雑文のページ

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いじめについて 1996.2.26

「さすらいの」という冠つきだが教師をしているので「いじめ」のことが気にかかる。でも、少々考えたところで画期的な解決策が思い浮かぶはずもない(僕に思い浮かぶぐらいだったら誰かが気づいてとっくに実行しているはずだ)。

それでもいじめられて辛い思いをしている子供がいるのだから、思いつくままに記しておくと……。

まず第一に、学校は、行きたくなかったら行かないと割り切ることだ。自分自身が「学校」というものにフィットし、30才ぐらいまで学生をやっていたから言いにくいのだが、いわゆる公教育のレールに乗らなくても人生というのは何とかなると思う。最終的にはそこまでを考えておいて、しばらく行かないことにするとか、転校するとか、とにかくいづらい場所から遠ざかるのがいいのではないか。後悔や反省などせず、堂々と休んでいればいい。

一人の人間が日常的にどれぐらいの人たちとつきあっているのかというと、たぶん平均的な大人で数十人単位だろう。その数十人とうまくやっていければいいわけで、何もひとところにこだわる必要はない。満足できなかったら別の数十人を探すまでだ。

第二に、本当に死んでしまうところまで追いつめられている人に言いたい。死ぬのなら、なぜ殺してからにしないのか。死を決意させられるところまで追いつめてくる人間がいたら、その人間ははっきりと「敵」なのである(もちろん「よく考えたら死ななくてもやっていける」程度だったらそんな風に考える必要はない。時間がたてば、嫌悪感は残るだろうが何だって「思い出」に変り得るのだから)。「やさしい」のもほどほどにしないと、馬鹿を見るのは自分である。殺人については下の文章を参照してほしいが、相手を自殺するところまでいじめる人間がいたとして、いじめられっ子が自殺したらそれは当然「横死」であるし、いじめられっ子が逆襲していじめっ子を殺したらこれも「横死」である。で、どちらが横死の度合が強いかというと、僕はいじめられっ子の自殺のほうが強いと思う。だから、殺人なんていうのは良策ではないけれども、自殺しかないのならば先に殺すしかない。やったあとのことについては下文を参照。

「そこまではちょっと……」という場合には、「第一」の提言に戻ってほしい。 (この項、改稿の可能性あり)


死刑制度のこと 1996.2.26

まず、現行死刑制度ではなく、死刑そのものについて考えたい。法律を学んだことがないのでトンチンカンな点があるかもしれないが、しかしそれでも考えたい。

人間は死んだらどうなるのか。それにまともに答えることのできる人などいない。霊魂と呼ばれるようなものが残って別の形で存在しつづけるのかもしれないし、きれいさっぱりなくなるだけのことかもしれない。「死んだらわかる」という言い方もできるが、結局我々にわかっているのは、「生きた人でなくなる」ということだけだ。

そういう意味で、死というのは生きている本人にとって「とりかえしのつかない」できごとである。だから……と考えるとき、さてあなたはどちらを思い浮かべるか?一方は「たとえ殺人犯であっても殺してはならない」であり、もう一方は「殺人だけは特別の犯罪だ(死刑やむなし)」である。

私は後者の考え方をする人間だ。他人に殺されるなんていうのは、まず横死といっていいだろう。そして、世の中から横死というものをなくしたいというのが、実は私の最大の願いなのである。横死、つまり非業の死などあってはならない。万一それが人為的にもたらされたら、それは償われねばならない。じっと心のなかを覗いてみると、そのような感情が底のほうに抜き難く存在することに気づく。

もっとも、日本は現在「死刑制度」をもっているが、それに賛成することもできない。問題はいくつかあって、まず第一に、殺人を犯しても死刑になる人とならない人とがいることだ。「殺人の実行犯は例外なく死刑(恩赦もなし)」ということが実現されない限り、死刑制度は不徹底できわめて大きな欠陥をもつものになる。なぜなら、他人の命をうばうこと自体がすでに大罪だというのが前提なのであって、その動機や方法を裁くわけではないからである。

