シリンクス音楽フォーラム X
Review Performance
油井 康修

たまには地元でゆっくり音楽鑑賞を


山下洋輔&金子飛鳥 コンサート
2003年10月7日
二代目 高橋竹山 コンサート
2003年10月8日
室内楽を楽しむ会:長原幸太 ヴァイオリン・リサイタル
2003年10月10日
上田市文化会館

[I]

 隣の丸子町には二つも立派な音楽ホールがあって、このレヴューでも時々登場したはずだが、その一つセレス・ホールを根拠地にしていた浦川宣也氏のセレス・アンサンブルの活動が終わってからは、どうも殆ど丸子に行く機会がないし、今年はこれまで長野も含めて何となく地元で音楽会を聴くことが少なかったようだ。反対に埼玉の彩の国音楽ホールにはもう常連の如くよく行っている。別にどこへ行って聴いてもいい訳だけれども、何となくもっと地元も大切にしなくちゃあ、という気持ちもないではないし、地元の音楽活動にコミット出来たらと思わないでもない。

 数年前には音楽フェスタもあったし、音楽会を企画しているグループもあるようだ。しかし職場の方もなかなか忙しく、特に年齢が○○の大台に乗ってからいよいよ体の方の老化現象が起こりだし、その対応で日も過ぎて行くこのごろだ。この5月には何と耳の調子までおかしくなって、耳鼻科でありがたくも「難聴気味である」という御託宣までいただいてしまい、このレヴューもいつまで続けられるかと心もとない状態だ。我が同年代の方々はいかがでありましょうか。

 実は昨年秋にセレス・ホールに行く予定が一つはあった。少し前からこのホールにあるベーゼンドルファーを年に一度一般の使用に公開するという企画があって、これはぜひ参加してみようと前々から思っており、昨年は応募してみたのである。ベーゼンドルファーというのはかつて一度だけ弾く機会があった。というより行った先が日本のベーゼンドルファーの代理店のピアノ置き場ということも知らないで尋ねてしまい、少し弾かせてもらったと言う訳だ。それにしてもあの時は驚きに驚いた。余りに豊かに響きすぎる、自分の弾いているのがどう弾けているのか全く分からない、という状態だったのだから。

 それはさておき、ちょうどその時家の事情なるものが発生し、結局取り消しの連絡をせざるを得なかったのは誠に残念。セレス・ホールでこの企画を始めたのがどういう理由からかはちょっと分からない。住民サービスか、音楽気運活発化のためか。ところが最近少し似た事例を耳にした。同じ長野県の南の方の(長野県=信州の南で南信という)確か伊那市の音楽ホールの話だったと思うが、矢張り同じベーゼンドルファーを一般の使用に公開するということだ。

 しかもこのピアノ、なんとベーゼンドルファーのインペリアル。理由はこのピアノの使用頻度が少なすぎて状態がよくないらしい、そこで一般の人々の使用により稼働率を上げようとのことらしい。我がセレス・ホールの年に一度、一人5分以内というのよりは大分長く使用出来るそうでうらやましい話だ。それにしても場所が場所だけに矢張りピアニストを呼ぶこともそれはど多くないのだろう。しかも招かれるピアニストが大体はスタインウェイの方を選んでしまうとのこと、つまりは宝の持ち腐れなのだ。丸子の場合はどうなのかな。

 事のついでにこの伊那市の音楽事情ということを付言して置こう。もう15年以上前、わが家はこの伊那市の隣の駒ヶ根市に住んでいたことがあった。その頃でも駒ヶ根や伊那にたまには音楽会はあった。ただし伊那の場合会場が問題だった。つまり当時はまともな会場がなかったのである。今回の話はその後出来た新しい会場での話。その当時の会場にエッシェンバッハがウィーン交響楽団だったか(もう記憶が曖昧だ)を引き連れてやって来た。

 モーツァルトのピアノ協奏曲第27番は大いに期待したのだが、エッシェンバッハがオケに気を使い過ぎていて余り集中出来なかったことを覚えている。その後確かブラームスの交響曲だったが、この演奏の途中雨が降りだし、なんとその音がしっかり聴こえてしまい音楽は台なしだったのだ、ああ!エッシェンバッハよ、ごめんなさい。それから会場事情はよくなった訳だが、それだけではなかなかうまくは行かないということだ。

