シリンクス音楽フォーラム X
Review Performance
油井 康修

初めての出会いの楽しみ、繰り返し聴く楽しみ

[I]

ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ/2大チェロ協奏曲の世界
現田茂夫指揮:新日本フィルハーモー交響楽団
東京文化会館
2003年12月12日
チャイコフスキー:スラブ行進曲
ハイドン:チェロ協奏曲 第1番 ハ長調
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調

 2003年はサンクトペテルブルク建都300周年に当たり、それを記念して「ロシア芸術祭」という企画が実施されていた、ということをその最後の演奏会を聴いた時初めて知った次第だ。そういえば秋にゲルギエフを聴きに行ったが、あれもそうだったのだろうか。何にせよ色々な音楽祭はあって有り難い訳だけれど、それにしてもぺテルブルク建都の記念というのは少なくとも我々日本人には何となくピントが合わない感じもするなあ。

 ロストロポーヴィッチというと、何年前だろうか、ショスタコーヴィッチ・フェスティバルなる企画を聴きに行ったことがあったが、その中心にあったのがロストロポーヴィッチで、初めて彼の演奏を指揮まで含めて幾つか聴いたのを思い出す(このレヴューにも書いてある)。この高名なチェリストの演奏は、ディスクでもラジオでもそれまで殆ど聴いたことが無く大変楽しみにしていたのだけれど、その時はむしろ共演者のヴェンゲーロフの印象の方が強く、ロストロポーヴィッチの実力はこんなものだろうかと疑問のままに終わったのであった。今回は曲もショスタコーヴィッチとうって変わってチェロのオーソドックスなレパートリーからの曲目であり、また別の角度から彼や音楽を聴けるのではないかと期待しつつ演奏会場に足を運んだ次第だ。

 最初のスラブ行進曲は普通の編成で元気よく高らかに演奏され、さて次のハイドンは一転して半分以下の小編成。ハイドンのチェロ協奏曲が2曲あるというのは、今回初めて知った。有名なのは第2番という事で、これはかつてラジオで何度も聴いた覚えがある。主題の旋律も覚えている位だ。この日の第1番はそれに比べると旋律なども余り明確でなく、というか耳に残るような分かりやすい、親しみやすい、魅力のあるものではなく、矢張り有名度で落ちるのも分かる気がするという曲だ。

 その演奏だが、これが実に驚きであった。勿論ハイドンだから古典的なたたずまいの曲ではある。従ってある種の枠組みはきちんと決まっている、といった曲のはずだ。しかし彼の演奏は自由闊達、その枠組みの中を微妙に音を伸び縮みさせつつ悠々と泳いでいるかのように聴こえる。一つの型に従って、出来上がっているものをなぞって行くなどというようなところは微塵もない。いままさに作曲しつつあり、曲が生まれ出て来るとともに音にしていっているという感じなのだ。その意味では極めてスリリングな演奏であった。自在な演奏という中に、若干ロマンティックな解釈も交ざり混んでいたようで、この点はややハイドンに合わなかったようにも思うが、とにかく実に新鮮な演奏であった。

 一方彼のチェロの音量はというとそれほど大きくはない。特にハイドンだから落とし気味に弾いたという訳でもないようだ。後のドヴォルザークでもそれほどの音量は感じられなかったから(普通頑張って出すところも7、8割位しか出ていないようだ)。そもそもこの辺りはさすがに年齢のせいもあるかもしれない。最高音部のポジションあたりでは、少し音程を取るのもきつそうだった。背中も多少丸まってきているところ(前回はそうではなかった)は、いかにもよる年波という雰囲気を感じさせている。ただし歩く様子はまだまだ70代とは見えなかったが。音色は矢張り前回感じたのと同じように、全体にやや中高音が勝った音で、今回は前回に増してやわらかく倍音が利いている感じだ。チェロ特有の轟くような低音は余り感じられない。

 ドヴォルザークのチェロ協奏曲、わたしの場合わざわざこの曲を聴きにコンサート会場に足を運ぶということはあまりないと言っていいが、今回はロストロポーヴィッチを聴きに行くということで、何十年振りかで聴くことになった。しかし、聴いてみて、矢張りこれはすごい曲だと言わざるを得ない。そもそもドヴォルザークを聴きに行くとすれば、まずは室内楽くらいなのだが、ドヴォルザークは聴いてみるとやっぱりいいなと思ってしまう作曲家だ。何と言っても旋律の歌わせ方が実に魅力的なのだ。カッコイイといってもよい。

 チェロ協奏曲の王者とも言うべきこの曲では、弾く方も各所で力を入れて強く表現するというところが多いが、上述のようにロストロポーヴィッチはそれほど力んだ表現はしない。というより、いかにもというほどには音が出ていないというべきか。この点ではオーケストラは実に良くソリストをバックアップしていた。例えばロストロポーヴィッチは弱音のところは殆どソロで弾いているかのごとく音量を落としてかそけきほどの表現になる(ただしその音はこちらには十分に伝わって来るのだが)が、伴奏はこれにぴったり合わせて決してソロの音をオケの音で消しはしない。

