雑誌『李賀研究』(方向社)

創刊号

第6号

第7号

第8号

第10号

第15号(1980.5.28)

終刊号(1983.8.16)


創刊号

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『李賀研究』について

 研究というと大袈裟だが、わたしの気持ちでは、研はすずりで、究はつきる、つまり、硯の水の無くなるまで、というほどの意味である。
 『文選』にのせる郭璞の「江賦」に「緑苔は研上に鬖髿(さんさ)たり」という句がある。 李善の注に、南越志に曰く、海藻は一に海苔と名づく、研石上に生ず。風土記に曰く、石髪は水苔なり、青緑色にして、みな石に生ず。通俗文に曰く、髪の乱るるを鬖髿という。説文に曰く、研は滑石なり、研と硯と同じ。 というから、この句は、滑らかな石の上で緑色の水草がゆらゆら揺れている、ということらしい。 わたしの世すぎは決して滑らかではなかたが、平板であったことは確かである。 その平板な人生に、何の因果か、李賀という鬼才を見出した。 川の底の平たい石に妖しくも美しい水草がたゆとうているに似なくはない。
 久しく旅行などしたことがなかった。 去年の春、ふと思いついて、群馬県の嬬恋村をたずね、浅間山の麓を軽井沢に出、そこから松本にゆき、千曲川を眺めながら、中央線で帰った。 そのとき、松本で、小さな硯をひとつ買った。 朱を磨るつもりだったが、気がかわって墨を磨っている。 椽大の筆を揮うには役に立つまい。 手紙やはがきを書くには充分である。
 この雑誌は、わたしの硯がたたえる数滴の水からつむぎ出す、李賀にまつわるいくばくかの文

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字を収めることを目的とする。 時には気まぐれに友人知人の文章を招くこともあるかもしれないが、まずは無署名の、すなわちわたしの拙文だけで紙幅を満たすことになろう。 発行の期も定めぬけれども、二カ月に一冊は出したいものと思っている。
 李賀は「楊生青花紫石硯歌」で、孔子の大硯をあざけった。 わたしのものももとより端渓の神品ではない。 けれどもかれは、案外、遠い石磎の幽硯の荒渋を、微笑して顧りみるような気もするのである。
  昭和辛亥 幻城水子の命日  原田憲雄

李賀集の諸本と注釈その他 →*平凡社刊「李賀歌詩編」凡例に最新のものがあるため、入力せず。

 李賀の集の諸本とその簡称を左のようにきめておく。[ ]内は簡称。関連書二三をそえる。
1 [北宋本甲] 歌詩編四巻 景北宋本 密韻景刊宋本七種所収
1 [北宋本乙] 

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雑記

1 李賀詩引得
 長い間、李賀の詩を読みながら、わたしはその索引を作らなかった。 作ろうとしなかったわけではない。 かれの詩を読みはじめたのは、出會うやいやなとりつかれてしまったためで、何がなんだかさっぱりわからぬくせに、眺めているだけで昂奮し、

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あるいは沈鬱し、そして満足した。 大學の卒業論文にかれを選んだのも、ほかのものを讀んで費す時間が惜しかったまで。 予想がはずれて敗戦まで生き残り、復員して帰ると、飢えた家族の糧をさがすのに忙しく、かれとの付きあいは行列に立ち、車をまつ、といったうらぶれた時間にかぎり、夜はしょっちゅう停電で、すき腹かかえ寝るよりほかにしようもなかった。 腹がへらなくなり停電がなくなっても、もし誰かが李賀について語りはじめていたら、わたしは自分でかれについて物を書くことなんぞしなかったろう。 七年間、わたしは首をのばして待っていたのだ。 しかし誰も何もいわない。 わたしは向っ腹がたってきた。 やる奴がいないのならおれがやってやる。 おれの言い草が気にくわぬなら手前がやってみるがいい。 感心するようなものを見せてくれたらおれはいつでも見物席におりる。 中新敬が兼好法師について同じような気持だったので、昭和二十八年、ふたりで『方向』を創刊した。 そうこうするうち変なめぐりあわせで大学の教師になった。 当人の思惑にかかわりなく、人は大学の教師を学者とよぶ。 教師かならずしも学者ではなく、学問するためにはそこから遠ざかる方がいいかもしれないのが今の大学の実情であるにしても、人さまから呼ばれる以上は、その実質に近づく努力はせねばならぬ。 もはや、好きなものを好きな風にだけ読んでいるわけにはいかなくなった。 索引のたぐいを中国では工具という。 たしかに論文、大学の教師が書かねばならぬそれ、をつくる作業は工作というにふさわしく、工作には道具がいる。 わたしはできるだけ工場の流れ作業式の"研究"を敬遠し、わたしの信ずる読書法を頑固に守ってきた。 年をとると肉体が衰え記憶力が急速に減退する。 誰も知っていることだが、それ

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がすぐ自分の上にも来るものとして予定に入れることを、わたしは迂闊にもしておかなかった。 さきごろ岑参について書いた文章のなかで、「花缺」ということばは岑参以前に用例を見ないと記し、以後にも知らぬと筆を走らせ、荒井健氏から、李賀にありますと教えられ、感謝し、かつ汗をかいたのであった。 李賀のことはみなわたしの胸に染みついているはずだった。 そのはずが外れてことばは鳥のように逃げる。 時々作りかけては、それより読み返して記憶するにしくはなしと思い、草森紳一氏が李賀索引を作りつつあると聞いて、もっぱらその完成を待ちくらしたが、それからもう三、四年たつ。 鳥ばかりか、花まで散る。 人さまへの奉仕はとにかく、自分のために網をあまねばならぬ。 泥棒を見て縄をなうような仕事をすでに半白となった頭をふりたててするのはわれながらおかしいが、とにかくやりましょうと言ってくれる歌人やこどもに励まされ半分ほど仕事を進めた。 数日まえ、本屋をのぞくと、なんと、李賀詩引得がすでに本となって棚に並んでいるではないか。 わたしはほっとして、一本をあがない、帰って家人にみせたら、まあよかったですねと、喜んでくれた。 がっかりするのではないかと内心案じていたが、これで二重にほっとし、だんだん楽しくなって来た。 索引つくりという仕事は労多く、しかも完全を期待しにくい、つらい仕事である。 ことに人さまに利用してもらうものとなれば、点のうちかた一つにも神経を磨りへらす。 わたしはこの引得を作られた人たちに深い尊敬と感謝をまず捧げたい。 そうして同じ仕事をやりかけた人間からみた感想や註文を二、三のべておこう。 艾文博編『李賀詩引得』一九六九年成文出版社刊は世界書局本に収める王注本を底本にする。 これは中華書局本とペ

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ージ立ても全く同じ王注本で、今日もっとも流布するものだろうから、すでにその本をもつ読者には利用しやすい索引といえる。 しかし、李賀詩を突込んで精確に読もうとすると、王注本の本文は、あまりあてにならぬ。 わたしが「李賀集の諸本」として揚げたものは、いまでは割合、見やすい本なのだから、まず対校本をつくってこれを索引のはじめにおき、各首、各句に番号を与え、異文も異文として注記し、索引のなかに組込むならば、どんなに役立ったことだろう。 この引得はその労を省いた。 まことに惜しまれる。 一人の人の作業ならば対校すら難事業だけれども、数人の訓練した助手をもつ機関ならば、ずっと困難を減じるだろう。 この底本選定の安易は、他の引得類にもしばしば見られることである。 巻頭の蕭継宗"Li Ho and His Poetry"に見える「沈之銘」は「沈子明」の誤りであろう。 索引はまだこまかく一一に当ってはいないが212頁、轤の項の「小雁過○峰 85-10」の○は本文は轤でなく鑪である。 従ってこの一行は削るべきだ。 214頁、羈の項「○如如荼蓼」の上の如は心でなければならぬ。 同じ頁、讓の項の「邊○今朝憶蔡」は蔡の後に邕がぬけている。 今後、気づくに従ってこの雑誌で訂正してゆくつもりだが、編者もまた正誤表をつくるか、刷を重ねるとき訂正されるとよい。

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第6号

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二〇世紀の李賀(二)

 魯迅

 きょう大学の図書館で、増田渉『魯迅の印象』を棚からとり出し、なんの気なしに開いたら、「彼は若いときは李賀の詩を好んだと言っていた」という句が飛びこんだ。 借り出して読みはじめると面白く、一気に読みおわった。 そうしてきょうは、魯迅の死んだ日の十月十九日であったことに、気づいた。 偶然のことにすぎないが、その偶然がきょうのわたしにかさなってやってきたゆかりを紀念してこの一文をしたためることにする。
 『魯迅の印象』は昭和四十五年角川書店刊。 序によれば昭和二十三年講談社から出た同じ題の本から数篇を加除してできたものという。 このうち半分ぐらいは雑誌などで読んだ記憶がある。 李賀に関するものははじめてだ。
 魯迅が李賀を好んだということは、たぶんまだ学生のころ周作人の文章で読んだような気がする。 荒井注は李賀の愛好者を列挙した最後に次のようにいう。

もう一人は魯迅(1881-1936)。淡白な隠遁者と考えられていた陶淵明(365-427)の複雑な性格を再発見した魯迅—「文化戦線にあって、最も勇敢・最も頑強・最も忠実・最も熱情ある空前
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の民族英雄であった」と毛沢東は激賞し、いまや中国における文学の神である、その魯迅が、譚嗣同と同じく、李賀をも愛したのは偶然なのだろうか。「これら多くの作品中、予才(魯迅のあざな—荒井)が好んだのはアンドレエフであった。ことによればこれは李長吉を愛することと少し関係があったかもしれない。」(周作人「魯迅に関し手の二」松枝茂夫訳「瓜豆集」[1940.創元社]所収)
 わたしは『瓜豆集』のこの文章はたしかに読んでいるが、記憶の中での李賀と魯迅を結びつけた周氏の文は、これとは違った気がする。しかし、では何だったかは思い出せない。 ついでに荒井注の文をもう少しぬいておく。
李賀自身は非行動的な一詩人であったが、その作品にはかえって、行動を拒否されて深く沈下せざるを得なかった潜勢力がみなぎっている。さすがに魯迅はそれを見抜いていた。「仙才・李太白がよく豪語するのは、言うまでもない。爪は長くのび、骨格はやせて枯れ木のような李長吉でさえ、「見(げん)に若耶溪水の剣を買う。明朝は帰り去って猿公に事えん。」(「南園[其の七]」)と言いはじめる始末、全く少しも身のほどを知らず、刺客になろうと思っているのだ。これはよくよく割引きしなくてはならない。その証拠にはかれは実際は決して(刺客になりに)行っていないのだから。」(「准風月談」所収「豪語的折扣」)例によって皮肉な発想ではあるが、かれが指摘する通り、李賀は確かに「刺客になろう」と志したことがあるのだ。かれの非行動は単なる無気力そのものではなく、かれが心
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血を注いだ作品には、各時代の反逆者・憂国の志士たちを引きつけるだけのエネルギーが隠されていたのだ。そのエネルギーは恐らく革命的エネルギーに転化しうる可能性をすらはらむものであった。(譚嗣同と魯迅の、陶淵明と李賀への傾倒は、そうとしか解釈できない)初期のニヒリスト魯迅が後期の革命文学者に変貌したように、完全な唯美主義者として出発した詩人の聞一多(1899-1946)が右翼のテロリストの銃弾に倒れる劇的な最後をとげたように、中国の文学者に共通する矛盾は「鬼才」李賀の内部にもまた存在していた。
 これはなかなか鋭い指摘である。 初期の魯迅がニヒリストであったかどうか、後期への推移が変貌であったかどうか、したがってそれが矛盾であるかどうか、などに問題はあるにしても。
 『魯迅の印象』にかえり、76〜79ページの文章を、わたしの考えに従って抜く。
彼は若いときは李賀の詩を好んだと言っていた。私はここに魯迅の文学を解く一つのカギがありはしないかと思う。自分はスタイリストだという彼の言葉も、李賀を好んだという彼であることを知ると何か思いあたるように考えられないだろうか。また彼の文章—表現の方法のなかに李賀的な文学とつながるものが考えられはしないか。濃烈な感情のなかにも陰暗の色をたたえた、やや新聳な美しさ—むろん、李賀がそのまま現代の彼に移ってくるというのではないが、彼の李賀を好んだという性情そのものが問題だと思う。
佐藤春夫がいるか魯迅を杜甫に比したことがある。私はそのことを彼への手紙のなかでふれたことがある。すると彼は、杜甫なら悪くないと返事のなかに書いていた。それは軽い気持
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ちでそういっただけだと思うが、彼は晩年になるに従ってしだいに杜甫的になったと私は思う。李賀から杜甫へ—彼は変わっていった。
だが変わったかどうか、ほんとうのことはそれほどハッキリしたものとは言えぬかもしれない。もし変わったとしても、それは二十七歳で死んだ李賀の表現の奇峭や文字の偏僻な使い方が、彼には年とともに、次第に見に添わないものになったというだけで、主として年齢や経験の関係から、もう少しわかりやすく幅広く、杜甫的にその悲愴や慷概を吐露するようになったというだけのことかもしれない。
李賀については私はよくわからないのだが、李賀の詩を箋注した陳本礼の『漫記』などをみると「磊落鬱積した不平の気」を写したもので「憤激痛心」に出たものが多く、「当時に感切して目撃心傷した」ことを、明らさまに国政をあげつらうことができないため、「すべて尋常の詠物写景に託し、人をして容易にその趣旨のあるところをうかがわしめなくしている」と見ている。姚文燮(『漫記』に引く)はまた李賀の「命意、命題はみな深く当世の弊を刺したもので、切実にその隠微のところに突きあたっている」としている。これは普通にいわれている李賀とはまるでちがった見方だが、もしそのような見方が本当だとすると、魯迅が好んだということは理解される。そして魯迅のそういった態度は終生変わらなかったし、このような李賀から彼が抜け出したとは言えないから、変わったといっても、その表現を中心にした問題である。
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彼はまた若いときニイチェを好み、その案頭には常に『ツァラトゥストラ』をおいていたという。……だが死ぬ三か月前に数年ぶりで訪ねたとき、彼の書斎には真新しいハイネ全集の原書が並んでいた。……彼はそのころもうニィチェからハイネへとだいたいは変わっていたのではあるまいか。……抽象的にいうならば、観念的な孤高から下りて、いっそう現実社会への接近を深めていたということではあるまいか。それは李賀から杜甫への変わり方と同じ種類の変わり方ではあるまいか。
性情とか気質とかいう彼の肉体が求めて飛びつかざるを得なかった李賀であり、ニイチェであったと思われる。それは晩年になるに従って環境や経験の関係で、もっと濃い色彩として杜甫的なもの、ハイネ的なものが彼に出てくるようになったけれども、しかしなお李賀とニイチェとは完全に抜け切ってはいなかったと私は見たい—それほどそれらは彼自身の本来の性情や気質に根ざしていたものだと思う。
 この文章にわたしは一種の感動を覚えた。 増田氏は、李賀についてはよくわからない、と極めて謙遜し、保留をつけて論を進めているが、氏の論は賀の本質をそれていないと、わたしは思う。 氏の引く陳本礼の『漫記』は、『協律鉤元』の自序だが、あるいはかれに『漫記』という本があるのであろうか。 陳本礼も姚文燮も、その注ではずいぶんこじつけをやる人で、うっかり感心できないが、増田氏の引くことばは正しい。 これとは「まるでちがった」「普通にいわている李賀」は、じつは李賀に対する無理解のあらわれにすぎないのではないか。 もっとも「普通にいわ

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れている李賀」について氏は例をあげていないので、わたしの筆もひかえざるをえないが、たぶん、唯美主義詩人とかデカダン詩人とかいった見方をさすのであろう。 李賀は唯美主義者なんぞではない。 魯迅が「私はゼイタク本を嗜む」(一九三五年六月十日付増田氏宛書簡)といったような意味でゼイタクをこのみ美を愛しはしただろうけれど。
 『魯迅日記』(一九六二年人民文学出版社刊)はその編集の時期から考えて、編者による改変が加わっているものと考えられ注意しなければならないようだが、李賀とのかかわりを考えてゆく面ではさほど支障はないだろう。 この日記は一九一二年(二十五歳・数え年)から一九三六(四十二歳)までである。

一九一二年八月二日。午前、二弟(周作人—憲)の二十七日付の便りをうけとる。范愛農を哀しむ詩がある「天下無独行、挙世成委靡;皓皓范夫子、生此叔李峕;傲骨遭俗忌,屡被蝼螘欺;侘傺盡一世,畢生清水湄。会聞此人死,令我心傷悲;擾擾使君輩,長生亦若爲?」
 この詩には李賀の詩の影がさしている感じがする。 ただしこれは周作人の作だ。 魯迅はこれに触発されて「范君を哀しむ 三章」を作った。 『集外集』に収める。 ここでは『魯迅全集』(一九五八年人民文学出版社)巻七による。
风雨飘摇日,  余怀范爱农。 华颠萎寥落,  白眼看鸡虫。 世味秋荼苦,  人间直道穷。 奈何三月别,  竟尔失畸躬!

海草国门碧,  多年老异乡。 狐狸方去穴,  桃偶已登场。 故里寒云恶,  炎天凛夜长。 独沉清洌水,  能否涤愁肠?