 この秋最初のビッグ計画は(と、無駄話がまだまだ続くが)、何と、ついにサイトウ・キネン・フェスティバル松本に聴きに行くという予定が立った。地元長野県では最大の音楽祭ながら、なかなか行く機会に恵まれなかったのが、とうとうそのチャンスをつかむことが出来た。六月のさる休日地元上田のチケット発売の場所に寝坊もせずに出掛けました。いやあ、いるわいるわ、穴場と言われたここ上田でもオペラの行列に並んだ私の整理番号は殆ど100番に近い。ホント、チケットが残っているのかなと思わず心配になる。

 かくして発売開始まで並ぶこと1時間ちょっとだったかな。なれた人は床凡に座っていたっけ。一番希望する日は取れなかったけれどとにかく1枚入手は出来た。曲は「ファルスタッフ」、以前シェークスピアの戯曲の方は読んであり楽しみに待っていたのである。ところがところが、好事魔多し、と言うのは変な使い方かどうか、とにかく学校の急用が入って行けなくなってしまった、この悔しさ!替わりにうちの奥さんに行ってもらったが、なんともはや。地元の音楽会も逃したことになる訳だ。ちなみに、うちの奥さんの感想だと、小沢征爾の音楽はなかなかまじめで丁寧だが、喜劇としてはちょっと面白さに欠けるというもので、何か想像は付くような気もした次第。

[II]

 地元にこだわってはいないと言いつつまだ地元の話だが、漸く地元で音楽会を聴く機会がやって来た。それにしても同じ週に3回、それも同じ会館で、というのはやや珍しいか。もう少し散らしてくれてもいいのだが。
 順に並べてみよう。

10月7日 上田市文化会館
山下洋輔&金子飛鳥 コンサート
 金子飛鳥(vn.)、山下洋輔(pf.)
 曲目:トイ・ボックス、ワイルド・ボア 他

10月8日 上田市文化会館
二代目 高橋竹山 コンサート(津軽三味線)
 曲目:三味線じょんがら、紅がすり抄(寺山修司/詞)他

10月10日 上田市文化会館
室内楽を楽しむ会:長原幸太ヴァイオリン・リサイタル
 國谷尊之(pf.)
 曲目:バッハ:シャコンヌ、ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ、ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ「クロイツェル」、ワックスマン:カルメン幻想曲

 この一週間の3回のコンサート、ご丁寧にジャンルまで皆違っている。さて順にみていこう。山下洋輔氏はいまやその世界で知らぬ人の無い超有名人である。実はその昔大学時代に、京大の西部講堂で彼の演奏を聴いたことがあるのだ。西部講堂というのは、今はどうなっているのか、当時はしぼしば前衛的な芸術家を招いて風変わりな興業を行っていたものだ。実際時にはかなり摩詞不思議なものもあった様に思う。京都の一隅にある得たいの知れない場というのか。その時は山下氏はトリオを組んでいて、その頃ジャズ界の一部で知られていたフリージャズ風の演奏を、大いにパワーアップして聴かせてくれた。乗って来ると、もう全員が最強音で演奏するので、ちょっとそれは音楽というより騒音に近いものであったような。いささか自己満足的な演奏であったなあと、今にして思う。

 その後彼のうわさは聞いていても、その演奏に触れる機会も無く、ホントに久々の30年ぶりという訳だ。当日相方の金子飛鳥さんも、恐らく相当の有名人のようだが、情報に疎い私には正確なところは分からない。山下氏といえばトリオのイメージしか無く、この様なデュオはどの程度やっているのかと思っていたら、本人いわく、めったにない組み合わせだそうだ。

 まずは山下氏のソロで始まった。山下氏にしてはかなりオーソドックスな感じ、セロニアス・モンク風のフレーズがしばしば響いて来る曲で、彼へのオマージュということだろうか。2曲目から飛鳥さんのヴァイオリンが加わったが、いささかミステリアスな曲でスタート。彼女いわく、ちょっとこわい雰囲気が小学生に大受けの曲とのこと、そんなところにも演奏に行くんだ。いやこの人のヴァイオリン、天衣無縫にしてヴァイタリティに富み実におもしろい。山下氏との呼吸もぴったりだ。

