『 ヘ ル ニ ア 戦 記 』

『 ヘ ル ニ ア 戦 記 』

Copyright (c) 亀井遠士郎

   ★はじめに★
 以下は私が体験した椎間板ヘルニアとの闘病の記録と、それを通して私が感じた疑問や確立した意見などを気ままに書いたものです。多少の脚色や虚構、事実ではない箇所もありますが、基本的には私の実感や発見に関しては嘘偽りはありません。腰痛にお悩みの方の参考情報となることを祈念いたします。
 なお、病院名や個人名はすべて仮名にしてあります。

 この文章は、1993年12月、ニフティサーブの FHEALTH 上で掲載したものに、著者自身が加筆・修正を加えたものであることを、お断りしておきます。



第1章 SM浣腸なみの注射でスッキリ

 =硬膜外神経ブロック療法と理学療法について=


 痛みを堪えながらそろそろと歩いて、やっとのことでたどり着いた中央総合病(仮名)。診察台の上に仰向けになり、症状を訴える僕に対して、整形外科の篠原医師(仮名)は柔らかい毛筆で脚のあちこちを撫でて尋ねた。

「感じるかぃ?」

 もちろん彼の言葉にセクシャルな意味はない。椎間板ヘルニアによって起きる座骨神経痛は、足の神経を麻痺させることが多く、毛筆で撫でるというのは検査の1つだ。僕の右足は毛筆で撫でられているという感覚が左足に比べて少なかった。
「とにかく腰から右足が痛むんです。痛みはライン上になっていて、右腰から右尻、右足の外側を通って、かかとと、足の甲に続いてまして、しびれがひどくって…」

 篠原医師は机に向き直した。篠原医師はカルテに症状を書き込んでいるらしく、何かモゴモゴと口ごもりながら、ボールペンの音をカリカリさせている。しばらくして診察台に向き直ってから言った。
「こりゃァ教科書に載っているような典型的なヘルニアだ。でもねぇ君ィ、歩いて来たんだろっ? 軽度だよ。心配ないから」

 僕の表情は歪み半ば泣き顔になっていたと思う。それが滑稽に映ったのか、篠原医師は薄笑いを浮かべる。
「そんなに痛むんなら、注射するか?」

 そい言うと、彼は、めちゃくちゃ太い注射器を手にした。その太さは、僕の目には、SMプレーで使用される浣腸器のように見えた。

 痛みから解放されるんやったら何でもかまへん。早くどうにかしてくれぇ!。 考えるまでもなく、SM浣腸サイズの特大注射を打ってもらうことにした。「腰部硬膜外神経ブロック」というその注射は、腰椎の中を通っている神経めがけて麻酔剤などを注入し、痛みを伝える神経をブロックするのが目的で、消炎作用もあるという。

 ほどなく、若い看護婦が、ビニールシートを僕の体の下に敷いて、僕を横向けの体勢に寝かせ直した。そして彼女は、下着のシャツを肩口までまくり上げ、パンツもお尻の割れ目が露出するほどずり下げるのである。お尻を見られるのがとても恥ずかしいのだが、彼女はきわめて事務的な手付きで、背中と尻の一面に消毒液を塗り始めた。冷たかった。
「膝を抱えて背中を丸めてじっとしてくださいね。すぐ済みますよ。痛くないですから」

 彼女はと作り笑いを見せた。

 ふと振り返る間もなく篠原医師は僕の背後にいて、こう言った。

「ほーら、じーっとして息吐いて」

 間もなく、腰骨の部分に注射針を(たぶん背中に垂直に?)ググッと刺し始めた。僕は息苦しさを覚えた。篠原医師は、無慈悲にも、ジュルジュルと注射液を力ずくで入れるのであった。この「ググッ」と「ジュルジュル」という感覚は体験者でなければ分からないだろう。

 このとき、注射液が(体内から逆流して?)体の下に敷かれたビニールシートに流れ出た。注射針を射し込んだ状態なのに、注射液がこぼれるなんて、いたいどうしたことなのか。

 しかし僕には、そんなことを考えている余裕はない。とにかく注射が痛い。腰痛と同じぐらい痛い。薬剤剤の注入が終わっても、注射針が抜かれたという感覚すらなかった。注射器を見せてもらったが、注射針の太いこと太いこと! もともと注射が嫌いな僕は、針の太さに吐き気がした。
 その後、僕はレントゲン撮影を行い、再び篠原医師の説明を受けた。

「いいかぃ、セボネというのはねぇ、首から下に剄椎、胸椎、腰椎、仙骨とつながっているんだよ」

 篠原医師は小さなガイコツの模型を指さす。

「腰椎は全部で5つ。キミの場合は第4腰骨と第5腰骨の間にヘルニアがあるんだナ。ただし軽度。ひどい人の場合は骨と骨の間がペチャンコになっているんだがねぇ。まぁ安心しなささい…」

 篠原医師によると、「ヘルニア」とは要するに“はみ出た状態”を意味するのだそうだ。椎間板とは、骨と骨の間のクッション部分。椎間板ヘルニアとは、椎間板を饅頭にたとえると、皮が破れてアンコが外に飛び出したという状態なのだという。このアンコが脊椎を通る神経を圧迫して、座骨神経痛などを引き起こす。足が麻痺したり、猛烈な痛みが発生するのはこのためだ。

 篠原医師はレントゲン写真を光源パネルにかざした。

 このころになると、少しは落ちつき余裕もでてきた。篠原医師は鼻の下に髭を伸ばしており、年格好は30代後半。そこそこのキャリアはあるのだろう。しかし嫌なものを見つけた。診察室の彼の机の上にはセブンスターと吸いがらがたまっている灰皿があった。僕も愛煙家だから、彼がタバコを吸うのは認めるが、診察室で吸うというのはどうだろう。まぁ医者としての腕が良いのなら許すけど……。
「軽度」と言っていた篠原医師だが、「会社は長めに休んだほうがいいナ」と言った。そして、彼は

「病名 椎間板ヘルニア/2カ月の療養を要す」

 との診断書を書いた。そして、僕が独り者だと知るや、入院を勧めた。

 むろん、固辞した。第一の理由は、篠原医師はもちろんのこと、この病院の何人かの事務職員の僕への応対が無礼だったのためだ。もう一つの理由は、この病院が僕のアパートから歩いて3分という距離にあり、症状がこれ以上悪化しない限り、じゅうぶん通院できるという判断もあった。

 気がつくと、はたして硬膜外ブロック注射は効いていた。腰から足先まで通っている神経に沿って冷たい感覚のようなものが感じられる。なんというか、湿布薬を神経に沿って体内に流し込んだような感覚がある。激痛はおさまっていた。ただし痛みの信号がブロックされているだけなので、本来ならめちゃくちゃ痛い状態であるのは確か。安静にしなければならないのだろう。

 篠原医師のは治療方針を簡単に説明した。痛みがひどければ、何度でも例の特大注射を打つ。当分は安静にして痛みが治まる方向なら、経口薬と理学療法(リハビリ)で対処するというものだった。

