シリンクス音楽フォーラム X
Review Performance
油井 康修

ピアニスト・多彩無限


 昨年の今頃のレヴューでは「人材無限、ピアニストの世界」等と題して書いたはずだが、またまた新しい(といっても別に新人という訳ではないが)ピアニストを発見してしまった。もっとも現実はなかなか厳しくて、当家の経済ではオーケストラやとりわけオペラはそろそろ高嶺の花となりつつあり、どうしても室内楽やピアニストの演奏が多くなるのもやむを得ないのだが。まあ、愚痴は置いておいて、早速新発見のピアニストへ。

[I]

アンジェラ・ヒューイット ピアノ演奏会
2005年4月25日
紀尾井ホール
J. S. バッハ:ゴールドベルク変奏曲

 アンジェラ・ヒューイットという女流ピアニスト、しばらく前まで殆ど知らなかった。カナダ出身というのも、つい最近知ったところだ。ところが、このところ殆ど毎日、彼女のCDに耳を傾けては寝床に入るという次第。それもショパンの「夜想曲集」。

 ショパンの夜想曲というと、最初に関心を持たしてくれたのはリパッティの演奏であり、今も最高の演奏は矢張りリパッティのものだと思っている(曲は変ニ長調op.27-2)。もっとも夜想曲への関心はすぐにはそれほど広がらなかった。大分経ってレコード店で目に付いたのだろう、クラウディオ・アラウのCDを入手した。お目当ての曲は上述の変ニ長調、例のアラウ調で悪くは無いけど…という感じだったが、収穫もあった。20番の嬰ハ短調、なかなかの演奏で、一遍に気に入ってしまった。変ニ長調は難しすぎてちょっとやそっとでは弾けそうにないが、こちらは一応は何とかやれそうだとばかり、一時頑張ってみた。

 その内「レコ芸」で、吉田秀和さんがピリス(最近はピレシュという表記も見る、ポルトガル語の発音が一番正しいのだろうが、ポルトガル語には縁がなかったのでどう発音してよいのか分からない)のものを推薦していたのを見て入手して聴いてみた。彼女はデヴューがモーツァルトだったと思う。デジタル録音の初期のころで、確かPCM録音というのを売りにしていたはずだ(PCMって、本当にデジタルの事でしょうね)。これも吉田さんが褒めていて何枚も購入したんだけれど、私にはいまいちピンと来なかった。

 さて「夜想曲」の方だが、久々の彼女の演奏で改めて期待していたけれども、これも私には矢張りもう一つだった。ヒューイットの「夜想曲」は曲への関心ともう一つ、使用ピアノにもちょっと興味があったのだ。一時話題になった「パリ左岸のピアノ工房」という本に紹介されていたピアノで、ファツィオーリというイタリア製のピアノを使用している。考えて見るとそもそも史上最初のピアノはクリストフォリという確かイタリア人が製作したはずだが、その後イタリアではピアノ創出の国なのに有名なメーカーが出現せず今日まで来てしまった。

 それがつい20数年前新メーカーが突如出現し、現在まだ製作台数は少ないにもかかわらず、世界有数のピアノメーカーとしての地位を確立するに至っているのだ。社長のファツィオーリ氏は、自分の気に入ったピアノが無いから自ら造ったのだという。ピアノのように相当完成度の高いはずの楽器においてもこんなことがあるんだ、しかもイタリアでの出来事というところが何とも胸のすく話だ。

 さてCDを通してではなかなか本当の音は分からないが、高音域はスタインウェイほど強い性格の音ではないが、すっきりした音に聴こえる。特に強い個性を主張するというより全体に割りとバランスがいい音のようだ。このコンサートでも彼女はファツィオーリを弾いていたが、今やお気に入りなのだろうか。

 現在どこの演奏会場に行っても出て来るピアノはスタインウェイ(統計的にも90%以上だそうな、これって矢張り異常だろう)、確かに優れたピアノなのだろうから仕方ないのだろうが、しかし会場の大きさによってはもっと小ぶりのピアノでもいいだろうし、古典からロマン派くらいならべーゼンドルファーの方が好いとか、室内楽や声楽だったらスタインウェイ以外のピアノの方が相性の好いものがあるはず。各ホールも自分のところに備える楽器についてもっと研究してほしいものだ。