把酒论当世, 先生小酒人。 大圜犹酩酊,  微醉自沉沦。 此别成终古,  从兹绝绪言。 故人云散尽,  我亦等轻尘。


第7号

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二〇世紀の李賀(三)

 久保天随

 昨年、すなわち一九七一年、草森紳一氏が十月一日消印のはがきで「私がみたいと思いつつまだ」見ない文章として、江寄萍「李長吉詩」熊裕芳「李長吉月」辻揆一「李長吉を論ず」久保天

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随「長爪郎を論ず」致干「没落貴族的詩人」をあげ、氏が複写してもっているものに陳培瑾「李賀評伝」三十頁(国立広東大学文化学院季刊・民国十四年)がある、と示された。 『中国史学論文索引』(北京・科学出版社、一九五七年)によれば、江氏のは『大戈壁』1巻2期(一九三二年二月)、熊氏のは『学灯』一九二四年三月三十日—四月二日、致氏のは『文学雑誌(北平)』1期(一九三三年四月)にのったもので、わたしもまた見得ないでいる。 ついでに同じ索引に著録する李賀文献を、年次を追って挙げる。 田北湖「昌谷別伝并注」これについてはすでに述べた。 周閬風「詩人李長吉之詩」(『学灯』一九二四年七月二十九日)これはたぶん同氏の『詩人李賀』(国学小叢書、商務印書館、一九三六年六月)にその趣旨は含まれるだろう。 万曼「詩人李長吉」(『文学週報』5期、一九二八年)。王礼錫「驢背詩人李長吉」(『文学週報』7巻23期、一九二九年)これは同氏の『李長吉評伝』(物観文学史叢稿之一、上海・神州国光社、一九三一年)に含まれるだろう。 李嘉言「為"長吉生的考証"質王礼錫君」(『文学月刊』3巻1号、一九三二年五月)。 洪為法『李賀之死』(『青年界』5巻2号、一九三四年二月)。 朱自清「李賀年譜」(清華学報)10巻4期、一九三五年十月)「"李賀年譜"補記」(同誌11巻1号、一九三六年一月)。
 さて、草森氏は十一月二十六日消印のはがきで、<久保天随の「長爪郎を論ず」は、明治三十三年の八月号から十月号にかけて「帝国文学」に発表されたものであるらしいようです。天随が、東大を卒業した翌年の作で、二十六才の時のものです。……>と示された。
 「長爪郎を論ず」を、さきもいったように、わたしは見ていない。 明治三十三年は一九〇〇年

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で十九世紀最後の年。 二つの条件からして「二〇世紀の李賀」でとりあげることはできぬ。 ここにとりあげるのは、文学士久保得二述『支那文学史』(早稲田大学出版部蔵版)での李賀についての記述である。 わたしのもっているのは遠藤隆吉『東洋倫理学』と合冊製本し、ともに奥付がないので刊行年月はわからない。 ただ、久保の記述が科挙の廃止にふれている。 それは一九〇五年の事件だから、この本がそれ以後に執筆されたことはたしかである。
 <李賀字は長吉、系は鄭王の後より出づ。七歳辞章を能くす。愈皇甫湜と、はじめ聞いて信ぜず、その家を過ぎて、詩を賦せしむ。筆を援って輒ち成り、自ら目して高軒過という。二人大いに驚く。これより、大に名あり、賀旦日ごとに出でゝ弱馬に騎し、小奚奴を従へ、古錦嚢を背にし、得るこ(ママ)ろは、書して嚢中に投じ、暮に及び、足して之を成し、寧ね以て常となす。後、進士に挙げられて名あり。時人、その父、名を晉肅といふを以て挙げられるべからずといふ。愈因って、諱辨(ママ)を作る。すでにして、仕へて協律郎となり、卒するとき、年二十七。賀は鬼才を以て稱せられ、その詩、危詭を尚び、畦徑を絶去し、當時能く效ふものなく、樂府數十篇、雲韶諸工之を絃管に合すといふ。韓愈曰く、雲烟綿聯、その態を爲すに足らざるなり。水の迢迢、その情を爲すに足らざるなり。春の盎盎、その和を爲すに足らざるなり。秋の明潔、その格を爲すに足らざるなり。風檣陣馬、その勇を爲すに足らざるなり。瓦棺篆鼎、その古を爲すに足らざるなり。時花美女、その色を爲すに足らざるなり。荒国陊殿梗莽邱隴、その怨恨悲愁を爲すに足らざるなり。鯨吸鰲擲牛鬼蛇神、その虚怪荒誕を爲すに足らざるなり、と。長吉の詩、變化かくの如く、鬼趣は、その獨闢に係ると雖も、いたずらに字面に刻意し、なほ其神を窮めざるや、拘孿殊に甚しく、未だ其妙を完うするに及ばず。李憑箜

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篌引・雁門太守行・金銅仙人辭漢歌・將進酒・美人梳頭歌の如き、集中の傑作にして、ともに、鬼趣却って少し。(支那文學史下 第三期 第一 唐代文学 一三 韓愈の詩及び其門下下)>
 杜牧の「李賀歌詩集序」李商隠の「李賀小伝」などの記事を結びあわせて最後にかれ自身の(だろう)評語を加えて、まとめている。 秀才の模範答案という感じがする。
 神田喜一郎氏によれば<久保天随一八七五-一九三四 漢詩人。本名は得二。長野県高遠の出身。一八九九年(明治三二)東京帝国大学漢学科卒業。前半生は評論、紀行、随筆などに才筆をふるい、主として文壇に活躍した。また多くの漢籍の啓蒙的な注釈書を著わした。後半生はもっぱら漢詩の専門家として名をはせ《秋碧吟廬詩鈔(しゅうへきぎんろししょう)》など数種の漢詩集を刊行した。その作品は清朝の呉梅村を学んだもので、詞藻(しそう)富麗である。晩年台北帝国大学教授となり《西廂記(せいそうき)》の研究をもって文学博士の学位を授けられた。>(『世界大百科事典』平凡社、一九六五年)
 「啓蒙的」ということばは、たぶん、久保の文学史を概括することばとしても最も適切だろう。 わたしが手さぐりで中国文学のなかにはいってゆきつつあった少年時代に、この文学史からいろいろ教えてもらった。 まさに啓蒙してもらったわけで、だから「啓蒙的」ということばで、この本をおとしめる気持ちは毫もない。 ただ、ふしぎに思うのは、中国の清末民初のいわゆる啓蒙思想家の啓蒙的著作が、読者を感動鼓舞するものが多いのに、日本の明治・大正の啓蒙書でわたしの読んだものが、ほとんど一様に、便利でありながら退屈なことである。 わたしのせまい見聞を一

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般化することはすまい。 久保は「長爪郎を論ず」の後にこの文学史を書いたはずである。 文学史の李賀についての記述は「長爪郎を論ず」の要約的性質をもつといえないか。
 さて久保の記述のうちで、かれ自身の意見と考えられるのは「長吉の詩、変化かくの如く」以下の数行である(ひょっとすると、これもどこかの詩話かなにかにあった評語かもしれぬが)。 そこでのかれの長吉の「鬼趣」についての理解は、李賀についての因襲的な漠然とした評判から一歩も出ていない。 「李憑箜篌引」ないし「美人梳頭歌」が集中の傑作であるというのはいい。 それらに「鬼趣」が少いというのもまあいい。 しかし「却って」というとき、「鬼趣」と「傑作」とは反対の方向に阻隔される。 はたしてそれでよいのか。 もしそうならば、鬼趣は若気のあやまちで、そのあやまちを矯正することによって傑作が成立した、ということになりそうだ。 はたしてそうか。 賀の詩のいわゆる鬼趣なるものも、評家によって、さまざまにずれる。 そこをある程度はっきりさせないと、論議がいっこうに噛み合わぬことになる。 詩話のたぐいを読んで、いつももどかしく思うのは、ことばが同じ次元で使われていない場合が多いからだ。 久保のことばも、もしつぎのような意味でいわれたものだとするなら、わたしはなっとくする。 すなわち、李賀の詩にしばしば表現される怪奇は、かれの表現の目標だったのではなく、かれの分析した現実世界の構造の怪奇が結果として作品に反映してしまった。 しかしかれの目ざす世界は、そういう怪奇さのすくない方向にあり、その夢想がかれの作品に流露したとき、かれの作品は傑作となった。
 だが、久保のあの文章がこのような意味をこめて書かれたものとは、わたしには信ぜられぬ。

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久保の文学史のいいところは、清朝の文壇の世論のようなもの、一種の平均的判断を示してくれたところにある、といえようか。 李賀を専論したことのある詩人の李賀論としては物足りない。 しかし、ひとびとが李賀をどんな目でみているかということは、この短い文章の中にほとんど尽されている。 それは文学史家の作業としては、一種の成功だと、いえなくはない。 二〇世紀は、そこから、出発しなければならないのだ。

 斎藤 晌(その一)


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《雑記・45》「范愛農」1972.7.2

 雑誌『飈風』創刊号(飈風の会、一九七二年三月三十一日発行)を荒井健氏から贈られた。 中島長文「范愛農」を読んで感動した。 知識として教えられることも多かった。
 魯迅の「范愛農」は<魯迅の伝記を書くばあいのほかは、あまりとりあげられることもない文章>だそうである。 わたしは魯迅の文が好きで折にふれて読む。 しかし研究しようとは思わず、まだ魯迅研究といわれるものをあまり読んでもいない。 だから右の文を読んでふしぎな気がした。 思いかえせば、ふしぎでもない。 いま中島氏がとりあげたことを奇とすればよい。
 魯迅の「范愛農」のなかでは徐錫麟追悼の同郷会での范と魯迅との言い争いが前半での山となっている。 周作人はこれを虚構だとするが、氏は、これが虚構ではないことをこの一篇で考証し、魯迅の「范愛農」が<単なる買いそうでな>く、<真実がそのまま詩であることもあろう>その詩としてとらえるようである。

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 わたしは《雑記・58》二〇世紀の李賀(二)魯迅・付記で、周作人のいうようにそれがフィクションならば、という前提で、小文をかいた。 あの文章の中でわたしが最ものべたかったことは、ふたりの口論が事実かという問題とちがったところにあり、また、わたし自身、中島氏の考証を追試するいとまがないので、小文はそのままおいておく。 魯迅の読者の一人としての希望をのべるならば、中島氏の提起した興味ふかい問題を、魯迅研究家が放置せず、徹底的に追試してほしい。 わたしが感動したのは次のようなことである。
 魯迅の文章はトゲだ。 トゲが刺さると鋭く痛む。 急いでトゲ抜きでぬいて捨てる。 それでも痛さはのこる。 しかしやがて痛みは消え、トゲのことを忘れる。 それも一法である。
 抜こうと思ってもぬけず、折れ曲ったトゲは、その周囲の皮膚や筋骨を腐食しはじめる。 それでもメスでこじあけ、腐食した部分と共にトゲを捨てさることができる。 それも一法である。
 腐食はトゲに毒があるためか、あるいはトゲの刺戟によって直ちに腐敗してゆくものがおのれの側にあるためか、そのような思いのなかでトゲを抜くこともできず疼きに耐える。 これも一法である。 中島氏の文章には、この疼きに耐える人の愚直と痛みに似たものがひびくように、わたしには感ぜられる。 たとえば新聞「越鐸」についての魯迅と青年たちとの応酬に関して氏が次のように書くところに、わたしはそれを感じるのである。

……卑俗な正義、あるいは正義の俗的側面とでもいうべき傲慢な論理で人を理解するという点ではかわりはない。あのとき魯迅は愛農を卑怯未練とみたのだが、その自分をいまは「越

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鐸」報の青年たちにみたのである。青年たちはかれがかつて愛農をみた論理をずっと露骨に出してかれをみているにすぎない。そしてそういう正義の論理の傲慢さが現実に翻弄されるとき、いかに人を裏切るかを、かれは范愛農との邂逅などを経て感じはじめていたにちがいない。しかし、それは見る側のことであって、見られた方はちがっていた。魯迅は世故を知った故に沈黙したが、愛農は吐きだすように言った。そのことばを核に「范愛農」は展開する。

 ひとたび慟哭してのち死ぬまで言うに堪えない体験がある。 范愛農が同郷会で発したのはその慟哭だったのだろう。 死んだ子の年をかぞえるように死ぬまでかきくどかねばならぬ体験がある。 魯迅のような作家に青年時代にぶつかってその人について物をかきはじめるということは、たぶんそれであろう。 中島氏が同じ雑誌で「魯迅の手紙」を書いているのは、あるいはそのようなくりごとのひとつであろうか。

第8号

(8-81/481)

李賀文献目録稿(一)

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 この稿(一)では、一九〇〇〜一九六〇年に発表された李賀文献でわたしが気づきカードに書きこんだものを列挙する。
 文献そのものを見ていない例は多く、見ていても、それについての記載法が不統一で、補正しなければならないが、いまはとりあえずそのまま書きとめておく。
 陳璧如等編『文学論文索引』(国立北平図書館・民国二十一年)劉修■編同続編(同・民国二十二年)同三編(同・民国二十四年)中国科学院歴史研究所第一、二所・北京大学歴史系合編『中国史学論文索引』(科学出版社 一九五七年六月、十二月)によってものが多いので、それぞれを[文][史]の略号であらわすことにする。
 わたしの気づかぬものについて大方の教示を乞いたい。

1 長爪郎を論ず 久保天随(得二) 帝国文学 一九〇〇年(明治33)八−一〇月
2 李長吉を論ず 辻揆一 ? ?
 以上二条は草森紳一氏に教えられた。本誌第七号『二〇世紀の李賀(三)』をみよ。
3 支那文学史 久保得二 早稲田大学出版部 ?『二〇世紀の李賀(三)』をみよ。
4 昌谷別伝並注 田北湖 国粹学報四巻六期(43期)
 この雑誌は一九〇五年、上海国粹学報社から創刊された。<此雑誌于毎一年中皆拼散原帙、按類彙訂、所以各図書館所蔵此雑誌、有原印原装本和重印彙訂本両種。本索引据原印原装本著録、

(8-83/483)

原装本称某年(■甲子年)第幾号、又附注第幾年原若干期、(如現在雑誌称某巻総若干号)本索引称第幾巻代表第幾年、■第幾期代表毎年中之第幾期、北大図書館蔵有第一年至第七年之原印原装本。>[史]注(上、31ページ)
5 中国大文学史 謝無量 中華書局 一九一八年(民国7) 第四編第七章第二節李賀劉■強(巻七30〜32ページ)
6 李長吉の象徴主義的傾向 斎藤晌 第三高等学校嶽水会雑誌 一九二〇年?
 『二〇世紀の李賀(三)』をみよ。
7 跋李長吉評注 呉■生 四■月刊一二期 一九二二年九月 [史]下
8 李長吉与月 熊■■ 学灯 一九二四年三月三〇日〜四月二日
 <学灯 上海時事新報副刊 収一九二二年四月份〜一九二五年五月份(附于時事新報内、学灯于毎月■装訂成冊零售)>[史]上
9 詩人李長吉之詩 周閬風 学灯 一九二四年七月二九日
 <内容:(1)■■話 (2)長吉的詩境 (3)從長吉集詩中所窺得之李長吉 (4)長吉詩中所表現的思想 (5)長吉之冩景詩与絶句 (6)結尾>[文]
10 李賀評伝 陳培璋 国立広東大学文科学院季刊 一九二五年
 草森氏に教えられた。
11 李長吉的詩 蘇雪林 文哲季刊一期 上海■■図書公司 一九二七年(民国16)一〇月
 『二〇世紀の李賀(三)』をみよ。
12 


第10号

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李賀文献目録稿(二)

*入力者注:数字はすべて算用数字にした。

80 李長吉詩集 上、下、 鈴木虎雄注訳 岩波文庫 1961年5月、6月 李賀全詩の訳注である。
81 唐詩小札 劉逸生 広東人民出版社 1961年6月 李賀「夢天」に関する記述がある。
82 李長吉歌詩 小川環樹 世界名著大事典の項目 平凡社 1961年
83 書評:鈴木虎雄注釈「李長吉歌詩集」上下 高橋稔 漢文教室 56号 1961年9月
84 李賀小論 — 比興の手法を中心として — 横山伊勢男 中国文学研究(東京大学) 2号 1961年12月

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85 李賀 村上哲見 アジア歴史事典の項目 平凡社 1962年4月
86 中国文学史 中国科学院文学研究所中国文学史編写組 北京人民文学出版社 1962年7月 第9章第3節に李賀を論じる。
87 長歌続短歌 — 李賀小記 — 原田憲雄 人文論叢(京都女子大学) 7号 1962年11月
88 中国文学史 游国恩等編 北京人民文学出版社 1963年1月 Ⅱ、第4編、第9章、第4節
89 金銅仙人辞漢歌 — 李賀小記 — 原田憲雄 人文論叢 8号 1963年9月15日
90 李賀詩注 中国文学名著第6集第7冊 台北世界書局 1964年2月 65の三家評注李長吉歌詩に明の曽益注の李賀詩解四巻目録一巻を加えたもの。
91 十二月楽辞 — 李賀小記 — 原田憲雄 方向10号 1964年7月
92 蓼莪集 — 中国詩選 — 原田憲雄訳 方向社 1964年9月23日 油印本 李賀詩五三首。
93 青銭のこと 三沢玲爾 大安 101号 大安文化貿易KK 1964年4月
94 Li Ho — A Scholar-official of the Yuan-ho Period South M.T. JOSA. Ⅱ-2 1964
95 POEMS OF THE LATE T'ANG (Penguin Classics) A.C. Greham Penguin Books Ltd. 1965
96 幻視とは何か 竹内健 映像芸術 1965年5月
97 李賀与清慈:貧病失意与詩人生活 陳潁 清華学報 1965年7月
98 垂翅の客(一)・李長吉伝 草森紳一 現代詩手帖 1965年9月 これは1974年現在なお連載が続いている。折々に小題がつけられているが、ここでは草森評伝と簡称したい。今のところ、日本の青少年に李賀を鼓吹する功において、草森評伝は荒井健の李賀(本目録66)と一、二を争う。わたしの李賀研究の発行部数が五十冊をこえたのは、たぶん両氏の功の余恵であろう。
99 草森評伝(二) 1965年10月
100 同(三)1965年11月
101 同(四)1966年1月
102 同(五)1966年2月
103 収書遍歴(10) 長澤規矩也 大安 1966年2月

(10-56/656)

104 


第15号

(15-8/1008)

秦王飲酒  1980.3.15―4.14

  一

 李賀の「秦王飲酒」は、北宋刊のいわゆる宣城本『歌詩編』では、第一巻の第四十一首(わたしの與えた作品番號一〇四一)で次の通り。

  秦王飲酒  秦王飲酒
 秦王騎虎遊八極  秦王 虎に騎(の)り 八極に遊ぶ
 劔光照空天自碧  劔光 空を照し 天 自ら碧なり
 羲和敲日玻http://glyphwiki.org/glyph/zihai-073047.50px.png聲  羲和 日を敲(たた)き 玻http://glyphwiki.org/glyph/zihai-073047.50px.png(はり) 聲あげぬ
 劫灰飛盡古今平  劫灰 飛び盡して 古今 平(たひらか)なり
 龍頭瀉酒邀酒星  龍頭 酒を瀉(そそ)ぎ 酒星を邀(むか)ふ
 金槽琶琶夜棖棖  金槽の琶琶 夜 棖棖(たうたう)
 洞庭雨脚來吹笙  洞庭の雨脚 來って笙を吹く
 酒酣喝月使倒行  酒酣(たけなは)に 月を喝して 倒行せしむ
 銀雲櫛櫛瑤殿明  銀雲 櫛櫛(しつしつ) 瑤殿 明(あきらか)なり

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 宮門掌事報一更  宮門の掌事 一更を報ず
 花樓玉鳳聲嬌獰  花樓の玉鳳 聲 嬌獰
 海綃紅文香淺清  海綃の紅文 香 淺清
 黃鵝跌舞千年觥  黃鵝 跌舞す 千年の觥(さかづき)
 仙人燭樹蠟煙輕  仙人燭樹 蠟煙 輕し
 清琴醉眼涙泓泓  清琴 醉眼 涙 泓泓

 題の「秦王飲酒」を宋蜀刊『李長吉文集』は「秦王飲」とし、朝鮮活字本『李長吉集』は「秦王飲酒歌」とする。 第三句「http://glyphwiki.org/glyph/zihai-073047.50px.png」字を宋蜀本等は「瓈」とする。 第四句「古今平」を中華書局刊『文苑英華』は「今太平」とし「集に古今に作る」と注する。 第六句「金槽」を宋蜀本は「今槽」とするが誤りであろう。 第十一句「花樓」を朝鮮本は「花臺」とする。 第十三句「黃鵝」を『文苑英華』は「黃俄」とし「集に鵝に作る」と注する。 王琦『李長吉歌詩彙解』には「文苑に黃娥に作る」と注する。
 韻字を『廣韻』に據って示せば、「極」は入聲二十四職、碧は入聲二十二昔。 他はすべて下平聲で、「聲」「清」「輕」が十四清、「平」「笙」「行」「明」「更」「獰」「觥」が十二庚、「星」が十五青、「棖」「泓」が十三耕。 庚・耕・清は同用で、青は獨用だ。

  二

(15-10/1010)

 毛澤東が陳毅にあてた一九六五年七月二十一日付の手紙が、雑誌『詩刊』一九七八年一月號に「毛首席給陳毅同志談詩的一封信」と題して發表され、同じ年の『文學評論』第一期にも轉載された。
 李賀の詩はおおいに一讀に價するが、きみには興味をもってもらえるかどうか。
という言葉がみえる。 毛氏の李賀愛好はつとに知られているが、この「談詩」の手紙で「詩はかならず形象思惟を使用する」といい、李白・杜甫・韓愈とならべて李賀に言及したためか、以後、形象思惟と李賀に關する論文・記事が新聞・雑誌を賑わすようになった。 賀に關する記事で「秦王飲酒」をとりあげるものの多いのも一奇とすべきだ。 その大半は『光明日報』の広告などで知り得ただけで入手できず、詳細はわからぬが、『復旦學報』(社會科學版)一九八〇年第一期に載せる陳允吉「李賀《秦王飲酒》辨析 ― 兼與胡念貽同志商榷」は、先んずる諸論文を批判しつつ自説を展開しているので、これによって「秦王飲酒」についての現在の中國論壇の意見の大體を察することができよう。 簡約して紹介する。
 陳論文は二部に分かれ、その一は「詩中の "秦王" は果して誰か」、その二は「《秦王飲酒》の主題は何か」。 まず一。

