シリンクス音楽フォーラム X
Review Performance
油井 康修

人材無限、ピアニストの世界

[I]

ニコライ・ルガンスキー ピアノリサイタル
2004年5月29日
彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール
モーツァルト:幻想曲 ハ短調 K.475
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ 第6番 イ長調 op.82「戦争ソナタ」
ラフマニノフ:幻想的小品集 op.3
スクリャービン:12の練習曲 op.8より
1.嬰ハ長調 2.嬰ヘ短調 4.ロ長調 5.ホ長調 7.変ロ短調 10.変ニ長調 11.変ロ短調 12.嬰ニ短調

 このさいたま芸術劇場で行われた小山実稚恵さんのラフマニノフ・スクリャービン連続演奏を聴き続けていた時、ラフマニノフのものをとあれこれ求めたディスクの中にルガンスキーというピアニストのが1枚あった。彼のことを知っていて買った訳ではなく、まああてずっぽうに手に入れた訳だが、これがなかなかの演奏だったので注目はしていたのだ。彩の国の「100人のピアニスト」に登場ということで、意外に早く聴けることになった。

 さていよいよ舞台に登場したルガンスキーはというと、細面で背が高くすらっとしているが腕も随分長いのだろうか、このピアニストは。打鍵のために振り上げた腕は丁度ツンツルテンと言った感じで袖から先の手・腕の部分がかなり見えている。しかも全体の動きが大変鷹揚でゆったりしているので、何ともいえない風情だ。しかし聴こえて来る音は、速いパッセージは実に滑らかで糸を引くような具合に美しい。座席がピアノから右寄りなので丁度彼の手元が見えず、どのように手が動いているのか分からないのが残念。

 プログラムは最初のモーツァルトを除けば皆ロシア物だ。モーツァルトはどういう文脈で入ったのかちょっと分からないな。そのモーツァルトだが、これが恐ろしい程に「正統的」とでも言うべき演奏だった。ドイツ人だって今時こんなにがっちりした演奏はしないのではないか。「幻想曲」というタイトルの様に曲想が次々に変化していって、結構ロマンティックに演奏されることも多い曲のはずだが、そんなそぶりはチラッとも見えなかった。

 最初の一音から最後の一音まで一分の揺るぎも無く、ある意味では極めて教科書的というか、お手本としてはこうだ、とでも言う弾き方だ。それでいてずっしり応えるものを感じさせる。この曲の演奏は、時にかなり個性的と言うか、場合によっては恣意的とでもいうべき演奏があるが、彼の場合、私のオリジナルの解釈はこうですよ、という風なところは微塵も無い。なにかこの演奏、彼個人の弾き方というより、彼のバックにあるロシアの音楽教育のあり方のようなものを感じさせる。その何かというものの分厚さというか。

 後のロシア物はさすがにかなり違っていた。こちらは矢張り自分たちの手のうちの物という雰囲気が十分感じられた。聴いていてごく自然に受けとめられるというのか、素直に耳に入って来る演奏だ。といってロシア物に有りがちな、すごく感情移入して弾くという弾き方ではない。例のロシア的なロマンティシズム、暗い衝動やたぎるような感情のうねりといったものはそれほど感じられないし、特に自分の解釈を押し出して弾くというのでも無い。

 この若さゆえか、彼のもともとの資質なのか。それにしてもこれらの曲はどれも技術的に決して楽な曲では無いはずだが、その点も全く不安は無く、曲に集中して聴けるのは有り難い。この同じ会場で聴いた小山実稚恵さんのラフマニノフと比較して見ると、彼女の時はしばしば気になった中音域から高音域にかけての薄さというのか、旋律線の弱さが彼では全く感じられない。まさしくラフマニノフでありスクリャービンである。

 それにしてもこれは若者の演奏というのとはいささか違うような感じだ。若いがゆえの熱気や覇気、しかしまだ熟すには至っていない、というのが若武者の演奏の典型とでも言えると思うが、彼の演奏はもう一旦出来上がってしまっているとでもいうようなものか。彼がその存在を認められたころから、将来ロシアの偉大なピアニストの系譜に連なる大家となることが約束されているかのように言われたそうだが、いかにもと思わせるものがある。しかしこのまま老成して行ってしまうのも何か物足りない気もする。今後どうなるのか。その意味ではアンコールで弾かれた曲の中には、いささか異なるものを感じさせるものがあった。

