『談藝録』

二七の後半(『銭鍾書集』P276/中華書局版P97)


*下線部は訳語を再考。太字部分は要調査。

漁洋にはもとより(また)龍であって頭は見えるも尾は見えぬというところがあるが、大半は王文禄『龍興慈記』(A)に載せる話---明の太祖が牛を殺して尾を地面に挿し、土中に陥没したのだと主人を欺いたが、実は空言(そらごと)で実物はなかった---のようなものである。妙悟などと言えるだろうか(1)。かの妙手空空児なみだ(2)。

施愚山(施閏章)『蠖齋詩話』(B) は自らの詩を「人間の築室、一磚一木、累積して成る」に比し、漁洋の詩を「華嚴の樓閣、指を彈けば即ち現わる」として、(禅の)頓・漸の違いがあるという。『漁洋詩話』(C)にもまたその説を載せる。

つまり愚山もまた妙悟の説にだまされているのだ。漁洋の樓閣とは見る者のおらぬ間に暗々裏に築きあげられ、またその土木造営の痕跡を覆い隠して、煙雲につつみ隠された外観をもち、まったく化城が一瞬にして立ち現れたかのように見えるのだ(3)。その迂遠さ(手の込んだやり口)は実に愚山に倍するものがある。

繆筱山(繆[セン:上艸下全]孫)『煙畫東堂小品』於一(D)「王貽上與林吉人手札」の陶[ジュ:樹左換水]の跋にいう。「『蠡勺亭』詩の“沐日浴月”四字、初め“虎豹[ホツ:悖左換馬]馬”に改めんと欲し、既にして“[ホツ:悖左換馬]馬”を改めて“水[ジ:上凹下儿]に爲らんと欲す。此等の字も亦た撚髭求安の列に在り、豈に所謂“華嚴樓閣”なる者も、固より亦た寸積尺累に由りて始めて成らんや」。まさに私の言うところと照応している。

(愛新覺羅昭衽)『嘯亭雜録』巻八(E)には漁洋の作詩の構想がスムーズでなく、清の聖祖が親しく(詩題を)出題した際、ほとんど白紙(4)のままであったと記されている。これは小さなエピソードであるけれども、意味するところは大きい。彼の詞藻が新奇・優俊なものを取り入れるのに、故事成句に頼らなければ筆を下すことすらできないのを見れば、溢れる勢いのままに思うさま、筆を揮って書き、雲煙を生じさせるのとは、もとより別物なのだ(5)。ところが読む者はただ彼の清雅を愛するのみで、そのごてごてと並べたてたことばに気づかない、これが漁洋の本領なのだ。

要約すると漁洋の文芸論の四文字「典・遠・諧・則」は、作った詩にみなほぼ達成されていて、すでに容易なことでない。明清の王朝交替時、遺老たちが“放恣”雑駁な体(スタイル)をに用いたのは、沈廷芳(椒園)『隱拙軒文鈔』巻四「方望溪先生傳」(F)に付した「自記」にいうとおりで、詩も文もみなそうであった。「貪多」(G)の竹[タ:左土右宅](朱彝尊)も、貧者に与える食べものとなり(6)、「愛好」の漁洋も、まさに乱を救う薬となる。功績は大きかった。

愚山の説(→B)は、おそらく屠長卿(屠隆)に基く。『鴻苞集』巻十七(H)「論詩文」にいう、「杜甫の才は大にして實なり、李白の才は高くして虚なり。杜は是れ建章宮殿千門萬戸を造るの手、李は是れ清微天上五城十二樓を造るの手なり。杜は人工を極め、李は純(すべ)て是れ氣化なり」。

【補訂】

田山薑(田[ブン:上雨下文])の孫 同之の『西圃詩説』(I)にいう、「詩中 篇に累句無く、句に累字無きは、即ち古人も亦た覯(あ)うこと多からず。唯だ阮亭先生 此に刻苦し、詩を爲る毎に閉門障窗して、備(つぶさ)に修飾を極め、一隙の指す可き無くして、然る後に出でて以て人に示す。宜なり 詩家 其の語天下に妙たりと謂うも」。ほとんど李賓之(李東陽)『懐麓堂詩話』(J)に載せる諸翰林が「齋居閉戸して詩を作り、之を窺えば面目皆な青色を作すを見る」とおなじである。『嘯亭雜録』(→E)と互いに証左となる。

曹子建「公讌」詩の「朱華 緑池を冒す」について、王船山(王夫之)『古詩評選』(K)の批にいう、「雕金堆碧して、佛舎荘嚴なるを作るが如き爾。天上五雲の宮殿、自ら彼の位無し」。(これも)またすなわち屠長卿(→H)・施愚山(→B)と同意である。英国十八世紀のエドワード・ヤングの詩を論じた名著がドイツで盛行し、(詩に関する)見方を大きく拡張したが、こういっている。「天才と聡慧が違っているのは、神通力をもつ幻術師が高い技量をもつ建築士とまったく異なるようなものである。一方は造営工事の見えぬまま、樓臺が忽然と現われ、一方は板築の通常の道具を用いて、あれこれ苦心するのだ(Agenius differs from a good understanding, as a magician from an architect; that raises his structure by means invisible, this by the skilful use of common tools.)」。譬えの取り方が同じである。