 篠原医師によると、薬は消炎鎮痛剤と筋弛緩剤と胃薬の3種類。そして、理学療法はマイクロ波による温熱治療と、牽引療法の2種類だ。

 その日のうちに僕はリハビリ室を見学した。マイクロ波は、体内を温めるために赤外線のようなライトを当てて温めるもの。この波は、衣服を通り越して体内に届くため、治療の際に服を脱ぐ必要がなく、腰痛患者にとってはありがたい。極度の痛みで腰部の筋肉に極度の緊張状態が続いているため、マッサージ効果もあるのだそうだ。なによりも温感というのは痛みを和らげる効果がある。

 もう一つの牽引療法というのは、腰にコルセットのようなベルトを巻き、専用ベッドに仰向けに寝て受けるものだ。コルセットに付いているヒモを、機械で断続的に引っ張るのだが、これも緊張を強いられている腰部筋肉のマッサージになるという。

「グイグイ引っ張ると、アンコのように飛び出ているヘルニアが中に引っ込むんだ」

 ホンマかいな。そんな疑いの気持ちを抱きながら、とりあえず僕は毎日このリハビリ室に通うことにした。医師や事務職員の対応が悪くても、リハビリの場所は近いにこしたことはない。どこで受けても同じだ。

 ようやく帰宅。普通なら3分で歩いて帰れる道のりだが、ゆっくりゆっくり注意深く20分かけて歩いた。気の遠くなるような距離だった。秋風が日ましに冷たくなる東京の町を暗い気分で歩く。

 そこへ学校帰りのガキ(小学生)ども4〜5人がフザケながら僕を後ろから追い越して行こうとする。その時、ガキの振り回していた手提げカバンが僕の腰を直撃した。僕はこの一撃でうずくまってしまった。もちろんガキの目には、僕が腰痛持ちであるということは、うかがいい知れないのだから、仕方がなかろう。

 ガキのバカーっ。腰が治ったら、お前ら片っ端から泣かしてやっからなー!

 僕の、腰痛との闘いのは、こうして幕を開けた。



第2章 おどおどしながら別の医者へ

 =セカンド・オピニオンと患者の権利について=



 千葉敦子というジャーナリストがいた。乳ガン再発の危険を熟知しながらも、敢えて自分が好きなニューヨークに移住し、命の尽きるまで日本の新聞・雑誌に自らのガン闘病記を書き続けた人だ。

 自宅のベッドで事実上の“寝たきり”となった僕にとって、3度の食後に薬を飲み、牽引治療のために中央総合病院のリハビリ室に通うほかに出来ることは読書くらい。ベッドの上で読書に熱中していると痛みも忘れるだろうと思い、かつて読んだ彼女の著作を再読することにした。

 そこには参考になることがいくつも書かれてあった。そのうちの一つが「セカンド・オピニオン(第2の意見)を求めろ」ということだ。

 彼女は自分のガン治療に際して、2人以上の医者に診てもらっていた。それは、彼女が医師を信頼していなかったという訳ではない。医師も患者と同じ人間。間違いもすれば、力量の劣る人もいる。彼女の作品を読み返していくうちに、彼女の主張の核にあるのが、患者が医師に対して“センセイにすべてオマカセ”的に盲従してはいけない、ということだと思った。病気と闘うのは結局、患者自身で、患者が医師や治療法を主体的に選択・利用していかなければいけないと言い換えてもいいだろう。

 僕はやってみることにした。1週間後、都内東部にある某メーカーのトータル・クリニック(仮名)で診てもらうことにした。その病院のことは、交際中の響子(仮名、28歳、事務員)に教えてもらった。元々はメーァーの従業員向け厚生施設だったが、現在では地域診療も行っているとのことだ。何しろ予約制で、僕が通っている中央総合病院のように「3時間待たされて3分間の診療」といった無駄がないのが気に入った。

 響子は、セカンド・オピニオンを聞くのなら、中央総合病院で撮ったレントゲン写真と、いま服用している薬一式を持っていくほうがいい、とアドバイスする。そもそも患者の病状や施療について細かく書き込まれているカルテは一般的に「患者のものではなく、病院のもの」との暗黙の了解がある(本来は患者のものであるべきなのだが)。

 セカンド・オピニオンを求めて他の医療機関を訪れるときには、またまたレントゲン撮影をするという二度手間となる。カルテのコピーとはいかないまでも、レントゲン写真くらいはもらいたいところだ。
 数日後、僕は中央総合病院の篠原医師を訪ねた。
「あのぉー、篠原先生。…申し訳ありませんが、レントゲン写真をいただけませんでしょうか?」

 なぜか必要以上に卑屈になってしまう自分が情けない。なんて小心者なんだろう。

 篠原医師は横柄に「なんで? そんなものアンタに要るの? これはねぇ、3年間は保存しないと法律違反になっちゃうから無理だよ」と木で鼻をくくったような返事しかしない。

 うーん、困った。困りながらも僕は粘った。

「あのぉ、コピーで結構ですから…。何とかなりませんでしょうかねぇ…。僕みたいなサラリーマンは転勤もありますし。よその町で再び腰痛になったとき、貴重な資料になると思うんですが…」

 するとどうだろう。しばし考えてから篠原医師は、「わかりました。コピーだったらいいでしょう」としぶしぶながら、事務職員にコピーの手配を指示してくれた。

 そこで発見があった。その瞬間から、なぜか彼は僕に対して丁寧語を使い始めたのだ。

 ウルサ型の患者、権利主張ばかりするワガママ患者に映ったのかなぁ。そんな不安を襲われながらも、ようやくレントゲンのコピーを入手し、僕はトータル・クリニックに診察予約をし、いそいそ駆け込んだ(というよりも、響子にかつぎ込んでもらったのだが)

 東京の下町を見おろす高層インテリジェントビル。トータル・クリニックはその3階にある。僕は診察室に入った。中央総合病院とは違い、待ち時間は短い。

「レントゲン持参ですかぁ。よく中央総合病院は出してくれましたねぇ。ムフフ」

 トータル・クリニックの牧田医師(仮名、40代前半)は苦笑しながらレントゲン写真を手に、丁寧な口調で言った。

「あぁ、ここだな。第5腰椎と仙骨の間が極端に狭くなっています。ほら、ここの椎間板の厚さは他の椎間板に比べて極端に薄っぺらでしょ、分かりますか」

 そんなアホな! 中央総合病院の篠原医師は、第4腰椎と第5腰椎の間にある椎間板がヘルニアになっている、と語ったはず。同じレントゲン写真を見ているにもかかわらず、この違いは何なのだ。

 僕は中央総合病院の篠原医師から教えられたヘルニア箇所は別の場所であることを牧田医師に告げると、

「えぇっ、中央総合病院では違うことを言われたんですか。うーん…。これはどう見ても第5と仙骨の間なんだけどなぁ…」

 1枚のレントゲン写真と簡単な問診、触診。医師によって指摘するヘルニアの部位が違うというのは、驚きだった。軽度のヘルニアだったからいいものの、命にかかわるような病気だったら……。

