読書日記
このページもだんだん重くなってきたので分割することにしました。1995年分はここです(「もくじ」のみこのページにも残してありますが、直接リンクはしていません)。また、改装にあたって新しいデータを上につけ加えていく書式に改めました。
back to home
ご意見・ご感想などメールはこちら/nohara@mail.yo.rim.or.jp
○読んでよかった △読まなくてもよかった ×読まなければよかった
Apr.& May 96
Mar.96
Feb.96
Jan.96
1995年分/もくじ
Sep.95
「地球(ガイア)のささやき」
「道教と気功」
「人間臨終図鑑(上・下)」
Oct.95
「リバー・ソロー」
「豊穰の地(上・下)」
「フリー」
「狂気の果て」
「漱石全集(第18巻)漢詩文」
「死者の長い列」
「物的証拠」
「日本近代文学の起源」
「シークレット・ヒストリー(上・下)」
「一休道歌(上・下)」
「ブッダ(1)-(12)」
「快楽の動詞」
「コンピュータから出た死体」
Nov.95
「郵政捜査官
「スローカーブを、もう一球」
「巨人 出口王仁三郎」
「鮮血の刻印」
「プラトニック・アニマル」
「黒い未亡人(上・下)」
「家族の深淵」
「癒しの科学 瞑想法」
「子どもの悲しみの世界」
「暗い森」
「画商の罠」
Dec.95
「最後の訴え」
「ルドルフ・シュタイナー」
「西行」
「ダーウィン以来」
「がんは切ればなおるのか」
「殺人ケースブック」
「素人バカ自慢」
「日本エロ写真史」
「現代殺人の解剖」
○「病院で死ぬということ」山崎章郎 文春文庫
大変話題になったベストセラーだが、「文庫に入るまで」と思って読んでいなかった。待望の文庫化。
終末医療、特に末期ガンの患者の最期について、悲惨な現状とありうべきビジョンとを提出している。
この読書日記でもしばしば取り上げているように、すでに近藤誠の本を何冊か読んでいるので、真新しい視点はなかった。しかし、実情のひどさを考えるならば、もっと論じられてよい問題である。
○「片目の説教師」テッド=サクリー=ジュニア 高橋豊訳 ハヤカワミステリアスプレス
カバーの惹句が大したことなかったので、ずっと手にとらなかった。損をした。この惹句を書いている人、センスがない。
神学校出身。ベトナム戦争。ギャンブラー。主人公の軌跡がなかなか面白く、ひとりの人間の物語として読んでもけっこう楽しめる。
武術もなかなか達者だが、妙に東洋体育風。格闘場面(少しある)だけでなく、他人の心理状態に分け入っていく時にも、それが顕著である。心理状態を「環」と呼んでいるのだが(どうやら日本語らしい)、何を言っているのか日本人である僕にさっぱりわからないもの御愛敬。何なんだろう……(「気」というのも出てくるから、気のことではない)。
ただ、エンターテインメントにはハッピーエンドを、と思っている僕には、ラストに残念なことがひとつ待ち受けていた。
【本書より】
政府がタバコの箱の側面に警告を印刷しはじめてから、タバコを吸うべきか、吸うべきでないかのかが、全国のおせっかいな人々の最新の運動の主題になった。わたしは二度目のベトナム遠征以来タバコをやめていて、突然独善的な運動となって現われたものの中では天使の側に立っているので、それをとくに押しつけがましいと思わなかった。
……わたしはわたしのためにほかの人々の生活に大きな変化を与えても、たとえそれが中くらいの大きさであっても、平気でおれるほど勇敢ではない。
△「密造人の娘」マーガレット=マロン 高瀬素子訳
アメリカ探偵作家クラブ賞・アンソニー賞・アガサ賞・マカヴィティ賞を獲得したという「超話題作」。どんな作品なんだろうと期待して読んだが、どうも普通のミステリである。○でもいいんだけど、あえて△にした。