また、死刑の判決がでてから死刑が執行されるまでに意味もなく相当の「待ち時間」が入ってくることがある。死を待つだけの時間なんて何のために設けるのか。殺人行為が明白である実行犯はすみやかに処刑するべきであろう。たとえ殺人者が深く反省し更正したとしても、一人の人間の更正に一人の人間の命が費されるというのは馬鹿げている。更正するのは素晴しいが、更正した上で処刑が行なわれたとしても不都合はないのではないか。

以上に述べたことを殺す側から見ると、つまり人の命をうばう時には自分の命をカタにせよということである。私の意見の最大のポイントはここなのであるが、同時に最大の弱点もここにあって、自分が死ぬ覚悟をした人間が殺人を犯そうとする場合、抑止力はゼロになってしまう。しかし、いろいろ考えたのだが、それでも他の方法よりはずっとマシなはずだ。「殺人の実行犯には例外なく死刑を」というのが、理屈のうえでは最も確かなやりかただと思っている。

不幸にしてそれが実現できないのならば、妙に不公平なやり方は廃止して、「殺人の実行犯には例外なく終身刑を(恩赦なし、もちろん減刑もなし)」とするしかない。


日常の食事 1996.2.20

学期中いそがしくなってくると外食に頼りがちになるが、ある程度の余裕ができると自炊モードに切り替える。美食についてはすでに書いたので、日常の食生活について記しておく。

まず、自炊というのは、継続性がないとあまり意味がないと思っている。材料をうまく使い切っていかないと買い込んだものを無駄に腐らせてしまうし、一回で材料を使い切って豪華な料理をつくるというのも「自炊」という考え方から外れていると感じる。ごく日常的なものを、無駄なく、おいしく、まっとうに作りつづけていくことが目標だ。

そこで材料だが、いま何がストックされているかというと……。

冷蔵庫には

冷凍庫には 外には 米は三分づきぐらいのがあればいいのだが、現在は胚芽米である。押し麦を加えたりして炊いている(炊飯器がないので鍋で)。それから、もやしにしようと、大正金時豆を発芽させているところ。

しかし、やはり時間がないとうまくいかないもので、きょうはまだ一食しか食べていない(パン3枚/ポーチトエッグ/かいわれ/自家製りんごジャム/牛乳)。30-40分で作れるのに、その時間さえうまくとれない(あるいは時間があっても身体を動かして作る気がしない)のが現代人のつらいところか……。


朝日新聞 1996.1.23

下の文章のタイトル「何といっても小田実」は、朝日新聞月曜のシリーズ記事のタイトルからとった。現在新聞は朝日しかとっていない。

朝日新聞にはかねがね言いたいことがあったので、この機会に記しておくことにする。

その一。僕が朝日をとりだしたのは、署名記事、特に本多勝一の記事をリアルタイムで読みたかったからだ。ところが、ところがですよ、僕が購読しはじめた前年に「声」欄が何かの賞をとってしまったとかで、それに気をよくした近畿版は無謀にも「声」欄2ページ化を固定したのであった。で、1ページでいいものを2ページにしたために犠牲になったのが署名記事である(;_;)。結局本多勝一の署名記事は一度も目にしなかった。

本多勝一は(社に残そうと思えば残せたのに)停年でさっさと追い出されてしまった。僕の希望は二度とかなえらないわけだ。口惜しい……(ちなみに「週間金曜日」は購読していない)。

その二。学期中、新聞はだいたい電車で読むことにしている(ぎりぎりまで寝ているから)。すると、困ったことに朝日は非常に読みづらいことに気づく。混雑している車中では広げて読むわけにいかないから、いきおい四ツ折にして読むんだけど、記事の組み方は四ツ折を前提にしていないようだ。何度も折り直すのを面倒に感じるのは僕だけはないはずだ。

「そんなことまで考えていられない」などと言ってはいけない。例えば毎日新聞は、四ツ折にしても見やすいように記事が組まれている(と思う)。二紙を並べてみれば一目瞭然だ。