 おおこわ。

 中央総合病院の篠原医師としての力量が足りないのか、あるいは牧田医師がいい加減なことを言っているのか…。少なくとも牧田医師は流れ作業的に患者と接していない。診察室で喫煙する横柄な口調の篠原医師への疑念が沸き上がった。

 次に、牧田医師は、僕が中央総合病院から渡された薬について説明してくれた。そこでまた面白い発見があった。

「あなたが飲んでいる薬は消炎鎮痛剤と筋弛緩剤と胃の薬です。ただし、この筋弛緩剤というのは精神安定剤としても処方することがあります。つまり同じものなんですよ。ムフフ」

 なるほど。そういえば薬を飲み始めてからというもの、動作がスローモーになったばかりか、精神的なイライラが消え、頭のほうもボーっとする事が多くなったような気がしていた(元々か?)。やはり与えられた薬については、細かく聞いておくべきなのだろう。

 篠原医師が言った治療方針を告げると、牧田医師は「きわめて平凡。安心できますね」とつけ答えた。

 トータル・クリニックに来て良かった。セカンド・オピニオンを知ることや、患者が主体的に医療機関を利用するという心構えを体得したことは、僕の人生ではじめての体験だし、さまざまな発見があった。

 僕みたいな者が講釈するのは10年早いかもしれないが、一言いいたい。医療技術がいくら進歩しようと、いまの医者と患者の一般的な関係というのは江戸時代のそれと大差ないのではないのだろうか。多くの患者が千葉敦子ばりの行動をしようとすると、医師には嫌われたり、病院から変人扱いされる可能性が大きい。

「ところで牧田先生、もし先生の患者がどこか別の病院に行ってセカンド・オピニオンを求めていたとしたら、やっぱり嫌ですか?」

 僕はつい調子に乗って、少々失礼なことを尋ねてみた。牧田医師はしばし考えてから語った。

「正直言って、やっぱりイヤですねぇ。ご同業から批判されるのはちょっとねぇ」

 そんなことをする僕のような患者も、やっぱり嫌いなのか。そうたたみかけると、牧田医師は苦笑した。

「そういう患者さんって、あまり例がないですから…」

 紳士的な牧田医師にしても、セカンド・オピニオンを求める患者を偏見の目でみているのかもしれない。

 あーぁ、セカンド・オピニオンを求めた医師からも嫌われてしまったのか…。



第3章 這えば立て、立てば歩め

 =筋力の維持とハリの効能について=



 篠原医師も牧田医師も、基本的には「痛みが残っている限りは安静にして薬を飲み続けるべき」と言う。

 特に篠原医師の勧めで僕は、コルセットを購入した。腹からお尻上部までを締め付けるもので、鋼の棒が縦に通ったガッシリと硬いヤツだ。

 最近たるみ始めた僕の腹が、このコルセットでぎゅっと締め付けられると、ギブスをしているようで動きにくくなる。しかし、腰が変な方向に曲がらないという安定感があり、腰椎がシャンと伸びた感じになる。布団から出るときに締め、布団に戻るときに外す。これで療養生活がそうとうラクになった。

 暇を持て余している僕はリハビリからの帰途、書店に立ち寄り、腰痛関係の本を探した。自宅でどのように過ごし、どのような姿勢が要注意なのか。そして、椎間板ヘルニアという病気の知識を仕入れたかったのだ。

 町の小さな書店でも「健康」と分類された棚があり、実にさまざまな“健康書”が並んでいる。大多数が『ガンはこうすれば治る』だの『痩せ過ぎる○○健康茶のヒミツ』だの、怪しげな療法をしている御本人が、宣伝のために出版しているものも多い。『家庭の医学』のような定番は意外と片隅に追いやられていた。

 そこで僕は1冊の本を見つけた。かつて『週刊文春』誌上で腰痛医療を告発して大きな反響を呼んだジャーナリストが書いた本だ。『つらいつらい腰痛』という恐ろしいタイトルがつけられていた。さっそくページをめくってみたところ、前半部分で

“絶対安静は3日間まで。出来るだけ体を動かせ”

 と主張している。さまざまな医療機関を取材し、何人もの患者の調査から導きだした結果らしい。何よりも説得力を感じたのは、著者自身がかつて腰痛持ちだったということだ。

 なぜ「体を動かせ」というのか?

 理由は簡単だ。たとえば、風邪で2日ほど寝込んで3日目から仕事しようとしても、筋力がすっかり衰えていて、しんどくてたまらない。筋肉というのは使わないと、すぐ細く、弱くなってしまう。腰を支える筋肉も同じ。つまり腰痛の対処法は親心と同じで「這(は)えば立て、立てば歩め」なのだという。

 僕はその本を買ったその日、書店からの帰宅するときにわざと遠回りした。たかだか成人男子の5分の1くらいの速度で、遠回りする距離もわずか500メートル余り。しかし、調子に乗るものではない。鎮痛剤を飲んでいるにもかかわらず、帰宅してから腰の痛みが増し、足の筋肉もガチガチに緊張していた。かと言って、夕方6時を過ぎると、急患でもないかぎり病院は受け付けてくれない。

 しかし、助け船はあるものだ。電話一本でハリ・マッサージが来てくれる。痛みに耐えかねて電話で鍼灸師を呼んだ。ハリなら痛みは軽減するはず。ハリ治療の針は極めて細く、少なくとも中央総合病院で受けたSM注射のような痛みはないだろう。

 電話で来てくれた鍼灸師は30代半ばヒゲ面の話し好きな小柳さんという男性だった。

「筋肉を鍛えようと、ちょっと無理して歩いちゃったんです」

「あー、そんな無茶しちゃ駄目ですよ。ハリを打つにも足腰の筋肉がガチガチに緊張していて、刺せないじゃないですかぁ」

 鍼灸師・小柳さんは眉間にしわを寄せて苦笑すると、丁寧に足と腰のマッサージをしてくれて、筋肉の凝りがほぐれたところで、足と腰にハリを幾本か打ってくれた。

 彼は実に話せる人だった。横柄で人を見下したような中央総合病院の篠原医師や言葉は丁寧だが、どこかよく判らないトータル・クリニックの牧田医師とは違っている。マッサージとハリを受けている約60分間、僕は小柳さんとじっくり話し込んだ。 じっくり話し込めるというのがハリの良さだ。

 小柳さんのモットーは、患者と話し、表情を見、仕事や日常生活をじっくり聞くことだという。僕の仕事がデスクワークで、突然ドタバタ走り回ることが多いことや、なによりも生活が不規則であることが腰へのストレスになったのではないかと分析する。

