「苦痛の9ヶ月」 by Kiyoshi Ishida

 (NiftyServeすこやか村から転載)


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もくじ

<前兆> <甘い考え> <悪化> <1回目の覚悟> <束の間の一安心> <2回目の覚悟> <停滞> <油断> <更にプレッシャー> <3回目の覚悟> <検査入院> <ロスタイム> <4回目の覚悟> <スタート> <楽しかった一時> <オペ入院> <オペ> <1日目> <2日目> <3日目> <4日目> <5〜6日目> <出発>
286/292 PXS00412 kii 苦痛の9ヶ月 椎間板ヘルニア#01(長文) (10) 96/03/14 05:04

<1>
これは椎間板ヘルニアとの9ヶ月間の闘いの記録です。同じヘルニアで苦しんでいる方の何かの参考になればと思いUpLoadします。
病気とは直接関係のない事にも触れていますが当時の心境を表す為の物です。
また、長文になると思われますので興味の無い方は飛ばして下さい。

注意! 私は医療関係者ではなく一人のヘルニア患者です。従って、専門用語、表現、治療方針、治療に対する評価はあくまでも私自身が体験して私自身に対しての評価や意見ですので誤解のないように宜しくお願い致します。

氏名>石田 清 (kii) 生年月日64年8月30日 31歳(男)独身

職業>小さな会社の営業関連業務 2年半前、会社上層部と一悶着あり。現在、閉鎖寸前の営業所に左遷。(会社での立場が危うい状態。)

趣味>テニス(月10時間〜20時間) スキー(連休は殆ど滑っています) 波乗り(最近はちょっと現役から遠のいています)

私生活>仕事も(将来の希望は薄いが)一段落し、また結婚資金なども貯まってきたので結婚を95年内に決める(現在はヘルニアになった為、結婚は延期)。それと同時に結婚資金を元に現在の低金利の恩恵を預かろうと思い、住宅を購入する。(住宅購入の為、予算切れで結婚式は中止)。結婚相手は13年間付き合ってきた彼女です。(住宅はヘルニアになる前に建築会社と協定を結んだ為、現在進行形。)

腰痛歴>中学時代にサッカー部に所属。(サッカーの名門帝Xからお誘いがあった位の熱血部員?。)朝から晩までサッカー漬けの日々を過ごした結果、3年になった時から腰痛が出るようになる。酷い時には振り向く事も出来ず、治療らしき事は何もせず自然治療で治す。10代終わりの頃、仕事の関係で車を一日中使用し、重い荷運びもしばしば行っている内に再び腰痛が出る。治療は病院での牽引治療や局所注射、自宅での温熱治療などで腰痛が治まる。冬場になるとたまに腰痛が出たりするが、自宅での温熱治療をすると腰痛は治まる。

<前兆>
95年5月下旬
仕事中に些細な事で腰を捻り、それ以来腰痛が出るようになりました。当時は”また腰痛が出た。自宅で温熱療法をすればすぐに治るだろう。どうしても治らなかったら病院に行って以前の様に牽引と局所注射をすれば治るはずだ!。”と腰痛を甘く考えていました。従って腰をかばう様な事もせず、結構無理(休みの日には痛いのを我慢してテニスなどを1日中やっていました)もして過ごしていました。

95年6月8日
仕事中に物を拾おうとしてしゃがみ込んだ時、左足にプチンという感じの痛みが走りました。その瞬間”あっ!いた”っと言って後ろにのけ反りましたが、その痛みはすぐに消えていつもの腰痛に戻りました。これがこれから続く苦痛の始まりの合図だったとは夢にも思いませんでした。

<甘い考え>
95年6月9日
目が覚めると左足(膝から下)に痛みが有る事に気づきました。昨日しゃがみ込んだ時の痛みをすぐさま思い出し、”きっとあの時に足の筋か何かを痛めたんだろう。腰に続き足とは最悪だ。”と思い考えていました。
腰痛と原因不明の下肢の痛みと今日は金曜日なので3連休にしたい気持ちもあって、会社は休む事にしました。(この時期の症状はこの程度と云う事です。)

95年6月10日
”足の痛みは依然消えないがほっといても自然に治るだろう。早く治してテニスがやりたい。”この時の気持ちはこんな感じでした。痛いのはイヤだけど一発屋(力技で治す所)に治療に行く事にしました。一発屋では”足の痛みが有る内は治療できない。足の痛みが無くなれば機械で一発で治る”と言われ治療は軽いマッサージだけで終わりました。一発屋の料金は5000円。健康はお金には変えられないが”ほっといても時期に治る”の甘い考えが”ここに投資するのは無駄使いになるからやめよう”と決めました。

95年6月12日
”足の痛みはかなり増してきている。どんな姿勢をしていても痛みが和らがない。ちゃんとした病院での治療が必要だ!。医者の助けが必要だ”と痛感して、大学病院(車もしくは電車で1時間強の場所)にて診察を受ける事にしました。朝1番に病院に行き、午後になって診察の番が回ってきました。診察は脚気の検査と上向きに寝て足を上げる検査と問診で5分程度で終わりました。先生の指示は、「通院の出来る整形外科で牽引をして下さい。」の一言でした。座ることも寝ていることも辛い状態だったので素っ気なく「牽引して下さい。」で何も処置をしてもらえず、不安になり「牽引しても良くならなかったら?」と先生に質問をすると、「それでも牽引」とだけ言われて1日がかりの診察は終わりました。

95年6月13日
自宅から徒歩1分の所で先生が一人でやっている整形外科に通うことにしました。この時期の症状は、日毎に痛みが増していました。足の脹ら脛を触られるだけで悲鳴を上げる位でした。もちろん自力では下半身の着替えは出来る状態ではありません。こんな状態の為先生は「牽引治療は出来ません。足の痛みが少し退かないと始められません。」と言われ薬を渡され帰されました。また処置無し。納得のいく説明も得られませんでした。でも、私の頭の中には”牽引さえ始まればすぐに良くなる。前に腰痛が出た時も牽引ですぐに良くなったじゃないか!。”との考えがあり、足の痛みが引くのを待つ事にしました。