じゃあどうして他の新聞に変えないかというと、残りの全国紙二紙(毎日・読売)も内容的にはほとんど変らないということがある。それに恩師をはじめ、知っている人の文章が朝日に載る確率が高いので、やはり無視できないということもある(この辺、いろんな面で我の強い自分にしてはいい加減な選び方をしていると反省)。

まあ、本当に知りたいことは「噂の真相」から得ているので、新聞にはあまり期待していないというところもあるんだけど。


何といっても小田実 1996.1.17 (1.23改稿)

阪神・淡路大震災からちょうど一年。1月17日には震災をふりかえる記事や番組が数多く組まれた。

17日、目に触れたものの中で一番よかったのは、朝日新聞夕刊に載った小田実「これは『人間の国』か」であった。さすが小田実、論旨が明快で何を問題だと考えているのかがよくわかった。

ところで、この人が空虚な言葉をあやつる姿、足元がぐらつく姿を見たことがないが、これはマスメディアを舞台とする「文化人」には希有のことではなかろうか(他に誰か一人でもいる?)。権力に取り込まれたり、金に目がくらんで「芸者」風になったり、年齢による衰えに負けたり、酒害にやられたりする「文化人」の例ならたくさん見るのだが……。朝まで生テレビなどでは「なんだか怒りつづけているおっさん」の感なきにしもあらずだが、それにしても彼が何に腹を立てているのかはよくわかる(だいたい論争相手のレベルが低すぎる。あれでは腹も立つだろうなあといつも----と言ってもあの番組はあんまり見ないけど----同情する)。単なる「文句たれ」ではなく、大きいことから小さいことまで具体的なプランを思い描きつつ発言するのもよい。

何年か前に小田実を東京都知事にという話があったが(社会党はあの頃からダメだったなあ)、西宮市長でいいからなってくれないかな。「神戸方式」も随分変ると思うんだけど。


災害に備えて 1996.1.22

1月17日を機に、震災から何を学ぶべきか、さまざまな議論が行なわれている。僕が震災のことを考えるとき、いつまでも心にわだかまっているのは亡くなった方々のことである。

僕の感じ方・考え方の軸になるのは、人の死(特に死に方)の重大さと、(一回目は仕方がないとして)同じ過ちを二度繰り返すことの愚かしさである。

確かに「人生何事も経験」であるし、どんな苦難もそれを糧にしていく姿勢は必要だと思う。が、やはりそれはレトリックなのであって、人間には「経験しなくてすむのなら経験しない方がいい」とはっきり言えることがあると思う。特に死は、とりかえしがつかないという点で重大である。わかりやすく言うと、「あってはならない死に方」がある、というのが僕の意見だ。

倒壊した建物の下敷きになり、身動きがとれないところに火が迫ってくる……生きながらに焼かれ死ぬなどというのは、断じてあってはならない死に方だ。そのような悲惨な死を防ぐ手だてはなかったのか、最小限にくいとめるための方策は考慮されたことがないのか。

この一年間に目にしたたくさんの記事や論考のうち、印象に残っているのは(スクラップしていないのできちんと引くことができないが)関東大震災に触れたものだった。関東大震災の直後に被害を調査した人が、被害を大きくした理由として、被災者が大八車などで家財ともども逃げようとしたことを挙げているという内容だった。大きな荷車が列をなし、そのため道路が塞がれてしまったのが痛恨事であった。そしてそのレポートは、以後同じような大災害が起こったときには真っ先に道路を封鎖すべし、身一つで逃げる人たちを優先すべしという提言も行なっていたのである。

つまり、関東大震災の教訓は今回まったく活かされていなかったということだ。被災者はてんでにマイカーを動かし、近辺から「見物」にやってくる者まで現われ、道路は全く機能しなかった。危急の際の優先順位はかえりみられず、歯噛みするような思いを味わった人は数知れないだろう。

僕がイヤな気がするのは、次にどこかで厄災が起こったとしても同じシーンが現われるだけなんだろうなと簡単に予想できることだ。やはり車を使う人たちで道はあふれかえるだろうし、救急も消防も機能しないだろう。そして身動きもとれず生きながらに焼かれ死ぬ人がたくさん出るだろう。