 秦王の解釋に三説あって、一は秦の始皇とし、二は唐の徳宗とし、三は唐の太宗とする。
 一説をとるものは、宋の呉正子の『李長吉歌詩箋注』、明の徐渭の『李長吉集注』、曾益の『昌谷集注』、中國社會科學院文學研究所編『唐詩選』(一九七八年・北京)

(15-11/1011)

 二説をとるものは、清の姚文燮の『昌谷集注』、王琦の『李長吉歌詩彙解』、葉葱奇の『李賀詩集』(一九五九年・北京)
 三説をとるものは、胡念貽の「 "秦王" 辨」(『光明日報』一九七七年八月十三日)、陳遼等の「文藝史の偽造と "四人組" の反革命陰謀」(『鍾山』文藝叢刊・一九七八年第二期)
 このほか、蔣凡等の「筆補造化奪天工」(『文藝論叢』一九七八年第三期)は、「この詩が唐の太宗を歌頌するものか、唐の徳宗を諷刺するものかの問題は討論すべきだが、秦の始皇と關らぬことは確かだ」という。 陳論文は、舊注すなわち一の始皇説に「比較同意」する、として次の四點を指摘する。
 (一) 詩歌の題目から見て
 「秦王飲酒」は樂府體の詩で、古樂府「秦王卷衣」を継承する。 「秦王卷衣」は『樂府古題要解』のいうように、 "咸陽の春景と宮闕の美を言い、秦王が衣を卷いて愛人に贈った" もの。 秦の始皇を寫したことに毫も疑いない。 「秦王飲酒」も "宮宴聲色の盛を描くに力點をおいた" ので、兩首の中心人物は同一人。 すなわち "秦王は始皇とするのが最も合理的な推斷だ。
 (二) 詩歌冒頭の兩句から見て
 "秦王騎虎遊八極、劔光照空天自碧" を、ちかごろ一般に "秦王" の武力による天下統一ととるが、そうではなく、始皇が中國統一後に四方を巡遊した史實を指す。 東北は碣石、東は之罘、東南は會稽、南は衡山、南郡、西北は隴西、北地に至り、石刻中に "親巡遠方黎民、……周覧東極" (泰山石刻) "皇帝春游、……逮于海隅" (之罘石刻) "親巡天下、周覧遠方" (會稽石刻)など

(15-12/1012)

の文字が見え、 "騎虎遊八極" にぴったりで、その "秦王" の始皇たることを証明する。
 (三) 詩中の "飲酒" に關わる描寫から見て
 近年かなりの人がこの飲酒を "成功を慶賀する宴會" と説く。 だが、夜間の深宮中のことで、 "秦王" 以外に、侍する者は宮女と仙人だけ。 功臣貴戚が参加せねば、豪華ではあっても、 "盛大に成功を慶賀する宴會" とはいえぬ。 始皇は六國統一後、逸樂に耽り、宮殿を修飾し仙道を求めたので「秦王飲酒」の描寫に相應する。唐の徳宗は "宴游を好む" といわれるが庸弱で、詩中の豪縦な気魄にふさわしくない。 唐の太宗は、史家に賢明な君主とよばれ、『舊唐書』貞觀元年十二月壬午、秦の始皇や漢の武帝の求仙を批判している。 晩年、思想が變化し、胡僧那羅邇娑婆寐の長生藥を服食したために死んだが、かれの主要な方面ではなく、それにこういう事情は唐代の統治階級がひたすら隠そうとしたこと。 李賀は皇室の子孫で、胡説のように太宗を非常に崇敬していたのなら、長夜の酣飲をその太宗にかずけることがあろうか。
 (四) "秦王" 呼びかたから見て
 胡説によれば、李賀詩集中、秦の始皇に言及するのは「白虎行」「苦晝短」「官街鼓」の三首。 「白虎行」は偽作の疑いがあるのでおいておくと、(「苦晝短」では嬴政と氏名で呼び)「官街鼓」では "秦皇" と呼ぶ。 だから李賀は始皇を "秦皇" と呼ぶので "秦王" ではなく、文字使用の習慣からも偶然ではない由。 だが偽作としたところで「白虎行」はその一例ではないか。 李白は「古風」で "秦王掃六合" とも "秦皇按寶劔" ともうたう。 漢の賈誼の「過秦論」、唐の陳子昂の「燕太子」、岑参の「終南雲際精舎法燈上人不遇」等に始皇を "秦王" と呼んでいる。

(15-13/1013)

 以上を綜合して「秦王飲酒」の "秦王" は秦の始皇であって唐の徳宗でも太宗でもない。 つぎに二。

 「秦王飲酒」の主題は何か。
 姚文燮は唐の徳宗の飲酒享樂を "諷刺" するものとし、四人組時代には、秦の始皇の中國統一事業に對する "頌歌" で法家思想の表現とした。 が、いずれも根據に乏しい。
 「秦王飲酒」の主題は、頌歌でもなく、諷刺でもなく、美刺褒貶の政治的意義を含まない別箇の一種の思想感情を寄托したものだ。 この詩は古代の游仙詩や宮體詩から大きな影響をうけていて、それらがしばしば人生の短促に對する感慨を主要内容とするように、李賀の作も、銭鍾書『談藝録』にいわゆる "世變無涯、人生有盡" への詠嘆だ。 一首の大意は、秦の始皇が天下を統一し、その勢で時間をも超越しようとし、酒宴によって神仙境の氣分を彷彿しようとするが、燭の煙がゆらぎ消えれば夜は暁となり、時は人を待たず、長命は期し難く、秦の苦痛は倍増し、宴に侍る仙女が同情して涙を流す。

  三

 「秦王」に唐の太宗をあてるのは新説だが、胡氏らより早く、一九七四年十月に森瀬壽三「李賀『秦王飲酒』をめぐって ― 李長吉體と杜詩 ―」(入矢教授等退休記念論文集)が發表され

(15-14/1014)

ている。
 「秦王」につき、秦の始皇、唐の徳宗と見る舊注のほかに、特定の人物に當てはめる要はないとする鈴木虎雄・荒井健説を揚げた後、つぎのようにいう。

一見些末な字句穿鑿問題のように思える「秦王」の比定は、しかしながら、少なくとも李賀の詩の根本に關わる事情を含んでいる。 結論から先に言えば二詩(原田注:「秦王飲酒」と「長歌續短歌」)に見える「秦王」は、しずれも唐創業の王、太宗李世民を比定する以外考えようはない。
 その理由として、太宗が皇太子となる前に秦王に封ぜられたこと、「長歌續短歌」の「秦王不可見、旦夕成内熱」が杜甫「折檻行」の「嗚呼房魏不得見、秦王學士時難羨」に基づき、杜の「秦王」が太宗だから、李賀のも。 唐人は始皇を指すには「秦皇」の語を用いるのが常で、
少なくとも杜甫と李賀の他の詩において混同は皆無である。
 そうして「秦王飲酒」は、
詩人にとって「聖なるもの(Das Heilige)」としての太宗 ― 「八極を盼めて以て騰(たか)く𦑥(と) び、九天に臨みて高く峙す(太宗『鳳賦』)と謳った創業の王に對する、いわば "悲しき頌歌" である。……「太宗」の語を用いなかったのも、李賀が李世民を歴史上の人物として「世俗(Das Pfofane)」の次元で描くことを潔しとせず、より象徴的表現を可能ならしめる「秦王」の語を選んだものと解することができる。
 氏はここで太宗から離れ、李賀のこの詩に秘められたもうひとりの「聖なるもの」として杜甫

(15-15/1015)

を擧げ、「壮遊」の「飮酣視八極」や「同諸公登慈恩寺塔」の「羲和鞭白日」が「秦王飲酒」に先行するものとし、「慈恩寺塔」と「秦王飲酒」は、

絶望的な天地崩壊の感覺を内包しつつ、創業の王の姿を秘かに希求するという古代人的な信仰告白の表出を共通した性格としてもつ一方、『秦王飲酒』に着目すれば、そこには杜詩における聖王の現實世界内での存在感はなく、……幻想世界に描き出された太宗の姿である。この現實(世俗)的存在感の闕落している點が重要で、杜甫が……基本的には儒家的な經世の志を最後まで捨てず、従って彼の絶望も主としてその面から來るのに對して、……李賀の倨傲は、裏面において、儒家的秩序も含めて現實(世俗)的存在の一切に對する根底からの懐疑と背中合せになっており、その意味でむしろ阮籍の絶望に近いものさえ見出せるのである。……『秦王飲酒』は、李賀にとって、そこにこそ生くべき夢の世界であったといえよう。
と結ぶ。 省略した部分にも創見が鏤められ、教えられるところが多いが、魯鈍なわたしにはかなり難解だった。 同年十二月『李賀研究』第十號に《雜記・76》「劫灰飛盡」と題して小感を記した。 本稿の四以下は「劫灰飛盡」(以下「前稿」と簡稱)を擴充する意圖をもつ。

 森瀬氏の「秦王」卽唐太宗説は陳允吉の説によってその根據の幾分を失うだろう。 だが陳氏の「秦王」卽秦始皇説も確乎不動とはいい難く、李賀の意識の深層に向ける森瀬氏の探針は、陳氏

(15-16/1016)

が等閑に附した方面を暗指する趣きである。 わたしは「前稿」で次のようにいった。

賀の作品中「秦王」の語を使用するのは「秦王飲酒」と「長歌續短歌」で、後者の秦王が唐の太宗であろうということは拙稿「唐の太宗」(『李賀研究』第五號)にのべた。 「秦王飲酒」のそれも唐の太宗であろうことは、ほとんど動くまい。 ただ、それはこの詩の發想の出發點においてのことであって、成立した作品は、唐の太宗に限定されない、普遍的な「秦王」をうたっている、とわたしは感じる。
 なお、この時は氣づかなかったが、陳本禮の『協律鉤元』は「秦王」に前秦の苻生を當てている。 さて、「秦王飲酒」の發想の出發點において「秦王」が唐の太宗であろうという推測は、唐の韋述の『兩京新記』(『唐代研究のしおり』第六所収)に引く太宗らの聯句によって支えられるだろう。
 貞觀五年、太宗、突厥を破り、兩儀殿に於て突利可汗を宴し、七言詩柏梁體を賦す。
御製   絶域降附天下平  絶域 降附し 天下 平なり
神通曰  八表無事悦聖情  八表 無事 聖情 悦ぶ
無忌曰  雲披霧斂天地明  雲披け霧斂まって 天地 明なり
元齡曰  登封日觀禪雲亭  登封して 日觀す 禪雲亭
蕭瑀曰  太常具禮方告成  太常 禮を具して 方(まさ)に成るを告ぐ
 宋の王應麟の『玉海』卷第一百五十九にも同文を載せ、『全唐詩』卷第一には作者をそれぞれ「帝」「淮安王」「長孫無忌」「房玄齡」「蕭瑀」と記す。 なお「貞觀五年」は「貞觀四年」と

(15-17/1017)

改めねばならぬ。
 神通ら四臣の句は太宗の句を敷衍し、神通が「絶域」を、無忌が「降附」を、玄齡が「天下」を、蕭瑀が「平」を、分散歌頌する。
 この聯句全體が「秦王飲酒」のはじめの四句に酷似するが、さらに檢察すれば、太宗の句と「秦王飲酒」の初二句、神通のと三四句、無忌のと五 ― 九句、玄齡のと十 ― 十三句、蕭瑀のと十四結句が對應する。
 淮安王神通は、李賀の五世の祖の李壽、字は神通、であった。 賀がこの聯句に關心を抱かぬはずはない。 見れば聯句の韻字は下平聲で、平・明が十二庚、情・成が十四清、亭が十五青で、「秦王飲酒」の第三乃至結句の韻字と共通する。 では初二句の韻字の極・碧と聯句とどう關わるか。 神通の敷衍する「絶域」の域字は入聲三十四職、すなわち「秦王騎虎遊八極」の極字と同韻である。 絶字は十七薛で、同じ入聲ではあっても隔たるが、「劔光照空天自碧」の碧字もまた二十二昔で、極字と同じ入聲ながら隔る。
 太宗の作に唱和する四人の順序は、當時の太宗の近臣としての序列を示すだろう。 ところが、それから十三年後の貞觀十七年、太宗の建てた凌煙閣に、「降附天下平」を分説した三人は開國の功臣としてその圖を描かれるが、高祖李淵の起義にいちはやく呼應し、聯句で「絶域」を敷衍した神通は「功臣」の列に入らぬ。 神通はあの聯句の年の十二月に世を去ってはいたが。
 清の王曇は『煙霞萬古樓詩選』卷一の「五雲畫く所の大唐長公主像に題す」る作にいう「獨り偏師を將(ひき)ゐて一軍に冠たり。入關の娘子は是れ功臣。凌煙樓上に名姓無し。寫すを闕く開唐の第

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一人」。 後代無縁の詩人にもこの感慨があるとすれば、神通の子孫の李賀に思いの無かろうはずがない。 「兩儀殿聯句」と「秦王飲酒」との、意味と押韻の兩面での對應共通は、偶然ではなく意識しての追和だろう。 共通するところが意識しての對應なら、共通せぬところもまた偶然ではなく、企畫計算されたものとせねばなるまい。
 『舊唐書』高祖紀によれば、貞觀八年(六三四)三月甲戌、高祖は西突厥の使者を兩儀殿に讌し、長孫無忌を顧みていう。

當今、蠻夷率服す、古へ未だ嘗て有らず。
 無忌は千萬歳壽を上(たてまつ)った。 高祖は大いに悦び、酒を太宗に賜うた。 太宗もまた觴を奉じ壽を上り、流涕していう。
百姓安きを獲、四夷咸く附するは、みな聖旨を奉遵せしのみ、豈に臣の力ならんや。
 同じ歳、城西で觀兵式を行ったとき、高祖みずから臨視し、將兵を勞って還り、未央宮で酒宴し、三品以上の者はみな侍した。 高祖は突厥の頡利可汗に起って舞うように命じ、また南越の酋長馮智戴に詩を詠じさせた。 おわると笑っていう「胡・越、一家となる。古へより未だこれ有らざるなり」。 太宗が觴を奉じ壽を上っていう「臣つとに慈訓を蒙り、教ふるに文道を以てす。ここに義旗に從ひ、京邑を平定す。……三數年の間に區宇を混一す。天慈崇寵、遂に重任を蒙る。いま上天祐けを垂れ、時和し歳阜(ゆたか)に、被髪左袵、並びに臣妾となる。これ豈に臣の智力ならんや。みな上稟聖算に由る」。 高祖は大悦びし、群臣みな萬歳と呼び、夜のはてるころ散會した。
高祖の武徳九年(六二六)六月、秦王李世民は兄の皇太子建成、弟の齊王元吉とその諸子を殺し

(15-19/1019)

た。 いわゆる玄武門の變である。 高祖はやむなく世民を皇太子とし、八月、みずから太上皇と稱し、位を世民に譲った。 世民が卽ち太宗で、翌年が貞觀元年だ。 四年(六三〇)の聯句は天子太宗の作に近臣李神通らが唱和した。 神通は臣ではあるが、高祖の從弟だ。 八年の兩儀殿に臨んだ高祖は、もとより太上皇としてであり、「當今蠻夷率服す、古へ未だ嘗て有らず」とは、「おれの時代にやれなかったことを、息子はやりとげた」ということで、隠居から當主へのお世辭だが、長孫無忌を顧みていったのは、四年前に同じ場所であった宴とそこでの聯句をちゃんと知っていて、お前はそのとき「雲披霧斂天地明」と歌ったそうだが、するとさしずめおれは「雲霧」というところだな、との心も響かせている氣味である。 玄武門の變の畫策者が無忌であり、その結果として高祖が退位し世民が天子となった。 このこともまた公然の秘密であった。 「千萬歳壽」を上るとき、さすがの無忌も汗びっしょりだったろう。 高祖の大いに悦んだのは、空ぞらしい「千萬歳壽」によりは、無忌の慌てように向けられたものであったろう。 太宗の「流涕」もまた、あの聯句が太上皇に及ぼした効果の思いがけなさに氣づいたことに關るに違いない。
 ついでながら森瀬氏が引く太宗の『鳳賦』は、『舊唐書』の「長孫無忌傳」には「威鳳賦」として引かれ、太宗の妻文徳皇后の兄すなわち外戚たる無忌の「權寵過盛」に對する世の非難を除くことを目的の一つとして作り、當の無忌に與えたもので、

明哲に憑って禍散じ、英才に託して福全し。……賢徳の流慶をして、萬葉を畢ふるまで芳傳せん
とめでたく歌いあげるが、無忌の輔立するのちの高宗以外の、太宗の子で名望あるものは、ある

(15-20/1020)

いは殺されあるいは遠ざけられる。 "明哲英才"の無忌の計によって。 太宗晩年の妾は、年は若くとも高宗にとっては庶母に當るが、高宗は太宗の死後、めとってやがて皇后にする。 武則天である。 武則天は太宗の権力集中の方法をそっくり真似て、唐朝をいったん滅亡させる。 武則天の老衰に乘じ中宗が復辟するが、『新唐書』の「武平一傳」によれば、その中宗は兩儀殿で宴し、胡の樂人たちに合生歌という流行歌を唱えさせて、はしゃぎまわる。 「秦王飲酒」の逸樂を彷彿させる。
 以上によって「秦王飲酒」が唐の太宗と幾重にも關ることを確かめた。 とはいっても「秦王」卽太宗と限定し得ないことは、現に森瀬氏らのあげる諸説が太宗以外の帝王たちをこれに比定すること自體が物語っている。 「秦王」を太宗とするのは、"この詩の發想の出發點においてのことであって、成立した作品は、唐の太宗に限定されない、普遍的な「秦王」をうたっている"という所以である。
 普遍的な「秦王」とは、それではいかなる者か。 權力を集中して恣に行使する中國の王、森瀬氏のいう「世俗」王である。 それをなぜ秦王というのか。 當時インドに對して中國を呼ぶとき、秦と稱することが多かったから。
 では「秦王」と對する者として李賀は何を心に描いたのか。 インド卽ち天竺より將來された佛經の説く「轉輪聖王」であったろう。 「秦王飲酒」中の「玻http://glyphwiki.org/glyph/zihai-073047.50px.png」と「劫灰飛盡」がその鍵だ。
 「劫灰飛盡」を佛經に尋ねたら「玻http://glyphwiki.org/glyph/zihai-073047.50px.png」にぶつかり、「玻http://glyphwiki.org/glyph/zihai-073047.50px.png」は日天子を呼び、日天子は轉輪聖王を導き、天竺における世俗王の典型「轉輪聖王」の資質を佛經の描寫に見れば、自然にその

