シリンクス音楽フォーラム 36
Review Performance
油井 康修

レクチャー・コンサートって知ってる?


諸井誠&仲道郁代レクチャー・コンサート
ベートーヴェンの全32曲のピアノ・ソナタを語り、聴く会〈全12回〉
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール
第3回 2003年3月29日
ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調op.13「悲槍」
ピアノ・ソナタ 第9番 ホ長調op.14-1
ピアノ・ソナタ 第10番 ト長調op.14-2
第4回 2003年6月7日
ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調op.7
ピアノ・ソナタ 第11番 変ロ長調op.22
ピアノ・ソナタ 第15番 ニ長調op.28「田園」

[T]

 プロのピアニストが曲をどう解釈し、いかに表現しようとしているのかは、ピアノを弾く者にとっては実に興味津々たる所である。勿論私たちは彼らの演奏をそういったことを考えながら(または感じながら)聴いている訳だが、そういったことをプロの言葉で直接聞ける場合ともなればこれは願ってもないことである。

 もう今から10年以上前になるか、NHK教育テレビで「ピアノでモーツァルトを」という番組があった。モーツァルトの名手ワルター・クリーンが生徒にモーツァルトのピアノ曲を指導するという内容で、この企画は大変当たったのではないか。以後似たような企画がいくつか続いた。これは私も大変楽しみで毎週テレビの前にどっかと座って聴き入ったものである。当時わが家にはLDしか無く、番組終了後発売されたLDは勿論、まだ機械も買ってないのに後日を期してビデオテープになった分まで買ってしまった。一般の音楽愛好家がプロの解釈をまじまじと聞けたのはこれが最初では無かっただろうか。最近こういった企画が以前程無く、残念であるなあ。

 ところで昨年9月、我が長野県で「ピアノ公開レッスン&ミニ・リサイタル」なる企画が行われたことがある。長野県はオーストリアと姉妹都市提携の様な関係があり(正確な取り決め、というか名称は分からないが)しばしばオーストリアの音楽家たちがやって来て、コンサートを開くのは勿論、時には学校まで来てくれて吹奏楽クラブ員の指導などをしてくれる。実を言うと前の前の前の高校にいたときそういうことがあって、その時私は吹奏楽クラブの顧問でもないのに、頼み込んで指導の場に立ち会わせてもらうということがあった。なんとやって来たのがウィーン・フィルのメンバーというのだから聴かないという手はない訳だ。最初パート毎の指導があり、後で全員による演奏を指導・指揮してくれたのだが、それにしてもプロの手並みはすごいものであった。あれよあれよという間に聴いたことのない音楽が生徒の演奏から生まれて来たのには唖然としたものであった。

 上に挙げた企画というのもオーストリア関係のもので、ピアノの公開レッスンというもの自体は東京などの都会ではさして珍しいものではないだろうが、長野辺りではそれほどしばしば見受けられるものではないし、講師のハラルド・オスベルガー氏がウィーン国立音楽大学教授ということになればこれまた聴きにいかない訳にはいくまい、ということである。ミニ・リサイクルまで含んだかなり盛りだくさんの企画で、その分公開レッスンはちょっと時間が不足で残念だったが、なかなか面白いところが多々あたので少し紹介して見たい。

 レッスン生は音楽大学在学中及び卒業生で、いずれもプロの卵といっていい人達だろう。最初の曲はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第6番へ長調op.10-2、ムムム、いささか渋めの曲か。私もベートーヴェンのソナタ全集のディスクを持っているので、全集を聴くからついでにこの曲も聴くという程度にしか知らない曲だ。レッスン生小井土愛美さんは柔らかい滑らかな感じで(第1楽章)この曲を弾いたが、さて講師の指導はいかに?

 冒頭は二つの部分からなり(譜例1:略)、aはスタカートが目立つ。これに対してbはスラーでなめらかに。まずはこの対比を意識して弾くべきだろう。小井土さんはab両方ともなめらかで、特に二つ目の和音(右手ドファラド)はペダルで音をのばしておりこれはすこしやりすぎか。aの中のイの部分は、講師いわく「からかっているように」。こういうところに気を配るのがウィーン流か。ベートーヴェンを「ユニークな人」、というのがオスベルガー氏の捉え方で、ソナタ形式といってもベートーヴェンは常にそこに新しいものを盛り込んで来るので、それをどう表現するかが大切だと言う。

 このソナタでは再現部になかなか凝った工夫がされており、演奏者のちょっとした腕の見せ所になっている(譜例2:略)。本来がヘ長調なのでニ長調で再現部を始めるというのが普通ではない。そこで何か違った表現法が求められる、まずこれが一つ。さらにロの部分、本来なら「ソファラソ」となるべきを前の部分と同じく「ラ♯ソシラ」としている。ここが二つ目。これまたベートーヴェンのいたずらという事で、「ここはこう弾いたら」と少しルバート気味にオスベルガー氏が弾いて見せてくれたのが実にニュアンスに富んでいて素晴らしい。小井土さんも同じようになぞっているようだが、殆ど変わりが無い。こういうところは身についた感覚の相違か、簡単にまねの出来ないところなのか、はたまた頭で思うのに対してからだの反応がおいつかないということなのか。この表現には私も随分感心し、家に帰って早速試して見たが、ヤヤヤ、確かに結構難しいぞ。思うような効果が出来ませんわ。