 さらに、僕の日常生活での姿勢が悪いことを指摘してくれた。

「鎮痛剤を飲んでいてこの痛さなんだから、あんまり動いちゃ駄目ですよ。会社がたっぷり休みをくれるんだから、長期戦のつもりで、文字どおり腰をすえて闘病すべきですよ」

 小柳さんのアドバイスは、
(1)最終的にはコルセットなしで生活できるように、自分の筋肉を鍛えて天然のコルセットにすることを目指す
(2)今はコルセットをしないと悪化するが、出来るだけ早く、自分の力で生活したほうがいい
(3)そして安直に、いかがわしい民間の診療所に飛び込まぬこと
 −−というものだった。

 小柳さんによると、鍼灸師は国家試験を受けて資格を取得しているため、誰もが一定以上のレベルがある。ただしカイロプラクティックや整体などには資格試験も公の認定機関もなく、レベルも考え方もバラバラ。飛び込みで受診するにはリスクが大きいという。

「確かにデキると言われる人もいますが、新興宗教のような雰囲気のところもあるし、法外な料金を請求するところもありますからねぇ、この業界は」

 小柳さんが知っているところでは、高価な健康食品(まがいのもの)を買わせたり、おしっこを飲ませたり、他の医療機関にかかることを禁じたり、強引なところも少なくないという。
 しかし、僕はそんな民間療法に怪しげな魅力を感じ、オカルトまがいの療法をしているている人々に興味がわいた。



第4章 あなたは運がいい、と石黒先生は言った

 =民間療法の選択について(1)=



 突然の腰痛(椎間板ヘルニア)により、仕事から解放されて1カ月が経とうとしていた。鎮痛剤など経口薬と、リハビリ(牽引療法など)のおかげで、腰の痛みや足のしびれはかなり軽減した。だが、椅子に座って1時間もすると、腰の痛みは復活し、筋肉もガチガチに緊張してしまう。とても会社に行ける状態ではない。

 手っとり早く「回復 =痛みやしびれからの完全解放」状態に持っていくには、薬と牽引に加えて何かをしたほうがいいのではないだろうか。鍼灸師の小柳さんのハリ治療はその後も何度か受けていたが、「きっと気も晴れますよ」という小柳さんの勧めもあって、怪しげな民間腰痛道場の見学ハシゴをしてみたくなった。

 まずは東京北部で「世界で唯一」を掲げる「石黒式整体法(仮名)」の治療室(診療所とは言っていない)に飛び込んでみた。

「見学だけですが、よろしいでしょうか」

 受付の女性に通されたのは、柔道場さながらの約40畳の畳敷き大部屋だった。患者の多くは高齢者か中年以上の年齢で、半数くらいの人は畳の上に仰向けに寝かされていて、理学診療士ふうの上下服を着た指導員が、患者の足を持ち上げて何やら治療らしきことをしていた。よく見ると、膝を抱えさせるようにして足を持ち上げて上からグイグイと反動をつけて下方向に押しつけていた。そして患者たちの両膝はヒモで縛られていた。

 道場の代表者、石黒さんは60才はゆうに越える男性で、話をしようと思ってもと取り合ってもらえない。

「まずビデオを見て、指導員の話を聞いてから」

 僕は別室で指導員に両膝を揃えるようにヒモで縛られ(逃げられない!)約20分にわたってビデオを見せられた。むろん、僕が逃亡するのを阻止するために縛っているのではなく、両足を縛ることで股関節のズレを強制するのも、石黒療法のひとつなのだ。

 さてビデオの内容は、この道場の診療の考え方や、回復した患者が道場に感謝の言葉を述べる場面が恥ずかし気もなく収録された自画自賛だった。

 ビデオの内容から、石黒道場の考え方をまとめると、
(1)あらゆる病気は股関節の歪みから生じている
(2)股関節の歪みは背骨の湾曲の原因となる
  ──というふうになる。ビデオは、何十年も前のもので、海外の学会誌にも石黒式治療法が取り上げられ「世界にセンセーションを巻き起こした!!」と強調していた。

 どのような学会で、どんな評価がなされていたのかなどに関してはは、ビデオではわからない。本当に見識のある人々から賞賛されているのであれば、この道場ももう少し有名になっていてもおかしくないのだが…。

「医者から見放されたが、石黒先生の指導に従ってすっかり回復した」とか「歩けなかった自分が今ではピンピンしている」「西洋医学をはるかに超えた」……といったコメントが延々続く。こういうのを見せられていると、西洋医学の医師に不信感を抱いている人にとっては、心強くなるのだろうなぁと思った。

 ビデオが終わり、やっとのことで石黒さんに会える。じらされただけに、いざ会える段になると、ちょっと緊張した。ワレながら小心者だと思う。

 石黒さんは開口一番、野太い声で言い放った。

「あなたは、運が、いい!」

 そして自分でうなずきながら、微笑んだ。「石黒式を知ったということは、あなたの病気は半分以上治ったようなものです。本当に良かったねぇ」

 なるほど、気弱になっている腰痛持ちが、ワラにもすがる気持ちでここへ来て、石黒さんに自信たっぷりにこう言われると『生きてて良かったなぁ』と思うだろうな。

「石黒先生、僕は椎間板ヘルニアによる座骨神経痛だと診断されまして、1カ月近くの間、消炎鎮痛剤と筋弛緩剤を飲み続けていて……」

 最後まで聞き終わらないうちに石黒先生は、急に小声で話す。

「大丈夫、任せなさい。ヘルニアは西洋医学で治せないが、ウチでは何人も治しています。心配する必要はありません。私に任せなさい」

 ちょっと強引だ。とにかく石黒さんは『まずはウチに通いなさい』『石黒式を信じなさい』の一点張り。僕が「3時間待たされて3分の診療」など現代の患者が感じる病院事情を口にすると、

「だ・か・ら、西洋医学はダメなんです。限界があるんです!」

 と西洋医学を口汚く罵ってみせた。

 僕は中央総合病院の篠原医師や、トータル・クリニックの牧田医師からははっきり言って嫌われている。だからといって西洋医学を根底から否定しようとも思わない。逆に、東洋医学をバカにしようとも思っていない。双方の良いところを都合よく取り入れたい。自分を治療の主人公にしようと思っている。決して医師や整体師に、ココロもカラダも預けてしまうようなことだけはすまい、と心に誓っている。だから、どうも、「俺に任せろ!」タイプの石黒式というのは……馴染めそうにないのであった。



第5章 アンタは頭が悪い、と内田センセイは言った

 =民間療法の選択について(2)=



 その後のぞいてみたのは、東京西部内田治療室(仮名)。ここはカイロプラクティックの治療をしているところだ。知人に教えられたのだが、「腕は良い」とのこと。さっそく電話で「見学させてください」と申し込んでみた。

「見学はダメですが、取りあえず受診に来られては?」

 と受付の女性が言う。1回の治療が3000円程度と比較的安い。

 僕は恐いもの見たさにまかせ電話予約して、軽い気分で内田治療室のドアをたたいた。ヒゲ面でがっしりした体格の40才くらいの男性がカイロプラクター・内田センセイだ。診察室の中央にはシーソーのような治療台がある。この治療台は機械仕掛けになっていて、立った状態でこの台に寄りかかると、電気仕掛けで台が水平になるため、寝たり座ったり起きたりというのがつらい腰痛持ちにとってはありがたい。