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對蹠的存在としての世俗王「秦王」に到達せざるを得ない。

  五

 「秦王飲酒」第四句に「劫灰飛盡」の語がみえる。 呉正子の注にいう。

 三輔黄圖に云ふ。 漢武初めて昆明池を穿ち黒土を得。 以て東方朔に問ふ。 朔對へて曰く「臣愚、以て此を知るに足らず。 西域の胡人に問ふべし」と。 胡人曰く「これ劫燒の餘灰なり」と。
 以來、注家も評家もこれを襲ふ。 ところで清の孫星衍・荘逵吉校正『三輔黄圖』の孫氏の序によれば、『三輔黄圖』とは『隋書』の經籍志に始めて見え、魏・晉の書にその名を引くが、現に流布する本は後人が諸書からの記事を亂入増廣したもの。 疑わしいものを刪去した孫氏らの本には呉注に引く記事は見えない。 張澍編『三輔故事』に「武帝初穿池、得黒土、帝問東方朔、朔曰、西域胡人知之、乃問胡人、胡人曰、劫燒之餘灰也」と、酷似する記事を掲げ、出典を「藝文類聚」と注するが、汪紹楹校點『藝文類聚』には見えないようだ。 『三輔故事』もまた『隋書』に始めて見える。 すなわち、呉注に引く記事が李賀の「劫灰」の典據であったと定めるには疑いを存する。
 もっとも、梁の釋僧祐の編輯した『弘明集』(四部叢刊)卷二に收める宋の宗炳の「明佛論」に「東方朔が漢武に對へし劫燒の説」の語が見えるので、その頃すでにこの種の説話のあったことは確かだが、宗炳は出典を示さない。

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 梁の釋慧皎の『高僧傳』(『大正新脩大藏經』第五十册)卷一の「竺法蘭二」にいう。

昔、漢武、昆明池を穿ち、底に黒灰を得たり。以て東方朔に問ふ。朔云ふ「委(くわし)くせず。西域の人に問ふべし」と。後、法蘭すでに至る。衆人、追ひて以て之を問ふ。蘭云ふ「世界終盡するとき劫火洞燒す。この灰は是なり」と。朔の言、徴あり。信ずる者はなはだ多し。
 竺法蘭は中天竺の人で、後漢の明帝の永平十年(六七)あるいは十八年(七五)に洛陽に來た、といわれる。
 『高僧傳』は「明佛論」より約半世紀おくれる。 いまの『三輔黄圖』あるいは『三輔故事』に見えるような記事が、宋以前の『三輔黄圖』にあって宗炳も慧皎もそれに據ったのか、あるいは『高僧傳』の記事を節略し法蘭を「胡人」としたのが、今の『三輔黄圖』ないし『三輔故事』の記事なのだろうか。
 李賀が『楞伽經』を撫玩したことは確かだ。 その譯者について記す唐の釋道宣の『續高僧傳』を讀んだろうことを拙稿「菩提流支傳と李賀小傳」(『李賀研究』第九號)で述べた。 佛教思想を基盤とし作詩した詩人は王維以外に例を見ないと斷言する人もいるが、中國の詩人たちがそれほど偏狹で佛教思想がそれほど魅力に乏しかったとは、考え難い。 唐の代の長安・洛陽の佛寺は、在俗の官吏やその豫備というべき知識人に住居を提供し、僧院に備える經典は、それら詩人文人が讀むことを許していたので、思索を深め知識を廣めようとする人たちは、儒教にはない奇異荘麗な言語宇宙を、そこに求め樂しんだ。 ただかれらは獲た知見がいかに博大幽深であっても、それを盡く詩文に露呈することは卑しんだから、微香によって味識せぬかぎりその堂奥は見えないの

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だろう。 李賀は『高僧傳』もまた讀んだはずで、「金銅仙人辭漢歌」と『高僧傳』の次の二つの説話との類似がそれを示唆する。  卷六「釋慧遠一」にいう。

昔、潯陽の陶侃、廣州を經鎮す。 漁人ありて海中に神光を見る。 毎夕艶發し、旬を經て彌いよ盛なり。 怪しみて以て侃に白す。 侃往きて詳視すれば、乃ちこれ阿育王の像なり。 卽ち接歸して武昌の寒溪寺に送る。 寺主僧珍、嘗て夏口に往き、夜、夢に寺の火に遭ひてこの像屋ひとり龍神の圍繞するあり。 珍、覺めて馳せて寺に還る。 寺すでに焚盡してただ像屋存す。 侃のち移鎮するに、像に威靈あるを以て、使を遣して迎接す。 數十人これを擧げて水に至り、船に上(のぼ)すに及び、船また覆没す。 使者、懼れて之を反(かへ)し、竟に獲る能はず。
 卷二「釋曇無讖七」にいう。
河西王沮渠蒙遜、涼土を僭據し、自ら稱して王と爲る。 ……承玄二年、蒙遜、河を濟って乞伏暮末を抱罕に伐ち、世子の興國を以て前驅と爲す。 末軍に敗られ、興國、擒へらる。 ……興國、遂に亂兵に殺さる。 遜、大いに怒り謂へらく、佛に事(つか)ふるも應なし、と。 卽(ただち)に沙門の五十已下なるを遣斥し、みな道を罷めしむ。 蒙遜、先に母の爲に丈六の石像を造る。 像、遂に泣涕して涙を流す。
 さきに拙稿「金銅仙人辭漢歌」で述べたように、賀は魏の魚豢の『魏略』や晉の習鑿齒の『漢晉春秋』などの傳える銅仙説話によってあの歌を作ったのだろうが、右の『高僧傳』の二説話をも併せて参考としたろう。 ことに後者の石像流涙は、賀の銅仙鉛涙を誘發したものと察せられる。

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「劫灰」も『高僧傳』に據ったと考えて不自然ではない。
 「劫灰」が世界終盡するときの劫火洞燒の餘燼だとすれば、「劫灰飛盡古今平」の句を解くために、劫盡の典據を佛經に求めぬわけにはゆくまい。 森瀬氏は怠らずに『大智度論』を引く。 ただ摘取された語は、論旨にとって必ずしも妥帖ではない。 また『大智度論』は佛教の津梁、説話の寶庫だが、注釋だから、源泉を求めるには經藏に遡らねばなるまい。
『佛説長阿含經』(大正新脩大藏經第1册)は、五世紀のはじめに北天竺罽賓國出身の僧で鳩摩羅什の師であった仏陀耶舎が、後秦の都の長安で、涼州の僧の竺佛念と共に譯出したもので、同時代の釋僧肇の序にいう。

阿含は秦の言の法歸。法歸とは、蓋しこれ萬善の淵府總持の林苑。其の典たるや、淵博弘富、韞みて彌いよ廣く、明かに禍福賢愚の迹を宣べ、眞僞異齊の原を剖判し、古今成敗の數、墟域二儀品物の倫を歴記し、道として由らざる無く、法として在らざる無し。彼の巨海の百川の歸する所なるに譬ふ。故に法歸を以て名と爲す。
 「二儀」はさきの殿名「兩儀」と同じく天地をいう。 さて『阿含』は小乗經典だが、それだけに佛教の原始に近い教説・習俗・神話・傳説等を保存し、大乗の經論もそこに基礎を置くものであることはいうまでもない。 その『長阿含經』巻二十一、第四分世記經三災品第九にいう。
佛、比丘に告ぐ。四事の長久無量無限なるあり。日月歳數を以て稱計すべからざるなり。
 この長久無量無限なる時間を劫という。 サンスクリットのkalpaだ。 四事は四劫ともいい、世界が成立と破壊とを繰り返して循環する四時期である。

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佛經 「轉輪聖王」 「劫灰飛盡」

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二〇世紀の李賀(九)

 草森紳一

 一九六五年、雑誌『現代詩手帖』九月号に「垂翅の客 — 李長吉伝」(1)が出た。 筆者は草森紳一。一九六六年十一月までに十四回で一部が了り、一九七〇年一月から第二部がはじまり、一九七五年十一月までに三十八回で、以後はとぎれているが、側聞するところでは、近ごろ別の雑誌に続きを掲載しつつある由。 二部の三十八回までで、四〇〇字一五〇〇枚ぐらいだろう。 わたしは、この未曾有広大の李長吉伝が完成したときに取りあげようと思っていたが、完成するまでいられるかどうかわからず、いるとしても紹介する気力が残っているかどうかわからぬ。 もっともそのころは、わたしが紹介したり批評しなくても草森李長吉伝の方が人々に親しくなっているだろうが。
 <戸の外では秋の虫虫がやけくそに鳴きさわいでいる。勢いのよい響きとして耳に受けとめるゆえに、かえって部屋の中の灯が、薄く感じられる李賀> 「昌谷読書示巴童」詩中の「垂翅の客」を総題に選ぶところに、この『長吉伝』の性格が暗示され、その詩の初句「虫響灯光薄」を前引のように釈くところにかれの読詩の視線の傾向がほのめいている。 「巴童答」について<巴童の気持になって李賀がかわりに答えてやるのだ。いや李賀は、巴童の心などはどうでもよいのだ。自らの心を吐くのに巴童の答を設定するのだ。巴童をだしにした自己問答なのである>という。

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おそらくこの言葉を草森紳一の作業の総括批評に当て得るだろう。 草森紳一にかぎらず、人は何を語っても「何」かをだしにして自己を語っているので、自己しか語れないのだ。 とはいえ、自己を語るためには、自己以外のものについて語るほかない矛盾が自己というものらしく、それを嗅ぎあてて、己れを語るに不可欠とねらい定めた李賀をだしにして語りはじめたのが『垂翅の客 — 李長吉伝』なのだ。
 <人間は死の瞬間まで呼吸を続けるにもかかわらず、その人間が生きる瞬間というものは、場面の上に立った時だけである。シーンとは、人間がはじめて時間をだき(むこうみずなことだが)意識し、空間を埋める時なのだ。そのシーンは、彼の想像力の爆発した時に構成されるだろう。シーンをもたない人間、すなわち風景のない人間には、時間はないのだ>
 この「場面」「シーン」という術語は重要だ。
 <大学も終りごろ、いったい自分は、なにを一番やりたいのか、わからなくなり、なにか一つに絞りこもう絞りこもうとしても、かえって私の興味は、増幅していくばかりだった>かれは、『狼藉集』のあとがきにあたる「魚座の弁解」という文章でいう。 <卒業の年、東映の入社試験を受けたのだが、学科はどういうわけか、コーネル・ウールリッチについて記せ、などまるで自分のために出たような問題ばかりで、手ごたえがあって、果して二番か三番で合格していたのだが、しかし面接試験は、さんざんであった。故大川社長に、君は入ったら、なにをやりたいかねと言われて、正直に演出・脚本・プロヂュースの三つを志望すると、あがりっぱなしの声で答えたら、とたんに彼は心証を悪くしたのか、そんなに一人でたくさんできるものではない、と不愉

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快そうな声で言い、それ以後の応答は、たがいに反撥しあいとなった> いまのかれからは、あがりっぱなしの声で答える姿は想像しにくいだろうが、一九六〇年代のはじめごろ、初めて会ったときのかれには、たしかにそんな姿があった。 入社試験に不合格となったかれは<この苦い経験から、専門一筋の人間に切りかえたかと言えば、そうではなく、自分のやりたいことは、臆面もなくなんでもやろうということであった> 母校の慶応大学の助手、講師も短期間つとめたが、雑誌の編集者を経てフリー・ライターになる。 かれの書く文章に、あるときは「マンガ評論家」あるときは「美術批評家」あるときは「ジャズ評論家」……という「肩書」が与えられる。 だが<私は、専門を多岐にこなしているのではなく、たかが文章にのみこだわっているにすぎない><なにを書こうと、すべては「私」に収斂されているのであり、不器用といえば、これほど不器用はないのであり、専門の専門にしがみついている人間のほうが、よっぽど器用に見える>
 李賀という詩人の形成にとって諱事件が必須であったように、草森紳一という李賀伝作者の形成には東映入社試験不合格はこの上ない好条件だったといえるかもしれぬ。 <詩法のための詩法としてではなく、李賀という人間の心理と不幸のメカニズムが詩法をさえ左右していることをみなくてはなるまい>という視座を獲得したのは、<苦い経験>から、己を切りかえるのではなく、<臆面もなく>己にこだわろうとすることによってであった。 こういう<不器用さ>がなくてはなかなか胸のうちを開いてくれないのが李賀だ。
 李賀だけがそうなのではない。 猫だって、石ころだって、胸のうちは開かぬのだ。
 <日本の知識人は、外国の最新式の思想に、すぐとびつくし、すぐに紹介解説する。また、み

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るみるうちに翻訳していく。エリアーデにしても、バシュラールにしても、カイヨワにしても、メダル・ボスにしても、メルロ・ポンティにしても、ことどとく一作のこらず、せわしなく翻訳され尽し、たちまち知識人の会話の中をその言説は舞踏し、評論家は引用してやまない>
 <日本人の攝取のありかたは、旧態依然なのである。向う岸にあるものをこちらに引っぱろうという意思しかない。しかも、それら新風の説が、自らの足もとにある東洋を彼等が考慮することによって生まれているのに、そのことにもろくに気づかず、あたかも新風来たるとして「抽き出し」的に受容しているのであるから、世話はない>
 右二条は『円の冒険』に収める「「急がば、回れ」か 抽出し人間と倉庫人間」からの引用だ。 一九七八年十月に出た『印象』でかれの著書は二十冊となる、かれは四十歳になった。 その二十冊には古今東西の詩人・文人・学者・画家・楽人・政治家・軍人・宗教家……の名がちりばめられており、その中にはエリアーデないしメルロ・ポンティもはいっているので、パラッとめくっただけでは、小器用博識な日本の<知識人>の著作ととられかねないだろうが、<不器用>できまじめな作品集なのだ。
 とはいっても、十五年も筆で飯を食ってくれば、否應なしに文章のコツが腹にはいり、駆け引きもうまくなってくるもので、冴えざえとした筆さばきを見せるようになった。 一九七九年四月に出た『素朴の大砲 画志アンリ・ルッソー』は四七〇ページの大きな本だが、見事にルッソーを描きながら草森紳一を語った。 あとがきによれば二年間で書きあげたらしい。
 そのかれが、十五年、千五百枚つかって、一人の詩人を書き切れずにもたもたしているとは、

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なんたることだろう。
 すでにもたもたと千五百枚積んでしまった今となっては、これから書く部分がすっきりすればいよいよ前のもたもたが際立ち、同じようにもたもたするのは、すっきりさせるより難事で、いっそ全く新たに書きおろすほうがよいくらいのものだが、そうしようとすると千五百枚がおれをほっておくのかと白眼をむけるだろう。 草森紳一の心事、察するにいたましい。
 ひょっとすると最後まで未完の作であるかもしれず、完結しても恐らく最も不出来なのが草森紳一にとっての『李長吉伝』ではないか、という気がする。 そうして、その不出来で尨大な『李長吉伝』が草森紳一の傑作ということになるのかも。
 これは老い先短く、気短かになったわたしの妄言だ。
 <坂を降りれば、坂は登らねばならない>
 かれは「少女の坂」という小説を、こう締めくくっている。
 降りるためにか登るためにかしらないが、李賀という坂で、草森紳一にわたしは出会った。 その空間は二〇世紀という時間と交差していた。
 ふしぎなような気もするが、ただそれだけのことなのだろう。
  (一九八〇・五・一一・二一〇八)

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あとがき

 吉田秀和氏の評論には共感すること、教えられることが多い。 「レコードと私」(『一枚のレコード』所収)に次の文章がある。
レコードを少しずつ注意してきくようになるうち、商売柄、批評が気になるようにもなった。 自分がひどく感心した演奏のレコードがけなされていたり、そうでなくとも、ごく月並のきまり文句で片づけられていたりすると、自分のことのようにがっかりし、時には腹も立つ。 また、音楽会ではよほどのことでもなければきけない作品をとりあげたレコードについて、そういうことにまるで考慮を払っていない、ただもう試験の答案を採点するみたいに、うまいまずいでわりきってゆく態度に対する反撥。 ……音楽家、演奏家たちも、また、前の人たちの方が霊感にみちていたとか、あとの時代になるほど技術が進むとかいうことはないので、それぞれの在り方とそれぞれの時代との様式において、作品に対し垂直な関係にあるのである。 つまり、どの人の演奏も、一方では歴史の中で把えなければならないと同時に、どの人の演奏も、それ自体の価値と考え方の体系として、その内部で評価されるに値するのだ。 ……カナダのピアニスト、グレン・グールド。 この人など、今ではやたらに有名になったけれども、かつては、ただもう奇矯児扱いされるか、もっとひどい場合は黙殺されていた。 彼のレコードで最も早く出たのの一つはベートーヴェンの作品一〇九、一一〇、一一一の三曲のピアノ・ソナタを納めたものだったと覚えているが、……また彼のひいたバッハの《ゴールドベルク変奏曲》なども、発行されても、さした注意もひかぬままに倉庫に眠っていた。 そう

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して、これは、今日では、ひとりグールドの入れたすべてのレコードの中でというだけでなく、戦後のあらゆるレコードを通じて記念碑的な意味をもつものと認められているのに、日本では今でも<《ゴールドベルク》はランドフスカに限る>などと言ってすましている批評家もいる。

 これを読んでいると、どの分野にも似た現象や問題があるのだな、と思う。 そうして、失望することもいらないし、期待しすぎることもいらないな、と思う。
 似たようなことをいうにしても人がつくづく共感するような言い方がある。 吉田氏の文章がその一典型だな、と思う。
 文章を書く以上はそうありたいと思うが、わたしの書くものには人に反撥を覚えさせる体のものが少くないようだ。
 もっとも、ヘビノボラズからトゲを削りとったら、ヘビは喜ぶかもしれないが、ヘビノボラズではなくなってしまう。 おのれの醜い姿を美しいといいくるめる気はない。 トゲを払い落としたくなる時だってあるのだが、ヘビノボラズはやっぱりトゲだらけで、瘠せた土に立っているのだ。
  一九八〇年五月二十八日

終刊号

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鬼時 —蘇小小補遺—

 一

 「艶麗によって人を動かし、詩文によって賞され、節操によって名あり、歌声抜群であるなどのもの数十人を挙げることができ、並みの才子・詩人は多才多芸の彼女たちに圧倒された」と李樹青氏がいったように(前稿の「蘇小小」参照)、唐代の妓女にはすぐれた人が多い。 詩についていえば、『全唐詩』は、薛濤・魚玄機の作に各一巻をあて、別に第八百二巻を「妓女」の作でうずめ、さらに、他の巻にも散見する。
 さて、「妓女」の最初の作者は関盼々。 大意次のように説明し、四首と一連の句を載せる。

 関盼々は、徐州の妓である。 張建封がてもとに置いた。 張の死後、彭城の燕子楼に独居して十余年たった。 白居易が詩を贈り「死すべきものを」と風刺した。 盼々はその詩をうけとり、泣いていう「わたしは死ねなかったのではない。ご主人さまに、殉死した妾がいたとあっては、ご名誉が傷つきはせぬかと恐れたのです」そこで白に返す詩を作り、十日ばかり絶食してみまかった。

  燕子楼三首

楼上残灯伴暁霜  楼上の消えのこる灯にあかつきの霜添うて

(16-2)

独眠人起合歓牀  あのかたと共にした床にひとり目ざめる
相思一夜情多少  恋いしたうひとよさのおもいのたけは
地角天涯不是長  地のきわみ天のはてでも及ばぬでしょう

北邙松柏鎖愁煙  北邙山の松の木はかなしみの霧にとざされ
燕子楼中思悄然  燕子楼にうちこもりおもいやつれる
自埋剣履歌塵散  あのかたの剣うずめてわたくしの歌声はやみ
紅袖香銷一十年  はや十年 くれないの袖の香りも消えて

適者鴻雁岳陽廻  ふとみれば南のくにから北へかえる雁のむれ
又覩玄禽逼社来  春の祭がちかづいてまたやってきた燕たち
瑤瑟玉簫無意緒  けれども 琴も簫の笛も もう用はない
任従蛛網任従灰  蜘蛛の巣よ閉すがいい 塵ほこり覆うがいい

  和白公詩  白どのに

自守空楼斂恨眉  ひとけのない家をまもって悲しみをこらえていると

(16-3)

形同春後牡丹枝  すがたはおなじに見えるでしょう 春去った後の牡丹の枝に
舎人不会人深意  あなたには人の気持の底などはおわかりにならなくて
訝道泉台不去随  あやしんでお問いになった「なぜ夜見路までついてゆかぬ」と