 ヒューイット女史は従来はバッハを主に演奏・録音活動をして来ていたようだ。ここへ来て少しレパートリーを広げつつあるのか。このショパン以外に、ラヴェルのピアノ曲全集も出ているらしい。バッハを弾いて来た人らしく、ショパンといえどもそれほど強く情に訴えるような演奏ではなく、ほどよく抑制の利いた中に叙情味を感じさせる演奏で、繰り返し楽しんでいる。

 ヒューイットの「ゴールドベルク」というと、昨年来日の折り演奏曲目に取り上げられて大変素晴らしく大いに話題になったらしい。そこで今年も是非ということで今回のプログラムの一つになったということだ。この曲は何といっても日本のレコード市場では(というより世界の市場ではというべきだろう)グレン・グールドのものがダントツで知られており、そのような中で評判をとるのはこれはなかなか大変なことであろうと思うと、その演奏には期待をしたくなる。

 もっともついしばらく前マレイ・ペライアの「ゴールドベルク」もレコード市場で大分話題になった。時間的にはこちらの方がグールド以来ということになろうか。当方も早速これを入手して聴いてみたが、ウーン、何かピンと来なかったなあ。ところでヒューイット女史はカナダ出身、それにバッハばかり弾いて来たとなるとどうしても同じカナダ出身ということでグールドと比較されてしまうようだ。私自身「ゴールドベルク」といえばグールドの演奏が頭の中にしっかり収まっていて、曲の流れを追うのはこのグールドの演奏に従ってということになってしまっている。

 その点でいくとヒューイットのバッハはグールドとは別のものといっていいのではないか。グールドの様に曲の特色を際立たせる弾き方ではなく、もっとデリケートな所で勝負しているかのように見える。グールドでは各変奏一つ一つが実に印象的で、これ自体が聴くものを大いに驚かした訳だが、その点ではヒューイットの演奏は個々の曲はそれほど際立ったものとはされていない。

 私の大好きな第18変奏や第19変奏などサラッと過ぎて行ってしまって、何とも拍子抜けする位。しかし逆に各変奏がそれほど目立たないほどに全曲のつながりのようなものはグールドの演奏より緊密なような気がする。グールドの演奏は確かに面白いのだが、その多彩さに聴いているうちにちょっと疲れてしまう所がある。

 グールド調といえば、むしろアルゲリッチのバッハの方がずっとグールド的だ(バッハのイギリス組曲第2番など)。そのタッチは一瞬グールドかと思えてしまうほどだった。ヒューイットの冒頭のアリアはニュアンスに富んでいて実に微妙な表現で、ついつい息を詰めて聴き入ってしまう演奏だった。ピアノの柔らかい表現力、比較的狭い範囲でのデュナミークの変化を巧みに使ったその意味でのピアノ的な表現か。

 このまま行ったのでは曲半ばに至らずに神経がもたないなと思っていたら、変奏に入ってぐっとペースが変わって聴きやすくなった。聴き終わったあとの充実感はすばらしい、膨大なしかもたった一曲だが少しも長くは無く、流れも実によかった。アンコールもコラールか何かの編曲で、これも好い曲だったな。本題の曲とのバランスをよく考えている選曲だ。バッハの新しい演奏家登場か、といっても特に新人という訳ではないが。

 ところで宣伝用のヒューイット女史の肖像写真は手甲(ちょっと表現が古いな)の様なものを嵌めた姿がいくぶん高踏的な感じを与えるし、大写しの顔全体の写真は単なる美人ではなく何か気品のようなものを感じさせるのだが、演奏会での雰囲気は、むしろこれとはかなり違う。少しノッポ風で特にひょっこらひょっこらした歩き方なんかが、私には親しみが持ててよかったのだが、これは案外楽しい奥様といったところかな、他の方々はどうとっただろう。

 演奏会での演奏家の姿・雰囲気など、写真や記事では伺い知れないものが見られることがあって、これも楽しみの一つだな。そういえば、しばらく前の傑作はクリスティアン・ツィンマーマン、演奏終了後一向拍手が止まないので、彼はついにピアノに向かってお辞儀をして聴衆を笑わせていた。このユーモアが好い。

[II]

オリ・ムストネン ピアノリサイクル
2005年6月1日
浜離宮朝日ホール

ヤン・シベリウス:10の小品op.58
ドメニコ・スカルラッティ:ソナタ集 ロ短調 K.87、ト長調 K.146、変イ長調 K.127、イ短調 K.175、ホ長調 K.380
ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第1番ニ短調 op.28

 オリ・ムストネンという名前は、どうも北欧系のものかなあと思って見てみると、事実出身はフィンランド、そしてこの日の演奏曲目にもシベリウスが入っていた。とはいえ、もともと北欧系の特に有名なピアニストというのは当方自身余りよくは知らない。そもそも彼に関心を持ったのは、青柳いづみこ女史の本を読んでだ。