 さて彼の音楽表現という点では、それは全くすばらしいの一語であろう。ハイドンでも既に伺われていたが、音の自在な表現はますます磨きがかかっていた。こういうロマンティックな曲なのでハイドンとはまた別な枠というか、旋律に十分感情を乗せてそれぞれの息使い・まとまり(フレージング)を大切に曲を展開しなくてはいけないのだが、彼の独特の音の伸び縮みは小節線もそういったまとまりも越えて音楽を作っていき、拍子の狭さを全く感じさせない。

 自由にして矩を越えず、と言うのだろうか。オーケストラはさすがに刻まれた拍子に従って演奏を進めて行かぎるを得ないが、その間を実に見事なタイミングで彼の音楽が独自の呼吸をしているのである。そしてまた、彼のソロの入り方が実に素晴らしいのである。その時その時の情景を作っている楽器に染み入るようにすっと自然に入って行き、やがてオケと一体となりながら自分の音楽を自由に展開しつつ、いつのまにかオケの存在すら忘れさせてしまう。今やようやくロストロポーヴィッチの真の実力を見せてもらった感がする。

 ところでこのような自在な演奏というと、ふと連想するのがグルダの晩年の演奏だ。すべての演奏家がこうなる訳ではないだろうが、このように年齢を重ねて行くうちに、ある種の自由とでも言うのか、自在な演奏が可能になる人々がいるようだ。しばらく前、秋ぐらいだったか、教育テレビでフリードリッヒ・グルダの来日時の演奏会を再放送していたことがあった。このビデオは確か演奏会のあった当時しばらく後に放映されて私もテレビで見ていたはずだが、その時はこの演奏はうまいとは思ったものの、その凄さまでは聴き得ていなかったように思う。ひょっとしてわたしの耳も進化しているのかも?

 このときの来日が結局最後だったのかな。勿論聴きに行こうとしたのだが、クラシックの方はチケットが入手できず、ジャズの方の演奏会にだけ行ったのである。この放送、以前の時はビデオデッキがなく聴いた(見た)だけだったが、今回はビデオにしっかり取っておいた…はずだったのに何と、途中でビデオがうまく作動していないことに気がつき、後半のアンコールしか録画できなかった。最近は何をやるにもこんなミスばっかり、全く年をとるというのはこういうことかと日々痛感!

 ところがその後半のアンコールが大変なのである。なかでもショパンのノクターン第5番嬰ヘ長調、一つのフレーズから次のフレーズへの移り変わりのところ、長い装飾音符の入れ具合、デュナミークの振幅の伸び縮み、そして曲のもつ呼吸とでもいうもの、全てがまったく自然で自由自在なのである。この曲は彼の出したCDにも収録されてはいるが、そちらはこれ程見事ではない。ライブの中で、彼の感興も大いに高まったということもあるのかな。とにかく演奏会ではグルダは絶えず客席に向かって語りかけ、曲の中に入ってくることを慫慂してやまない。それがどんな世界かというのが、このビデオを聴くとよく分かるというものだ。

 この自在さがロストロポーヴィッチにも聴かれたのである。グルダは60歳代、ロストロポーヴィッチ70歳代、多少年齢の違いはあるにしても、どちらも年輪を重ね繰り返し繰り返し曲へのアプローチを試みそして深めて行ったことが、このような境地への到達となったのではないだろうか。一言で「年輪を重ね」とか「繰り返し繰り返し」とか言うけれど、それは大変なことなのだろう。音楽を聴く喜び、ここに極まるか。とはいうものの、こちら側としてはそれを十二分に味わい尽くし得たかというと、まだまだという気がする。演奏者とともに、聴く側も深まらねばならないということだ。

 さてロストロポーヴィッチだが、この後のアンコールがまた大変であった。曲はバッハのサラバンドニ短調(無伴奏チェロ組曲2番)。もう全くロストロポーヴィッチの世界だ。ゆったりしたテンポで、1フレーズ1フレーズが魂の中に刻まれて行く。入魂の演奏とはこうしたものか。終結に向かってさらにテンポは落ちて行き、最後の一音は永遠の中にかき消えて行く…。こういう演奏はレコードでは出来ないだろうなあ。まさしくこの演奏会場での、一度きりの出来事。

[II]

梯剛之ピアノリサイクル
松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール)
2004年3月28日
モーツアルト:ピアノ・ソナタ
第5番 ト長調 K.283、第17番 ニ長調 K.576、第10番 ハ長調 K.330、第12番 へ長調 K.332