  句(臨歿口吟)  句(臨終に口ずさんだ)

児童不識沖天物  こどもには天をもつき動かす物のことなど分らない
漫把青泥汚雪毫  泥をつかんで真白な筆をよごした

 説明に見える張建封(七三五〜八〇〇)は、少年のころから文章弁論に長じ、代宗の代(七六二〜七七九)に、蘇・常両州の間(いまの江蘇省)に起った反乱を弁論によっておさめたことがあり、徳宗の代(七七九〜八〇五)に李希烈の乱を平定した功により徐・泗・濠三州の節度使に任ぜられ、のち検校尚書右僕射を加えられ、七九七年入朝したとき、悪政の数々を直言した。 八〇〇年、病気で政務がとれないので、代りを求め、代りの者が来ないうちにみまかった。 司徒を冊贈された。
 ところで、関氏の主は、張建封ではなく、その子の張愔だとする説がある。
 張愔(?〜八〇六)は、父の功により(すなわち文官試験を通ることなく)官界に入り虢州の参軍事となった。 建封がなくなったときその補佐の鄭通誠が一時的に代理し、建封のあとがまをねらったが、部下の軍隊が騒ぐこ

(16-4)

とを恐れ、他州の軍隊を引きいれ、その援けによって事を進めようとした。 部下の軍隊はこれに怒り、通誠を殺し、張愔を留後(節度使代理)に任ずるよう朝廷に請うた。 建封の子とはいえ従八品の人を、従二品の職の代理にするわけにはゆかぬ。 はねつけると、愔を擁して、天子の命じた後任を迎えない。 鎮定に向った官軍はしばしば敗退する。 やむなく、愔を驍衛将軍・徐州刺史・留後とした。 のち武寧軍節度使に上げ、八〇六年、病のため代りを求めたので、愔を工部尚書として召した。 代りの者との引継もこのたびはうまくゆき、愔は都に向け出発したが、州境を越える前になくなった。 尚書右僕射を贈られた。

  二

 楽天・白居易(七七二〜八四八)の作で関氏にかかわるものは「故張僕射の諸妓に感ず」(縮印本四部叢刊の『白氏文集』巻十三。以下、白氏の作はこの本に拠る)と「燕子楼三首并びに序」(巻十五)である。

 感故張僕射諸妓

黄金不惜買娥眉  眉美しい女を買うのに金を惜しまず
揀得如花三四枝  花のような三、四人を選りすぐった
歌舞教成心力尽  歌舞の名手に仕立てるべく心を尽くしたが

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一朝身去不相隨  いったん身まかれば つき随うものはいない

 燕子楼三首并序

徐州故張尚書有愛妓曰眄々、善歌舞雅多風態、予為校書郎時、遊徐泗間、張尚書宴予、酒酣、出眄々以佐歓、歓甚、予因贈詩云、酔嬌勝不得、風嫋牡丹花、一歓而去、邇後絶不相聞、迨茲僅一紀矣、昨日司勳員外郎張仲素繢之訪予、因吟新詩、有燕子楼三首、詞甚婉麗、詰其由、為眄々作也、繢之従事武寧軍累年、頗知眄々始末云、尚書既没、帰葬東洛、而彭城有張氏旧第、第中有小楼名燕子、眄々念旧愛而不嫁、居是楼十余年、幽独塊然、于今尚在、予愛繢之新詠、感彭城旧遊、因同題作三絶句、

徐州のもとの張尚書に眄々(眄は盼と音義同じ)という愛妓があり、歌舞にたくみで、なかなかの風情であった。 わたしは校書郎になったとき、徐・泗地方に遊んだ。張尚書はわたしのため宴を設け、酒たけなわとなり眄々を出して興をそえた。 たいへん楽しいものとなった。 わたしはそこで「酔えばたまらぬ愛嬌の、風になよめく牡丹の花よ」といったような詩を贈り、一歓して去った。 そののち便りを絶って、ことしでほとんど十二年。 昨日、司勳員外郎の張仲素、字は繢之なる人がわたしを訪ね、新作の詩を吟じ、なかに「燕子楼三首」があり、はなはだうるわしい。 問いただすと眄々のために作ったのだという。 繢之は数年、武寧軍の属官をしていて眄々の消息にかなりくわしく、その話では、尚書がなくなり、洛陽に帰葬したのちも、彭城には張氏の旧宅があり、その中に「燕子」と名づける小楼がある。 眄々は旧主の愛顧を念い他に嫁がず、

(16-6)

この楼に住んで十余年。 ぽつんとひとりっきりで、今もやはりいます、とのこと。 わたしは繢之の親詠を愛し、彭城の旧遊に感じ、そこで同じ題で三絶句を作った。

満窓明月満簾霜  窓いっぱいの月あかり 簾いっぱいの霜
被冷灯残払臥牀  しとね冷え 灯は消えぎえに 寝床をはらう
燕子楼中霜月夜  燕子楼に霜おりて月あかき夜は
秋来只為一人長  秋さればただひとりのために長いこと

釦暈羅衿色似煙  宝玉ちりばめし舞衣 狭霧のようなその色
幾廻欲著即潜然  幾たびか着ようとしては涙こぼれる
自従不舞霓裳曲  霓裳羽衣の曲を舞わなくなってからというもの
畳在空箱十一年  むなしく箱に畳みこんで 十一年

今春有客洛陽廻  この春 洛陽からかえった客が
曽到尚書墓上来  尚書のお墓に参ってきた
見説白楊堪作柱  墓のポプラが柱にできる程だった由

(16-7)

争教紅粉不成灰  紅おしろいをどうして灰にさせないのか

 白氏の序を読めば、白氏は関氏の「燕子楼」ではなく、張氏の同題の作に唱和したことになる。 ところが白氏の作は、関氏のと韻字が全く同じである。 また、白氏の「感故張僕射諸妓」と関氏の「和白公詩」も韻字は全く同じである。 これはどういうことなのだろうか。
 そこで『全唐詩』を見ると、巻三百六十七はその作にあててあり、「張中素、字は絵之、河間の人。憲宗の時(八〇六〜八二〇)翰林学士となり、のち中書舎人に終る」と説明し、三十八首を収め、最後の三首が「燕子楼」で、関氏の作と同じ(第二首第二句の「楼中」が張氏のは「楼人」とする)で、「一に関盼盼の詩となす」と注する。 わたしが初めに関氏の作として掲げたものは、張氏の作であり、白氏はその作に唱和したので、張氏の詩が一部の人によって関氏の作と誤り伝えた、ということなのだろうか。
 白氏についての研究は多いが、関氏とかかわる問題にふれるものはあまりないようである。 そんな情況の中で南宮摶「燕子楼人事考述」(『東方雑誌』復刊四・一)を見出し得たことはうれしい。 次節で紹介しつつ、わたしの考えを展開してゆきたい。

  三

(16-8)

 南宮氏はまず「ある人」の次の説を引く。
 「白居易は貞元十九<八〇三>年<書判>抜萃科に及第、二十年校書郎を授けられ、現和元<八〇六>年<校書郎>をやめた。また居易の燕子楼詩序に、わたしが郎であったとき淮<徐>泗の間に遊び、張尚書がわたしたのため宴をひらき……、という。その時期は貞元二 十年以後に当る。建封は官は司空で貞元十六年になくなり、その子の愔が留後となり官は尚書に上った。だから居易のいう尚書が愔であることがわかる」
 これに対し、氏は、居易の「校書郎のとき」というのは記憶の誤りで、その時期に彼が徐州に行った形跡はなく、徐州で張氏の宴を受けたのは貞元十六<八〇〇>年二月、進士科に及第したのち建封の死ぬ六月までとする。 従って白氏が関氏に逢ったのはその年の春で、校書郎のときではない、とする。 また、関氏は張愔の妾でなく、建封の妾だった、とする。この説は信ずべきものとわたしは考える。 既に備わった南宮氏の考証を繰返すことはやめ、一つ補っておく。
 白氏の「二良を哀しむ文、ならびに序」は、八〇〇年、徐州の乱後まもなく執筆したものと察せられるが、その序にいう。

丞相隴西公<董晋>が汴州の節度使となったとき軍司馬御史大夫陸長源が補佐して二年、軍用安定した。 司空南陽公<張建封>が徐州の節度使となったとき副使祠部員外郎鄭通誠が補佐して三年、民用安定した。 <貞元>十五年、隴西公がなくなってまもなく軍が反乱し、大夫は剛直のため禍にあった。 十六年夏、南陽公がなくなり、翌日事件発生、員外は非常の行動によって害をうけた。 惜しいかな、大夫は人望の人、員外は

(16-9)

国の選良である。 ……いつかきっと天子の手足となり、王家を守る人となろうと、識者は批評していたのに……。

 「識者」とはいっても、これが白氏の批評であること、いうまでもない。 この文は陸・鄭の死をいたむ文だ。 鄭に対する新・旧唐書の書き方は白氏ほど好意的ではない。 どちらが真実かは、ここにはかかわらぬ。 白氏の判断に従って鄭が善良の人として、その人を死に追いやったのは徐州の軍隊であり、その軍隊に推戴されたのが張愔である。 「二良を哀しむ文」を書いて数年にしかならぬ八〇三〜八〇六年の間に、のこのこと当の張愔を訪ね、もてなしの宴を受ける、といったことがありうるだろうか。 白氏の言論と行動は、前と後ではずいぶん変る。 わたしには避難する資格はないが、事実としてそうなのだ。 けれども三十歳代前半のかれがそのように彪変したとは考えにくい。 白氏が宴をうけた張氏は、やはり建封であって、その子ではあるまい。 従って、盼々もまた建封の愛妓だったのであろう。
 南宮氏はこのあと、白氏の「燕子楼」の作時を、元和六(八一一)年あるいは七年と推定し、白氏の「故張僕射の諸妓に感ず」る詩は白氏の作と見るに疑いがあること、関氏がこれを読んで返した「白公に和す」る詩とともに後世の好事家の創作で、関氏の絶食死も信ぜられないこと、を論証する。 わたしは、この南宮論文の後半に対しては種々の疑問をもつ。 それを次節以降に述べる。

  四

(16-10)

 白氏は序文に「昨日来訪」という。 昨日のことに誤りはなく訪客張中素の官職も確かであろう。 中素は元和六年、司勳員外郎に調ぜられ、到職の日は詳かでないが、白氏は時に四十一歳、母の喪に服して長安郊外の渭水のほとりに退居していた。 元和六年あるいは七年は、張建封の死んだ八〇〇年からは、序文にいうように「ほとんど十二年」。 これが南宮氏が「燕子楼」の作時を定める根拠である。 中素の司勳員外郎になった年は、何に拠ったのか記さぬ。
 張中素につき、旧・新『唐書』には伝を設けない。 元の辛文房の『唐才子伝』巻五に伝がある。

中素、字は絵之、貞元十四<七九八>年……の進士、……また博学宏辞科に及第し、始めて武康軍従事に任ぜられた。貞元二十<八〇四>年、司勳員外郎に遷り、翰林学士に除せられた。……その後、中書舎人を拝した。仲素は文章をよくし法度は厳格だ。魏の文帝が「文は意をもって主とし、気をもって補佐とし、詞をもって護衛とする」というが、これが彼の文風をいいあてている。一々の詞は不充分だが意はまず備わっている。詩を善くし警句が多い。なかにも楽府に精通し、しばしば作曲され、古人の思いつかなかったものがある。集一巻と『賦枢』三巻が今に伝存する。
 『才子伝』は、現存しない資料を多く保存して貴重だが、誤りも少くはない。 引いた文中「魏の文帝」の語とするものは、実は杜牧が「荘充に答える書」中の語を少し変形したもの。 詩に対する批評も信用しうるともいえぬ。 だから他の事項についても、うのみにはできぬ。 しかし、とにかく司勳員外郎になった年については南宮氏のとは違う一つの説だ。

(16-11)

 清の労格・趙鉞『唐尚書郎官石柱題名考』巻五、司封の部に張中素がみえ、仲素が安南都護張応の子であること、元和七年、吏部に考判官を復置したとき屯田員外郎の仲素らをあてたこと、十四年、中書舎人に遷り、十四年になくなって礼部侍郎を贈られたこと、などをいずれも典拠を示して述べる。 その典拠の多くはわたしには見難いものだからこの目で確かめられぬが、『続修四庫全書提要』にいうように「致力・徴書・用心に勤苦した」書だからまずは信じてよいであろう。 これでみると元和七年、吏部に移ったとき、員外から郎中に上ったのではないだろうか。 『才子伝』のいう貞元二十<八〇四>年から、元和七<八一二>年まで、八年間も員外郎であったのは少し長いような気はするが、その間に属する部はかわり品題は上ったのであろう。 司勳にいたのは、『才子伝』に誤りがなければ、八〇四〜八一二の間の幾年かであった。 なお、時期は定かでないが、元和八、九年のころ、仲素が翰林学士に充てられようとしたとき、清潔剛直で知られた同列の韋貫之が「行動が正しくない者を内庭に在らせてはいけない」と阻んだ(旧唐書・韋伝)ことは注目すべきであろう。
 さて、白氏は、八〇六年校書郎をやめ、前の年から交遊しだした元慎と共に才識兼茂明於体用科(上級試験)を受け、ともに登第し、白氏は四月末に県尉、八〇七年、翰林学士、八〇八年、左拾遺(学士のまま)、この年結婚、八〇九年、新楽府を作り、八一〇年四月、京兆府戸曹参軍(学士のまま)、八一一年四月、母の死により官をやめ、以後三年の喪に服する。
 南宮氏は、白氏が張氏の訪問をうけたのはこの服喪の前後と見るようである。 白氏は服喪中も作詩をやめず、

(16-12)

「賞花」「新井」の詩によって物議をかもすことになる。 物議は強いてケチをつけた趣のものだが、服喪中の人を訪ねて、主に対して己の新詩を吟じ、談が歌妓に及ぶことは、竹林の隠士ならいざしらず、礼教にうるさかった唐代の官僚の張氏の行動としては考え難く、白氏が歌妓にちなむ詩に次韻唱和したこともありうべきこととは考えられぬ。 服喪の前の一、二年、すなわち元和四(八〇九)年から六(八一一)年三月末まで、とみて、例の序の「ほとんど十二年(一紀)」という概数とさしさわりはない。 この間、白氏は前記のようにずっと翰林学士で風諭詩の製作に活動的であった。 白氏の「燕子楼詩」の作時をこの間に定めてよいだろう。 なお、あとさきになったが、仲素の字の「繢之」を他の本が「絵之」とする。 繢・絵は異体の同字である。

  五

 白氏の「燕子楼詩序」(以下「序」と簡称する)は、信ずる立場で読めばそれまでだが、いったん不審をいだいて読み直すといろいろ問題が出て来る。
 第一、いわゆる張氏の「新詠」の「燕子楼」詩が、果して張氏の作か。
 「序」によると、昨日、張氏が白氏を訪ね、新詩を吟じた。 吟じた中に「燕子楼三首」があり、はなはだうるわしい。 問いただすと盼々のために作ったのだという。
 ところで「盼々のために作った」の原文「為盼々作也」は、「盼々の作なのです」とも読めないことはない。

(16-13)

「為」字は去声に発音すれば「ために」だが、平声に発音すれば「です」である。 中国人ははっきり区別して発音するのが常である。 けれども、あいまいな言い方をするときには発音もあいまいになる。
 話が少し横道にそれるが、宋代の女詞人李清照が「酔花陰」という詞を作ると、あまりうまいので夫の金石学者趙明誠が、負けじとばかりに五十首ほど作り、中に妻の作を交えて友に見せたら、何度も読んだ上で、これがいいと指したのが妻の作だった、という話が伝わっている。 夫だから苦笑して済み、美談となった。 詩に命を削った国の、時代の知識人は秀句佳吟に対し執着恋慕するもので、恋着した句をおれによこせとせがみ、断られたため、むすめの夫を殺した詩人の逸話もある。 張氏がはじめから関氏の作を奪うつもりはなくとも、吟じた幾十首のうち関氏の作に、白氏が強烈な興味を示し、それは?と問いつめられたら「関氏の作だ」といったつもりが「関氏のために作った」という風にあいまいな答え方になっていた、ということは、ありがちである。
 あるいは、張氏ははっきり「関氏の作だ」といったかもしれぬ。 しかし、その作に強く動かされた白氏が次韻唱和の作を作ってしまい、歌妓の作に唱和するのは都合がわるいので、関氏の作を張氏のものとしてしまったのかもしれぬ。 「序」の後の方の張氏の「新詠」ということばも、新詩と同じ意味だが、張氏の吟詠した(関氏の)詩、とも読めば読める。 そういう言い訳のきく書きかたである。
 そう思って読めば、なかに「燕子楼三首」があり、はなはだうるわしい、も他の作とは隔絶してうるわしい、ともとれる。 いま『全唐詩』に収める数十首しか張氏に詩作品がなかったとは考えられぬが、その作は、巧みには違いないが、過去の名人の使い古したことばを小器用に組合わせた作で、情感がこもって人をうつのは「燕子

(16-14)

楼三首」だけだ。 白氏ほどの詩人にその違いが分からないはずがない。  白氏には、そして他の詩人にも、彼女を歌い、妓女に与えた詩はあるが、妓女の詩に唱和する作はないようである。 恐らく、唱和には、相手を同等とする身分観のようなものがあって、妓女は避けられたのであろう。 もっとも、白氏も薛濤とは唱和している。 彼女は妓女だったことがある。 しかし、唱和の時は、彼女はすでにかなりの老齢で、さらに「詩人」として世の尊敬を得ていた。(もっとも、妓女でない女性との唱和も、唐代の詩人にはほとんどない。詩を作る女性が極めて少なかったからであろうし、また当時の男性の女性観を反映しているのであろう)
 ところで、白氏は、なぜ張氏にかこつけてまで関氏の作に唱和したくなったのか。
 「序」にいうように「彭城の旧遊に感じた」からに違いない。
 その「旧遊」の主、張建封は、『旧唐書』によれば、事がおこればみずから処理にあたった。 寛厚で人の過誤をも容れたが、しかし法律はよく調べ、法を曲げて恩を売るということはしない。 事にあたっての言葉は忠実正義で感動にみち、人はみな畏悦した。 七九七年入朝したとき、当時誰もがはばかって言わなかった宮市の害を天子に直言した。 宮市とは、天子の近臣が日用品などを買い占め、市価の数倍ないし数十倍で人民に売りつけていたことである。 建封の彭城にいた十年の間、軍も州もよく治った。 またかれはすぐれた人を礼遇し人々に対して謙遜であったから、天下の名士は風になびくようにかれを訪問した。 韓愈のような文豪もかれの下僚であった。
 そのような建封が、進士科に及第したばかりの白氏をもていねいに待遇したことは間違いない。 白氏は二十九

(16-15)

歳、建封は六十六歳だった。 貧寒の家に育って苦学力行してきた白氏がそこでうけた待遇は、建封にとっては誰に対しても同じようにするものであったとしても、白氏には過度の恩遇と感ぜられたろう。 その宴は、おそらく白氏が生れて初めて味わった華麗豪奢であった。 演奏された音楽の最後は霓裳羽衣の曲であり、舞妓のヒロインが関氏であった。 関氏の年齢はわからぬが、たぶん二十歳前後。 「酔えばたまらぬ愛嬌の、風になよめく牡丹の花よ」と歌った白氏の目には、楊貴妃が生きて前に立つように見えたのであろう。
 「序」はその短い文中に「歓」字を三たび用いる。 いかに白氏が有頂天になったかを伺わせる。 ことに最後の「一歓」は、さまざまに解釈しうるが、極端には、枕席を共にすることを含みうる。
 当時の歌妓は、身分としては奴隷として売買され、主はこれをどのようにも処分し得て、場合によっては人に贈与した。 人の歌妓に恋して強請した例もある。 いずれも白氏と同時のこととして記録される。 建封がそのようなことをしたとは、まず考えられぬが、次のような情況を仮設することはできる。
 建封は六十六歳、白氏の来訪時には出て接待はしたが、すでに病身であった。 歌妓のうち人品の最もすぐれた関氏を、愛するだけに、おのれの身後に来るべき零落をさせないため、その相手となるべき青年を求めていた。 白氏の才幹と関氏への執心を見てとって、もし面倒をみてやってくれるなら……と許しの意志を示した。
 これはもとより仮設である。 ただ、わたしの妄想ではなく、当時に仮設を許す条件があり、何よりも、白氏の「序」に想像を誘う熱気がある。
 もっとも「一歌」の文字は一本には「越朝」とするらしい。 次の朝、というほどの意であろうが見なれぬこと