ただ、ひとつ思うのは、外国の作品というのは、元来が本国人のようには理解できないものなのかもしれないということ。海外ミステリを読むとき、僕は自然や風俗などの描写にはほとんど注意を向けていない。熱心に読んでいるのは会話の部分である。
例えば「外国で評価の高い日本の芸術家」の作品を見て、何といったらいいか、ちっとも良く思えないことがある。「日本でなら通用しないだろうな」というあの感覚である。ああいった感覚というのは、おそらく小説にもついてまわるもので、それでこの作品の良さがわからなかったのかもしれない。
全然関係ないけど、だから、外国で「比較文化」か何かの論文(それも一方は日本)で博士号をとってきたなんて聞いても、眉に唾したくなるような気分が先ずするのである。
○「脅迫者の手」第五回 広瀬隆 「宝石」1996年6月号所収
アメリカ大リーグ・狂牛病・五輪放送権。土建屋国家ニッポンに住む僕たちの考えるべき問題が次から次に出てくる。
【本書より】
人間が自然をなめてかかっていると、いつか人類に何かが起こる。だからもう、人間は、これまで何万年もかけてここまで生き延びてきた歴史の作法を、あまり変えてはいけない。それがわれわれの学びつつあることだ。
……国が面倒を見てくれない人間が、どこにでもいる。貧しいなんてものじゃない。彼らは、土地も持っていない。ゲイリーには、自分の土地を持たない人間の気持は分からないだろうが、僕にはよく分かるんだ。家がないということがどれほど大変か……
○「笑いと治癒力」ノーマン=カズンズ 松田セン(金へんに先)訳 岩波同時代ライブラリー
難治の病気「膠原病」を「笑いとばして」克服したジャーナリストの闘病記。
面白い。大地震以後、就寝前に不安を感じたり、悪夢を見たり、どうも心身ともに弱まった状態だったので、大変参考になった。さっそく「笑い」の素となる材料を探し歩いた。
そうやって探し当てたのが、次に挙げた中崎タツヤの漫画である。
○中崎タツヤの漫画
どういったらいいのか。情けなくも理屈っぽいスケベ男がよく出てくる。つまり、それは「私」なのである。「分かる、分かる」とうなずきつつ大笑いし、そして安眠に入る。
読んだ作品は「じみへん」「身から出た鯖」「男の生活」「問題サラリーMAN」。どれもシリーズもののようで、欠番もあるのが残念。これからも古本屋などで見つけたら全部読むつもり。
○「被災の思想 難死の思想」小田実 朝日新聞社
あの大地震を西宮で経験し、その後の被災生活と同時進行で書きすすめられた本。地震をきっかけに、後半では戦後日本もまた論じられている。
【本書より】
……さらに興味ぶかい実例をあげておけば、大阪と神戸をつなぐ阪神間の交通機関のうち、もっとも新しくて最新技術を駆使したはずの新幹線の高架は落下し、高速道路は各地で崩壊、落下もすれば派手にひっくり返り、……(中略)……強かったのは建設がもっとも古かったJR線だった。この皮肉な事実はここで特記しておきたい。
もうひとつ、書いておきたいのは、私が考える「思想」とは何か、という問題だ。……「思想」はそれをもつ人の人間の生き方にじかにかかわって来る。そこで、本質的に人間の「知」の遊びである(「遊び」を馬鹿にして言うのではない。また、私は「遊び」を馬鹿にしていない。人間の大事な活動のひとつだと考えている)「哲学」と「思想」は根本的にちがっている。それゆえにこそ、ハイデッガーはすぐれた哲学者でもあれば、同時にナチズムの思想者であることができた。べつに彼のありようは矛盾していない。
私が、今憂えていることのひとつは、乱開発に大きく日本が手を貸している中国での今後だ。トウ小平氏死後の中国の行くえは私がもっとも気にかかることだ。私の予測は、民族紛争が富裕・貧困の巨大な格差の形成とあいまってついには何千年の歴史をもつ「漢帝国」の崩壊をひき起こすにちがいないというものだが、そのときこの「漢帝国」に巨大な権益をもつ日本はどうするか。