 矢張り彼女はただ者では無かった。節々に創造的な息吹が迸っていて、奔放な演奏、そして曲も自らのオリジナル、ウーン、実力のあるすごい演奏家が、それも新しいジャンルを切り開く人が出て来ているのだなあ、と思い知った次第だ。前半の最後は山下氏の「何とか組曲」(プログラムが無く、曲名も初めて聴くものなのでどうも忘れてしまったものが多くレヴューとしてはまずいのだが、申し訳ない)、これが沖縄風の旋律をテーマに変奏を展開するという少し変わった曲。材料に取り上げる分野が広い。

 後半はバロック風の曲で始まる。フーガ調に展開し、果てはスイングしてしまい、また元に戻る。これまた実にツボにはまったおもしろい演奏だった。この後飛鳥さんのオリジナル2曲が続いたが、その時の話によると、そのうちの1曲が出来たのは2人がケルンでデュオをした時らしく、彼等の演奏活動は世界に天駆けているようだ。アンコールでは速いピッチの9拍子の曲をやった。この拍子が3・3・3ではなく2・2・2・3というところが曲の面白さになっていた。二人の演奏を聴き終わって思ったこと、実にこの二人にかかるとどのような音楽表現も可能ではないかと思えて来てしまう。

 彼等にはジャンルというのが殆ど無意味になって来ている気がする。21世紀の音楽とはこのようなものかと、ふと思った次第である。こうして二人の演奏を聴いていると、どんどん乗せられて行って果ては何か自分でもピアノを前に即興風に弾けそうな気がして来るのだが、家に帰っていざやって見ようとするとあの時の弾けそうな気分はどこへやらだ。それにしてもこれほどおもしろい演奏会に、客の入りは3分の1ちょっとくらいだろうか。もったいないなあ。

 さて当日飛鳥さんの初アルバムというのが会場で売られていた。《mother》というタイトルで、その時は持ち合わせが無く後日購入して聴いてみた。ところが、あの日のコンサートでの高揚感は殆ど感じられなかった。そもそもこのアルバムのコンセプトが、あのコンサートとは別物ということはあろう。共演者のレベルが悪いというのではないし、このアルバムの演奏がよくないということでもないし、これはこれなりに楽しめるのだが、「これなりに」というところがまたあのコンサートとの大きな違いなのである。山下洋輔が触媒になり、金子飛鳥が触媒になり、あのデュオの生み出した音楽が相当尋常ではないものであったと、改めて思った次第だ。

 続いて次の夜も文化会館通いだ。二代目高橋竹山と聞いて、ひょっとして高橋竹与さんではないかと推測した。これは果たして、そのとおりであった。これもその昔、20年位は前になるか、初代高橋竹山の演奏会に行った時(確か松本だったと思う)、一緒に竹与さんが演奏していたのである。勿論その当時は竹山のお弟子さんで、傍らにつつましく控えて居るといった感じだった。初代は既に鬼籍に入り、彼女が二代目となって竹山の名を継いだ訳だ。まず演奏のスタイルが変わっていた。かつては正座して演奏していたのが、この日の彼女は終始立ったままでの演奏だった。割りと大柄ですらっとしており、津軽三味線もやや大ぶりの楽器なので、それなりに見栄えがするものだ。

 さらに第2部では衣装を代えて、オレンジ色のあでやかな洋服姿、女性らしさを感じさせる舞台だ。曲は勿論伝統的に伝えられて来ているもの(三味線じょんがら)から始まり、今回は彼女の歌も披露された。さすがに声は民謡調であったが。その外にも寺山修二の詞による曲や、自ら作曲した曲などさまざまに幅が広がっており、どれも楽しめるものであった。津軽三味線が伝統芸能だと言っても、能や歌舞伎のように厚い伝統に守られているのとは違って、かつて盲目の三味線弾き達が門付けで稼いでいたのが、これからは演奏会という舞台で生きて行くことになるのだから、そこでどういう表現をしていくか、大きな課題に答えを出しつつ演奏していくことになるのだろう。

 一日置いて今度はヴァイオリン・リサイタルだ。地元の「室内楽を楽しむ会」という団体の主催する、年3回のリサイタルのうちの一つだ。ヴァイオリンの長原氏は1981年生まれというから、いまだ弱冠22歳だ。やや小柄ながらがっしりした体つきで、足を踏ん張り気味に構えて弾く姿はなかなか心強いものがある。13歳でヴィニヤフスキー国際ヴァイオリンコンクールに3位入賞というのは矢張りかなりすごいことか。