(16-16)

ばである。
 白氏が訪ねたのは春、そして夏の末には建封はなくなっている。 「序」中の張中素のことばに「盼盼は旧主の愛顧を念い他に嫁がず」とあるところからすれば、他の歌妓はそれぞれ他に嫁いだのであろう。 売り払わずに嫁がせることを、建封が死ぬ前にはかっておいたのだといえないか。 そのように広く深い愛情に感じたればこそ、関氏はその人の名誉の傷つくことを恐れたのであろう。
 関氏の「燕子楼三首」には、そのような篤い哀傷が流露する。 白氏のは、一読するとほとんど同じ趣意だが、肝心のところで大きく違う。
 関氏は、琴も笛ももう用はない、といっているのだ。 己のために磨いた技と思っていた舞が、主に死なれてみると、その人のためにこそ骨身惜しまなかったことに気づかせられる。 おのれの舞にこめた心は、ただ張建封のみが理解し黙識した。
 白氏のは、舞衣を「幾たびか着ようとして」といい、「空しく箱に畳みこんで」という。 歌舞の妓だから主が死んでも舞いたいだろうとの先入観に立つ句である。 舞いたい心を前提とすればこそ舞衣を畳みこんだものが、「空箱」と表現され得る。
 関氏は「はや十年 くれないの袖の香りも消えて」という。 まして、紅・白粉は主の死とともに灰になった。 白氏は「紅おしろいをどうして灰にさせないのか」という。 こんなに悲しい思いをする位なら死んでしまったら方がましだのにどうして運命は私を死なせてくれないのか。 白氏はそう解釈することで関氏に同情を示したつもり

(16-17)

なのかもしれぬ。 しかし関氏の内面の深い悲しみには全く触れていない。 かれにはおのれの旧遊に対する感傷はあるが。その「旧友」を実現してくれた主の側の手厚い用意、そのような用意を生むこまやかな精神をくみとるほどの神経はない。
 白氏ほどくりかえし霓裳羽衣の曲を歌った人はない。 そのかれに「霓裳羽衣の歌、微之に和す」(巻五十一)がある。 「わたしは昔元和のころ憲宗皇帝に侍し、昭陽殿での内宴にお供した。千歌百舞と数えきれぬが、中でも最も霓裳舞を愛した。舞うときは寒食の節句で春風そよぐ天、……当時見ながら目も心も驚き、凝視し耳かたむけなお足らぬ思いがした。……」と九十句に及ぶ長篇に、この曲対する愛情をのべ、銭唐に勤務したとき、歌妓に教えて演奏させたこと、蘇州に転勤して以来それが見られない。聞けばあなたの部内には楽人が多い由。あの曲を知る者はいないだろうか。美しい歌妓がいないというが、とにかくあの曲を教えてもらいたい。と、元稹に依頼している。
 白氏がこの曲を見聞した最初は、たぶん張建封の宴においてである。 内宴での舞楽の描写は、ほとんど「琵琶行」に匹敵する。 おそらくかれを感動させたのは眼前の舞に関氏の舞を重ねた、うつつとも幻ともつかぬものだったのであろう。

  六

(16-18)

 道士が玄宗皇帝を案内して月宮に行った。 仙女数百が舞った。 曲名を問うと「霓裳羽衣」と答えた。 帝はその曲調を暗記して帰った。 たまたま西涼節度使からバラモン曲を進めてきた。 声調が符合するので、月中で見た舞の振付をして「霓裳羽衣」と名づけた。 そんな伝説がある。 玄宗と楊貴妃の愛はこの曲をテーマミュージックとして展開する。 白氏の名声を広大にした「長恨歌」は張建封の宴での陶酔がなければ生れなかったかもしれぬ。 六十六歳の建封と二十歳の関氏との愛は、玄宗と楊貴妃との愛とは違っただろうが、白氏にテーマを与えるほどの表面的相似は認められる。 白氏にとっての甘美な悲劇が完成するためには、ヒロインが生きていることは面白くない。 白氏の美学が無意識のうちに、ヒロインの死を予想していたかもしれぬ。
 「故僕射の諸妓に感ず」る詩は、初めて読んだとき、ひどい詩だな、と思った。 「李夫人」の「人は木石に非ず皆情あり、如かず傾城の色に遇はざるに」の句に至ったとき、なるほどと思った。 白氏の批評性はここでは一貫している。 ある種のジャーナリズムであって、多数の意見を代表する。 多数の意見はゆれ動くから白氏の意見もゆれ動くだろうが、多数の意見の代表であるという点では動かないから、いつでも多数の支持をうける。
 わたしの読むものはわずかだが、以後、白氏を論ずる文を読んで、この詩に不審を示すものに逢わなかった。 南宮氏の論文は大いに多とするに足る。 ただ氏は、これを他人の偽作とし、五つの理由をあげる。
1 関氏の白氏に返した詩に、己れが主に従って死ぬ意志が表明されていない。 「旬日食わずして死す」は後人の記したことばで、拠りがたい。
2 白氏の一首は、白氏の作とするのに問題がある。 白氏の集は流伝の過程で混乱し、他人の作が混入した形跡

(16-19)

があるからである。
3 白氏は人に従死を強いるような人柄ではない。
4 関氏の白氏に返した詩に「舎人」の語でよんでいる。 白氏が中書舎人となったのは長慶元(八二一)年、五十歳、「燕子楼」を作ったのちざっと九年、張愔の死後十五年で、いずれにしても時間が合わぬ。
5 「故張僕射の諸妓に感ず」と関氏の返しを、後人の偽造でないとするなら、前の詩の作者と、関氏の作中の「舎人」は張仲素であろう。 仲素は建封の死後、。徐州に長くいて関氏のことも、ただ一日会っただけの白氏よりずっとよく知っていた。 また仲素が中書舎人となったのは白氏よりずっと早いのだから時間的にも合う。
 以上の五条からして「故張僕射の諸妓に感ず」る詩は白氏の作ではなく、関氏の返詩とともに後人の偽托である可能性が強い、とし、最後に次のように付加える。
 関氏の絶食死は単証があるだけで、実は信じ難い。 常識で考えて、一個の女人が寡居十余年の後には、従死しようという激烈な意念は必ず消失しているもので、一首の詩で風刺されて死んでしまうなどは、ドラマティックすぎて、事実ではなかろう。
 これに対しては次のように反論することができる。
1 人は「死にます」と広言して死ぬものとは限らない。 死のような大事は、事実によってこそ示すものともいえよう。 その死の事実を後人が記したからといって、詩そのものを偽作と推定する根拠にはならぬ。
2 白氏の集に混乱があり他人の作がまぎれ入った形跡のあることはすでに先人がいう。 しかし特定の作(ここ

(16-20)

では「故張僕射の諸妓に感ず」)を他人の作とするためには、もう少し手続をふまねばならぬ。 南宮氏はそれをしていない。
3 白氏が人に従死を強いる人柄でない、ということは「故張僕射諸妓に感ず」の詩を白氏の作でない、と前提した上でのことであろう。 「如かず傾城の色に遇はざるに」なる白氏の句をおしつめると、美しい容色をもって生れた女人は、男を愛してはならず、結婚もしてはいけないことになる。 つまりは女人としての生存を許されぬことになる。 この句の内包する男性としての身勝手、むごさ、白氏の友元稹の「鶯鶯伝」を作ったむごさと共通している。
4 関氏の詩にみえる「舎人」の語を「中書舎人」と限定すれば時間的に合わないが、詩中で使用する「舎人」はその限定はうけず、天子の侍従であればよく、広くは貴人の側近まで含みうる。 翰林学士であった白氏は、詩中で「舎人」とよばれて不合理ではない。
5 白氏の「序」からみて、張仲素は関氏に充分同情的であり、関氏に同情的な仲素に対してからかう気味が、「序」の文にただよう。 それでも「仲素」の「新詠」に唱和した「燕子楼」では、張中素への遠慮からことばは穏かだが、「故張僕射諸妓に感ず」こそ白氏の本音の流露したものであろう。
 以上からして、南宮氏の疑った両詩は、それぞれ、白氏と関氏の作とみてよいであろう。 南宮氏が信じ難いという絶食死は、たしかに「常識」では信じ難いであろうが、常識を超えることが歴史の上でも、また日常われわ

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れの目の前でも起って、常識のたのみがたさを痛嘆させる。 人の見過ごす問題をとりあげる特異の視点をもつ南宮氏も、白氏の人柄を擁護して関氏を疑ったとき、白氏の「常識」に陥って、それを超える女人の激情の存しうることが見えなくなったのではないか。
 「故張僕射諸妓に感ず」る詩は、関氏に対して無理解であるだけでなく、張建封の生涯に対してもはなはだ理解に欠く。 この詩から浮かび上る「張僕射」は歌舞におぼれて一生を蕩尽した遊冶郎である。 だが建封はそうではなかった。 関氏は、おのれがそしられることよりも、忠誠の人である旧主を、おのれとの引き合いにおいておとしめられたことに憤ったのだ。 白氏は当時、「諷諭の詩人」として正義をふりかざし、それが天子をはじめ多数に拍手かっさいされた、花形ジャーナリストであった。 人はスキャンダルを好む。 実状を確かめる手間をかけることはしたがらない。 いったん流れたスキャンダルは、実状が明らかになっても、そこねた名誉を傷つく前の状態にはもどさない。 関氏はおのれの存在が、旧主の名誉を傷つける口実となったのに憤ったのである。
 関氏の詩と行動とは外面から見ても内面から察しても一貫して、何ら不透明なものはない。 白氏のものは、そのいたるところにいんぺいのこんせきが感ぜられる。
 白氏の「紅おしろいをどうして灰にさせないのか」の句が、さきにわたしの釈いたような同情の句だとしても、それが本心であり、女人への共感がかれの本色ならば、再たび関しの悲しみを女人に与えぬために、歌妓を養成することをやめよと人に訴えるべきであろう。 だが、前記のように、白氏は後にみずから歌妓に教えて霓裳羽衣の曲を舞わせ、おのれのみでなく友の元氏にさえそのことを勧めた。

(16-22)

 七

関氏にかかわる白氏の詩が作られたのは、元和六(八一一)年三月以前の数年間だった。 そのころ李賀は、河南府試を受けて通り、長安での進士科の試をうけようとして、父の忌み名にからむ嫌がらせをうけ、受験を断念し、別途の方法で奉礼郎という官職につく、という時機にあたっている。 嫌がらせをしたのは白氏の友の元氏だとする説があり、今日では疑う人が多く、わたしもその一人だったが、再検討の余地がありそうだ。
 賀の集中には元・白両氏の名は見えず、直接交渉をもった形跡もない。 しかし、両氏に対する批判と感ぜられる作が幾つかある。 賀の「李夫人」が白氏の新楽府「李夫人」の批判であろうことは拙稿「夫人飛入瓊瑶台」(『李賀論考』一〇九〜一二〇頁)に述べた。 賀の「感諷五首」は、両氏の「諷諭」の諸詩に感じて制作したものとも考えられそうである。 賀の「沙路曲」は宰相の就任式に通る、特別に砂盛りした道を歌い、白氏の「官牛」はその砂盛りをそしる詩である。 これは白紙の方から賀を批判したことになる。 白氏が意識したかどうかはとにかく。 そうして賀の「蘇小小歌」は、白氏の「燕子楼三首」「故張僕射の諸妓に感ず」、元氏の「鶯鶯伝」と、それらに関連する「夢遊春詩」、白氏がこれに唱和した「和夢遊春詩一百韻」、ひいては当時の多くの男性の女性観に対する批判となっている。
 「鶯鶯伝」が李賀の生前に成立していたか、また賀が読んでいたかどうかは分からない。 しかし伝中の主人公の張生が、女主人公の鶯鶯を捨てた理由として語った次のことばは、白氏の女性観と一致している。

(16-23)

 「おおよそ天から美貌を与えられた女人は、その身に禍いをうけなければ必ず人を禍いにおとしいれる。 彼女が富貴の人と結婚すればその愛情をうけて雲か雨になるか、でなければ水竜になるだろう。 われわれにはその変化をはかりがたい。 むかし殷の紂王、周の幽王は百万の国に拠りその勢力は盛大だった。 しかるに一女子がこれを滅亡させ、その民をほろぼし、その身は殺され、今に至るまで天下の笑いものとなっている。 わたしの徳はとてもそういうばけものに勝つことはできない。 だからがまんして彼女をあきらめたのさ」
 このことばに、聞く者はみな深く感嘆した、と作者の元氏は記す。 張生が作者の元氏に他ならなぬことをすでに前人が考証し尽くしている。 「伝」では、女が先に他の男と結婚したので男も他の女と結婚することになっているが、男が女の親に結婚の意志を表明しさえすれれば二人の結婚がすぐ成立したろうことは、「伝」の前半の女の親の男に対する好意から察せられる。 張生が鶯鶯と会ったとき、男は二十二、女は十七だった。 元氏が従妹に会って(情を通じた)のも元氏の二十二歳の年であり、その二年後に二十四歳で、京兆尹韋夏卿の季女をめとっている。 元氏は明らかに官僚として出世するために顕官の女を選んで、寡婦の子の従妹を捨てたのだ。
 「鶯鶯伝」がかりに李賀の死後に成立したとしても、元氏の結婚と従妹を捨てたいきさつは元和四、五年のころすでに人々の間に流伝し、賀もまた知っていたはずである。
 李賀の師の韓愈はかつて張建封の幕下にあり、白氏を迎えての宴にもたぶん同席し、関氏を見知っていた。
 韓氏は元氏と交遊し、元和四年、元氏の妻が死んだとき、その墓誌銘を書いている。
 白氏が「燕子楼三首」を作り「故張僕射の諸妓に感ず」を作り、それを聞いても韓氏はそのために抗議するよ

(16-24)

うなことはしないだろう。 しかし弟子が座談に問えば「白氏は仲素の作にしてしまっているが、あれはきっと関氏の作さ」とその真相をつぶやいてはみせたろう。 唐代の昔でなくとも、今だっておおむねそういうものであろう。 かかわりのない歌妓のために同僚との交誼を傷つけたりしないのが「紳士」のたしなみだから。
 しかし、「紳士」のたしなみの成立し温存される社会では女人の純情も激情も見えないところに沈められる。 まして、歌妓の正義などは「ごまめの歯ぎしり」にすぎない。 文字によっておのれの歴史を記しえぬ民衆は、やむなく口碑にこれを記す。 すなわち言い伝えである。 関氏の死を伝える一切が、仮りに小説だとしても、民衆の口碑から生れたもので、小説の奥に、実際に「紳士」たちにふみにじられた女たちがあまたいて、その呻吟が支えはげませばこそ小説が人の心をうつのである。 近代の小説は知らぬ。 唐代の小説に当時の文人が筆を染めたのはそのような理をもてばこそであった。
 元氏・白氏の諷諭詩は民衆の口碑にこもる呻吟を、紳士の世界に最も有力なマスコミュニケイションのメディアムである詩の場面に引き出そうとする、真面目な意図から生れた文学運動で、推進者である両氏のその運動にかける誠意は信じてよいものであろう。
 しかし、両氏が他の偽りや不義をあばくときほど、おのれの偽りや不義をあばくにも誠実で仮借なかったかどうかは別の問題である。 誠実を看板にする今日のある種のマスコミュニケイションが、おのれの偽りや不義に口をぬぐうように。
 李賀は、たぶんそのような表裏を憎悪した。 ことに父の忌み名を引き合いに出してかれの進士科受験を阻むも

(16-25)

のに逢いおのれの前途を阻まれてからは。 関氏の死は、賀が禍いに逢った時期に前後する。 関氏のつらさうらめしさは、賀のそれを超えるものと、いまのわたしは察するが、そうはいっても、つらさうらめしさの客観的比較などできるものではない。 賀が河南府試に通ったときの同府の長官は房式だったが、元和五年、元氏は房式を弾劾した。 どちらが正しかったのかは結論が出しにくいが、河南の人たちにとってはかなりよい長官であったことは新・旧『唐書』の記事で察せられる。 忌み名の事件の仕掛人が伝えの通り元氏だとすると、李賀は、おのれの恩人とひっくるめてばっさり元氏にやられたことになり、旧主とからめて白氏にやっつけられた関氏のくやしさを、おのれのものとして同感しえたであろう。

  八

 関氏と白氏の「燕子楼」などの詩について長々と述べたが、その事件の考証をするために筆をとったのではない。 旧稿「蘇小小」の誤りを訂し、言い足りなかったことを補うのが、本稿の目的であった。
 一九八一年からことし一九八三年五月末までに、わたしは亡妻原田千美の遺文集録『幻の葡萄』五巻を編んだ。 第一巻「はじめに」の文を、長いが次に引く。

 一九七五年、拙稿「蘇小小」を雑誌『李賀研究』にのせた。 たちまち五年たち、補訂を加えなければと思って

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いるのだが、なかなか文章にならない。
 ことし一九八一年六月五日、赤谷(明海)氏が来訪し、一鉢の草花を恵まれた。 「異国美人」というのが草の名だが、約四十年前に、学友の竹内不成氏が田中千美に与えたニックネイムである。 いきさつは赤谷氏の『平安学園と私』(一九七七年著者発行)にくわしい。 少し引用する。……は省略を示す。

この夏<一九四六年:引用者注>僕の復員帰郷を聞いて真先に便りを寄越したのは森田曠平である。彼は印象派を好む画家である。そしてその文に曰く、「原田君が結婚しました。その相手が誰であるかを聞かれたらさぞ君は嘆かれるでせう」と。次に写真家の宮崎篤三郎から云って来た。「原田君が田中さんと結婚しましたよ」と。戦争と病気とに打ひしがれて帰った来た僕の心には、今更それを嘆くほどの余裕もないが、歓迎したい程のニュースでもなかった。以前原田憲雄に対して真向から結婚に反対した僕だった。その相手田中千美さんは、その名の示す如き千人に一人と云った美人では決してなかったが、よく問題になる程の女性だった。原田が初めてこの女性に会ったのは水甕京都支社の恭仁(くに)京吟行の時である。……田中女史に、その後僕も紹介されるの光栄に浴し、更に僕の友人にして愛すべき毒舌家たる竹内不成君も拝顔すると云う段に至り、彼は感激の余り、謹んで"異国美人"なる尊称を捧げたのである。これはいかもの食いの原田の気に入ったことは勿論、当の御本人も"異国"はぬきにしてひとり悦に入ってゐたらしい。其の後この不成君からほんものの"異国美人"が竹垣にからんで咲いてゐる彩色画が届けられ「異国美人は遠い遠い旅に出ますのよ」と書き添へてあった。……かくして僕は目のあたり異国美人に向ひながら、波瀾の多

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かった我々の交りを想ひ続けた。原田、歌、田中さん、一艸舎、大塚先生、岡本さん、杉田、森田、宮崎……岡本さんは死んだ。僕が田中さんと絶交の様になったのも遠い昔である。原田も戦争に行き、僕も戦争に行った。原田も帰り僕も生きて還って来た。一艸舎はつぶれ、異国美人は原田夫人として又親しく自分の近辺におさまっている。そしてお互に三十を越して……