95年6月13日〜95年7月10日
初診の日から数日後、足の痛みは少しは和らぎました。脹ら脛も触られても悲鳴を上げる程ではなくなっていました。(でも、自力で下半身の着替えを出来るほどではない)”これなら牽引をしてもらえるのでは?”と思い、近所の整形外科に診察に行ってみると牽引を25Kgで開始する事になりました。治療(低周波と牽引治療)が始まっても症状は依然良くなる兆しはありませんでしたが、”牽引さえ始まれば”の甘い考えがあり、”良い骨休みだ”と考えて、体が痛くても結構気楽に通院の日々を過ごしていました。

287/292 PXS00412 kii 苦痛の9ヶ月 椎間板ヘルニア#02(長文) (10) 96/03/14 05:05

<2><悪化>
95年7月11日〜95年7月20日
足の痛みが出て1ヶ月が経ち症状は依然消えません。通院し始めた頃、先生は「1ヶ月も経てばかなり良くなって会社にも行けるようになる。」と言っていた事を思い出し先生に相談をしました。先生は、「では、牽引力を上げましょう。」との事で次回から牽引力を徐々に上げる事になりました。牽引力を上げて3日目には、今までに味わった事のない激しい痛みが出るようになりました。先生に痛みが増した事を告げると、「では、MRIでも撮って貰いましょう。それと牽引力を前に戻しましょう。」との事でした。ここで初めてMRIと云う検査を知りました。早速、指定された病院に行きMRIの撮影をして貰いました。(撮影方法は今まで通院している所の指定)。出来上がった写真を持って、今までの整形外科に行き説明を聞くと、「患部らしき物は何もない。このまま今までの様に治療して行きましょう。」との事でした。納得のいかなかった私は、「このままで治るような気がしない!。何か他にする事はありませんか?」と訪ねると、「この体に慣れなさい。入浴後に前屈運動やストレッチをしてこの体に慣れるしかないでしょう」との事でした。痛みが増した今は、とてもストレッチなど出来る状態でもなく(入浴をするのも辛い)、牽引治療を受けられる状態でもない。またしばらく痛みが収まるまで牽引の為の通院と指示されたストレッチをするのを止める事にしました。(鎮痛剤がなくなった時だけ通院。)

95年7月22日〜95年7月30日
牽引治療を止めた事によって痛みは少しずつ和らぎ始めました。下半身の着替えもスエットの様な簡単な物は出来る様になってきました。(出来ると言っても普通には着替えは出来ません。道具や場所によって出来るようになっただけです。靴下はまだ履けません)。少し動けるようになったのでストレッチ等も少しずつ始めることにしました。また、有名な鍼灸や整体にも通って見ましたが効果はまるで有りませんでした。治療院によっては逆効果の所もありました。また、仕事の方は労災の認定が未だに取れていなく、このまま認定が取れないと職を失う危険性も出てき始めました。不動産も予定だとそろそろ借入などの手続きが始まる頃で、精神的にもかなり参ってきました。

<1回目の覚悟>
95年7月31日
”7月も終わるのに一向に治るような気がしない。このままでは全てが終わってしまう”と思い大学病院に相談すると、大学では「手術を前提に診察をしていきましょう。次回の診察から脊髄専門医の先生に診て貰って下さい。」との事になりました。靴下を履く事も出来ないくせに”オペだけはどんな事をしてでも避けたい”これがこの時の本音でした。オペの話が出た時は、そこの見えない井戸に突き落とされた様な気分になり、絶望感で一杯になりました。そして、鍼灸などの治療を全て止める事にしました。厳密には止めることにしたと云うよりも”何もやる気が出ない”と云う事です。

95年8月3日
大学に診察に行きました。今日から脊髄専門医の新しい先生に代わりました。新しい先生は女医さんで、見た目は同じ歳くらいに見える先生でした(実際は4歳上)。新しい先生に今までの課程を説明し、以前に撮ったMRIの写真を渡しました。先生は、「このMRIの写真は撮影方法に問題があり、あまり参考にならない。椎間板の輪切りの写真が4枚しかなく大ざっぱすぎている。再度撮影し直す事。処置として神経恨ブロックをして様子を見ることにする。」と云うことになり、MRIを医院外で撮ることにしました。(医院外になったのは大学だと1ヶ月待ちになると説明を受けたからです。)新しい先生に対して、正直に言ってかなり不安を感じました。若くて女性。(この時点では先生の歳は知りませんでした。)女性差別と言われる発言ですが、やはり経験豊富の中年男性の先生が、私としては安心が出来る様に思えました。それと先生に対して不安を感じさせた理由として、以前通っていた近所の整形外科の先生が診断書を書く時に、「病名は椎間板ヘルニアにしときましょう。ヘルニアと云うといかにも……」と言っていた事。MRIの撮影の不出来。2ヶ月近くも経って依然良くならない事。大学でブロックなどの処理があるにも関わらず「それでも牽引」などがあったせいで、医者に対して不安が出てきているのかもしれませんでした。この時期の症状は以前と変わらずで、どうにか少し動ける。寝ていると痛くて耐えられなくなり、深夜壁により掛かって過ごす日々でした。冷気に対して非常に敏感で冷蔵庫を開けるだけで足の痛みが増す。もちろんエアコンなどの使用は、出来る状態では有りませんでした。

95年8月10日
医院外で撮ったMRIを持って大学に診察に行きました。今度のMRIの写真には、はっきりと出っ張りが映っていました。先生は写真を見ながら、なぜ足に痛みが出るか、などヘルニアについて丁寧に説明をしてくれました。また、治療についても丁寧に説明をしてくれました。その治療についての説明によると、「3ヶ月間は様子をみる。3ヶ月経っても症状の改善傾向が見られなければオペの適応を考える。また、オペの適応はヘルニア患者の1割で、残りの9割の患者はオペをしないで治っています。」との事で、私の場合は2ヶ月しか経っておらず、オペを考えるにはもう少し様子を見た方が良いとの事でした。また、無理な牽引で悪化した時からは1ヶ月しか経っておらず、このまま保在治療を続ける事になりました。取り合えず、オペに対する不安や心配から解放され精神的に少し楽になりました。