 それにしてもこのレッスンにしろテレビで見たクリーン氏のレッスンにしろ、プロのピアニストたる者、確たる表現意志を持ち、それを正確に表現出来、明快にその意を生徒に伝えることが出来るものなのだ。こういう彼らの意図を、聴く側の我々が的確に聴き取れれば演奏を聴く面白さはさらに倍加するというものであろう。しかも、だ。講師たちはレッスンの時には彼らの主張を明快かつはっきりと表現して見せてくれるのに、実際彼ら自身が今度は演奏者の立場に立ってピアノを弾く時には、決してそんなにはっきり明確に伝わるような表現は取らないのだから演奏というものはむずかしいものである。全体的な表現を考えたとき、ある部分だけを明確にし過ぎるのはバランスが崩れるし、もっと微妙なところで勝負しようと考えているかのようだ。いずれにせよ、この日のレッスンでウィーンの音楽の真髄をちらっと垣間見せてもらった(ような気がした)ところが収穫と言えよう。

[U]

 この9月の経験が次なる機会を求めるのも当然だろう。そこで思い出されたのが、「諸井誠&仲道郁代レクチャーコンサート」なる企画であった。これは以前チラシをもらって見かけてはいたが、聴いてみたいかなあ、位のところで止まっていた次第。ところが先の公開レッスンを聴いて急遽、記憶の片隅に埋もれかけていたこのレクチャーコンサートが急浮上して来た。調べて見ると第1回は既に終了していた。第2回は?何とこれからではないか。しかも曲目は、上述のベートーヴェンのピアノ・ソナタ第6番ヘ長調が含まれているという。これを聴かずしてどうしよう。是非オスベルガー氏のレクチャーと比較してみたい。早速電話を入れてみた次第だ。

 この企画はベートーヴェンのソナタ全曲を、作曲家諸井誠がレクチャーを行いピアニスト仲道郁代が演奏するというもので、公開レッスンとは違うにしても啓蒙的なところは共通するだろうし、演奏家の視点に作曲家の視点が加わればまた別な趣もあろうというもので、多分に野心的なねらいもあるのかもしれない。楽しみの気分はいやがうえにも勝りしか、だ、っ、た、のだが、なんとなんと。ちょうど演奏会の12月の日曜日、後からクラブの生徒引率が入ってしまったことだ。それでも演奏会は午後3時から、何とか競技が早く終ってギリギリ間に合うかと一縷の望みを託したのだが、ああ無情、結局全て終わるまでは引き上げられず、遥か向こうを走って行く新幹線を思いながらこの演奏会は断念したのであった。

 それにしてもこの企画、しばしばこのレヴューで取り上げる彩の国さいたま芸術劇場のものだ。全く次から次へと面白い企画を打ち出すところである。どうもパンフレットを読むとそのブレーンとして諸井氏が色々考えているようである。ウーン、そういうことか。

 結局このコンサートを初めて聴いたのは第3回からで、ついで第4回も聴くことが出来た。レクチャーは諸井氏がリードし、仲道さんが疑問を呈したり自分の解釈を差し入れたり、といった形で進行して行く。諸井氏のレクチャーはやはり作曲家としての観点からの色彩が強いのは当然か。ソナタ形式を中心とした各曲の構造に関する解説はなかなか丁寧なものだ。しかし氏の言いたいのは、逆説めくが「ソナタ形式」というものは存在しない、ということにある。

 確かに私もソナタ形式をある程度決まり切った形のように捉らえている傾向はあったと思う。古典派では大ざっぱに提示部・展開部・再現部(加えるならコーダ)と区切ることば出来よう。しかしそう分けたからといってそれで曲が理解出来るものでもない。むしろ常に作曲に当たって新しい工夫が盛り込まれて、曲の形が絶えず成長している全体がソナタ形式と捉えられなければならないのだろう。そしてその新しい工夫を含めてどう表現するのか。

 有名な悲愴ソナタもなかなか問題を含んだ曲だというのは、このレクチャーで知った。たとえば第1楽章冒頭のグラーヴェをどうとらえるかということ。私はなんとなく(つまり別に深く考えることもなく)グラーヴェは序奏のように考えていたが、しかしこのグラーヴェの一部分は展開部の前と終結部の前に再現されるのである。とすると単純な序奏でもない。最初の部分と再現される部分をどうとらえて整合性をつけるのか。諸井氏は、グラーヴェの部分はまとめると2部形式になり、それとソナタ形式のアレグロが組み合わされていてこれを「形式のコンプレックス」と表現しているが、その当否は私の能力では何ともいえない。