 異国美人を見ていて、「蘇小小」の補訂の文ができないゆえんに思いあたった。
 李賀の「蘇小小歌」は、女性の尽きぬ悲しみを、女性の立場にたって歌おうとしたもの、とわたしは感じ、分析して述べたのが拙稿だった。
 「補訂」は、結論からいえば簡単である。 さきに「秋」の「夜」の詩とみた「蘇小小歌」が、じつは「秋」とか「夜」とかいった人間の時間を超えていて、あの詩の成立する時間は、強いて名づけるなら「鬼時」とでもよぶべきものであろう、というのである。 唐突すぎて、おそらく人さまの同意は得にくかろう。 文章に書くとすれば、納得される論理を展開せねばならぬ。 けれども問題は、論理以前のわたしの生きかたに関っている。

 千美の死んだ年、『桃栗集』<遺歌集>を刊行したが、その女性としての悲しみは、とうてい一冊に盛りきれぬ。 さきに記したように遺稿がなおあって、千美の悲しみが綿々とつづられている。 次々に上板するつもりだったが、怠って今日まで果たしていない。
 「補訂」の書けないのは、「女性の尽きぬ悲しみ」などといいながら亡妻の悲しみにさえこたえていないわたしの怠惰を蘇小小が憫笑しているからではないか。

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「女性の悲しみ」は、浅薄なわたしにくみ尽くせるものではない。 そのことはつくづく自覚している。 遺稿は努力すれば出せないわけではない。 「蘇小小」の補訂はしなくとも、わたしの考えつく程度のことは、いつかは他の人によっても解き明かされるだろう。 千美の遺稿は、その成立にたちあったわたしでなくては編集できまい。 したからといって千美の悲しみが癒えようはずはなく、この作業が他の助成の悲しみを誘発しないという保証もない。 一個の平凡な人間にすぎないわたしが、たまたま男性であることによって女性の悲しみの原因となり、償おうとする行為がさらに女性の悲しみの原因となるかもしれぬことを思うと、途方にくれる。 だが、このような感想も、おのれの怠惰を飾る言いわけにしかなるまい。
 「遺稿」とはいうが、対えば、すべての言葉が、発せられた時そのままに、ありありとわたしを撃つ。 わたしは人間の時間の流れにただよいながら老いたが、千美の言葉は、生きた時間をそのままに凝結しているのだ。 蘇小小の時間もまた、凝結した時間なのかもしれぬ。
 蘇小小が来ぬ人を待って佇ちつくした西陵下が何処であるかの議論が、古来いくたびか重ねられたが、それは、たぶん地理的空間ではなく、鬼時と垂直に交叉する「鬼処」なのだ。
 千美とともに歩いた甕の原も、松ヶ崎も、花園も、流転してもはや無いが、千美の文章に対うとき、まざまざと甦る。 これもまた、西陵下のような鬼処であろうか。
 「鬼時」といい、「鬼処」というのは、生き残って影のようにさまよう存在の方からすることばであって、「生は一瞬、死は永遠」という立場からすれば、鬼時と鬼処こそ、生々として手ごたえのある実存的時間、現実的空

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間、であるのかもしれぬ。
 あやふやに生きあやふやに老いたわたしが、思いたって千美の遺文を編もうとしても、果してわたしの見る幻のように鮮烈によみがえらせうるかどうかは、はなはだ疑問だが、とにかく、やってみるほかない。

 赤谷氏はじめ、千美の旧友諸氏の温い援助によって、『幻の葡萄』の編集を終えた。 その過程で、たえず感じたことは、千美という女性の、友であり、恋人であり、夫であったわたしが、ほとんど身勝手な男であった、ということだ。 千美が死んだとき、わたしは再婚すまい、と思ったが、七年後に再婚した。 誰に強いられたのでもなく。 そして、今の妻に対しても、身勝手な夫でありつづけていることであろう。
 前節までに、わたしは白氏や元氏をとがめるに似た言説を弄した。 しかし、わたしにはかれらを指弾する資格はない。 白氏や元氏を批判するかに見える李賀の諸詩にも、他への批判というより、おのれの女性への身勝手さに対する批判がこめられていたような気がする。
 論理が混乱して、お読みくださる方々にはわずらわしく感ぜられるであろう。 また李賀の詩を説きながら亡妻とおのれの過去の痴話をさらけ出す無慚に眉をひそめられるかもしれぬ。 読者がここから立ち去られるとしてもわたしにはそれを止める理由も力もない。
 ただ、わたしが李賀を読むということは、おのれの「私」に立ちかえり。「公」面をしてきいた風なことを言おうとするおのれを突きくずすことに他ならぬ。 「蘇小小歌」を読むということはおのれに向けられるであ

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ろう女性の批判に耳を傾ける姿勢を学ぶことである。 そのようなわたしにとっては最も身近かな女性との関わりを省察熟視せずには考えを進めることはできないのだ。 『幻の葡萄』は編み終っても、「蘇小小歌」の「鬼時」についてのわたしの考えは一向に深まらず、人さまに向かって説くべき論理も見当たらぬ。 あの「結論」を結論としてこの稿を放り出したくはあるが、それではまた放り出したことを悔いねばなるまい。 どの道を通って出たところがいかなる処になるかは、全く不明だが、たどりついた今の場所から、とにかく歩き出すことにする。

  九

 かつて、李賀の詩を「時間」の方から考える材料として統計表を作ったことがある。 次の頁のものがそれである(→略)。 『漢詩大系・李賀』を素材にした。 賀の詩二四四首のうち、春:八四、夏:一一、秋:七一、冬:一六、その他:六二。 春と秋の(  )内の一三と一二は、他の季節を混在する度数である。
 さらにそれぞれの詩中、朝、昼、昼から暮にかけて、暮、夜、夜から暁にかけて、その他の時間を歌う語・句を含む度数をあげた。 一詩中に異った時間が混在するので、その度数の合計は詩の数の合計よりも多い。
 ただ、時間の分け方は常識的で、大ざっぱで、従ってここに現れた数も大ざっぱなものである。 少し突っこむと、分け方の基準とした常識が、李賀の詩の分析にはそれほど役にはたたぬことがわかってくる。 どうやらそこが、時間論として李賀の詩にはいっていゆく入り口らしい。

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 「李憑箜篌引」(1001)は、上の表では、秋の詩で、昼と夜の含まれたものとして分類した。 けれども、この詩では、一・二・三・四句に流れる時間と五・六句に流れる時間とは異種の時間なのだ。 いま仮りに前者をAとし、後者をBとする。 次に、七・八句に流れる時間をCとし、九〜一四に流れる時間をDとすると、CとDもまた、異種の時間なのだ。 そうして、AとCとはいわばこの詩の「地」の時間、BとDとは「地」に挿入された「音楽」の時間なのだ。
 「地」の時間Aは、「地」の時間Cに接続するが、その間に「音楽」の時間Bが挿入されたことである変化を生じる。 「音楽」の時間Bは、「音楽」の時間Dに接続するが、その間に「地」の時間Cが侵入したために、BとDとは変化している。 その変化は「昼」と「昼から夜へ」という形に分けることができようが、この二つも、

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「地」の時間の昼と「音楽」の時間の昼とは異種である。
 この一首は、こまかく見てゆくと、以上のような異種の時間を組み合わせた複雑な構成をとっていて、そのことが四種の韻で押韻するという韻法で暗示してある。 組み立ては複雑だが、「地」の時間も昼から夜に向かい、「音楽」の時間も昼から夜に向かっているため、全体が昼から夜への一つの推移を感ぜられ、「地」の時間と、「音楽」の時間とが別々のものではなく一つの時間として、しかし単純な一つの時間とうけとめるには異常にふくらんだ時間として、読者に印象づけられるのだ。
 白氏の「琵琶行」は、音楽の演奏を詠じた大作で、賀の作よりはるかに有名だ。 韻法からいっても中々凝ったもので、楽音描写も巧みだが、白氏をポール・モーリアとすると、賀はバルトークにあててもいい位に違っている。 詩の中での時間の構成と韻法の対置という点になると、白氏はほとんど顧慮するところがないようにみえる。
 賀が同じく音楽をうたった作に「聽穎師琴歌」(5241)という十六句の詩がある。 四句ずつの四部分から成り、第一は秋、第二は春で、いずれも「音楽」の時間。 第三には時間の表現はないが、第四と共に「地」の時間のうちにあり、第四が秋だからこれも秋ということになる。 同じ秋だが、第三と第四が韻が違うのは、第三が楽師をうたい、第四が聴者たるおのれをうたっているからであろう。 この主客の相違は、心理的なものとも空間的なものとも見得る。 いずれにしてもその相違が押韻に対応させてある。
 「残糸曲」(1002)は本誌第十四号でくわしく分析したが、その時間についていえば、この八句の詩の、一・二・五・六・七・八は「地」の時間で春であり、そこに奇異な三・四句が突き刺さっている。 この三・四句は、時

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間の消滅した男女の愛、エアポケットのような時間とでもいうべきもの。
「雁門太守行」は八〇七年、賀十七歳以前の作と推測しうる詩で、その意味的展開と押韻からみて、三つの部分にわけられ、第一は一・二句、第二は三・四・五・六句。 第三は七・八句である。 全体は秋季でつらぬかれており、第一は昼あるいは日暮。 第二は夜、第三は時間は夜だが、前の行までの「地」の時間に垂直に交叉した太守の意志だ。 第二句の「甲光向日」を宋本系諸本が「甲光向月」とするため、初・二句も夜を詠じたものと見る人が多い。 だが、それでは李賀がなぜ次の句から換韻しているのか説明がつかない。 ここはどうしても「甲光向日」でなければならず、そうだからこそこの詩が迫力に充ちたものとなり、伝えのように、疲労していた韓愈をさえ驚嘆させたのだ。
 「河南府試十二月楽辞」は八〇九年、十九歳の作と考えられる。 題の示すように一年十二カ月、それに閏月をうたう十三首。 従って各首ははじめからその時間が規定されている。 だが、その各首における時間の扱いは単純ではない。
 「正月」の八句は一・二・三・四・句は現実の時間。 そこへ夢想の時間を詠ずる五・六句が投入され、七・八句は現実にかえる。 その転換と押韻とが一致する。 「二月」の九句は前の七句が「地」の時間をきらびやかな春の風物でいろどりながら進み、第八句で「音楽」の時間が投入され、第九句は「地」の時間にかえるが、投入された異種の時間によって、「地」の時間も全く変質して冬のように死の色を帯びてしまった。 時間の変化は押韻と対応する。 これらのことは拙稿「十二月楽辞」(『李賀論考』三一四頁)にくわしく述べたのでこれ以上はく

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りかえすまい。 他の作についても、例を拾えば枚挙に暇がない。 読者の検討にゆだねたい。

  一〇

 詩におけるこのような時間の扱い方を、李賀はいつ、どこで、だれから、学んだのだろうか。
李賀の師は韓愈である。 韓氏は、一般には散文の改革者として有名だが詩の改革者としても大力量を発揮した人で、そのおおよそについては拙著『韓愈』で述べた。 押韻についてもさまざまの方法を駆使しているが、かれの関心は同じ韻でどれだけ長大な詩を作りあげるかとか、意味的展開を無視した換韻をどれだけ効果的に続けうるかといった一種のアクロバット的韻法に傾斜し、そこで見事に成功しているのが、かれの大詩人たる所以であろう。 しかし時間についての考えは李賀ほどは深くない。 前節で説いたように、賀の詩は、韓氏に会うまえから異種の時間が韻法に浸透している。
 李白の「宣州の謝朓の楼に校書叔雲に餞別す」や、王維の「祖三詠に贈る」などは異種の時間を押韻で区別している。 これらは李賀の時間の扱い方に近似するまれな例だが、よく見ると、ほとんど偶然の近似で、李白も王維も他の詩でこの方法を追求しているようには見えない。
 換韻を許すのは「古詩」と名づけられる文体の詩のみで、「古詩」の中でも「楽府体」は韻のみでなく一句の文字数も極めて自由である。 李賀の詩のほどんとすべてが「古詩」であり、「楽府体」が多いのは、かれの詩法、

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ことに時間についての考察が韻法と結びついたところにあったからに違いない。 換韻を許さぬ「近体詩」すなわち律詩や絶句を、かれがあまり手がけなかったのは、かれの内部感覚としての時間論が、はじめから一つの枠を決定してしまう近体の韻法を、不自然として嫌ったからであろう。(といっても、かれが近体の詩法に習熟しなかった、というのではない。近体詩の表面的な均斉よりも、古体詩の時間把握に深切でありうる可能性に期待した、のであろう)
 李賀にさきだつ古詩・楽府の作品を見渡して、さきの李白・王維の詩のように賀の詩法に近似するものがあっても、立ち入って考察すれば、別個のものであった。 もとより、そのような先例からも、賀が学んで養いとしたには違いなかろうが、単にかれの資質が見出したというにはあまりにも従来の中国人の詩法、その詩法を成立させた感性・理性とは違ったイデーのようなものが、かれの詩の背後に存在すると察せられる。
 李賀の詩法の来源をさぐってここまでくれば、かれがその詩中に明記する「楞伽」経や他の仏教諸典にそのイデーのようなものを求めてもおかしくはあるまい。
 「楞伽経」については旧稿「楞伽」(『李賀論考』三六八頁)、「世尊と夜叉王」(『李賀研究』第九号)にくわしく書いた。 読んでいただければ、ここに重ねて説くことはいらぬと思うが、殊に関わりの深い後者がほとんど十年以前のもので、発行部数も少く、お求め下さっても既に在庫もないので、必要と思われる事項をかいつまんでおく。

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 海中の竜宮での七日間の説法を終えた如来が、南岸のマラヤ山のランカー城にゆき、城主とその一族に説法する。 如来は「バカヴァット」(世間主・勝者)と「世尊」の二面をもち、城主は「大慧ボサツ」と「ラーヴァナ夜叉王」の二面をもつ。 上陸した如来を迎える王はトータカ調、ガーター詠唱調などの声で如来の功徳を歌唱する。 如来は王の請いを受けて説く。 「過去仏は、このすぐれた宝山中で、夜叉をあわれむがゆえに、内身に証明した法を説かれた。未来仏もまたそのように、この宝山中でもろもろの夜叉たちのために、またこの深法を説かれよう。夜叉はこの宝山で、如実に修行する人、現われ現わす法行の人、それなればこそここに住むことができる。夜叉よ、今あなたに告げる、わたしと諸仏の子らは、あなたたちをあわれむがゆえに、あなたの布施と懇請を受けて説こう」。 その後、如来は神力によって幻のランカー城を化現する。 スメール山に向き合い、その城中にはやはり如来がおられ、仏の子たちがおり、夜叉王とその一族がいる。 そうしてその王が如来に問い、如来はこれに答えて法を説く。 如来の説法が終ると、如来も仏の子らも消え、夜叉王はおのれがもとの宮殿にいてほかのものが見えないのに気づく。 王はつぶやく「さきに見たものは誰が作ったのか。法を説いたのは誰だろう。聴聞したのは誰だったろう。わたしの見たのは何の法で、それでこれらのことがあったのか。あのもろもろの仏国土と、もろもろの如来の身、このようなもろもろの妙なることは、今みなどこへいったのか。夢で思ったことだろうか、幻が作ったものだろうか。ほんとの城市だったのだろうか、ガンダルヴァの城だったのだろうか。……見るものと見られるもの、一切把捉できぬ。説くものと説かれるもの、こんなものもまたない。仏法の真実のありかたは、有でもなくまた無でもない。存在の相はつねにこうしたものだが、ただ自らの心が分別するのだ。

(16-37)

……智者はこのように、一切のもろもろの境界を観じ、身を転じて妙なる身を得る。これが仏の菩提なのだ」

 現在の如来の内身に証明せられた法が説かれるとき、過去と未来という異時間の仏の法も現在に招きよせられ、現在の空間に、過去の空間も未来の空間も化現し、異時間の空間における人間の行為も仏の思惟も、現在という同時間の同空間に幻成し、如来の説法が終了すると異時間の異空間は消滅する。 しかし「現在の空間」に残存した王にとって、「現在の空間」におけるおのれが真実なのか、消滅した「異時間の異空間」が真実なのかは、わからない。 『荘子』の中に出てくる「胡蝶」の話に似てはいるが、その構成ははるかに複雑に時間と空間が錯綜している。 過去仏説法時のランカー城と、未来仏説法時のランカー城が、現在仏説法のランカー城と同じ姿でそこにある、というのは永劫回帰の哲学をまるめておいてせんべいにのしたような感じもするが、その経では、トータカ調、ガーター詠唱調などさまざまの声調や、種々の楽器の演奏によって、異時間は異時間として、異空間は異空間として、表現されている。 「バカヴァット」と「世尊」、「ラーヴァナ夜叉王」と「大慧ボサツ」が、同一の「如来」と「ランカー城主」の二面の訳し別けであること、その訳し別けによって十巻本が、四巻本や七巻本では見失なわれる本経の的々たつ真意を現しえたことは旧稿で述べた。
 李賀の詩の、時間のとらえかたと韻法とは、かれが楞伽経を十巻本で読んでいたと考えれば、すんなり納得がいく。 かれが十巻本を読んでいたろうことを、旧稿でも述べたが、その後に見付けた根拠を本号の「李孝逸」で説くつもりだ。

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 楞伽経以外の経典では、唐代に盛行した『妙法蓮華経』の「見宝塔品第十一」に、現在仏釈尊の説法の座に過去仏多宝如来の宝塔が大地中から出現して釈尊の法の真実を証明し、「従地湧出品第十五」では未来に法華経を宣布すべきボサツ群が地中から湧き出る場面があって、常識的な時間観が転倒する。 後者には「髪白面皺」の語があり、李賀の「嘲少年」中の語と同字面であることは本誌第十四号の「雑記」に書いた。  賀の詩中の時間観念に仏典の時間論が深く影さしていることは、もはや疑えまい。

  一一

 長い回り道ののち「蘇小小歌」に帰るときが来たようである。 前稿「蘇小小」の結論を次に引いておく。

 娼婦となったとき、蘇小小は恋愛し結婚する資格を失った。 娼婦として接する男の中に愛すべき人を見出した。 彼女は禁忌を犯してその人を恋愛しその人と結婚しようとした。 禁忌を犯すことによって彼女は娼婦として資格を喪失する。 娼婦としての資格を喪失した蘇小小を一人の女性として復活させるために、男も、社会も、手をさしのべなかった。 蘇小小の生きる場所は地上にはなく、彼女の肉体は死せざるを得ぬ。
 肉体の死によって魂魄もまた死ぬものならば、彼女は人を待つ必要はない。
 蘇小小は、その肉体の生きてあるとき、家族と社会によって一人の女性としての「死」を与えられた。 そ

(16-39)

の「死」に反抗すすることによって、愛する男と社会から肉体の死を与えられた。 その肉体の死んだのちにも、彼女の魂魄は「死」と死に反抗し、「死」と死を拒否して、おのれを死に追いやった男を待ち、女性を「死」と死に追いやって恬として恥じぬ社会に無言の糾弾を投げつづけている。
 李賀の作は、そのような蘇小小を歌っている。
 「死」と死を拒否し続ける蘇小小の所在を「墓」とはいえぬ。 彼女の拒否を認めようとせぬ社会が「墓」と呼ぼうとも、彼女の拒否を歌う李賀が彼女のいまも現に生きてあるところを墓と呼ぶはずがない。 李賀の作の題名は「蘇小小墓」ではなく「蘇小小歌」であった。