 この日の演奏会の一つの目玉は、長原氏の使っている楽器がアマティだということだ。こういうことがあると、私はついホイホイと出掛けてしまうのである。そういえば以前アマティばかりを使用した弦楽四重奏団の演奏を聴いたことがあった。この日の長原氏のヴァイオリンもそうだったが、アマティというのは中低音が柔らかく太めで、高音は少しばかりひなびた感じの、丁度シングルコーンのスピーカーを長く使っていて高音がややボケ気味に聴こえて来るのと似た雰囲気の音なのだ。ストラディヴァリウスやグァルネリのような輝かしい自己主張的な音ではない様に思うが、なかなか味のある音ではある。

 バッハの「シャコンヌ」はヴァイオリン演奏のいわば看板的な曲だ。あの冒頭の鋭角的な出だしでまずいやおうなく我々を捉え、終始聴くものを強い力で引っ張って行くすさまじい曲だ。しかしそこはアマティのせいかどうか、いつも聴こえて来るよりふっくらとした膨らみのある響きとなっているところが面白かった。長原氏の演奏は音程も正確でしっかりしたものに感じられた。ドビュッシーのソナタはソナタと銘打っているものの、果たして本当にソナタなのかという疑問はある。ソナタ形式というものに基づいて曲が出来ているのか、専門的な分析は出来ないので何とも言えない。それにこの時代になるとかつてのソナタの概念では捉えられないものになって来ているということもあるかもしれない。

 それにしても次から次へと面白いアイディアが続いて飛び出して来て全く聴くものを飽きさせない曲だ。確かこれを作曲していたころのドビュッシーは相当体調が悪かったはずで、そうでなければもう少し長い曲になったのではないかと思う。どの楽章も4分前後という短さは、小曲集のようなもので、ドビュッシーも思う存分書き尽くしたと言う訳には行かなかった様に思われる。この曲に限って、その第3楽章の始まりから少し経過して速いパッセージでヴァイオリンが上って降りて来るところがあるが、長原氏の演奏ではそこのところの最高音のあたりが今一つ上がり切っていないように感じられたのだが、ここはどうなっているのだろう。

 わが家にある3枚のディスクで調べて見たところ、スーク、五嶋みどり、シルルニクと3者の演奏の同じ部分が、どれも矢張り上がり切っていない感じがする。ここは部分的にヴァイオリンのソロの様なところで一種の聴かせどころと思うがテクニック的に難しいのだろうか。ウーン、それともこちらの耳がおかしいのか。最近難聴気味の診断を受けているので当方もちょっと自信がない。いずれ楽譜を入手して確かめて見たい。

 休憩後はまずベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」。この曲の調号は確かイ長調となっているはずだ。しかし第1楽章の最初の短い序奏の後に登場するあの煽るようなプレストの部分は紛れも無く短調なのだ。この辺はどうなっているのだろうか。とはいえそれは余りどうということではない。何といってもこの曲はソナタそしてひたすら面白い曲だということだ。

 ソナタ形式の曲としてよくできているのかどうかほっきりは分からないけれども、この曲とかチェロ・ソナタの3番とかピアノ・ソナタの21番とかはソナタの曲として私には(本当は多分よくできて居ると思うのだが)とにかく文句なしに面白いと感じられる。曲の表現と展開とが実にスムーズに辿って行けるのである。こういう曲に関しては演奏が云々ということもあるが、それよりもとにかく曲の力と言うものをまざまざと感じてしまうのである。これは実に楽しめた。

 それにしても、これだけの曲を作ってしまったベートーヴェンがその後ずっとヴァイオリン・ソナタの作曲から離れてしまったというのも分かる気がする。最後は「カルメン幻想曲」と言う曲で、要するにヴァイオリンの技巧を華々しく見せようというもの。確かサラサーテにも同名の曲があったはずで、プログラムをよく見て初めてワックスマンと言う名を目にした次第。こちらの方がカルメンの中の有名な旋律がよく出て来て、なかなか楽しく聴く事が出来た。伴奏はヒョロッと背の高い國谷氏で、なかなかいいコンビでの演奏会であった。それにしても矢張り週3日は結構大変であった。