このような事態が改善されないのであれば、鎮魂の儀式を行なったからといって死者の魂が鎮められるとは思えない。この愚かさを克服するためにはどうしたらいいのか。


震災後、変ったこと 1996.1.22

もともと死をひどく恐れる小心者なのだが、震災後それに輪をかけて臆病になった。

まず、夜、灯りを消して寝ることができなくなった。それまでは部屋を真っ暗にしないと眠れず、電化製品のデジタル表示の光すら気になって、わざわざコンセントを抜いてから寝ることすらあったのに……。

部屋で横になっているときなど、おもてを通りすぎる車のエンジン音にビクッとする。地鳴りの音に似ているのだ。

部屋の話を続けると、地震で倒れて恐い思いをしたので、本棚を鴨居に固定した(鴨居に金具を取り付け、針金でしばった)。タンスも固定した。ラックに入れてあるCDプレーヤー・プリンターの手前にも針金を渡し、飛び出してこないようにした。食器棚のガラス戸にはセロテープを縦横に貼って、粉々に砕けぬようにした。関西育ちで防災意識が低かったため、これまで全く注意しなかったことである。

おもてに出ても心落ち着かない。ポケットに無造作に手をつっこめなくなった。咄嗟に頭を防御できるよう、常に手を出しておきたいのだ。電車では座席に坐りにくくなった。脱線したとき一気に投げ出されないよう、吊革を持っておきたいのだ。

駅などの階段では真ん中を歩けない。すぐに手すりにつかまれる隅のほうしか歩かない。

こういったこと全てが習い性になるまでには至っていない。ふと危い状況にあることに気づいて、あわてて改めることもある。特に何をしているわけでなくとも神経の消耗する一年であった。


阪神大震災 1996.1.18

私自身は被災者ではないが、私の住む豊中も一年前の地震ではかなりの被害を受けた。一日違いで前日の夕方に妹の披露宴があり、あの夜はほろ酔い気分で眠りについた。朝方、ドーンという音とともに下から突き上げられた。あっという間に本に埋まる(枕元の本棚が倒れてきたため)。無意識のうちに叫び声をあげていたようだ。揺れているあいだに気づきはしたが、その瞬間には「地球が壊れた」のかと思った。

不思議なことに、揺れがおさまると周囲はシーンと静まりかえっている。何かとんでもないことが起こったのに、それがまだ形を現していないという感じだった。

停電のため真っ暗。ライターを探し出して火をつけてみると、本棚のほか衣装ダンス・プリンターが倒れているのがわかった。倒れなかった方の本棚も中身がぶちまけられ、部屋じゅう足の踏み場もない。

物の散乱していない台所の方に移り、まとまらない頭で何か必死に考えいたようだ(何を考えていたのかは全く覚えていない。暗かったのと寒かったのだけ覚えている)。そうしている間にも、余震が何度か襲った。地鳴りが恐ろしかった。

寒さの中、回復していた椎間板ヘルニアの痛みがぶりかえす。脚がしびれて自力では遠くまで移動できないことを悟り、じっとしていると、実家(能勢)から電話が入った。電話も落下して受話器が外れていたのだが、それに気づいて戻すまでにかなりの時間があった。それで地震直後に電話が通じなかったため、すでに父が車で様子を見にこっちに向かっていると知った。実家の方は、それほどひどい状態でないということも聞いた(あとでわかったが、実家もガスだけはその後一月ほど通じなかった)。

「明け方」「明け方」と言うが、夜が明けるまでにはかなりの時間があったと思う。ようやく夜が明け、電気が再び通じ、父が到着した頃には午前9時を回っていた。テレビを見ると、昨夜妹の披露宴に出席してくれていた友人の山上君(朝日放送)が神戸の惨状をレポートをしている。部屋にいても仕方がないので、電気やガスの元栓を閉め、父の車で実家に戻った。

脚の回復を待って、四日後部屋に戻る。片付けをすませてみると、建物には被害がなく、何事もなかったかのようだ(家が倒壊したかどうかで、その後の生活の条件が大きく異なったと思う)。ただし、物理的な被害が小さくとも、身にしみついた恐怖感はなかなか立ち去らない……。