「僕、カイロプラクティックというのは初めてです。先入観で判断してはいけないと思うのですが、骨がボキボキと音がするように曲げたりするんですか、骨接ぎみたいに」

 この「骨接ぎ」という言葉が内田さんのプライドをいたく少し傷つけてしまったらしい。

「あのねぇ、カイロというのはアメリカで生まれた科学的な治療法なんですよ。柔道の骨接ぎなんかとは考え方が違う。要するに何というのかなぁ、人間には自然治癒力というのがあって、それを手助けするために、背骨や骨盤などの歪みをアジャストするんですね」

 この「アジャスト」という言葉に、舶来療法の片鱗が見え隠れする。内田さんは口下手なので僕が勝手に解釈すると、カイロプラクティックの考え方も、骨のつながりの偏(かたよ)りや、骨盤の歪みなどを矯正しようとするものだ。基本的には「石黒式」との共通点が多い。

「なんだか石黒式と似ていますねぇ」

 僕がこう言うと、この発言も、内田さんをたいそう刺激した。

「それは、違うっ! 全然、違うっ!」

 内田さんは少し感情的になって言った。それにしてもこのカイロプラクターは口下手だ。

「一番分かりやすいことをしましょう」と内田さんは言い、僕に左手で親指と小指で「輪」を作らせた。業界用語で「オー(O)リング」という診断法なのだという。

 僕が作った指の輪を、内田さんは自分の指で開こうとすうと、輪は簡単には開いてしまった。そりゃぁそうだろう。筋肉モリモリのカイロプラクターがグイっと引っ張れば、僕の親指と小指の輪なんて簡単に開いてしまう。トーゼンの結果である。

 次に内田さんは同じ要領で、もう片方の手の親指と小指で輪作らせ、同様に引っ張ろうとした。

「ほら、こっちの輪は開きませんよ」

 彼はわざとらしく力を入れてみせる(ふりをするように見えた)。

「センセイ、もっと力を入れてくださいよ。そんなの簡単にはずれますよ」

 僕は子供だましに遭ったような腹立たしさを覚えた。内田センセイは何度も同じことをさせる。

「やっぱり左の手は開きませんよ。わかるでしょ!」

「まったく分かりません!」

 こういったやり取りの平行線が、内田センセイを怒らせ、ついに堪忍袋の緒が切れてしまった。彼は語気を荒げて、僕に救いようのない宣告をしてくれた。

「そうかい、これが分からないようだったら、もう止めよう。アンタねぇ、アンタは腰が悪いんじゃなくて、アタマが悪いんだよ。これが分からないんじゃ、救いようがねぇー。アンタみたいな人は絶対に治らないよっ! アタマが悪いんだから」

 あぁ、ここも『まず信じなさい』方式なのかぁ…。アタマの悪い僕は、言葉の下手な内田さんにすっかり失望した。

 さっさと服を着て、受け付けで診療代を支払おうとすると、内田さんがわざわざ窓口にやってきて「(料金は)いらないよ」と睨みつけるではないか。「ごめんなさい」僕はそう言って、トボトボと帰途についたのだった。

 1週間ほど後、鍼灸師の小柳さんに再びハリを打ってもらった際に、整体とカイロの腰痛道場の体験談を話したところ、小柳さんは大笑い。

「うーむ。両方とも怪しいなぁ」

 小柳さんによると、技術もしっかりしたカイプラクターや整体師では、特色を出すためにアノ手コノ手を使うところがるとか。

「患者さんにジェスチャーつきで、『でりゃーっ』なんて気合いを入れて、『強い“気”があなたの中に入りましたよぉ!』なんて、平気でやってる人もいるんだよね。競争の激しい業界なんですよ」

 小柳さんは他人事のように笑う。道場によってはかなり無茶なことをするところもあり、道場から救急車で病院へ直行するという事故もたまにあるのだそうだ。

 小柳さんは「救急車に乗らなくて、運が良かったですよ」と笑った。

 西洋医学の医者たちは「カイロや整体のたぐいはインチキが多く、信用してはダメ」と口を揃える。一方の“腰痛道場”経営者たちは「西洋医学が見過ごしている点がある」と口を揃えて罵倒する。

 そうした背景を、鍼灸師・小柳さんは、西洋医学も東洋医学も、治療者たちは、腰痛というマーケットで患者という客を奪い合っているのだ、と分析する。

 しかし、忘れてならないのは、多くの腰痛患者は、西洋であろうと東洋であろうと、考え方がどうあれ、要するに痛みを取れればそれでいいのである。要するに結果オーライ。なによりも患者を見下したり、馬鹿にしたり、盲信させたりするような「向き合い方」が、信頼関係を築けない原因であることを知るべきである、というのが小柳さんと僕の意見が一致したところであった。

 西洋医学であれ民間療法であれ、最後は患者側が、治療者の人格を判断するしかないのだ。



第6章 腰痛持ちだって出来るんだい

 =腰をかばいながらのセックスについて=



 自宅療養するようになってからというもの、口の悪い友人どもからお見舞いの電話をもらうようになっていた。僕の人徳のなさのため、必ず聞かれるのは、アレが出来るのか、ということだ。

「腰が使えないんだろ? 勃っても」

 という具体的な同情をいただくこともある。トホホ。

 そんな奴らには「アホ抜かせ。腰が痛くて、それどころやないんだ」といなしているものの、正直言って僕のアレは確実に勃起する。やる事ないんだから、はっきり言って、僕はヤリたいのだ。

 しかし、イタシていいのか、悪いのか。どんな体勢がいいのか。こればっかりは尋ねにくい。病人はセックスなどしなくてよろしい。そんな暗黙の了解が社会全般にありそうだし、口にすること自体がはばかられる。こういった性のタブー視は、何も僕のような腰痛持ちにだけではなく、高齢者や「障害」者なども等しく感じていることではなかろうか。

 僕の場合は、腰痛に負担にならない体位や腰の使い方を教えてもらいたい。いや贅沢は言うまい。せめて腰への負担の軽いマスターベーションの仕方だけでも結構(ちょっと情けないかなぁ)。だが、結局のところ医師たちや整体師、鍼灸師たちには聞けずじまいだった。

 僕のアパートには毎日のように世話をしに来てくれる女性がいる。前述した響子だ。入院せずに済んでいるのは、炊事、掃除、洗濯… 何から何まで響子がしてくれているためなのだ。

 そんな響子が夜に僕のアパートで家事を終えて、ひと風呂浴びていた。響子が鼻歌を歌いながらシャワーを浴びているシーンを想像した僕は、さっさと勃起した。

 シャワー室から出てきた響子はほほえみながら僕の布団のほうに歩いてくる。薄暗い部屋に浮かび上がる響子のシルエット。ほのかに漂うボディシャンプーの甘い匂い。ラジカセからはムードたっぷりのジャズボーカルが流れてくる。