<束の間の一安心>
95年8月11日〜95年9月19日
この時期、症状は少しずつ良くなってきているようでした。1日毎では良くなってきている事が分かりませんが、2週間単位で自分の症状を比べると、”あ〜以前より動ける範囲が広がっているな。”と感じるようになってきました。調子が良いときは、靴下も履ける様にもなってきました。仕事の方も、椎間板ヘルニアとしてではなく急性症状の腰痛の様な形で労災の認定(完治まで認定されず半年くらいの保証)が取れて一安心になりました。不動産の方は競売が絡んでいる為、7月の予定が9月以降に変更になり、こちらの方も一安心になり精神的にかなり楽になりました。

<2回目の覚悟>
95年9月20日〜95年10月4日
激痛で起こされる事もなくなり、靴下もどうにか履けるようになりましたが、とても働ける状態ではありませんでした。9月以降に不動産が進展する予定もあり、痛みが出て3ヶ月も経った事もあり、オペを考えはじめました。先生にオペを考えるように言われた訳ではありませんが、不動産や会社の事や結婚を考えたら、このままグズグズしていられないと思い、オペを考えはじめたのです。”オペをすれば確実に早く治る。”と頭では分かっていても、なかなか先生に「オペを適応して下さい。」と言い出せず苦悩の日々が続きました。

95年10月5日
大学の診察日でした。先生に「オペを適応して下さい。」とは、さすがに自分から言い出せませんでしたが、「オペは必要ですか?。先生が必要と思うならやって下さい。先生が決めて下さい。」とどうにか言い出しました。先生は、「以前に比べてかなり良くなってきていると思います。改善傾向が止まっていないと思われますので、オペの適応は考えなくても良いのではないでしょうか。」との事でした。では、「後どのくらいで仕事が出来るようになりますか?」と先生に質問すると、「年内いっぱいはかかるでしょう。このまま改善傾向が止まらなければ、来年からは仕事に戻れるでしょう。」との事でした。この時期の症状は、今までは車で送って貰わないと通院が出来る状態ではなかったのですが、今日は自力で電車で通院が出来るくらいに回復していました。

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<3>
<停滞>
95年10月6日〜95年10月31日
足の痛みも姿勢によってはかなり痛みが出なくなってきました。日常生活も、以前(夏)に比べればかなりスムーズに行えるようになってきました。しかし、仕事に戻れるほどには、回復はしていません。以前は2週間くらいの単位で、症状を比較すると何となく良くなっているのが分かったのですが、最近はまるで変わらない様で、行き詰まりを感じるようになってきました。仕事の保証も残り1ヶ月くらいに迫まり、不動産も9月以降の予定が11月には始まる予定になっており、かなりの精神的プレッシャーがまたかかってきました。治療の方も薬の服用だけで、年内に治るような感じがなくなってきました。これが保存治療の限界点に達しているように、この頃から感じ始めました。

<油断>
95年11月1日
以前はかなり気を付けて日常生活の動作をしていたのですが、最近はかなりスムーズに動ける様になってきた事と痛みが薄れてきた事などで、いつの間にか日常の動作に対して気遣いが欠けていた様です。その事を思い知らされたのは、何気なくソファーから立ち上がろうとした時に起こりました。立ち上がった瞬間、足に痛みが出たのです。それから、立ち上がり直立の姿勢になる度に、10秒遅れくらいで股の裏側と脹ら脛と足首に痛みが出るようになったのです。この痛みは、立ち上がった時にしか出ず、痛みも30秒くらいで和らぎ、今までの症状に戻ります。ちょっとした油断で、またどこかを痛めた様で、精神的ショックと立つと痛みが出るので寝て過ごす事にしました。

<更にプレッシャー>
95年11月2日
大学の診察日でしたが、自力では行けず車で送って貰う事にしました。診察では、昨日痛めた事を説明するとMRIの撮影をする事に決まりました。痛めた話をした後、急にMRIを撮る事になって、”何か裏があるのでは?”との考えが頭の中を走り、「なぜMRIを再度撮るか?。」と質問した所、「時期的な物です。」とだけ説明を受けました。何となくスッキリしないまま、MRIの予約(医院外)を取り診察を終えて帰宅しました。自宅に戻ると建築会社から書類を揃えて欲しいと連絡があり、”よりによって、こんな時に話が進展しなくても・・・”と思い、気分はどん底、焦りとプレッシャーで押し潰されそうでした。

95年11月7日
手元にMRIの写真と新居の原案の間取り図が届いていました。ヘルニアにならなければ、ウキウキ気分で間取りを考えているはずなのですが、現実は違っていました。大きな封筒(MRI)とA4の封筒(間取り)を眼中に置き、ただ呆然と痛みに堪えながら日中を過ごしました。夜になり、やっとの思いで現実を受け入れ、間取り図を開けて検討する事にしました。MRIの写真は、中を見ても良い(見方は知っています)と言われていたのですが、とても中を見る勇気がなく、部屋の片隅に隠す事にして、少しでも精神的に楽になる努力をしました。

<3回目の覚悟>
95年11月9日
MRIを持って大学に行きました。新しいMRIの写真は、以前撮った物と変わりはなかった様でしたが、先生からオペを薦められました。オペの適応に関して先生は、「5ヶ月も経って、この状態ではオペの適応を考えた方が良い。立ったり座ったりの日常的な事で、痛みが増す様ではこれ以上の改善はあまり望めないでしょう。」との事でした。先月までは、「オペは考えなくても良い」と言われていたのに、急にオペを薦められたので、動揺してオペに対して即答出来ませんでした。”あの時の油断さえなければ、この痛みもなく治ったかもしれない”との考えと急な話でもあった為、オペに対する回答を1ヶ月後にする事にしました。先生は、MRIを予約した段階からオペの適応を考えていたらしいのですが、患者の私には、その時には何も予告はなく、ただ「時期的な物です。」だけの説明だった時に、今回の様な説明を聞いていれば、こんなに動揺せずにこの事態を受け止められた様な気がしました。オペについて先生は、「大学ではベッド待ちになるので医院外で行います。出頭医は全て大学のドクターで行いますので安心して下さい。私も出頭致します。」との事でした。また、オペを行うには2回検査が必要らしく、その検査をする為には、入院が必要との事でした。検査入院についても、”検査入院するなら、そのままオペもやって欲しい”との考えがあり、検査入院の事も1ヶ月後にオペの回答と一緒にする事にしました。