 また作曲学的にみると、といってもかなり専門的になるので結論だけいうと、序奏の動機各部分は後のアレグロの中で様々に活用されているので、両者のつながりも少なからざるものがあるということになる。要するにグラーヴェとアレグロは共通の材料を使っているということだ。それからまた、提示部の繰り返しを冒頭のグラーヴェから奏するか、アレグロから奏するかという問題がある。ちょっと待って、私の使っている楽譜はドーヴァー版シェンカー校訂のもの、これって原典版じゃなかったのかな。これにはアレグロのところに繰り返し記号がある。その後入手したヘンレ版ははっきりUrtextとあるがこれもアレグロのところに繰り返し記号があるのだが…。ベートーヴェンの手稿には繰り返し記号がないということか。楽譜には校訂報告が何もないので何ともいえない。

 作曲学的解剖と言う点から見ると、全3楽章に共通する動機処理が見られる、というのもこのレクチャーの解説で知った。一楽章の中で動機の有機的処理ということはよく耳にする仕方だが、全楽章というのはこの時期としてはかなり珍しいのではないか。いわゆる循環形式のはしりといえるものだろうか。こういう作曲の工夫は当然全楽章の一体感を醸し出す役割を果たすことになるのだろう(譜例3:略)。とはいうもののいままで実際に曲を聴いていてそういう事は余り感じていたのかなとも思ったりする。

 こういうもろもろを知ってから改めて曲を聴くとき、さてどこに注意を払って聴くべきか。実は公開レッスンでもこういうレクチャーでも聴いて大変面白いのだが、それに注意を払えば払うはど部分に気をとられて曲全体を聴き逃すような気がするということがある。一時的にうまく聴けないということもあるようなないような。しかしそういう細部を踏まえつつまた全体を聴くという聴き方がまた出来て行くのだろう。

 仲道郁代さんは、既に一度はベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏をやっており、その点では実績のある人ということになる。今回は諸井氏と組むことで彼女自身新たな発見を求めての試みということだ。演奏を聴くと、さすがによくこなれていて、しかも大変きちんとした弾き振りである。その分余り強い自己主張はしていない演奏だったが、そういう中でかなり強く自分の解釈を出したのは、第15番「田園」ソナタだろう。名前付きのソナタなのでよく知られているし人気のあるソナタでもある。かくいう私もこの曲は大好きだ。そもそも「田園」というニックネームはベートーヴェン本人のものではなく、楽譜出版商のアウグスト・クランツなる人物がつけたものだそうで、特に第1楽章及び第4楽章がその名に相応しい気分を出しているとされている。

 仲道さんは全体にどの楽章もややゆっくりめのテンポをとっており、その点では「田園」の名にあった雰囲気になりそうなのだが、実際にはのんびりした気分よりは内容を込めたじっくりした弾き方になっていたように思う。特に第2楽章はその傾向が強く、「田園」のなかにあってはかなり厳粛な重い雰囲気の曲に仕上がっていた。このソナタで以前から気になっていたのは、例えば第1楽章、譜例4(略)のようなsfやfpの突発的表現をどう弾くかということだ。譜例の場合3拍目に頻出していてちょっと特徴的なパッセージになっている。もっともこの様なsfやfpの様な表現はベートーヴェンに特徴的なもので他のソナタなどにもよく見られるものではある。こういうのをベートーヴェン節といってもいいのだろう。

 この場合、「田園」の第1楽章ということで、どう表現すべきかということがとりわけ興味ひかれるのである。つまり楽譜記載の通りに弾いたらとても「田園」にはならないだろうということだ。ここが気になって何枚かのCDを集めて聴き比べてみたが、矢張り楽譜どおりに弾くのはやり過ぎと考えてか、どの演奏者もほどはどにしている。仲道さんはさらに控えめだった気がする。しかしこの突発は如何にもベートーヴェンであって、矢張り出来るだけ楽譜に近い演奏をするべきではないのか。どうも誰もが先に「田園」ありき、のような演奏になっている様に思われる。一度「田園」の名前を頭から放逐してこのソナタに向き合う必要があるのではないか、ということを私は提案したい。

 実は私自身もいささかこの曲を練習し、特にsf、fpなどを生かした演奏を目指しはしたのである。今のところ技術が追いつかず(つまりは曲が仕上がらず)、休憩中に陥っているのは我ながら残念である。諸井氏および仲道さんの解説では「田園」を踏まえたものになるのは当然という口ぶりであったが、演奏自体は私にはいささか「田園」ならざる雰囲気があったように思う。その点では「田園」を越えつつ又は外れつつあり面白かったが、私の考える「田園」逸脱とは少し違っていた。

 このシリーズ、まだ道半ばに差しかかりつつあるところ、予習もしながらゆっくり楽しみながらゆきたいと思っている。