 特に美人という訳ではないが、可愛いタイプの女。バスタオルを体に巻きつけて、グラマーな胸と前を隠し、乱れ髪を直す。湯気の立ち上る肉体には、妖しい魅力があった。響子がこんなに色っぽく見えたのは、初めて響子とベッドインしたとき以来だ。

 僕は腰痛で倒れてからというもの、1カ月近く響子を抱いていない。響子のほうも欲求不満が募っていたのか、掛け布団に手を入れてきて、いたずらっぽく僕の下腹部をまさぐる。僕のソレに触れ、すっかり固くなっていることが分かると、小声でつぶやく。

「あーあ、シたいなぁ」

 瞬間、目と目が合う。僕はこっちへ来い、と目で合図した。響子は心配そうな声で聞いた。

「出来るの?」

 そんなこと分かるかョ。でもヤリたい。僕はゆっくりと上半身を起こし、響子のバスタオルを取り払って体の上に乗りかかった。がっしり抱き合い、唇を重ね合わせる。1カ月ぶりだ。動作はスローモーながら、僕はゆっくりとパジャマを脱ぎにかかる。ところが、気ばかりが焦って、腰をかばう日常生活の注意はすっかり頭から抜けていた。急いでパジャマとパンツを脱ごうとした瞬間。あの痛みがよみがえってきた。ズキーン、ズキズキ。

 うわっ。こらアカン、アカン。

 僕は響子の裸の体の上で「うーっ」悲鳴を上げた。あまりの痛みに僕の陰茎はその瞬間、萎えてしまった。

「えぇっ? もうイっちゃったのぅ? そんなのナシよ、早過ぎるぅー」

「アホ。違うんや、腰が痛み始めたんやがなぁ〜」

 僕は全体重を響子に預けたまま動けなくなっている。僕の両目に涙が滲んでいた。このときの痛みは、腰痛の、肉体的なものだけではない。“男としての自信”を失ったという心理的なショックが追い打ちをかけていたのだ。

「す、すまん…」

 僕はその後、響子に湿布薬を張ってもらい、横向きになり、両方の膝を手で抱くようにして(例の、SM浣腸ばりの注射を打たれたときの姿勢)眠った。響子は僕が眠るまで髪を撫でてくれた。

 翌日の夜、僕は性懲りもせずに再挑戦。しかし一計を案じていた。

「ちょっと色気ないけど…」

 そう、響子に断ったうえで、おっとり刀でコルセットを装着した。コルセットは腰に負担をかけないばかりか、激痛再発という心配からいくぶん解放してくれる。余裕がでてくる。

 だが僕は、響子を抱くのではなく、逆に、響子に身を任せることにした。欲望は、不可能を可能にする。そして不利な条件は思いもよらぬ快楽を与えてくれるものだ。

 古来から「抱く性」である男の僕が、「抱かれる性」である響子に抱かれ、体を弄(もてあそば)れる。これは僕にこれまでの性生活よりも、大きな喜びを与えてくれた。正常位などに見られるように、男性側が主導権を握って女性を抱くということは、女性が完全に無防備な状態で受動的なセックスをしていることになる。ふだんから能動的セックスに慣れ親しんでいる男の僕にとって、受動的なセックスというのは、実に恥ずかしいことだった。よくまぁ、世の女性というものは、こんな恥ずかしいことを受け入れているもんだなぁ。だが、これは、僕にとって新しい感覚だった。案外ええのだ。

 ベッドの中で僕がニタニタしていると、響子はと汗ばんだ顔を見せて野生的に笑った。

「腰が治ったら、これまで以上にサービスしてもらわなくっちゃね」

 幸いにも、僕と響子は腰痛をきっかけに、実にさまざまな歓びを結果的に知ることになるのである(詳細はナイショ!)。

 書店にはいくども足を運んだ。腰痛体操や、腰痛に危険な荷物の持ち方などを解説した本は数々ある。しかし、セックスにまで言及した書物にはついぞ出会わなかった。ヨーロッパのある国には、身障者とセックスするボランティアがいると聞く。きっと障害に負担のないようなノウハウというものをボランティアは心得ているのだろう。

 日本では、ここまでススんでないにしても、ことセックスに関しては、病人にとっては貧しい環境にあるのかも知れない。とても重要なことなのに。



第7章 自宅療養の落とし穴はいたるところに

 =腰痛とメンタルヘルスについて=



 療養1カ月目のある夕方、会社の青山先輩(仮名)から「今晩見舞いにいくからね」と電話があった。その夜、僕は彼を駅まで迎えに出て、彼と外食し、しばし歓談した。もう僕は気軽に外に出て行けるまで回復していたのだが、彼の目には“もうすっかり治っている”と映っていたようだ。

「会社なんか気にしないで、休めるだけ休んだほうがいいよ。こんな機会は2度とないんだから…」青山先輩は、まじまじと僕の目を見る。

「いやぁ、これでもまだ痛むんですよ。出歩けるようになったとは言ってもね」

 僕は、職場復帰などまだ考えていないことを告げた。ただ、青山先輩のアドバイスの背後には、“病気はもうほとんど治ったようなものだろう。だが、治ったとしても出来るだけ、長くズル休みをしたほうがいい”というニュアンスが含まれている気がした。

 仰向けに寝た状態で片方の足を上げていくという椎間板ヘルニア診断法がある。膝を伸ばしたまま足先を徐々に上げていくもので、足が体に対してある程度の角度まで上がったときに、痛みをおぼえる。この角度が90度に近くなれば、神経の圧迫度合いが少なということになり、いちおう「回復」状態になる。

 僕の場合、当初は痛くないほうの左足が60度まであがったが、神経痛があった右足が40度も上がらなかった。しかし1カ月も治療に専念すると、右足も60度近くまで上がるようになった。かなり早い回復といえる。

 ここまで回復してくると、コルセットをつけたままで平気で出歩けることができるようになり、半分以上治ったような気がする。

 ひょっとしたら、もう働けるかもしれへんなぁ。

 そんな時に見舞いに訪ねてきた青山先輩から“ズル休み奨励”をされると、何やら重いものが心の底によどみ始める。

 僕の1日の過ごし方は極めて怠惰で、お昼前に目覚め、まず腰痛体操をした後、メシを食べて薬を飲む。その後、シャワーを浴びてから病院のリハビリ室で腰の牽引。これが終わると散歩がてら本屋などに出かけ、帰宅。夕方にメシを食べて薬を飲み、また腰痛体操をする。本を読んだりビデオを見たりして暇をつぶし、3度目のメシ。その後、またまた、寝る前の腰痛体操をする。これだけだ。なんとも刺激のない生き方である。

 そこへ青山先輩の“ズル休み奨励”発言があった。いっそのこと、「お前、いい加減にズル休みはやめろ」とか、「働けるくせに、いつまでも休みやがって」と冗談めかして言われたほうが気が楽だ。なのに慈悲深い青山先輩の目は“もう何も言うな。俺には分かっている”と言わんばかり。