 青柳女史はいまやドビュッシーの研究家兼演奏家としてかなり知られて来ているように思うが、この所頻繁に著書を発表していて、著述家としてもなかなかである。それになかなかの企画力もある人のようだ。例えば「水の音楽」という著書があって、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」をはじめ水にまつわる音楽をあれこれ考察し、かつ取り上げた話に対応する曲をまとめたCDも出しているというところが面白い。

 音楽家で女流の著述家というと、中村紘子さんがつとに著名だが、青柳女史の著述家としての進出振りも、なかなか中村さんに勝るともおらないものがある。既に冊数では中村さんを抜いたかな。まあ、それはたいしたことではない。中村さんが次々に繰り出すユーモアの数々は本当に楽しいし、演奏者への独特の配慮の行き届いた記述振りも気が利いている。

 一方青柳女史の演奏評は実に演奏評価のランク分けというか、評価基準というか、観察眼が的確で品定めが見事の様に見える(私の能力ではその評価の全ては十分は分からないが)。彼女が評じている演奏曲のCDが手元にあればついつい取り出して彼女の判断と自分の感想を照らし合わせて見たくなってしまう。ムストネンについても、彼女の評論の中で、作曲をするムストネンの演奏は、純粋ピアニスト(つまりピアノを弾くだけが仕事の人)の演奏とは違う、という面白いことを言っている(「双子座ピアニストは二重人格?」の中の、”作曲家系ピアニストの演奏は、なぜ面白いのか?”の章)。

 ピアニストだって演奏曲の楽曲分析はするだろうし、それを踏まえた演奏を考えるだろうが、しかしやはりピアニストはピアニスト、ピアノの演奏効果もどうしてもかなりのウエイトで考えてしまう。ムストネンはピアニストではあるが同時に作曲家であり、彼の演奏にはその作曲家としての視点が大きく作用していると言うのである。こういった類いの評価は他の評論では余りお目にかからないように思う。青柳女史の評論の面白さの所以だ。しかし、話としては面白いが、実際の演奏はさていかに、ということで、これは是非ムストネンを聴いてみねばなるまいと思った次第である。

 前回のレヴューでも書いたけれど、わが家は朝日新聞をとっているので浜離宮朝日ホールの宣伝記事は殆ど毎日見かける。ムストネンの記事も演奏会ぎりぎりまでよく見かけたので、矢張り知名度はちょっと落ちるのだろう。ただ当夜はテレビ録画も入っており、さる所からは注目されていることは確かだ(ちなみに、すぐとなりにビデオカメラが居るのは、演奏会では矢張り煩わしいものだ、この録画は最初は六月中に放映になると聞いたが、実際には七月頃に教育テレビで行われた、という訳でこのレヴューを書くに当たってビデオも参考にしたので、書き方に現在形が混入するという変な文体になってしまった)。

 最初の曲は自国の作曲家シベリウスのものを取り上げていた。ところが実のところこれが余り印象に残っていない。聴く方としては当然、まずシベリウスはいわばムストネンの挨拶代わり、北欧の叙情的なものを期待するというところだろうが、そういう感じの演奏ではなかった。ウーン、何と言いましょうか。ちょうどこの演奏会を批評した記事が後日朝日新聞に掲載された(6月10日)。

 筆者の岡田暁生民によると、「ウェーベルンがグリーグを編曲した様だ」とか「1曲目はシェーンベルクの無調作品の様だ」との評価だが、どうも私には何とも言えないなあ。それにこの人いささか「ソフィスティケイティッド」な書き振り。でもウェーベルンは本当にグリーグを編曲していたっけかなあ。とにかくこの演奏にはちょっと肩透かしを食った気がした。

 しかし、何と言っても面白かったのは次のスカルラッティだ。全部で5曲演奏したが、例えばト長調(K.146)、私はこの曲をホロヴィッツの演奏で知ったのだが(彼の全曲スカルラッティのレコードは、発売当初よりよく知られているし、今日もCDとなって出ているはず)、軽妙で変化に富んでいて私の好きな曲、シリンクスの会で弾いたこともある。この曲の演奏の仕方としては軽やかなタッチと、起伏はあるにしても流れのよさを重視して弾こうと考えるのが普通のように思うが、ムストネンは大分違う。