○「脅迫者の手」第四回 広瀬隆 「宝石」1996年5月号所収
ホワイトハウスと製薬業界の暗闘。
【本書より】
この東京の街を歩いていると、無性に腹が立ってくる。毎日、俺は会社へ行く。お前もテレビ局へ行く。俺たちはもういい歳だ。ここで騒いでいる金融事件と、去年までの金融事件と、十年前の事件と、全部が見えてもいい歳だ。(中略)……大丈夫だと言われていたものが、日本で全部崩れ出して、楽観論にはどれも信用が置けなくなった。ところが、家に帰ってテレビをつけると、今日一日をふり返るドラマが、毎日同じように切れ目なく続いている。あれを見てると、本当に、俺たちのような街の人間の働いている姿が映っているとは見えない。
△「凍える遊び」ロシェル=メジャー=クリッヒ 高橋裕子訳 創元推理文庫
またもやチャイルドアビューズ(幼児虐待)が背景にあるミステリ。これは1つの流行なのか、それともアメリカ社会はここまで病んでいるのか。
つまらないことはない。読んで損はしないと思う。
しかし、本を読む時は(中断するのがいやなので)感心したり疑問を感じたりしたページに折り目を入れているのだが、この本には1つも入っていない。書くことがない……。
まあ、どうでもいいけど、仲間の刑事にジョン=タカムラというおべっかつかいがいて、名前からするとたぶん日系なんだろうな。人物の配し方にracismを感じるのは東夷の偏見か。
○「届けられた6枚の写真」デイヴィッド=L=リンジー 山本光伸訳 新潮文庫
○「脅迫者の手」第三回 広瀬隆 「宝石」1996年4月号所収
「アトランタ五輪と謎の細菌部隊」。淡々と話は続く。勉強になることが多い。
△「七人のおば」パット=マガー 木村美根子訳 創元推理文庫
ミステリの古典的名作(原書1947年刊。「怖るべき娘達」という題名で知られていた)。
さすがにこの時代のものは、いま読むと古く感じる。かつて海外ミステリを読み始めたとき、「深夜の散歩」を手引きにして本をあさり、40年代・50年代の作品をたくさん読んだ。確かに名作ぞろいであったが、やはりどれも古く感じた(唯一新鮮であったのはクレイグ=ライス。これは今でも好き)。
本書に戻ると、登場する七人のおばのふるまい(自己主張の強さ)に圧倒される。欧米の小説や映画ではちょくちょくこういうことがあって、うまくその世界に入れない。有名どころでは映画「風とともに去りぬ」がそうだった。なんで揃いも揃ってあんなに自分勝手なのかと茫然自失、名前は忘れたが天使的女性がひとりいて、やはり集団が全体としてわがままであればああいうガス抜きを果たしてくれる人物が必要なのだろうなあと思った。
それから、謎解きの部分が一気すぎてまいった。せっかくがまんして話につきあったのに、楽しみがすぐに終わってしまった感がある。
○「脅迫者の手」第二回 広瀬隆 「宝石」1996年3月号所収
副題は日本経済の暗殺。目下の日本人の最大関心事「住専問題」までカバーした内容である。誰がどこに対して何を仕掛けようとしているのか、不正がらみの問題については実名を挙げつつ情報を公開して考えていかないと堂々めぐりに陥る。その点で広瀬隆の書くものは常にきわめて明快である。非常に面白く読めた。
しかし、この作品はいつまで連載されるのだろうか。別に他の記事は読みたいと思わないので、ちょっともったいない。
【本書より】
これは、もはや、日本が経済国家ではないことを証していた。しかも翌十七日の記者会見で、ソロスは日本人に、的確な言葉で警告を発した。
「私の結論をそのまま受け入れないよう警告する。私は、いかなる責任も負わない。日本人のメンタリティーは、製造業には向いているが、金融市場には向いていない。日本人が働いて蓄積した膨大な金を、日本の金融機関がすっかり浪費してしまうのだ」と。