沖縄独立を支持する 1996.1.14

三人の米軍兵士による女子小学生強姦事件をきっかけに、米軍基地問題が顕在化している。沖縄からの声がようやく本土でも取り上げられるようになり、いよいよ返還後なおざりにされてきた問題が議論の爼上に乗るかと期待された(事件を公にされた当事者の勇気には頭が下がる思いだ)。

ところが何のことはない、日本国政府はちいーっとも沖縄のことなど考えていなかった(これからも考えるつもりはないらしい)。沖縄県民の無念を思うと、本土の住民としてたいへん恥しく情けない。

そんななか内閣が改組されたが、新内閣も基地縮小に向けての要求をするつもりはないとのこと。地位協定をいじることによってお茶を濁そうとする本土の側には、もはや沖縄独立の願いを思いとどまらせるだけの論理はない。私は沖縄独立を支持する。

独立にあたっては、日本と同じような国家をつくらぬよう議論を尽くされることを望む。また、旧国有施設や観光資源などは接収するとして、その後の運営を健全に進めていかれるよう十分な工夫をされることを望む(吉里吉里人などが参考になるのではないか)。足腰の強い、簡単には日本に再統合されぬ国を建設していただきたいと心から願っている。


これまでに食べたもの 1996.1.9

ついでに、これまでに食べたことのあるものをメモしておこう。魚は種類が多いので肉類だけ。

生肉編

食べられなかった生肉編 その他の肉類編 食べられなかったその他の肉類編

美食は喜び 1996.1.9

月収20万円の話をした直後に書くのも何ですが(^^;)、私、美味しいものを食べに出るのが好きです。

たまに中華を食べることもあるけど、ほとんど和食。小さなお店、主人がカウンターの中にいて調理し(女性はいない or 奥さんが手伝っているぐらい)、客の回転はゆっくりで、「飲む」と「食べる」が半々(かちょっと「飲む」に比重がかかる)ぐらいの雰囲気が好きです。かつては好きな詩人の名にちなんで「アル中のランボー者」と呼ばれたこともある酒乱でしたが、いつのまにかおさまりました。酒乱はなおる!と(テーマとは関係ないけど)まず言っておこう。

一回飲みに行って1万円ぐらい。月に平均して2-3回ぐらいのペースです。ぜいたくがどうかの判断は読んでいる方にお任せします。

季節物といいますか、一年を彩る食べ物で、シーズンの到来を楽しみにして必ず注文するものがいくつかあります。正月から順に挙げていくと……。

まず数の子。これがないと新年を迎えた気がしません。実家でも食べますが、両親とではくつろぎにくいので、やはり外で美味しいのを食べたいところです。

次は季節がかなりとびます。夏の鱧(ハモ)。関西の食べ物だそうですが、僕はこれが好きなんですね。氷の上に並べた白い身をあっさり梅肉でいただきます。

秋。鱧と松茸のシーズンが重なる貴重な時期に土瓶蒸しをいただきます。生きててよかった、と思いますね。

冬は河豚(フグ)。ちまちまと食べてもおいしくないので、これは思いきって2人か3人で大きいのを1匹注文します。うすづくり、白子、天ぷら、鍋……どれも美味しいですね。

一年を通じて外では海のものばっかり食べているような気がします。なんで新鮮な魚貝類ってあんなに美味しいのかな。ただ、こういうのが当然だと思うようになると、スーパーなんかで買ってきた生魚は食べられませんね(だいたいワサビがチューブに入ったのしかないし……)。自室でふだん食べているのは、本当に素朴な「お惣菜」風のものばっかりです(ごはんは胚芽米、あとは味噌汁程度)。

ところで、僕は飲み屋さんにちょくちょく行きますが、新しい店を開拓するほうではなく、馴染みの店に入りびたるほうです。ローカルな話題ですが、阪急宝塚線の豊中から蛍池にかけてが活動エリアで(徒歩あるいは自転車で動く)、3軒馴染みの店があります(どの店も10年以上通っている)。いつもお世話になっているので名前を挙げておくと、与太呂(寿司)・花むら(割烹)・五郎八(釜飯)というのがその店です。三人の主人が奇しくも同い年(45歳)です。