95年11月10日〜12月6日
オペの話が出てからは何も手に着かない状態で、毎日生きていく為の最低限(食事やトイレ)の事以外は、何もやらずに寝て過ごしていました。オペの話が出て1週間以上が経ってから、”どうせやらなくてはならないのなら早い方が良い。仕事の保証も不動産も時間がないのだから……”と、時間が経つのと同時に徐々に思えるようになってきました。いや、思うように努力して自己暗示をかけました。

95年12月7日
今日は大学に返事をする日です。朝起きて大学に行く準備をしていると、今まであった立ち上がると痛い症状がない事に気づきました。他の症状もかなり良くなっている事も気づきました。きっと、1ヶ月近く寝て過ごした事が良かったのかも知れません。大学での診察も、「かなり痛みが取れてきた様なので、しばらく様子をみましょうか?」と言われましたが、このまま保存治療をしていても時間の無駄(無駄と云うより時間がない。精神的にもそろそろ限界。)に感じられて、「今月中(年内)に検査及びオペをして下さい。」と申し出ました。また、今までの主治医が、年内で止めてしまう事もオペを決意させた理由の一つです。(先生が変わって、また1からでは、たまったものではないと思ったからです。)先生は、「検査は2週間かかり、今からだと年内に検査が出来るかどうか、難しい所です。先方の病院の都合もあるので何とも言えませんが、出来るだけ早く事を運べるようにしましょう。」と云う事になりました。2回の検査で、なぜ2週間もかかるかと云うと、大学の先生が週に3回しか先方の病院に行かない事。検査及びオペは、水曜日にしか行っていない事で、どうしても2週間くらいは必要になるそうです。

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<4>
<検査入院>
95年12月9日
大学の紹介状とMRIを持って、オペを依頼する病院(車で1時間半〜2時間、電車&バスで1時間半強の場所)に行きました。ここでの担当医は同じ歳の男の先生でした。先生は、「6ヶ月も経ってスッキリしないのなら、オペの適応は十分に考えられます。」と言われました。心の何処かでオペをしたくないと思っている私は、「この数日は普通に歩けたり、小走りする事も出来ます。前屈もかなり出来ます。」と無意識に健康体に近い事をアピールして、「これならオペは必要ない。」と言われるのを待っていた様な気がしました。必要以上なアピールだった為か、先生は「オペの適応は検査や写真では判断が出来ません。日常生活に支障があるのならばオペを適応し、支障がなければこのまま保存治療を続けましょう。従ってオペを受ける受けないは自分で決めて下さい。」と言われてしまいました。やっとの思いで決意したオペ。ここで意志を曲げては元に戻ってしまう。また苦悩の日々を過ごさなければならないと思い、「オペを前提に検査をして下さい。」と申し出て、採血、レントゲン(胸部)、心電図、検尿などをして、入院手続き(予約)を済ませて帰りました。今後の予定は、19日入院、20日脊髄造影(ミエロ)、21日退院、26日入院、27日椎間板造影(ディスコ)となりました。先生に、経済的に苦しいので(不動産の為)、出来るだけ入院の日を減らしてもらえる様にお願いした結果こうなったのです。(大学では保証が得られていますが、大学以外は自己負担な為。)

95年12月19日
10時に入院手続きを終わらせ病室に入りました。看護婦さんから明日の検査についての簡単な説明を聞いただけで今日は終わりました。

95年12月20日
朝6時に検温で起こされ8時に朝食になりました。朝食後、看護婦さんから、「オペが3件入っている為、検査の時間は今の所未定です。検査が終わるまで絶食をして下さい。」と言いれ、待機する事になりました。11時頃、看護婦さんが来て、「11時半頃から検査を始めますので、この検査着に着替えて待って下さい。また、検査着は後ろ前を反対にして着て下さい。」との事でした。検査着は浴衣の様な物で、検査を腰から色々と行う為、後ろが開く様にしなければならないようでした。1時半になりやっと検査に呼ばれました。検査は、TVレントゲンの台の上で海老のようになり、レントゲンを見ながら腰の少し上の方に針を刺して造影剤を脊髄に注入しました。針を刺す時に足に何とも表現しがたい痛みが走りました。造影剤を注入した後、ストレッチャー(移動式ベッド)で病室に戻され、ベッドを45度位上げた状態でしばらく待たされました。この待ち時間は、造影剤が数十分経たないと効力を出さないからと説明を受けていました。数十分後、再びストレッチャーでCTスキャンを撮り、再びベッドに戻されました。
ベッドに戻ってから4時間の点滴を受け、点滴終了後にやっと自由の身になりました。なぜ、ベッドアップされて安静が必要だったのかは、脊髄に注入した造影剤が頭に上がらない様にする為だそうです。夜、先生の回診があり、今日の検査の写真を見せられて、オペを受けるか受けないかの話になりました。オペを受けるのなら、ディスコ検査を受けなければならない。そのディスコ検査は、今日の検査よりかなりハードな検査らしく、「オペを受けないのなら、わざわざ痛い思いをする事はないでしょう。」と言われました。当初の予定通り、来週に検査をお願いすると、「来週は出来ない。ディスコ検査は来年になる。」と言われ、話が違ってきました。”検査だけども年内に終わらせて、来年にはオペをすぐに出来る状態にしたい。”この気持ちは変えられない。そこで、先生に「予定が違います。どうにか対処して下さい。」と交渉をした結果、違う先生に翌日ディスコ検査をして貰う事になりました。