……ソロスは恫喝に近い言葉で、自分を招いた大蔵官僚の無能さをあざ笑い、日本人が将来受ける損失について、予言まで残したのだ。
△「残像に口紅を」筒井康隆 中公文庫
私は筒井康隆の良い読者ではない。熱狂的に読んだのはもう何年も前のことで、「走る取り的」「怪奇たたみ男」などを最も愛した。「虚人たち」(?)あたりからどっちでもよくなり、「虚構船団」は読んでおらず、「文学部唯野教授」をこのあいだ何年ぶりかでちらりと読んだぐらいだ(記憶に頼って書いているので書名が不正確かもしれない)。
ただし、嫌いになったということではない。小説以外のこの人の書くもの(主にエッセイの類)は今でも読めば面白い。「噂の真相」に連載されていたエッセイも愛読していた。どういうわけか小説だけが、読者として著者の疾走に追いつけなくなってしまった。小説に「ストーリー」を求める読者だからだろうか。
本書は以前から読みたいと思っていたので、店頭で文庫になっているのに気づいて思わず手に取った。うまいもんだなあ、と感心してしまった。
章というか節というか、ひとつ進むごとに五十音(+α)から音がひとつずつ消え、どんどん使える言葉が減っていくという趣向は周知のものだろう。そして、音が消えることによって、その音を使う「モノ」までも消えていくというのも面白い。名前と実体とか命名することの意味とか、専門的にどういうのか知らないが、ものの「存在」ということを考え直すことをも読者は強いられる。
理屈をこねれば、ものの消え方が不徹底であったりいささか恣意的になったりする難点を挙げることはできよう。しかし、物語として成立させるためには、この程度の恣意はやむを得ぬことであったに違いない。いったん著者のペースに乗ってしまえばあまり気にならなかったし、途中で自分の「存在」感とか「実体」感とかが揺り動かされるような変な気分になった。
第三部になるとあまりに使える音が少なくなって、曲芸を見るような気分であった。しかし、心理的効果を最も強く受けるのが真ん中あたりだという発見もできた(心というのは崩壊しかけの時が最も危機的状況に瀕しているのだろう)。総じてこの「実験」にはけっこう楽しくつきあうことができたと言える。ではどうして△をつけたのかというと、これはもう好みとしか言いようがない。
○「古書法楽」出久根達郎 中公文庫
久しぶりにこの著者の本を読んだ。大人物とまでは言えないが味わいのある人間のエピソードというのが好きな僕には、どれを読んでも面白く感じられた。古書店主という職業ゆえのネタ(いまでは百円均一本となっている本の著者やその内容など)はたいてい僕の知らないもので、心地よく内容に身を任せていられるのだ。
もっとも、この筆者が江戸やら東京やらの粋を云々しはじめると、都生まれの僕としては「何を野暮な……」という気分にはなる。
また、どういうわけか、面白がって読んでいるのに、読み終るとほとんど内容を忘れてしまっている。もっともこれが、百円均一本的世界なのかもしれない。
△「日本の奇僧快僧」今井雅晴 講談社現代新書
いくら興味があるからといって、ちょっと手軽なものを選びすぎた。この本に限らず、講談社現代新書とはなぜかウマが合わない(この叢書は何のためにあるのだろうかと思うことがちょくちょくある)。例外的に面白かったのは「問題としての人生」と「酒池肉林」ぐらいだったと思う。
本書にもどると、出家をする際に妻子を捨ててしまう人のけっこう多いのに驚いた。どういったらいいか、求道的性格を自覚し、出家の予感があるのなら、妻子を持たなきゃいいのにと単純な私は考えてしまう(これが無知からくる無邪気さであることはある程度わかっているつもりだが……)。そういえば中国の近代作家にも、親の決めた「正妻」をもったうえで「同志的パートナー」を見つける人が多く、最初のうちは呆然とさせられた。やっぱりこういうのは時代ということなんだろうか。