 アンコールに4曲は大サービスだったが、とりわけドビュッシーとショパン(ワルツ嬰ハ短調Op.64-2)はテンポの変化が激しく、いままでの演奏とかなりの違いを感じさせた。何といっても驚いたのは最初のドビュッシーのアラベスクだ(ホ長調の方)。

 「アラベスク」という雰囲気を出すにはテンポはそれほど極端に動かすべきではないように思うけれど(幾何学模様というくらいだから、幾分機械的な雰囲気はあってもいいものか)、実際この曲を弾いてみると、割にテンポは動かしたくなるような作りになっているようだ。ルガンスキーの演奏は、相当極端で、恐ろしく滑らかではあってもテンポは急速に速まり急速に緩む。これは「出来上がった」とか「熟した」とか「老成した」類いの演奏ではない。むしろ若者的な演奏。

 しかし、この演奏で一番耳を引いたのは、実はテンポではない。その響きなのだ。旋律というには少し歌に乏しい、やはり「アラベスク」風の模様と言うべきか、冒頭の部分(譜例1:省略)はバスがないので薄い響になるはずだが、不思議なことに彼の演奏を聴いていると、アラベスク模様と平行してもう一つの音の流れがあるように聞こえて来るのだ。

 それが今までの他の演奏家のものと大きく違う。アラベスク模様の部分はあまりに滑らかすぎて、アラベスクを越えてしまっている感じ。このテンポと滑らかさ(レガートの作り方)、このような弾き方がもう一つの響きがあるごとき錯覚を生み出しているように感じる。音響のポリフォニーというのは勿論オーバーな表現だが、わたしの受けた感じはそんな言葉の示唆するような風のものだ。

 ただこのテンポを取らなかったら、響きは変わるのだろうか。ショパンのワルツもテンポの緩急の変化が激しかったが、これは別にショパン以外のものではない。テンポと響きはあまり関係なさそうだ。となると、あのドビュッシーが、彼のドビュッシー演奏の(彼独自の確固としたものとしての)表れなのか、たまたまああいう演奏になったのかは、このアンコールだけでは分からない。しかし独特の魅力を感じさせたドビュッシーであったことは確かだ。次の機会を待ちたい。

 それにしても今年のこの「100人のピアニスト」シリーズはこの後も続々続くようで、知らない人が大半だがまたどのような演奏と出会うか楽しみも多いことだ。


[II]


《パキスタンの宗教儀礼》聖者の命日祭「ウルス」− イスラム神秘主義の音楽、カッワーリーの真髄
2004年7月25日
世田谷パブリックシアター

ピール・サーヒブザーダ・グラーム・クトゥブッディーン(祭司)
メヘル・アリー&シェール・アリーのアンサンブル
サギール・ドーリーのアンサンブル(ファイブ・スター・ミュージカル・グループ)

 世界の音楽は実に多種多様だ。我々の日々聴いている音楽はその中のほんの一部に過ぎない。この会に参加している方々だったら、普段何を聴くだろう。まずはクラシック音楽と呼ばれるものを中心に、加えて日本の音楽も聴くのだろう。といっても「日本の伝統音楽」を聴く人はどうだろうか、それほどいるかな。そうではなく、J−ポップとかフォークとか、演歌を聴く人もいるだろうか。

 その他ジャズやロック、ソウルなど欧米系の今の音楽や、この頃入って来ている中国や韓国のものなどか。さらにレコード屋さんのコーナーで「民族音楽」(この頃はワールド・ミュージックといっているようだが)と一括りにされているものはそれ以外のものが地域別ないし国別にまとめられて面倒を見てもらっているという扱いで、実際はそのスペースにはとても収まらない広大な広がりをもつ音楽のはず。いやはや世界の音楽全てを聴き尽くすことはとても出来ない相談だ。

 それにしても、わたしの学生時代(いろいろな音楽に関心が広がりあれこれ漁り始めた頃、1970年前後だ)には民族音楽なんていうジャンルは確立されていなかったのではないかな。いまは亡き小泉文夫さんが登場してようやくこの分野に光が当てられて来たのだと思う。クラシックにしても現代音楽もほんのちょぼちょぼとしか聴けなかった。