95年12月21日
検査までの時間は昨日と同じ様に過ごしました。検査は2時半から始まり、ディスコ検査はミエルと全く同じ方法で行われました。ただ、針を刺す位置が違っただけの様でしたが、痛みはかなりハードでした。検査中は痛み為、冷や汗で検査台がびしょびしょになり、気分が段々と悪くなり、最後には吐く寸前の状態になっていました。限界点に達する一歩手前で造影剤の注入は終わったのですが、検査を行った先生は、「造影剤がいくらやっても、入れたい量が入らない。しかし、心配することはありません。レントゲンで確認しながら、行っているので問題はないと思います。」と言って、CTスキャンを撮るように指示されました。CTを取り終えて病室に戻り、3時間の点滴を受けた後に自由が許可されました。

95年12月22日
”これで痛い思いをする事もなくなった。オペは全身麻酔だし、オペ後の痛みも人によってはあまり感じない人もいる。たとえ痛みが出ても、その痛みは薬で抑える事が出来るらしい。1週間寝ていれば、この煩わしい痛みともお別れが出来る。”検査を終えた今は、そう考える様にしていました。今回の検査の結果は、私がディスコの写真その他を持って、大学で聞く事になり、今日退院となりました。

<ロスタイム>
96年1月5日
大学に去年のディスコの写真を持って先生(今日から新しい先生。ミエロ検査をした先生)に診断して貰いました。オペを覚悟して行ったのですが、先生は「もう少し様子を見ましょう。理由として、ディスコの写真にはそれ程大きな患部が映っていない。足が以前より上がる様になった事。11月に痛めてから2ヶ月しか経っていない事。これなら何とか逃げられそうな感じがします。」との事で、薬を変えて2週間様子を見る事になりました。私は”薬で治るような気がしない”が本音でしたが、先生が「様子を見ましょう」と云う事なら、そうするしかないと思い、指示に従う事にしました。

96年1月6日〜96年1月18日
薬が変わってから体調は思わしくありませんでした。吐き気、下痢、火照り、頭痛が出るようになりました。今までの鎮痛剤も飲むのを止めるように言われ、飲むのを止めた為か、足の痛みが以前より出るような気もしてきました。自分の体に薬が合っていない。薬を飲むのを止めるか、我慢しながら飲み続けるか、かなり悩みましが、結局、薬は飲み続けることにしました。薬で治る(オペをしなくても良い)のなら我慢して飲み続ける価値はあると思ったからです。

96年1月19日
大学の診察日でした。薬があっていない事を先生に告げると、今までの薬に戻すことになりました。診察中にオペの話が全然出てこないので、先生に「オペはどうするのですか?」と訪ねてみると、「オペはやらないんじゃないの?。」と言われ、いつの間にかオペは中止になっていました。先生の口調は、私の方からオペを中止したような口調だったので、前回の診察の経緯を説明して、今後を話し合いました。結論として、次回の診察までに症状がなくなればオペを受けない。少しでも痺れや痛みが有れば、オペを受ける事にして診察を終わりました。

290/292 PXS00412 kii 苦痛の9ヶ月 椎間板ヘルニア#05(長文)(10) 96/03/14 05:07

<5>
<4回目の覚悟>
96年1月20日〜2月1日
不動産の方は先方のトラブルで、またまた予定が延期になり、少し時間が稼げて一安心になりました。仕事の保証も、今のところ打ち切りになっておらず、こちらも一安心でした。(しかし、保証はいつ打ち切られてもおかしくない状態です。)症状は、動いた時に足首に軽い痛み(捻挫をした時の様な痛み)が出る程度でした。”これならオペなんか必要ない。でも、完治した訳ではないし、いつ何時に、痛みが出るようになるか分からない。困ったもんだ。”と毎日考えて過ごしていました。そんな日々を過ごしていたある日、突然以前の様な痛みが出た日が来たのです。痛みは2日間に渡って続きましたが、安静にして過ごすことによって、痛みも痛みが激しくなる前くらいに戻りました。この日を境にオペを決意しました。今回の決意は以前とは違って、自然にライトに決める事が出来ました。なぜかは分かりませんが、”1週間寝ていれば元気になれる。その後1週間で退院も出来る。計2週間がんばれば良いんじゃないか!。もうこんな生活はイヤだ。早いとこ決着をつけてしまおう!。オペをする、しなしで悩む必要もなくなるし、かえって痛みが出たことによって決められて良かったじゃないか。たとえオペがうまく行かなくても、今より悪くなる事は現代医学では考えられないと思うし。”と自然に考えられる様になっていたせいで、オペを自然にライトに考えられたのかも知れません。

96年2月2日
大学の診察日でした。診察の時に現在の症状を説明をしましたら、先生は「では、オペはやめる?」と言っていましたが、「私は、やって下さい。2日も痛み日があったし、これからも何時痛くなる日が来るか分かりませんから。」と言ってオペを依頼しました。費用について、先生に経済事情を説明し、「入院治療費を出来るだけ節約して欲しい。」とお願いした結果、オペの前日入院になりました。(本来、全身麻酔を行う場合、ここの病院では最低でも数日前に入院。)オペ前の検査などは外来で受ける事にして診察を終えました。帰路に向かっている時から、”これで苦悩の日々から別れられる。”と云う安堵感とオペに対する不安やオペ後の経過や費用などの不安で、とても複雑な気持ちで一杯でした。

<スタート>
96年2月5日
オペ前の検査に行く日でした。特に時間の指定がなかったので午後一番に着くように出かける事にしました。(ここの病院は午後も外来をやっていた為。)出かける準備を終えて自室を出ようと立ち上がった時に、病院から電話がきました。電話の内容は、「午前中来ると思い待っていましたが来ないので連絡をしました。」でした。これから行くと事を告げると、「絶食はされていますよね?。」と確認されましたが、私は絶食などの指示も受けていない(時間の指定も受けていない)ので「絶食はしていません。」と答えました。結局検査は出来ず、翌日の午前中に行う事になりました。病院が悪いのか?先生が悪いのか?は分かりませんが、先行き不安な気持ちになってしまいました。

96年2月6日
10時30分検査開始。検査は、まず初めに500ccの水を飲まされ15分、30分、1時間、2時間毎に検尿の検査。心電図、肺活量、採血などが行われました。検査は1時には全て終わり、手術の承諾書、手術の案内書を貰って帰宅しました。帰宅後、承諾書に直ぐさまサインをして、机の中に承諾書をしまい込みました。やはり「手術」と書いて有る物を見るのは辛いからです。