○「がんほどつき合いやすい病気はない」近藤誠 講談社+α文庫
「がんは切ればなおるのか」が良かったので、読むことにした。がんがいかに難しい病気であるのか、よくわかった。日本の医療の抱える問題やジレンマも知ることができた。おそらく著者は医療の世界では褒貶あい半ばしている人なのだろうが、そんなことは取るに足りぬ。著者は現状を「変更不可能などうしようもないもの」とは考えていないのであり、本来の意味での「ラディカル」な態度を保持している。本書は堂々とした正論に貫かれているのだ。
また、第5章「病名を知った患者さんのその後」第6章「末期をどう生きる」で述べられていることには、どんなふうに生きるのが幸せか、また人間関係はどうあるべきかなどについて学ぶところが多かった。僕は教師で、教師/生徒関係は医者/患者関係と完全に重なるわけではないけれども、自分の仕事のことに思いが及んでしかたがなかった。
ところで、本書を読んでいて、やはり喫煙のことが気にかかった。僕はヘビースモーカーで(1日40本)、それも確固とした信念のもとに喫っているのではなく、何となく不安を感じながら、それでも「まだ大丈夫だろう」とタカをくくって喫い続けている柔弱なスモーカーである。今年の目標に断煙を挙げておこうかな。
○「アダルトな人びと」足立倫行 講談社文庫
AV界についてのノンフィクション。大きな柱はダイヤモンド映像の村西とおる、アテナ映像の代々木忠、V & Rプラニングの安達かおる(およびバクシーシ山下)についてのルポだと思う。それを男優・女優などの業界人との対話が側面から支えている。僕は村西作品しか見たことがないが、「噂の真相」の「ワイセツ最前線+アダルトビデオ構造主義」を愛読しているので知識だけは持っている。三者三様の性に対する取り組み方が垣間見られて面白い。
ただし、いくら「フツーの人が出演するのだ」と言われても、煌々とライトの照らすなか性行為に及べるというのはちょっとフツーではないんじゃないか。たとえフツーの人たちであってもその場にあってはフツーでない状態になっているんじゃないか、などと考えるのは私の偏見か。そこにこそ人間のナマの姿があると言われると、どうも賛成しかねる。
○「脅迫者の手」広瀬隆 「宝石」1996年2月号所収
広瀬隆が書いたものは、見つければ読むようにしている。たぶんほとんどの著作は読んでいるはずだ。これは「赤い楯」あたりから始まった世界情勢分析モノとでも呼ぶべき系列に入る作品(小説仕立て)。アジアに何が起ころうとしているのか、この人の言うことはとっても怖い。
ただし本篇は連載物らしく、「以下次号」となっている。いまからドキドキしている。
【本書から】
日本の若者も、自分の生活に焦点を合わせないまま生きている人間が増えてきた。いや、少なくとも私には、驚くほどの変りようだ。電車に乗って見ていると、かなり不安を覚える。……勿論、その悪い部分が全部ではない。しかし全世界の若い世代が、これほど無知で、これほど傲慢な時代は、人類の歴史の中で初めてのことだ。若ければ、無知に決まっている。俺たちも馬鹿だった。しかしそれを恥じないというのは、われわれの時代には考えられないことだった。
△「超能力者」コリン=ウィルソン著 中村保男訳 河出文庫
せっかく「現代殺人の解剖」で「感動した」と記したのに、これと次の一冊とには首をひねった。
まず本書だが、ここで取り上げられている三人の超能力者について云々する気はない。まあそういうこともあるのかもしれぬと思う。しかしそれらの人物の言っていることや著者の感じた印象が真実であるとしても、「だからどうした」としか思えないのである。ウィルソンの意見にはところどころうなずけることもあるのだが(【本書より】参照)。