 前に書いたと思うが、メシアンの「幼子イエズスに注ぐ20のまなざし」ですら、イボンヌ・ロリオの位相のずれたステレオ録音一つしかなかったのだ。いまタワーレコードなどのような大規模なレコード店に行けば、ありとあらゆる音楽が陳列されている。現在は聴こうと思えば随分広範囲の音楽が聴けるようになったものだ。

 しかしそうなるとまた、なんでもCDにしてしまえとばかりに、相当奇天烈なものも時には登場してくる。井上さんに教わって私も一時アメリカから直輸入でCDを入手していたことがある。別に断った訳ではないのにいつの間にかカタログを送って来なくなったのは本当はちょっと困っているのだが。

 その中にThe Sound of Prehistoric Scandenaviaというのがあった。なに、ついに音楽の探求は先史時代にまで及んだか、と変な所に感慨を抱き、気になってしまってついついこれを注文してしまった。さて3ヵ月くらいしてようやくCDが到着、いささかの期待とかなりの疑心暗鬼でプレーヤーにかけてみた。「.....」。出てくる音は石のぶつかる音や獣の吠え声、よくて笛らしき楽器の音。そう、これは音楽ではない。もう一度タイトルを見直してみるとThe Soundとある、成程Musicとは書いてないではないか。

 しかし、こんなCD売りに出すな、といいたくなる。学術用には価値があるのかもしれないが、音楽を楽しむには余りにも掛け離れている。そういえば上記小泉さんの話にもちょっと似たものがあったなあ。音楽の発生はどのようにしておこったのかと探求を続け、世界の果てまで追いかけて(という感じで)ある農村だったかそこの歌い手を前にしてやっと聴けるぞと録音機を整え、さあ演奏してもらったところが、なんとそれはほとんど音楽の体をなしていないものだったということだ。小泉さんも絶句!

 さて世界の音楽はかように余りに多種多様であるが、そうはいっても世界に存在する全ての音楽を聴くことが音楽を楽しむ必須条件というのではないのだから、それはあまり気にすることはないのではあるが、しかし音楽の楽しみを多彩にするという意味では、聴くジャンルを広げるのは悪いことではない。クラシックだけでもなかなか時間が足りない私としては、今は他分野にまで関心を広げている暇は余りないのではあるが、時に何か目に飛び込んでくると、パッとそれに飛びつくこともある。

 たまたま新聞にちょっと紹介が出ていたのがカッワーリーの演奏会。「ムッ、これは...」。毎年7月時分は三者懇談会があり、担任としては成績を出すなどその準備も含めて大変忙しいのだが(それも今回でついに最後だ!)、にもかかわらずこれまで結構この時期、抜け出して演奏会には行っていたもの。今年はちょっと予定がなかったのだが、少し前に「健康管理助成券」なるものを頂戴していたことが頭に浮かんだ。

 他県の教職員には出ているのかどうか、これは5年ごとだったかに支給されるもので今回はなんと3万円だ。「健康管理」といっても別に「健康食品を買って食べなさい」と限定されるものではなく、旅行したり食事に行ったりして心身のリラックスを、ということに使えるのである。つまり「カッワーリー(=情報)」プラス「健康管理助成券(=交通費)」イコール「音楽会へ行こう」となる訳だ。さっそく電話を入れたのは言うまでもない。

 カッワーリーという音楽があるのは以前何かで知っていた。その代表的演奏家とされるヌスラットのCDもそれを知ったあと間もなく2枚ほど入手して聴いてみた。これは驚きであった。世にこんな音楽があるのか。しかし聴いてみるとあってもおかしくはないか、とも感じられる。こういう音楽のあり方は頭では考えても、実際にやって見るという事は中々あり得ないように思えたのだが。

 それにしても宗教音楽がこんなに興奮を呼ぶものであっていいのかなと感じられるほどに、一種煽情的で面白い。しかし解説を読んでいると、まさにこの興奮というか、解説では忘我の境地といっているが、まさしくそれを呼ぶことがこの音楽の目的なのであり、そのような境地の中で神との合一を感じることをめざしているもののようだ。勉強不足でよくわからないが、イスラムの神秘主義にそのような神との合一という宗教思想があるのだろう。

 今回の演奏会は「聖者の命日祭」と銘打っていて、宗教儀礼でもある。この辺は普通の音楽会とは様子を異にしていた。演奏会の中で2回ほど敬意を表するために我々聴衆も起立を求められた。プログラムはまずクルアーン(コーラン)の朗唱で始まる。ついで祭司に入場を願い、その際にファイブ・スター・ミュージカル・グループの二人が音楽で彼を祭司の座に導く。