<楽しかった一時>
96年2月7日〜96年2月12日
この時期の症状は、寝起き時や腰を深く曲げた時や腰に負荷がかかった時に、足首に軽い痛みと腰から足にかけて怠い様な感じが出ていました。”時間さえ有れば、もう時期に完治するだろう。3〜4ヶ月前に、こんな症状だったらオペなんか絶対に考えなかったのに。”と言った感じでした。極めつけは、12日に一日中テニス(ゲーム数は10ゲーム以上)をした事です。”どうせオペをするんだから悪くなっても良いや。かえって痛みが出た方が割り切れる。”と思い、思いっきりテニスを楽しんできました。テニスをやられる方なら分かると思いますが、腰に悪いスピンサーブ(私の場合は、かなりトスが後ろ)もガンガン打ってきました。(さすがにスピンサーブを打つ時には、軽い痛みが出ていましたが。)私の姿を見ていたテニス仲間は、「まるで病人には見えない。これからオペをするなんて信じがたい。」と言っていたくらいの運動量でした。

<オペ入院>
96年2月13日
前回の入院時と同じ8人部屋に病室が決まりました。私のベッドは窓側から一つ隣だったのですが、看護婦さんの指示で、窓側の患者さんと変わる事になりました。(1週間寝たきりになるので、はじの方が介護し易いとの事。)窓側の患者さんは、ヘルニアの検査だけの入院で時期に退院予定になっており、退院後にオペ開けの私を移すより2人共に動ける今、変わった方が良いと云う事になったからです。荷物を解いて、スエット(寝間着)に着替え終えると、アレルギーの検査と血圧の測定をし、腰周辺を剃られました。剃られている時、”あ〜本当にオペを受けるんだ。”と実感し、また同時に何とも言えない緊張感が湧いてきました。これらが全て終わって、今日の処置は何もなくなりました。明日から1週間ベッド上での生活。食事も排泄も全てベッド上での生活。動ける今、出来るだけの準備をする事にしました。まず始めに、トイレに行って出来るだけ出す事にしました。努力の甲斐あって、3回も出てスッキリ状態になれました。次に、ベッド周辺の配置を考えました。寝て、手しか動かせない状態を想定して、色々な物(ティッシュ、箸、スプーン、歯ブラシ、TVカード、ラジオ、パソコンなど)を配置しました。ただ、配置をしている時に一つ問題が出ました。それは、配置出来る台がベッドの右側に有った事です。つまり、右を向くと左手しか使えないと云う事になるからです。オペ開け3〜4日間は、自力で側方を向く事も禁止されているはずなので、食事は当然介護と云う事になります。寝返りを許可された後は、”寝ながらでも自分で食べたい”と思っていたのですが、”左手一本で寝ながら箸を使って食べられるだろうか?。”と些細な事を心配してしまいました。6時に夕食を採り、9時に消灯、消灯後TVを見て過ごし、12時頃、事前に渡されていた睡眠薬を飲んで寝ました。