 モーツァルト弾きというとどちらかと言えば女性が多い。古いところではクララ・ハスキル、それからリリー・クラウスにイングリット・へブラー、最近では内田光子にマリア・ジョアン・ピリスといったところだろうか。それにアリシア・デ・ラローチャも忘れてはいけないかな。男性でモーツァルト弾きといわれてまず名が挙がるとしたら、まずはワルター・ギーゼキングだろう。モーツァルトのソナタ全集を出して名を知られたという点ではエッシェンバッハも挙げられるが、彼は途中から指揮活動に力点が移ってしまったので、モーツァルト弾きという言い方は当てはまらないか。全集ということで言えばクラウディオ・アラウやバレンボイムなども出しているが、特にモーツァルトと結び付けられている名とは言いがたい。

 モーツァルト弾きとは呼ばれても、勿論上述のピアニストたちがモーツァルト以外でもすばらしい演奏を披露しているのはピアニストとして当然ではあるが、そう呼ばれるのはモーツァルトの演奏を考えるときにはまず脳裏に浮かんで来て、比較検討の姐上に上がる人達だ、ということだ。

 それにしてもなぜ女性が多いか。女性の方が「モーツァルトらしく」上品に、優しく、かつ優美に、弾くからだろうか。いやいや、リリー・クラウスにしても内田光子にしても、なかなかそんな生易しい表現ではない。モーツァルトはピアノ曲としてはそれほどパワーを必要としないので女性に向いている? 今日の女性ピアニストは、モーツァルトも弾けばリストも弾く。なかにはリスト専門といった風な人すらいる位だから、この理由も余り当てはまらない。あれこれ詮索しても仕方がないような気もするが、ただ男性演奏家でもっとモーツァルトを弾く人がいても良いのではないかと、何となく以前から思ってはいたのである。さてそんな中で、モーツァルトを好んで弾く男性が登場した。それも我が日本のピアニストだ。梯剛之、どんな演奏家だろうか。

 初めて彼の演奏に触れたのは、柳沢桂子という学者と対談しているのをテレビで見た時だ。彼は盲目で、彼女は原因不明の病気に取りつかれて苦労して来たので、二人の間には生き方のうえで共通の話題があるとして設けられた対談のようだが、その話は今は置こう。この中で彼はモーツァルトのイ短調のロンドを弾いていて、その断片を聴いてもう少し色々聴いてみたいなと思ったのである。名前を知ってからその後CDを1枚買って聴いてみた。ただしそれはショパン、モーツァルトはまだお預け状態だった。

 さてようやく彼を聴くチャンスが巡って来た。場所は松本にある市の音楽文化ホール、ザ・ハーモニーホールの名で通っている。松本市というと全国的にはサイトウキネン・フェスティバルの方で良く知られていると思う。そのメイン会場は県民文化会館だが、このハーモニーホールの方が出来たのが先で音響効果が良いということで建築当時から地元では評判のホールだったのである。現在松本にはいい音楽ホールが2つある訳だ。我が上田市も数は同じ2つあるけれども、どちらもかなり古いホールでまず老朽化ホールといってよい。上田市よ、なんとかせい! これは余計なことか。

 当地上田から松本のホールに電車で行くと2時間以上掛かってしまうので地元といってもかなり行きにくく、松本での演奏会は余り私の視野に入っていなかったのだが、実は自動車で山を越えて真っすぐ松本に向かうと1時間かからずに行けてしまうのである。私は運転が出来ないので今までこのやり方は試みていなかったのだけれど、悌剛之ピアノリサイクルがザ・ハーモニーホールで行われるというので、今回奥さんを駆り出して初めて車で松本に行ってみたのだ。これは何と同じ地元の長野での演奏会に行くより時間が掛からないのである。これからも機会があれば利用したいコースではあるなあ。それに上田と松本との間に鹿教湯温泉というのがあって、帰りにちょっと寄って来るのもよろしい。ちなみにこの上田周辺には他にも別所温泉とか沓掛温泉とか温泉地が多く、年を取って来ると温泉が大変有り難くなって来て、今までには無い楽しみが増えている今日この頃だ(少しローカルな話題だったかな…)。

 午後のコンサート会場には障害者が目に付いた。彼の活躍を支持したり、また支えにしている人もいるということだろう。しかし実際に彼の演奏を聴けば、盲目というのは演奏家としてここまで来るのにハンディキャップにはなったかもしれないが、演奏そのものには何らその痕跡は見当たらない事が分かる。勿論彼はプロの演奏家であるのだから、当然と云えば当然だが、それどころではない。私の見るところ梯剛之氏はなかなかのヴィルトゥオーゾであると思う。ショパンのCDを聴いたときからそんな感じがしたのだが、実際に聴いてみてそれは確信に変わった。