 一人はドール(太鼓の名前か)、もう一人がチムターというちょっと珍しい楽器を演奏する。チムターというのは長火箸のようなもので、それでリズムをとるので、見かけより扱いが結構大変な楽器ではないかと思う。祭司が座に着くと、いよいよカッワーリーのメンバーが登場する。舞台は平土間にちょっと高く(30〜40cm位)設置されていて、そこに12人の演奏者があぐらで座って演奏する。

 楽器はハールモーニヤムというのが2台とドラム一人、歌い手は主唱者一人に副唱者二人(一人はハールモーニヤムを兼ねている)。他のメンバーはバックコーラスと手拍子!殆ど手拍子だけの人もいるが、これがまた独特の雰囲気を作っているからそれなりに大切なのだ。ハールモーニヤムというのはミカン箱くらいの箱で鍵盤が付いていてそれを弾く楽器だが、箱の一部が開くようになっていてその開閉で空気が入れられ音が出るようになっているらしい、一種のアコーデオンといっていいだろう。

 太鼓は低音用と高音用と2種類あり、一人がこの2種類をずっと叩いている。ファイブ・スター・ミュージカル・グループの太鼓叩きにしろこのカッワーリーグループの太鼓叩きにしろ片手だけで相当細かいリズムを演奏しており、かなりの名手と言えるのではないか。

 さてこれでカッワーリーの音楽を説明する準備は出来たのだが、肝心の音楽をどう表現しようか。うまく言葉で表してこの音楽を想像してもらうのは相当難しいように思う。聴いてもらうのが一番早いし、聴いたことのある人は説明はいらないだろう。もっともそれではレヴューにならないので、少しは書いて見よう。一応カッワーリー音楽の部分はプログラムでは次のようになっている。

「メヘフィレ・サマー」(神秘主義的音楽会):
 カウル(聖句)マヌ クントー モウラー(約20分)
 少女よ、私のこの糸車は何にも増して大事なもの(約25分)
 あの人が我が家を訪ねてくれたのだから(約20分)
 ラング(喜びの歌)(約5分)
 ダンマール(陶酔舞踊)シャハバーズ・カランダル(約10分)

 太鼓と手拍子がリズムを刻む。曲毎にもちろんリズムは違うが、時にテンポが揚がったり下がったりもする。バックコーラスに乗ってソリストが歌う場合もあれば、ソリストの歌唱を受けてバックコーラスがそれに合わせていくこともある。歌い手も主唱者・副唱者ありで、そこにも色々な掛け合いのパターンがあるのは言うまでもない。とにかくリズムに乗って延々と歌唱は続く。

 次第に気分が高揚して来ると、いよいよカッワーリー独特の妙技が展開される。それは意味のある言葉なのか単に音なのか分からないが、リズムに乗ってその言葉(音)が非常に細かく(高速早口と言えばいいか)割り込んで来るのである。これは一種の効果音とも言えようか。その緊張、しかもそれが入る時にはこれからいくぞ、いくぞとばかり予備的な音がチラッ、チラッと入り、急速に展開へ突入する。そしてその展開が一段落した後、それを受けてバックコーラスと共に歌に戻り、ゆったりした流れに入る時のこの快感。

 これを繰り返し繰り返しやられては、いやがおうでも恍惚状態へもっていかれて仕舞うだろう。技術的には、古いヴァージナル曲によく見られるが、ゆったりしたリズムのところに突如細かい装飾的なフレーズが入って来るパターンは、発想的にちょっと共通性があるか。またスウィングル・シンガーズの人声で楽器を模す技術をさらに圧縮したものとも言えようか。わずかな楽器の音をバックに繰り広げられる人声のこの見事な音楽は、音楽というものの豊かさをまた深く思い知らせてくれるものと言えよう。

 この演奏団体はメヘル・アリーとシェール・アリーの兄弟をリーダーとするグループだが、その力量がどの程度のものなのかは私には評価出来そうも無い。とにかく聴いていてすごかったとしか言えない。新聞の記載では「パキスタンを代表するカッワーリー奏者」とある。それと最初と最後に登場して演奏したファイブ・スター・ミュージック・グループもなかなかの腕達者たちであったように思う。真夏の日の一時、カッワーリーを聴いている間、猛暑を忘れる。