内容からは外れてしまうが、僕は「どんな事柄についても、その原因を変更不可能なものに帰してはならない」と思っている。例えば、日常よく出くわすものの中で一番うんざりさせられるのは占いの類だ。自分あるいは他人のことを説明するのに血液型だの生年月日だの星座だの人相だの手相だの先祖の行為だの----つまりその人には変えることのできないもの----を用いるとしたら、結局はそれらを「どうしようもないもの」として扱っていることになるのではないか。それでは努力することに意味がなくなってしまう(どうやったら血液型なんて変えられる?)。「○座の○型だから」なんていうセリフを聞くと反吐が出そうになるのだ。
ウィルソンは、オカルティックな解釈をするという行為のこの側面を自覚していないように見える。倫理的な人だから随所にポジティブな態度が垣間見えるのではあるが、どこでどういう操作をしているからか(僕にはわからないのだが……)奇妙にねじれながら彼なりの論理におさまっているようである。それが非常に気持ち悪い。
【本書より】
挑戦によって刺戟されると、人間はすばらしいものとなる。生活が平穏だと、私たちは最も抵抗の少い道を選び、どうしてこんなに退屈なのだろうと首をかしげる。決然として能動的な男はあまり「運」に注意を払わない。ことが順調に運ばなくなると、彼は深く息を吸って努力を倍加する。しかも、自分にとって最も深い幸福の時は、こういう努力をしたあとにやってくることが多い、とすぐに気づくようになる。受動的な生き方----生存----に慣れてしまっている男は何かにつけて「運」を持ち出し、それが一つの固定観念となる。(P85)
△「夢見る力」コリン=ウィルソン著 中村保男訳 河出文庫
コリン=ウィルソンによる文学論。巻末の「参考文献」を見ればわかるように、びっくりするほどたくさんの作家・作品が論じられている。いっとき文学作品を「テキスト」として読むやり方が流行っていたが、ウィルソンは文学作品に盛り込まれている「思想」を問題にする。世界に意味を見出せなくなっている文学の「衰弱」に彼はいらだっているようである。
著者の態度そのものには共感するところが多い。ただし、ひとつひとつの分析については疑問なきにしもあらず(例えばドストエフスキーの作品を行き当たりばったりの粗雑なものとする論が出てくるが、我々は「謎とき」シリーズによってそれが誤りであることを知っている)。よって、△をつけた。途中で嫌になり斜め読みしてしまったので、ここにはあまり多くを記せない。
いちおうコリン=ウィルソンについては、この辺で切り上げることにしようと思っている。
【本書より】
ひょっとしたら、文学のペシミズムは、通例、知的怠惰のあらわれではないのか。ペシミズムは杜撰な思考を蔽い隠す便利な蓑として使われることがあるのだ。それは、多くの悲劇の結末でやたらに人が死ぬのと同じように、完結しているという印象を生みだす。実証主義と同様に、ペシミズムは、みずからの狭隘な領土の境界の外にあるすべてのことを考慮にいれるのを拒むことで、自身の純粋性を保っているのだ。なるほど、それ自体の領域の中で検討してみれば、ペシミズムは殆ど反駁できないものなのである。(P24)
△「やさしさの精神病理」大平健 岩波新書
僕が教室でつきあっている若い人たちは、たぶん「ホットな」人たちなのだろう。中年にさしかかっている自分自身に限らず、日々接している学生たちに対しても、本書で述べられているような精神病理を感じることはほとんどない。ただし、街や電車の中などで見かける若者には当てはまる奴がいそうだし、これから先、こういった病いを抱える人がふえてくるのかもしれない。
△をつけたのは、取り上げられている病理に強い嫌悪感を抱くからで、著者のせいではない。それから、この本を教えてくれた金水先生の要を得た説明を聞いていたため、読んだ時にはすでに内容を知っていたのであった。
そういえば、僕はポケベルがどんなものなのかいまだに知らない。
back to home