 現在、自分の腰痛体験をつとめて明るく書こうとしている僕だが、ふとした時に自分自身に対して、無性に情けなくなる瞬間が訪れる。

 毎日、寝てばかりでエエんやろかなぁ… 世間から忘れられてしまうやろか… 職場復帰なんかしたくないなぁ… もう、俺はアカンのやないやろか… 俺は脱落者や、もう何にもできない……。

 そんなマイナスの感情が頭の中をぐるぐる巡る。バリバリ仕事をしている同僚からかかってくる電話に対しては努めて明るく答えながらも、電話を切った直後には猛烈な自己嫌悪に襲われることもしばしばだ。

「お前、悪いのは腰だけじゃないんだろ。上司たちは何というか精神的にも参っているとか何とか話していたぜ」

 青山先輩は帰りぎわ、そう話した。僕は精神的疲労については断固、否定した。

「いやぁ、僕ね、上司に『服用している筋弛緩剤は精神安定剤と同じもの』って言ったことがあるんですよ。意地悪く解釈すると、僕がノイローゼになっているようにも受けとめることが出来ますからねぇ」

 僕は青山先輩の意味深な表現を笑い飛ばしたものの、響子の目からすると、若干の欝(うつ)の状態になっているという。精神安定剤のお陰でヒステリックになることは少ないが、ぼーっとしているかと思うと、気分が沈んだり、妙味ヘラヘラしたり。

 青山先輩の見舞いから数日後、同郷(大阪)出身でフリーライターをしている渡辺さん(仮名、42歳)から電話をもらった。健康そのものの団塊世代の渡辺さんだが、彼も20代のころ、長年にわたって腰痛に悩んだという体験談を話してくれた。渡辺さんの腰痛の原因は、椎間板ヘルニアとか、脊椎すべり症というようなひどいものではないのだが、ストレスがたまると腰が痛み、たびたび動けなくなったという。

「自宅療養ってのは、とかく孤独なものになりがちやね。自分が世間から隔絶されたような、なんというか、精神的に自分を隔離して、ふさぎ込んでしまうもんや。君の場合は同僚から『あいつは休めてええな』とか『ズル休み』とか誤解されるかも知れんけど、療養中はあんまり考えこまんことや。のんびり、ぼんやり。これがええのや。周囲の目を気にし始めたらキリないで」

 渡辺さんはジャーナリストらしく、僕に腰痛体験を書くことを僕に勧めた。別にマスコミなんかに取り上げられなくてもいい。同じ腰痛で困っている人に参考となるような内容のものを書くことで、僕自身の気もまぎれるのではないか、と渡辺さんは言う。

 そして僕は、つたない文章をせっせと書き、現在、ああでもない、こうでもないと推敲を重ねているところなのだ。



第8章 へたな鉄砲も数撃てば

 =民間療法の選択について(3)=



「あの人なら信頼できるんじゃないかしらん」

 響子が、日本酒愛好会で若い誠実そうなカイロプラクターと出会った。響子には、これまで出会った医者や民間療法のセンセイたちとの関わりについて、すべて話していた。 にもかかわらず響子は、太鼓判に近い言い方をした。

 お前がそこまで言うんなら、ハシゴついでに行ってみるか。ワラにもすがるというほどの悲壮感はなく、物見遊山のような気分で、電話予約を入れた。

「鴻池カイロプラクティック(仮名)」。

 都心ど真ん中にあるちっぽけな雑居ビルにある小さな“診療”施設だ。カイロプラクター・鴻池さんは20代前半といったところ。圧倒的に若い。

 なんや、頼りないなぁ。

 これが僕の第一印象だった。心配でならないのだ。彼はまず、僕をカイロプラクテッィク独特の電動式診察台に乗せて、うつ伏せにした。この状態で、椎間板を上から順に軽く押していった。

「いま押しているのは第2腰椎と第3腰椎の間です。痛みますか?次は第3腰椎と第 4腰椎の間です。はい、第4と第5の間を押しています。痛くないですか?次は第5腰椎と仙骨の間…」

「イタタタタ。そそ、そこです、そこです」

 鴻池さんが第5腰椎と仙骨の間を軽く押しただけで、強烈な痛み感じた。

 話は若干前後するが、僕のヘルニア箇所について、中央総合病院の篠原医師は、レントゲン写真を光にかざして「第4と第5の間」と診断した。これに対してセカンド・オピニオンのトータル・クリニックの牧田医師は「第5と仙骨の間」と断定した。そして現在、カイロプラクターの鴻池さんが、僕の腰の最大のヘルニアの患部を「第5と仙骨」と言い切った。しかも、押されたときの痛みがそれを証明していた。

 シノハラの奴が間違って、牧田さんと鴻池さん正しいんだ!

 次に、鴻池さんは、自分の握り拳を、うつ伏せ状態の僕の下腹の下に入れた。このげんこつが下腹部の筋肉を圧迫し、かなり痛い。この状態で鴻池さんは再度、順番に骨と骨の間をゆっくりと押していく。すると、さっき激痛を感じた第5腰椎と仙骨の間の部分は、不思議なことにそれほど痛くはない。むしろ、げんこつの上に体重を乗せているために感じる下腹部の筋肉の痛みの方が圧倒的に大きかった。

「簡単に言えばぁー、あなたの下腹部の筋肉がほとんど機能していないんですよぅー」

 どこから見ても若造である鴻池さんは、不自然に語尾を伸ばす聞き苦しい口調でしゃべる。いまどきの若い奴らに多いしゃべりかただ。実にカンに触る。イライラさせられるものの、彼の言わんとしたのは下腹部の筋肉を鍛えれば、痛みはかなり改善するということだった。つまり下腹にげんこつを入れられても、痛みを感じなくなるような腰痛体操をすべきだ、ということ。これには納得した。

 さらに、鴻池さんは初診で僕に下腹を効果的に鍛える腰痛体操を懇切丁寧に指導してくれた。

「もっとぉー、みぞ落ちを落としてぇー。そーそー、ぐっとお腹をひっこめてぇー。だからぁー、さっきも言ったようにぃー……」

彼が教えてくれた腰痛体操とは、
(1)まっすぐ仰向けに寝た状態で、足を肩幅の間隔に広げて立て膝にする
(2)胃袋を胸の方に上げるようにお腹を引っ込めて、背中を床に押しつけたまま腰を浮かせるようにする
(3)下腹の筋肉と太股の表側に筋肉疲労を感じるのがもっとも効果的で、このポーズを30秒ほど持続する −−といった内容だ。

「この体操はぁー、やり過ぎるということはありませんからぁー。下腹と太股の筋肉痛が少々出ても気にしないでぇー、座骨神経痛のぉー、痛みがぁー、出るよりもぉー、そのぉー、筋肉通が出ないとぉー、効果がないからぁー……」

 うるさい、ちゃんとしゃべれ!