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<6>
<オペ>
96年2月14日
6時に検温で起こされ、オペを受ける一日が始まりました。”今日はバレンタインデー。TVなどでバレンタインのCMを見る度に、今日までの出来事をきっと思い出すでしょう。そして、来年のバレンタインデーには、「去年は参ったよ。」と笑って話せる様になっている事でしょう。”と結構前向きに考えられる朝でした。洗面を終え、オペまでの空いた時間を利用して、この闘病記を書き始める事にしました。(前兆までしか書けませんでしたが。)12時、オペに対する準備がいよいよ始まりしました。始めに点滴が始まり、12時40分頃、マーキング(腰椎に釘の様な物を叩き込む事。)が行われ、そのままストレッチャーに乗せられてレントゲン室に行きレントゲンを撮り、そしてオペ室に入りました。
オペ室の中で、以前大学で担当医だった女の先生に会いビックリしました。知っている人に、思いも寄らぬ所で会えた事で、”やー元気ですか?”と云う何となく嬉しい気分になり、思わず「お久しぶりです。」と話してしまいました。今回のオペに出頭してくれるとは、夢にも思ってなかったからです。余談ですが、緑の帽子に緑のマスクをした先生はとても綺麗に見えました。そんな事が有ったせいか、とてもリラックスする事が出来ました。オペ室の中を冷静に見回したり、時計を探して時間を確認したりする事が出来ました。因みに時間は、1時12分でした。そんな事をしていた最中、頭の横で申し送りが始まっていました。申し送りが終わると、腕に血圧計?を巻かれ、マスクを口に当てられました。どの先生が言ったかは分かりませんでしたが、「ラヴフォーを開始します。」と聞こえて来ました。私の中のイメージは、麻酔にかかってから麻酔科の先生が、「全身麻酔かかりました。」となって「では手術を始めます。」となるものだと思っていたので、”まだ麻酔にかかってないよ!。ちょっと待って!。”と焦りました。実際には、「開始します。」の後に「麻酔をかけます。」と続いたのですが、「開始します。」と「麻酔をかけます。」の数秒の間が、数十秒に感じられ”ちょっと待ってよ!。”と焦った様でした。「麻酔をかけます。」の声の後、数字を数えたのですが2までしか数えられませんでした。あっと言う間に眠りについてしまいました。そして、次に気がついた時は、すでにオペは終わっていましたが、病室のベッドの上ではなくオペ室で目覚めたのです。(私の予定だと病室のベッドの上で目覚めるはずだった。)喉に違和感を感じて眠りから覚めたのです。覚めたと言っても目も開けられず、夢の中に入る感じでした。喉に管の様な物が入って折、そのため苦しく嘔吐しました。直ぐさま、バキュームで吸っているのが、音と鈍った感覚で分かりました。バキュームが終わると管は抜かれ楽になり、また眠りについてしまいました。次に目覚めたのは、「石田さん終わりましたよ。起きて!。」と怒鳴りながらビンタされて起こされた時でした。一度目を開いたのですが、先生に気づかれず、ビンタは止まる事なく続きました。再び頑張って目を開けるとビンタは終わり、ゆっくりとした口調で「石田さん終わりましたよ。」と声をかけられました。その声を聞き終わるか終わらない内に、再び眠りについてしまいました。次に目覚めたのは、ストレッチャーから病室のベッドに移される時でした。浴衣を、担架代わりにして持ち上げられて移された時に、患部の痛みと動かされた事によって気がついた様でした。ベッドに移された後、また眠りについてしまいました。次に目覚めたのは、酸素マスクを付けられた時です。マスクをつけられ、「石田さん、息して!。」と怒鳴る声で気がつきました。意識は戻ったのですが、目を開けるのも腕を動かす事も出来ず、まるで金縛りになっている様な感じで、患部の痛みだけを感じていました。再び、「石田さん、息して!。」と怒鳴っているのが聞こえました。自分では、言われるまで息をしているのか、していないのかは、はっきりと分からない状態で、「息をして!。」と言われたので、”ひょっとして、俺は今、息をしていないのかな?。していないのならまずいな。息をしなくちゃ。”と想い、意識してオーバーに息をする事にしました。その姿を確認した先生は、「深呼吸して。」と言われたので、言われた通り深呼吸をしました。数回の深呼吸の後、また眠りについてしまいました。この頃からの眠りは、非常に浅いもので、寝ているのか?、それとも麻酔で体が動かないだけで実際には起きているのか?、自分でも分からない状態でした。しばらくして先生が様子を診に来ました。まず右足を触り、触っている事が分かるか確認していました。続いて、左足も同様に確認しようとして触られた瞬間、もの凄い痛みが足全体に走り、「う、あ〜」と悲鳴を上げました。その後に「痛い。」と訴えたかったのですが、麻酔のせいか?、ろれつが回らず話が出来ない状態でした。もうろうとする意識の中で、先生がオペについて説明をし始めました。記憶にあるのは、通常は簡単にでヘルニアを切り取れるのですが、骨化してメスでは切り取れず手こずった事。癒着を起こしていた事。下肢の神経をいじっているので、しばらくは症状が残る事。腰に付いている管は、内出血している血を取る為の物。と言っていた様に思えましたが、いつの間にか寝てしまったので、最後まで聞いていたかは自信がありません。次に目覚めた時は、段々と患部の痛みが増し、それに比例して意識もはっきりとしてきました。酸素マスクの中で、あいうえおを繰り返し発音してろれつが回る様に努力したり、手と手を胸の上で組んで、感触を確かめたくて、手を繋ごうと努力をしたりしていました。時間が経ち、手を繋ぐ事もどうにか出来、ろれつが回らないけど話せる状態にもなりました。真っ先に話した言葉は「今何時?。」で、時間は5時でした。言葉が話せた事によって、かなりの安心感が湧き僅かながらの余裕も出てきました。”今、何をする事が最善か?”と頭の中で考え、”起きていると痛みを感じる。意識して寝よう。”と云う答えが出たので寝る事にしました。数時間後、痛みのため目が覚めてしまいました。目をじっと閉じて痛みに堪えながら時が過ぎるのを待っていたのですが、耐えきれずにナースコールを押してしまいました。コールに呼ばれた看護婦さんは、「どうしましたか?」と聞いてきたので、私は一言「腰いて(腰が痛い)!。」と返事をしました。(痛みの為、話すのが辛かった。)看護婦さんは、ソセゴンと云う痛み止めを肩に注射してくれました。筋注なので肩を揉まれたのですが、肩を揉まれるだけでも腰に響き、「もう、いい。揉まなくていい!。」と思わず文句を言ってしまいました。注射はすぐに効力を発揮し、いつの間にか再び寝てしまいました。再び数時間後、痛みとマスクを付けていた事による息苦しさで、目が覚めてしまいました。ナースコールを押して先ほどと同じように処置をして貰っている間、私は一生懸命マスクを持ち上げて、マスクの中に溜まった水分をタオルで拭いてマスクを付ける、またすぐに溜まって息苦しくなる。そして同じ事を繰り返していました。見かねた看護婦さんが、マスクを外してくれて楽になり眠る事が出来ました。再び数時間後、痛みで目が覚めました。ナースコールを押して再度処置をお願いしました。呼ばれた看護婦さんは、「今日(0時を過ぎていたので明日の0時まで)は、あと2回しかこの注射は出来ません。我慢できませんか?」と言われました。私は、”明日までは20時間もある。その間に2回しか注射は使えない。今使うと、残り1回。とても1回では20時間も保たない。我慢しなくては。”と思い、「うー……。」(我慢しますとは言えなかったみたい。)と看護婦さんに言い、目を閉じたままじっと痛みに耐えました。はっきりしない私の返事のせいで、看護婦さんはしばらく私のそばで様子を診ていたようでした。20分後(私には数時間に感じました。)、私は「ダメ、打って!。」と看護婦さんにお願いしてしまいました。そして、朝の検温の時間を無事に迎える事が出来ました。

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<7>
<1日目>
96年2月15日
検温後、上向きのまま痛み(腰周辺で足の痛みはなし)をじっと耐えて過ごしていました。10時頃、消毒の処置があり、横を向く事になりました。補助されながら横を向いたのですが、動く度に痛みは増して辛かったです。その後、膀胱に入っている管を抜きました。昼食になり、私にもお粥が出ました。”この痛みの中、ベッドで排泄をするのはイヤだ。イヤだと云うより、この痛みでは出来そうにない。出来るだけ食べるのを止めよう。”と思い、食べる事を押さえる事にしました。(この時は、痛みで食欲などはなく、自然に押さえられてました。)昼食後、婦長さんに「尿は出ましたか?。尿が出ないとまた管を入れる事になりますので。」と言われ、私は”意識がある時に管なんかを入れられたら、かなり痛いだろうな。それに惨めだろうな。がんばって出そう。”と思い、それからは下っ腹を押したり、トイレに入っているイメージを浮かべて出す事に専念しました。努力の甲斐あって、尿は出す事が出来ましたが、上向きで少しでも動いたり気張ったりすると痛みが増し、出してもスッキリと云う感じではありませんでした。排尿後、目を閉じ、じっと痛みに耐えながら時が経つのを待って過ごしました。夜は、ボルタレン(鎮痛剤)を2錠のみ、看護婦さんに「どうしても我慢できなかったら3コールしますから、その時はソセゴンをお願いします。」とお願いして寝る事にしました。痛みは、昨日ほど激しくなく、どうにか一夜を注射なしで過ごせました。