月収20万円 1996.1.8

お金に明け暮れるのはイヤだ。しかし生活がなりたたなければ好きなことに打ち込むこともできない。理想を追っかけているつもりでも、お金のことをないがしろにしていると、困難や岐路に出会ったとき結局自分を状況に譲り渡してしまうハメになる。

ということで、僕は「月収20万円」というのをひとつの尺度にしています。実際にはもう少し稼いでいるけど、20万円の収入が確保できたら、それ以外のことは「やりたくなかったらやらない」と心に決めています。

最低限ひと月にいくらぐらいかかるのか、去年3か月ほど実験してみました。食費は月に約2万円(すべて自炊)。光熱費・雑費などを入れても10万円にはなりません。あとは部屋代にまわすわけですが、これなら都会でも何とかなると思います。

まあ僕の場合は恵まれている部分もあって、両親健在、何かあったら実家に帰れるということがあります。ですから完全にひとりで生きていくとしたら、この尺度はもう少し上げるでしょう。

現実にはもっとお金を使い、ぜいたくもしつつ生活しています。でも、「いったん享受した生活レベルや利便は手放せないものだ」なんていう議論は大ウソです。僕は20代のころから毎年収入が違っているのですが(週に2日働く年もあれば5日働く年もある)、右上がりに上昇してきたのでなく、乱高下しています。それでも、どの年も「それなり」にやってきました。テレビのない2年間もどうってことなかったし、湯沸かし器のない部屋でも何とかなった。中国ではコンピューターも使わなかった。何かを失うことを恐れてビクビクしているより、何でも「実験」して足元をみつめつつ生活を楽しみ、職場で譲れないことがあったらさっさとやめるのがいいと思いますね。


恩師の死 1996.1.8

長い冬休み(教師なので冬休みも3週間ぐらいある)もそろそろ終わる。その間Home Pageの改装を日々行なってきたが、年頭にあたっての特別ページは結局作れないままだった。年の瀬に恩師を亡くしてしまったからだ。

岩野直枝先生。享年64。スタッフ30名、生徒450名を擁する英語塾の塾長だった。僕は中学1年生の時から通い始め、高校卒業までの6年間お世話になった。さらに大学進学後は教師として残り、現在に至るまでここで教え続けている。つまり35年の人生のうち実に23年はこの塾ですごしてきたことになる。長年つきあってきた岩野先生は才色兼備・才気煥発、母と同じぐらいの年齢だが華やかでまぶしい存在だった。

岩野先生は、僕にとって大きな心の支えだった。大学入学まではそれほど苦労を感じなかったものの、その後の道は必ずしも平坦ではなかった。文学部に入り、ただ卒業・就職して世間並みの人生を送っていくことには魅力を感じず、かと言って特にやりたいことがあるわけでもなく、何年も中途半端な気持ちですごしていた。生来の怠けグセが頭をもたげ、ほとんど学業を放棄した状態に陥った。大学を卒業するのに6年かかり、それでも行き先は決まらなかった。

そんな中、なぜ塾長があんなにサポートしてくれたのか、世間のことがだんだんとわかってくるにつれ不思議に思う。留年をくりかえし、大学院の試験にも見放された若者を教師として置いておくのは、いろんな面でデメリットになったことだろう。それでも僕自身の「生き方」みたいなものについては口を挟まれることはなかったし、いつも僕の言うことを面白がってくれ、励ましてくれた。先生がいなくなると誰が守ってくれるのか。心細く、よるべない気持ちに満たされている。

学生生活が長かったので、学恩を受けた先生方は他にもたくさんおられる。しかし、やわらかな人格形成期に多くのものを与えてもらった恩師は、僕の場合ふたりしかいない。そして、実はそのもうひとりの恩師も昨年5月に亡くなった。