 見ていると、全体に腕やひじはそれはど動いていないが、指先が実に良く回っていてしかもかなりタッチが強そうだ。良く通るすっきりした音色はその辺から来ているような気がする。ショパンのCDの場合、テクニックを要する曲でも真正面から取り組んでいて何ら臆するところが無いし、しかも曲が実によく流れているのだ。抜けの良いすっきりした音色も共通している。一方これに対してモーツァルトはヴィルトゥオーゾたるところを示すタイプの曲とは言い難い。彼がモーツァルトにこだわるのは、如何なる点においてか。勿論モーツァルトにおいては梯氏も技巧を誇示するような演奏はしてはいない(誤解のないように、ショパンでもそのような意図を持って演奏はしてはいない)。

 しかし少し技巧的なパッセージに来ると、おのずから彼の技巧が透かして見えて来るのである。K.576の第1楽章提示部、右手左手がカノン風に走るところ、第3楽章のあちこち、K.322の第3楽章など。演奏全体を通して感じられる所は、彼のモーツァルトの捉え方はかなりロマンティックなものだということだ。第一にかなりペダルを使う。第二に相当大胆にテンポを揺らすところがある(といっても完全にロマン派的に気分で思うさま揺らすところまではいってはいないが)。今回は全て長調のソナタだったが、古典的なたたずまいとでもいう雰囲気は余りない。ただその辺りの落差に独特の緊張感があって、実は聴いていてかなり疲れた。短調のソナタだったらもう少し違った印象を持ったかもしれない気がする。

 少し具体例を挙げて見よう。K.330の第2楽章の冒頭など、8分音符の3つの連打が、ややゆっくりの16分音符の3連打のように聴こえる(譜例1:略)。K.576の第2楽章冒頭32分音符のあとの8分音符の速くあっさりした弾き方、とても3拍子ではない(譜例2:略)。こんなところに古典的ソナタの第2楽章という気分を頭から吹っ飛ばす入り方を感じるのだ。ではショパンにおいて彼のロマンティック感覚は濃厚に出ているかというと、こちらはむしろ丁度いいバランスで、過も無く不足も無くロマン的というところだ。むしろ模範的ないし標準的ショパンに近いという位か。

 4曲聴いて一番面白かったのは最初のト長調だった。この曲、どうしてもソナチネの延長線上に出て来る曲というイメージになってしまうのだが(ピアノを習っていたころの自分のまずい演奏がこのイメージを作っているような気もする、ああ!)、彼の演奏でその面目は一新された。速いテンポの中から従来にない響きが伝わって来たのは、なかなかの快感であった。

 さて乗って来たのかアンコールを4曲も弾いてくれたが、これを加えて考えるとまた少し違って来る。まずシューベルトの即興曲Op.90の第2曲、続いて第3曲。ウーン、とにかくテンポが速すぎる。気分に任せて一筆でさっと書き上げた、という感じ。第3曲は旋律線をはっきり出すためにテンポをあげているのだろうが、分散和音がもう分散和音とはいえない、もうそれは痙攣と言った方がいいものだ。ロマンティックをちょっと越えているかも。

 後の2曲はリストのコンソレーションとペトラルカのソネットから。どちらもゆっくりした曲で、一音一音かみしめるごとく弾かれていて、えっ、こういう弾き方もするんだ、という驚き。総じてまだまだ全体像が掴みにくい、というか彼自身がまだそういうものを提出する手前にいるのかもしれない、と思われるのである。ステージへの出入りは多分お母さんだろうか、その人の導きでしているが、その時の歩くさまは手を振り振りそれはもう子供のようで、演奏が始まると一瞬にして音楽の中に忘我的に没入している様子と比べると、見ていて何とも落差の大きな人ではある。その音楽もまだまだちょっと捉えきれないというところなのだろうか。

 最後に一つ、この日の演奏に使われたピアノは当然のごとくスタインウェイ。彼のタッチもあるが、高音に伸びる強い音色はこのピアノのものでもある。しかしこのホールの大きさはせいぜい室内オーケストラまで。スタインウェイでは高音が響き過ぎるのではないかという疑問がある。このレヴューでもよく取り上げる埼玉の音楽ホールも小ぶりのホールで、やはりちょっとスタインウェイが響き過ぎるように思う。

 大ホールで大規模オーケストラをバックに豪垂なピアノ・コンチェルトを、というのならびんびん響くフルコンも必要だろうが、室内楽クラスのホールでは音が割に身近に聴こえるので、響きはほどほどでいいのでは。こういうホールであればこそ、ベーゼンドルファーやベヒシュタインなどもっと他のピアノを使って楽しませてくれてもいいのではないだろうか。それともCDを聴く経験からホールで聴くより音が明確なので、ついこういう要求が出てしまうのだろうか。ピアノとホールということも少し考える余地がありそうだ。