<2日目>
96年2月16日
昨日より全体の痛みは和らいで来ました。全体の痛みが和らぐのと同時に、気が付いた事があります。それは、切った所よりヘモバックドレン(管)が入って入る所が痛むのが分かってきたのです。”ヘモバックが抜けない限り、この痛みは和らがない”と痛感しました。午後になって、装具屋さんが来ました。寝ながら、腰回りのを計り、コルセットを注文しました。この時も、動かされたのでかなり痛かったです。このコルセットの事でも一悶着ありました。それは、今からだとコルセットが来週の金曜日にならないと出来上がらない事でした。コルセットが遅れると、ベッドから起こされる日も遅れる事になるからです。入院前に先生に、「市販のコルセットしか持っていないので作らなくても良いですか?」と確認した所、先生は、「寝ている間に作れますので安心して下さい。」との事。私は、今までの経験(検査の時の連絡不備などの経験)から「コルセットが間に合わなくて、立てる日が延びるのはです。寝ている間は、立てる日だけを楽しみにしているので本当に大丈夫ですね。」と何度も念を押したにも関わらず、こんな事になってしまいました。私は、病院側に落ち度があるので、婦長さんに事情を説明して業者さんに交渉をして貰い、どうにか間に合わせて貰う事になりました。夜は、自力で横を向く練習(許可は出ていません。)をしてから、昨日と同じ様に薬を飲んで眠りました。

<3日目>
96年2月17日
痛みは、昨日より和らいでいました。また、痛みにも慣れてきて、少しずつ話をする元気も出てきました。午後、先生の回診があり、椎間板に入っていたヘモバックも外されました。”これで、痛い思いをするのはバッコウ(抜糸)だけだ。あと1回の辛抱だ!。”抜けた時はこんな気分でした。でも、意外に外された後は楽にはならず、患部を弄られた事によって痛みが少し増していたようです。夜、昨夜と同じ様に横を向く練習をしました。ベッドの横に取り付けてあるガードパイプを利用して、どうにか右側に向く事が出来るようになってきました。0時22分地震がありました。健康体なら、なんて事のない地震でしたが、まともに寝返りも出来ない今はかなり焦りました。病気や高年齢の為、動けない人の気持ちが、この地震によって少し分かった様な気がしました。

<4日目>
96年2月18日
ヘモバックが外れたおかげで、動かないでいる分にはかなり痛みは出なくなってきました。自力での寝返りも許可が出たのですが、許可が出たからと言っても急に痛みが無くなって寝返りが出来る訳ではなく、パイプを利用してどうにか出来る程度でした。

<5〜6日目>
96年2月19日〜96年2月20日
横向きに安静にしている時は、痛みは殆どなくなってきました。しかし、パイプを利用して寝返りをする度にかなりの痛みが出る状態でした。”こんな状態で、明日、明後日中に立てるのだろうか?。許可が出ても、動いて出るこの痛みでは立てそうにない!。”動く度にこの様に痛感していました。

<出発>
96年2月21日
10時頃、外来の合間をみて先生(私の担当医ではなく違う先生。私の担当医は、オペ後学会の為アトランタに行ってしまって留守。)が回診をしてくれました。なぜ、外来の合間かと云うと、本来なら回診は夕方なのですが、1秒でも早くベッドから起こして貰える様に頼んであった為です。ベッドアップされ、そのまま足をベッドから出して起き上がりましたが、目の焦点が合わない様な感じで、フラフラ状態でした。下半身に力が入らず、患部はやはりかなり痛む。おまけに頭がぼーとして目の焦点が定まらない。
そこで、歩行器を使って立つ練習をする事になりました。1時間も練習すると、歩行器を使わなくても立てる様になりました。非常に遅いスピードですが歩く事も出来る様になりました。早く、まともに動ける様になりたくて、腰が曲がらない程度にスクワットをして足に力が出る様に努力もしました。寝たきりの1週間、私は着替えもせず、髭も剃らずに過ごしていました。着替えもひげ剃りも、寝ている間に出来たのですが、敢えてやらずにいたのです。それは、今までの苦しかった日々を寝ている時までとし、立ち上がれた今日を新たな出発にしたかったからです。髭を剃り、着替えをして身の回りを綺麗にすると、気分も爽快になり、患部が痛くとも元気が湧き出してきました。

96年2月22日〜96年2月27日
1日ごとに患部の痛みは和らいでいました。しかし、患部の痛みに変わって左足に痛みがある事に気づきました。この足の痛みには、正直言ってショックでしたが、1日ごとに回復していく自分を感じられている事が、そのショックを吹き飛ばしてくれていました。それに、”これ以上悪くなる要素はない。これからは良くなる一方だし、たとえオペの成績があまり良くなかったとしても少し時間が多くかかるだけでしょう。それに、原因となっていたヘルニアはもうない。だから足の痛みがなくなるのも時間の問題だ!。”と考えられました。

96年2月28日
午後先生の回診があり、バッコウされました。バッコウ自体の痛みは、針をちょんと刺した様な痛みで、思っていた程は痛くありませんでした。退院は、当初の予定だと2週間くらいだったのですが、最低でも1週間以上先になってしまいました。

96年3月6日
退院に関して先生は、「まだ早い。」と言ってましたが、不動産や保証の問題で退院をさせて貰いました。この時期の症状は、動くと患部が痛み、足に負荷がかかると足が痛む状態でした。

96年3月7日〜96年3月14日オペから1ヶ月が経ち、痛みもかなりなくなって来ました。負荷がかかっていない時は健康体そのものです。”あと1ヶ月も経てば、コルセットも必要なさそうだし、仕事にも行けるだろう”と体感しています。

以上