として日本に住んだこともある。彼はピアニストとしての活動があまり派手でなかったが、評判は高かったようだ。得意なレパートリーはリストである。ボレットは、私のピアノ演奏に大きな転機を与えてくれた。あの時から現在にいたるまで、何枚かのCDを集め、何冊かのリストの楽譜を買い、リストを練習しながら、あの日の感動が色褪せず、今も心によみがえる。あのような演奏を目指したい、生演奏を聴いてそう思ったのはヤン・パネンカ(スーク・トリオのピアニスト)に次いで2人目である。私が心から感動するピアニストは、いずれも根が生えたようにピアノの前に座り、ピアノと一体化したかのような奏法をする人ばかりだ。

[日本での1週間]

 1987年、8月末から9月初めの2週間、私は休暇を取って2年ぶりに日本に帰った。しばらく会わなかった両親は老けたように見えた。両親が喜んでくれるので、日本で職を得ることが間違いでないと思った。就職先である大塚電子の見学、Y先生に頼まれた大阪大学と自治医大の訪問、出身研究室への挨拶、私の日本での休みは短かった。しかし、もう1年足らずで戻れる。悲愴感や孤独感はなかった。自宅でいくつかの楽譜をトランクに詰めて、私はアメリカに戻った。

 アメリカに戻った直後、私は就職のことを研究室の雇い主、Y先生に話した。勝手に就職を決めたことを先生に怒られるかと思ったが、アメリカでの生活の長い先生にはそのような感情はないようだった。Y先生、チャンスと3人で話し合って、その年の11月末日までY先生と仕事をし、12月1日から大塚電子の社員としてチャンスの研究室に移ることになった。


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Information


ジョイントコンサート
イタリアへの誘い
Concerto di Melodie Italiane


2000年10月8日(日)
午後1時30分 開場
午後2時 開演

京都コンサートホール 小ホール
京都市営地下鉄烏丸線 北山駅下車 1番出口から南へ徒歩3分

入場無料

メゾソプラノ:牧野 賀子 ピアノ伴奏:加藤 雅子
ピアノ:北岸 恵子


プログラム

[ 歌 曲 ]
トスティ: 理想の人、セレナータ、悲しみ、秘密、君なんかもう、魅惑
ロッシーニ: 誘い、亡命者、ヴェネチアのレガッタ

[ ピアノ ]
チマローザ:ソナタ
クレメンティ:ソナタ Op.40-2
リスト:巡礼の年 第2年補遺 ヴェネチアとナポリ


お問い合せ先:
[牧野] 電話 075-621-5438,FAX 075-611-2325
[北岸] 電話 077-562-7683


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編集後記

 5月に発行することにしている春・夏号は原稿不足で取りやめとなり、昨年同様合併号として出すことになりました。シリンクス例会は新しく参加される方も多く、大変充実していますが、この「音楽フォーラム」の方も皆さんの積極的なご寄稿をお待ちしています。(三露)


シリンクス音楽フォーラム

バックナンバー

23号、24号(残部僅少)、25号、26号(残部僅少)、27号、28号、29号、30/31号、32号
1冊 300円(30/31号は500円、送料 1冊200円、2冊270円、3冊以上300円)

賛助会員募集

賛助会費(年間):3000円(賛助会員には、本誌を毎号郵送します。)
送金先(バックナンバー、賛助会費とも):
郵便振替 口座番号 01080−2−22383
名 称 シリンクス音楽フォーラム



シリンクス音楽フォーラム No.33/34


発 行:2000年9月1日

編 集:シリンクス音楽フォーラム編集部

連絡先:

三露 常男(編集長) mitsuyu□yo.rim.or.jp
井上 建夫(編集企画) tk-inoue□mx.biwa.ne.jp
(□を@に変えて送信下さい)

(C)Copyright 2000 SYRINX


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