田上泰昭先生。大阪府立北野高校の国語の先生だった。僕は3年間、漢文や現代国語を習った。

田上先生が教えた学年には、必ず何人かの中国文学研究者が出るようだ(僕の学年にも、少なくともあと二人はいる)。先生の授業は、豊かで深みを感じさるものだった。文学を愛し、酒を愛し、正義を愛した先生だった。

男同士ということもあり、岩野先生に対するほどウェットな感情はもっていない。しかし大学入学後も何くれとなく気にかけていただき、良き師をもつありがたさが身にしみた。

僕は、自分はいったい何者なのかと自問する時、やはり「教師」なのだと思う。私塾・大学の教師というのには教員採用試験がないため、実は教育学について何も学んだことはないのだが、それでも教師として生きていきたいと思っている。岩野先生や田上先生のような教師になれたら……と心から思う。


結婚?非婚? 1996.1.5

今年36歳になりますが、この年齢になると相当この手の事柄が重く心にのしかかってきます(^^;)。たぶん、このページのスタートを飾るにふさわしいテーマでしょう。

もともと僕は非婚主義者であったのです。それは「恋愛」というのを重んじていて、「恋愛」と「結婚」とは水と油、決して相容れないものだという信念があったからです。実は、この信念については現在でも変わっていません。

何が変わったかというと、「恋愛」というのがそれほど面白く感じられなくなってきました。僕が「恋愛」という時には、あのドキドキする感じ、何だか自分が自分でないような、ボワーッとした感じを指すのですが、こういう気分は絶対に持続しません(きっぱり)。相手のことを知るにしたがって新鮮さや好奇心は薄れ、「くりかえし」の部分が大きくなってきます。かつての僕はあのドキドキがたいへん好きだったので、それを追っかけていたわけです。でもまあ「もういいや」という気分になりつつあります。

そうすると「結婚」というのが浮上してきました。ただし、ドキドキをやめたから結婚というふうに簡単にいくはずもないので、ちょっと考えてみました。

まず、結婚というのは、一対の男女の関係を持続させるための装置です。なかなか巧妙に作られているとは思いますが、装置としての婚姻制度には改善の余地がたくさんあると思います。姓をどうするか、子供をどう扱うかなどのオプションは可能な限り多いほうがいいし、そのための努力は続けられるべきだと思います。しかし、そういった努力を、「恋愛の理想実現」への道程だと考えるのは大きな自己欺瞞です。「個人」に基礎をおいてものごとを考えてゆける能力のある人ならば、そしてまず個人としてしっかりと生きていきたい(自分のことは自分でする)のならば婚姻制度に身を委ねるべきではありません。

非婚主義であった頃から、ある程度はこのように考えていました。自分のことは自分で決める、自分のことは自分でするというのが習慣になっていました。ところが、93年の秋から椎間板ヘルニアを患い、にわかに雲行きが怪しくなってきたのです。「一人では生きていけない」と実感したときには焦りましたね。一年半ほど痛みやしびれによる苦しい日々が続きましたが、そういったなかで毎日が平穏にすぎてゆくことのありがたさに思い到りました。「結婚」を「恋愛」とダイレクトに結びつけない人、信頼しあい穏やかな愛情につつまれた生活を共にしていける人がいたら一対になるのもいいんじゃないかと思いました。

なぜ「恋愛」と「結婚」をダイレクトに結びつけたくないかというと、先にも言ったように「恋愛」は持続しないと考えているからです。それなのに両者を結びつく(はずの)ものと考えたりしたら、「金の切れ目が縁の切れ目」ならぬ「恋愛感情の切れ目が婚姻関係の切れ目」になりかねないわけで、僕はその態度は採りません。こと結婚に関しては「失敗したらやりなおせばいいじゃないか」とは思えないのです。やりなおしてうまくいっている人には反発を感じさせる言い方かもしれませんが、この年齢まで独身を通してきた人間の言葉として許してください(長い独身生活、ちょっとぐらい恩恵があってもいいでしょう^^;)。

で、たぶん、事情が許せば結婚することになるだろうと思っている今日この頃です。


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