 短いながらもこの曲はいくつかの曲想から組み立てられている。そのそれぞれを実に特色の出るように弾き分けているのが目立つ。冒頭の部分など(譜例1:省略)ホロヴィッツはよどみなくすっと入っていって、どちらかと言えばテクニックの鮮やかさも感じさせながら速めのテンポをとって、すらりと刀を抜き放つように弾きつつ15小節まで一気に行ってしまう。

 一方ムストネンはややゆったりしたテンポで入り冒頭の主題を印象付け、しかも1小節目と2小節目はまず一セットとしてまとめて扱うのが普通と思うが、そこも弾き分けている。そしてこの後同じ楽想のところは、その度にテンポなど変化を付けて弾く。5小節目や9小節目の部分はガラッと変えてスラーで滑らかに優しく。曲は各部分の曲想の特色を十分印象付けつつ全体に膨らみがあって実に鮮やかに仕上げられている。スケールも大きくなる。この曲に限らず、スカルラッティに関してはレガートの所以外はマルカート気味・スタカート気味に、割に強いタッチで弾いており、スカルラッティのすっきりした雰囲気もよく出ているようだ。

 もう一曲注目すべきはK.127、イ長調のソナタ。この曲は他の演奏家のものは聴いたことが無かったが、実に面白い曲だということが分かった。曲頭トニカの分散和音で下降音程があり、四拍目の最後の一音(四分音符)で跳ね上がる、このパターンを3回繰り返し(譜例2:省略)、なかなかのスケール感で曲が始まる。左手の単純な四分音符の伴奏が曲の推進力となり、例のスカルラッティ調の同じパッセージの固執的繰り返しにも欠けておらず、彼の曲の特色はよく出ている。

 さらに譜例3(省略)のパターンは(41、42小節と45、46小節)同じ音形が次は変奏の形で出て来るもので、スカルラッティではよくありそうで、実際には見たことの無い処理のし方の気がする。この辺りムストネンは歓喜にあふれて弾いており、聴いている方も実に楽しい。新しい一曲を発見した気持ちだ。

 休憩後の一曲はラフマニノフのピアノ・ソナタ第1番、この曲を2回も演奏会で聴くとは思わなかった。それにしてもこれも実に特色のある演奏だった。最初に聴いたのは小山実稚恵さんのスクリャービン・ラフマニノフ連続演奏会の時。この時もそうだったし、CDで聴いても(ゴードン・ファーガス=トンプソン)、例えて言えばとにかくラフマニノフは音が洪水のように多くて、さて曲の本体は?という感じなのである。

 上述の青柳さんが、この辺のところをうまく表現しているのでちょっと引用すると、「ラフマニノフの作品を「ピアノ科的な」ピアニストが弾くと、やたらに音が多い印象がある。ピアノ科の常として、全ての音を満遍なく弾きつくそうとするから、主要モティーフよりも埋め草の分散和音の方が全面に聞こえてしまったりする。メロディのツボとそうでない部分の区別が不鮮明だから、歌い方もだらだらしてしまりがない。いきおい、ヴィルトゥオーゾ的な面ばかりが強調され、ラフマニノフは、ただ表面的な華やかさだけを狙ったセンチメンタルな作曲家だと誤解されるもとにもなる。」

 いささか手厳しい部分も有るが、確かにラフマニノフがこんなふうに聴こえることはある訳だ。その点ムストネンの演奏は全く異なった印象を与えてくれた。まず洪水の感じが相当緩和されていた。そして、曲はしっかり一つの流れを持って聴こえて来た。勿論ラフマニノフはロマン派の作曲家だから旋律が無い訳がない。しかし聴いていると、これまでは部分部分の効果で遮られて曲の流れが感じられないというふうにしか聴こえていなかった気がする。これは驚きではあった。

 ただし、これがラフマニノフかと言われると、それはそれでちょっと違うかなというふうに感じられる。洪水が溢れ過ぎても困るが、ちょっと痩せ気味のラフマニノフもねえ。この辺の所を先程の岡田氏は「ラフマニノフ独特の、あの胸ときめくメロドラマはここにはない、これでもかこれでもかと繰り広げられる音の洪水にもかかわらず、不思議に静止したままの時間」…。

 要は岡田氏はムストネンはデジタル世代のヴィルトゥオーゾという新たなレッテルを用意したいかのようだ。これは私にはよく分からないが、とにかく今までいろいろ聴いて来たラフマニノフとは大分違うことは間違いない。その点ではムストネンの演奏は私には十分面白かったと言える。さらにいろいろ聴いて見たいピアニストである。