 要領を得ないしゃべり方ながら、鴻池さんは下腹と太股の筋肉痛を気にせずに、がむしゃらに腰痛体操に励めということだった。口下手という点では内田センセイと同じなのだが、治療自体は大違い。訥弁ながら誠実さのにじみ出る鴻池さんの診断を、僕は少しずつ信用し始めた。

 セカンド・オピニオンを求めた時と同様に、僕はレントゲン写真を鴻池さんに見せた。

「あのぅ、この写真ですがぁー、立った状態で撮りましたかぁ?」

 彼はどのような姿勢でレントゲンを撮ったのかを尋ねる。というのは、レントゲンに映る骨の状態というのは、撮影時の姿勢によって大きく変わるのだそうだ。彼の持論というのは、直立している状態など日常生活と変わらない姿勢の写真がもっとも現状を把握させる、という。

 合計6枚撮ったものの、直立したり、椅子に座ったような状態の写真はない。日常ではほとんどしないような不自然な姿勢を要求されて撮られた、というのが実状だ。だから、ふだんの様子がまったくわからない。この質問には参った。

 僕のような素人にもじゅうぶん理解できることしかしゃべらない。難しい単語や専門用語で煙に巻くようなことが全く感じられない。彼の幼い表現の中から僕は説得力のある意味を見いだすよう努力しようと決めた。

 この章を書いている現在(闘病から1カ月半)、僕はまだ鴻池さんのカイロ診療を受け、中央総合病院で牽引治療を受けている。まだ時おり、腰が痛んだり、寝起き時に神経痛が右足に走ることがある。そんなとき、最も役に立っているのは、鴻池さんのアドバイスだ。



第9章 治療者と患者の目線は水平に

 =主体的な治療について=




 この章を書こうとしたとき、古くからつきあっている親友から電話をもらった。僕が腰痛に伏せっていることを友を介して知り、心配して声をかけてくれた。

「自宅療養って、何しているんや?」
「腰痛体操したり、通院したりやねん」
「ホンマかいな。『小人閑居して不善をなす』と言うやないか。ろくでもないことしてへんやろと思てたんやけど」
「実はノンフィクションみたいなもんを書いてるんや」
「腰痛体験記みたいなもんか?」
「そうそう。ただノンフィクション風のフィクションなんや」
「何やそれ? 嘘も入ってるんか」
「いや、核心部分は真実。腰痛持ちの人の参考になれへんかかぁと思ってね」
「危ないなぁ。人に迷惑をかけないようにな」

 こんな会話が30分ほど続いたのだが、最後まで悪友のヤツは、僕の腰痛体験記など“話半分”とか“信じられん”という悪口を続けた。

 しかし正直、僕はそれでいいと思う。僕自身が他人の腰痛体験記など頭から信用しないはずだ。

 まぁ、参考程度に目を通してやってもエエやろ。読者からそう思われても、それで十分だと思う。

 僕が出会った「治療する側」の人たちは、中央総合病院整形外科の篠原医師、トータル・クリニックの牧田医師、鍼灸師の小柳さん、整体師の石黒さん、カイロプラクターの内田さん、そして、鴻池さん……。

 書物では『腰痛の正しい知識』(片岡治著、南江堂)、『名医のからだ視診』(大國真彦著、ダイヤモンド社)、『会社人間のメンタルヘルス』(延島信也編著、泉文堂)、『つらいつらい腰痛〜「アブナイ治療」で泣きを見る前に読む本』(大朏博善著、こう書房)……。このほか、千葉敦子の諸作品といったところ。新たな知識は現在も仕入れている最中だ。

 ただ、2カ月近くたっても僕はまだ職場復帰できずにいる。まだ完全に回復していない。椅子に座っていると、腰が痛む。寝起き時には軽い座骨神経痛を感じることもある。正直言って、仕事が恐い。

 なによりも自分の腰に対して歯がゆい思いを抱いている。情けなくも感じる。いつ回復するとも分からない椎間板ヘルニアに対峠するには、精神的な支柱が欲しくなる。簡単に言えば何かに“盲信・盲従”してしまうことだろう。

 あの先生は名医だから、全部お任せしよう。
 この療法はすばらしい。きっと早く治るはずだ。

 心からそう信じてしまえば、病気と立ち向かう際に、とてもラクだ。不安から解放され、安らかな気持ちでいられるだろう。

 でも敢えて僕は主張する。

 西洋医学であろうと東洋医学であろうと、患者に求められているのは、盲従しないということだ。懐疑精神を失わず、患者の側が主体的に医療を利用するべき、ということだ。

 言うは易く、行うは難し、だろう。患者の側は病気によっては、動けないとか、喋れないとか、あるいは、精神的に参っているとか、さまざまなハンデがある。豊富な知識を持っている医師たちと、同じ高さの目線で向き合うのは困難だということは承知の上だ。それでも、この志だけは貫きたい。

 書物によると、腰痛治療というのは、医療の側が十分に成熟していないという。また、完璧な腰痛治療などどこにもない。だから僕の体験記などを、あてにしてもらっては困る。たとえ僕の雑文を参考にしてもらたとしても、盲信・盲従は自殺行為だ。主体的に医療や医療従事者を選択し、自分が治すという姿勢を持ち続けることこそ、闘病の王道ではないかだろうか。



   ★おわりに★

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。とりあえず思いつくまま9章を書きました。

 椎間板ヘルニアをはじめ、さまざまな腰痛の「痛み」というのは、経験者しか分かりません。この痛みを共有している方々で、意見交換や情報交換ができればいいなぁ、とも思っています。とりあえず、私の体験記に関するご意見や批判、誤記述などがございましたら、メールでお知らせください。



   ★おわりに Vol.2 ★

 ニフティにアップした拙稿に、野原さんからメールをいただいてから、いくつもの季節は巡りゆきました。私(亀井遠士郎)は、既に、激痛から解放され、安穏とした日々を送っています。腰に関しては、ほとんど意識することもありません。

 そして、つい先日、ネットサーフィンをしているときに、たまたま、野原さんのページを見つけました。おぉ、懐かしい。そんな気持ちと同時に、私は恥じ入りました。移り気でチャランポランな性分の私と違って、野原さんは、いまだに腰痛問題にこだわり続け、「あの痛み」を体験した人のために尽力されている──そう思うと頭が下がりました。

 野原さんに数年ぶりのメールを出したところ、「ヘルニア戦記」を覚えてくださっていて、ホームページに載せたていだだける旨の返事をいただきました。そこで、今回、みなさまにこの文章をアップすることができた次第です。前回ニフティに載せた原稿があまりに乱暴だっため、このたび、インターネット版として、多少の加筆・修正を加えました。腰痛で苦しんでらっしゃる方の、ひとときの慰めになれば、と切望しています。

 蛇足ながら、私と野原さんは、ネット上だけの知り合いです。どんな方なのか、なにも知りません。しかし、「あの痛み」をメールで伝え合い、互いに乗り越えたんだという連帯感で強く結びついているのだと信じています。

 最後になりましたが、野原さん、これからも頑張って下さい。

 1997年6月23日


亀井遠士郎