 この結論に誤りはない、と信じる。 わたしの誤りは、この結論にみちびかれながら「蘇小小歌」の成立する時間をとりちがえていた点にある。
 蘇小小が、「死」と死を与えられたとき、人間の時間は奪われた。 すなわちそこには、春・夏・秋・冬はない。 朝も昼も暮も夜も暁もない。 「死」と死を拒否する彼女は、奪われた人間の時間をとりもどそうとする。 しかし彼女が復活せぬかぎり、蘇小小の時間は人間の時間とはならぬ。 蘇小小の時間にも、春のような、秋のような、昼のような、夜のような、いろどりはある。 だがそれは人間の時間の四時・四季とは異質のものだ。 わたしは、そのような蘇小小の時間に、かりに「鬼時」という名をつけた。
 蘇小小を「鬼時」に追いやったのは、彼女に「死」と死を与えた、非人間的なエゴイズムであった。

(16-40)

 非人間的なエゴイズムがぬけぬけと生きのびている時間を「時間」として許す世界では、蘇小小の時間は「鬼時」と呼ばれるほかはないが、人間的な時間が真の「時間」とするならば、蘇小小の「時間」こそが、真の「時間」であり、われわれの住む時間はむしろ真の鬼時ではないのか。
 ここ数年、わたしは手あたり次第、時間論に関する本を読んできた。 貧弱な理解力では要約できないが、哲学者の間でも、科学者の間でも、この問題になお定論はなく、定義しうるなにかのものではなく、極めて人間的な、経験に対する意味づけのようなものらしい、ということがおぼろげながら分っただけであった。
 わたしが李賀から学んだ時間についての考えと、さほど差がありそうにもない。 もろよりおのれの愚かな理解ですぐれた労作を概括しようとするのではない。 わたしにとっては、「蘇小小歌」の時間を考える上で、わたしのたどりついた結論をくつがえす有力な時間論があれば、根本から考えなおしたい、と思って弱腰に鞭をうったのに、今までのところ、そういうものには出くわさなかった、というだけのことである。
 「蘇小小歌」の時間が「鬼時」ならば、その詩中の「西陵下」も人間の世界の西陵下ではない。 西陵下は、蘇小小に「死」と死を与えた人間が、蘇小小の死んだ肉体を埋めた場所に過ぎぬ。 死肉の埋められた場所には、木ぎれ一本のしるしも立てられなかったはずである。 十年もたてば、もはやどことも知れず、人は蘇小小の名さえ忘れてしまっていただろう。 忘れてしまった歌妓の墓が出来たのは、たぶん詩の好きな風流人の感傷と、そこに目をつけたこすっからい商売人の"観光開発"のお蔭で、感傷と商売さえ満足すれば、西陵が東陵になったところで別にどうということはないのである。

(16-41)

 「蘇小小歌」の「西陵下」は、観光客の訪れる西陵下とは何の関わりもない。 蘇小小の「鬼時」に貫かれた空間ならばそれこそが「西陵下」、従って「鬼処」というほかない場所である。 そこでは蘭の露は涙のごとく、消えがての冷やきともしびがさまよい、雨が吹きすさぶ……。 すなわち李賀の「蘇小小歌」の宇宙であって、他のいかなる場所でもない。

  一二

 西陵下 西陵は
 風吹雨 しぶき降る雨

「鬼処」たる「西陵下」はこのような場所であった。 ところで、十巻本楞伽は、如来がランカー城に上陸する前後のことを次のように描く。

 そのとき、ラーヴァナ夜叉王は、仏の神力で、如来の声を聞いた。 同時に、バカヴァットは、海竜王宮を離れ、大海を渡りおわった。 もろもろのナユタ無量の帝釈・梵天王、もろもろの竜王らに、とりまかれ敬礼された。

(16-42)

 そのとき、如来は、衆生を観察した。 アーラヤ識の大海の水波は、もろもろの環境世界の猛風に吹き動かされた。 転識の波浪は、縁によって起っていた。
 そのとき、ラーヴァナは夜叉王であった。 で、みずから嘆じていう。 「わたしは如来におねがいしよう。ランカー城にはいっていただき、われらの長い晦い夜を、神や人の中で、もろもろの人や神とともに、大利益を得て、すみやかに安楽にさせていただこう」

 この如来の上陸は、旧稿で注釈したように、夜叉の神として追放されていたランカー古来の神が「古仏」として、現在仏なる如来と同じ法を説いた仏として復活したことが前提となっている。 だがその復活が現在仏の如来によって宣言された後にも、その如来をとりまく人々の間には、差別の疑いがうずまいた。 それが「アーラヤ識の大海の水波は、もろもろの環境世界の猛風に吹き動かされた」である。
 蘇小小の復活を許そうとしない人間世界と「鬼処」との境の「西陵下」に風雨のすさぶのは当然であろう。
 「蘇小小歌」を『楞伽経』に対応させるとすれば、猛風の吹きすさぶランカーの岸辺で、如来の上陸を拒否するラーヴァナを描いて、あとは引きちぎられた形になっている。 というよりは、「蘇小小歌」なる「ランカー島」へはまだいかなる如来も近づこうとはせず、この「鬼時」に貫かれた「鬼処」は、人間世界からは隔絶した「入り難き」島として屹立したままなのである。
 「元九の悼亡<詩>を見、因って此れを以て寄す」(巻十四)と題する白居易の詩にいう「夜涙闇に銷ゆ明

(16-43)

月の幌、春腸遙かに断ゆ牡丹の庭。人間この病治むるに薬無し、ただ有り楞伽四巻の経」
 この詩の作時は八一〇年とされる。 元稹が妻を喪ったのが前年七月だから、ほぼ間違いないだろう。 それならばあの「燕子楼」などの詩を作って関氏を死に導いた時に前後する。
 白氏もまた『楞伽経』を読んでいたのであった。 おのれが読むだけではなく、友の元氏にも読めとすすめているのである。 中国禅宗の祖達磨は恵可に付法するとき「われ震旦所有の経を見るに、ただ楞伽四巻あり、また以てなんぢに付す、即ちこれ如来心地の要門なり、諸の衆生をして開示悟入せしむ」といったという。 白氏の詩の「ただ有り……」はこの伝えにちなむのであろう。 白氏は一体、この経を読んで何を学び何を開示悟入したのであろう。
 白氏の読んだ四巻本は、同じく「楞伽経」といっても大いに節略されたもので、さきに引いた十巻本の「請仏品」に当るところは削りとられている。 もし白氏が十巻本を読み、その深義に思いを致していたら、「故張僕射の諸妓に感ず」のような詩を作るはずはなく、またさきに引いた軽薄な女性批評もなかっただろう。
 四巻本とて、「請仏品」に流れる思想を基本とする。 基本を読みすえておれば、白氏のことばは違ったものになっていただろう。 かれの諷諭詩にしばしばあらわれる偏狭な愛国主義ももっとひろやかなものとなっていただろう。
 白氏が『楞伽』を読むのは、おのれの救済のためであろう。 少くとも元氏にあてた詩の文脈からいえばそういうことになる。 李賀は、おのれの救済のために読みはじめたかもしれぬが、読めば経の本旨に到達し、その本旨

(16-44)

に立てばこそ「蘇小小歌」を歌い得た。
 軽がろしく悟りをいう人間の悟りなんぞはあてにならぬ。 麗々しく「平等」を看板にかかげる無差別運動なども眉につばつけて見る方がよい。 李賀の「蘇小小歌」が陰惨なのは、陰惨だという側の陰惨を正確に写し出しているのである。 しかもなおこの詩が美しいのは、「死」と死を世間から投げ与えられながら、ただひとりでその不義に反抗し、その「死」と死を拒否して、時間を凝結した永遠の「鬼時」に、「鬼時」と交叉するかぎりいかなるところにも現れる「鬼処」で、いつわりの人間の時間と空間に抗議しつづける蘇小小の精神が、正確にここに写し歌われているからだ。
 「蘇小小」はもはや中国の六朝の一妓女にはとどまらぬ。 いつわりに対して「鬼」面をかぶって立ち向かう真実の名、といってよい。 しかし、現に今、差別の不当を最も多く受けているのが女性であるという事実群の存在する状況で、そこまで論を走らせるのは、行きすぎであろう。
 李賀が、ランカー島に如来上陸後の、如来と城主との問答を歌わずに、如来の上陸を拒否するに似た「蘇小小」の悲歌を歌ったのは、かれが学僧たちより深く『楞伽経』を読みとっていたからだ、とわたしは信ずる。
 「蘇小小歌」はロマンティックな詩でもなく、唯美主義的な詩でもない。 極めて正確に現実世界の真実を写して象徴の域に達したもの、とでもいえば文学史向きにはよいかもしれぬ。 わたしとしては、レッテルなんぞははりつけずに、「蘇小小歌」に黙って対いあっていたい。
  一九八三年七月十六日一八二五

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李孝逸

 一九六六年夏、「楞伽」を書いて、李賀の四世の祖は李孝逸であろうと推測し、かれが楞伽経を手許においたのは李孝逸の冥福を祈る気持もあったろう、とのべた。 その文を引いておく。
 楞伽経で羅婆那夜叉王が釈尊の説法を請う形をとるのは、この経が悪道に堕ちたものの救済を本旨とするからであって、釈尊の迫害者 Devadatta をすくうために『妙法蓮華経』提婆達多品が説かれたようなものである。
 知的な興味だけで仏典に近づく人は今日でもそう多くはない。 千二百年以前のひとである李賀は、自身の惑いを断つことをも願ったであろうが、それ以上にゆかりのひとの冥福を祈る気持が強かったにちがいない。 そのとき楞伽経を選ぶということは、心に念ずるひとが狼牙脩国の王族のような不遇の賢者であったか、あるいはさらに苛酷な運命に死にその霊が夜叉となったと感ぜられる者であったことを、暗示する。 君に対する忠愛の誠ゆえに讒誣をこうむって追放せられ汨羅の鬼となった屈原の文集をかれが楞伽とあわせて机辺に離さなかったことは、これを傍証する。

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 李賀の時代に存した漢訳楞伽経に、四巻(宋訳)、十巻(魏訳)、七巻(唐訳)の三本があり、賀が愛読したのは十巻本であろう、ということもそこでのべた。
 一九七九年十月十九日、『宋高僧伝』を読んでいて、その巻八「習禅篇第三之一」の「唐越州雲門寺道亮伝」に李孝逸の名を見出した。 『僧伝』は『大正新脩大蔵経』第五十冊に収めるもので、その項は七五七頁である。 著者は賛寧、宋の太宗の勅命により九八二 ― 九八八年に書き、時として誤りをふくまぬではないが「真に力作なり」とは『望月仏教大辞典』の批評である。 原文を次に写しておく。
 唐の越州<今の浙江省紹興>雲門寺の道亮の伝
釈道亮、俗姓は朱氏、越州の人である。 その父は前の会稽郡の刺史であった。 亮は八歳の年に出家し、経典学に精通し、具足戒を受けて比丘となったのち河中の三論を学び、涅槃経を講じもした。 ついで深谷に入り、破衣をまとい疎食で命をつなぎ、俗務を事とせず童心の純真を守った。 神竜元年<七〇五>孝和皇帝<中宗>が詔して道亮と当時の法席の宗師といわれる僧十人を長楽宮の内裏に入れ夏安居をいとなませた。 その時、帝は道亮を戒師として菩薩戒を受けた。 <のちの>叡宗や<中宗の>后妃bz異国の錦のしとね、毛氈の座席を送りとどけた。 二年、詔して西園で仏道

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を問うた。 朝廷の人たちは喜び尊重した。
 大都督の李孝逸、工部尚書の張錫、国子監の周業、崔融、秘書監の賀知章、睦州刺史の康 詵が心を一つにして仰慕し、請うて禅心を問うた。 多くの人々が師弟の縁を結び、そのある者は伝灯を受け渡した。 卒年八十二歳。 門人の慧遠らが塔を建て、万斉融が碑銘を作ってその行状を記した。

 この伝は、万氏の文に拠ったと察せられるが、万氏のその文は失われたものらしく『全唐文』にも『唐文拾遺』等にも見えない。 『全唐文』(巻三百三十五)には「斉融は越州の人、官は秘書省正字、出でて崑山の令となる」といい文三篇を収め、その二つは「阿育王寺常住田碑」「法華寺戒壇院記」。 前者は『金石金石萃編』巻一百八にも収め、後者には「天宝三載十一月二十五日」の日付がみえる。 『旧唐書』賀知章の伝には、万氏が神竜中に賀氏ら呉越の俊秀と共にその文名が首都の人々にもてはやされたと伝える。 同じ越州の人だから道亮に関する記述は信ずべきものと察せられ、『僧伝』がこれに拠ったものであればまずは正確なものといえよう。
 さて、雲門寺は、紹興東南約一八キロにある雲門山中の寺で、晋の中書令王子敬がここで五色の雲を見たことに因んで建てられた。 宋代の地理書『嘉泰会稽志』にはこの寺に住んだ高僧として法華経読誦で知られる釈弘明(梁高僧伝巻十二)や唐の詩僧釈霊一は載せるが道亮の名を揚げない。 またこの本の巻二は郡・州の太守・刺史等を記述し、道亮の父の朱氏らしい人の名は見えないが、李孝逸の名は、「太守」の項にあって「咸亨二年<六七一>三月、常州<今の江蘇省常州>より授けらる。<のち>益州<四川省成都>の<大都督府>長史に移る」と

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記し、『咸淳毘陵志』巻七に「李孝逸、咸亨二年常州刺史となり、三月越州都督に移る」という記事と共に、新・旧『唐書』の欠を補い得る。
 「河中の三論」ということばは、わたしには分らない。 三論家では「関中」「関内」の語でクマーラジーヴァとその門下、「河西」の語で道朗の学説を指し、その両系の学説をあわせて「関河の旧説」と三論の大成者吉蔵(五四九〜六二三)が言っていたことが平井俊栄『中国般若思想史研究』に考証されている。 「河中の三論」は「関中の三論」「河西の三論」のいずれかの誤りではなかろうか。
 とことで、関河の旧説を綜合大成した吉蔵は、会稽の嘉祥寺に止住し教化講説したことによって「嘉祥大師」とよばれた人である。 道亮の学んだ三論は、たぶん吉蔵の三論であった。 ただ、「河中の三論」と伝にいうのは、道亮が「習禅」の人ではあっても、達磨を祖とする禅者たちとは違う系統の人であることを示すためであったと察せられる。 今から見ると、禅者といえば達磨の門下しか晴れ立たないが、それは李賀よりは後の禅門の史家の描いた図柄であって、初唐の実際ではなかったことは、近時の研究が次々に明らかにしている。
 当時の達磨門下は自ら楞伽宗と称し、四巻本を伝承修行することを宗の本旨とした。 とはいっても他の大乗諸経典を読まなかったのではない。
 道亮はその伝にいうように『涅槃経』を講じたほどの人であるから、華嚴・法華などをはじめ経論にくわしかったはずで、吉蔵の著書に引かれる主だったものには目をさらしていたことだろう。 楞伽についていえば、吉蔵が依用するのは十巻本であった。 道亮もまた十巻本によって『楞伽経』を読んだに違いない。

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道亮の伝で、長楽宮に入ったのは、李孝逸の死後ほとんど十五年。 孝逸がはじめて道亮に会ったのは、かれが常州から越州に転任した六七一年三月以後のことであろう。 次いで益州大都督府長史となったのが何時かは分らぬが、『旧唐書』のいう「高宗末年」がそれだとすると、十年前後は益州にいたことになる。 道亮とは年齢も相近い。 好学の孝逸が学問にすぐれ、習禅に徳行を磨いた道亮に会って傾倒するのは自然である。 かれは道亮にしたがって大乗の諸経、三論の諸典に眼をさらしたことであろう。 そうして『楞伽経』を十巻本で読んだであろう。
 なお、これより前に釈法沖(五八七〜六六五?)なる人がいて、字は孝敦、姓李氏、隴西成紀の人で青年時代房玄齢を友としたが、母の死にあい、涅槃経を読み出家し、三論・楞伽を学び、のち禅宗二祖恵可の弟子にあたる人から四巻本を授かり、初唐の禅者に大きな影響を与えたといわれる(続高僧伝)。
 同じ李氏であり、房氏は孝逸の父李神通の同僚だから、孝逸は法沖の名を知り、その学風も禅風もわきまえていたろうに、法沖に学ばずに道亮に従ったのは、楞伽において、十巻本から四巻本に移った法沖よりも、十巻本を守った道亮に同感するものがあったのだ、と推せなくもない。
 説明があとさきになったが、三論学派とは、四〇一年長安に入関したクッチャの翻訳三蔵クマーラジーヴァ(三五〇〜四〇九)によって伝訳された『中論』『百論』『十二門論』という三つの論の教義の研究を中核に展開した中国仏教の一学派(平井氏前掲書)で、この三論の原著者はナーガルジュナであり、同著者・同訳者の『大智度論』とともに大乗仏教を学ぶための根本的な理論書である。
 同じ三論家で、しかも実行を重んじる修禅の人であり、ともに楞伽を重んじながら、その依るところが四巻本

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と十巻本に分かれるのは、十巻本の「請仏品」をどう見るかにかかっている。 十巻本を捨てて四巻本をとった人は、夜叉ラーヴァナの悲しみなどは夢幻、ランカーの宮殿はガンダルヴァの城と見えたのかもしれぬ。 だが現に眼の前にありありと存在する世間の虚仮に気づき、信じた人の心もおのれの心も信じがたくなるとき、っその夢幻こそ真実であったと驚き、「請仏品」の幾重にも錯綜した表現の深致に悲嘆を発するであろう。 簡浄を愛する豪傑は、「請仏品」のほとんどを切りすて数学の公式集のようになった四巻本をよしとするであろう。 もっとも、法沖はおそらく、前半生にみずから「請沖品」を生き、ラーヴァナの悲しみを味わい尽したために、摘要の四巻本のみをたずさえ、「請仏品」の幻出を封じようとしたのかもしれぬ。 それならば知らずに無視するのとは異る。

 李孝逸と楞伽についてわたしの述べ得ることは、これだけである。
 李賀が案前に楞伽をおいたことは、かれ自身がいう。 その楞伽の十巻本であろうことを、わたしが初めていったが物的な証拠があるわけではない。
 李賀が唐の皇室鄭王の子孫なること、その鄭王がいわゆる大鄭王なることは、既に先人がいう。 大鄭王のはじめの人は李神通である。 神通の第十一子李孝逸が賀の四世の祖であろう、とわたしが初めていった。 それを証するために幾つかの文章を書いたが、いわば情況証拠を並べただけである。 本稿もまたそのような性質のものであろう。 状況を裏づける物的証拠はまだ現れぬ。 従って蓋然の論たるに過ぎぬ。
 さきごろ李神通の墓が発掘された。 その簡報が発表されたままで、詳報には未だ接しないが、その簡報だけで

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も中国の正史が覆った真実がよみがえった。 忠誠を尽した女帝に追放され海南の孤島で命終を迎えたろう李孝逸は、死後二十年、名誉は回復され益州大都督は贈られても、その残骨が祖先の墓に改葬されたかどうかも明らかではない。 墓碑が現われることは、臨まぬ方がよいかもしれぬ。

 一九八一年五月五日、河北北京師範学院中文系資料室・中国社会科学院文学研究所図書資料室編『中国古典文学研究論文索引増訂本』(一九四九〜一九六六・六)の第三次印刷本(一九八〇年十一月・北京中華書局刊)を見ていて、一五一、二頁の李賀に関する論文の中に「李賀墓和李賀其人」(依杰)甘粛日報(一九六二・一・二五)をみつけガクゼンとした。 李賀の墓が遺っていたのか。 わたしは早速、朋友書店の土江澄男氏に電話し、何とか入手できないものか、と相談した。 氏はこのために随分手を尽されたが、徒労に終った。 外国の、ことに民間の一私人には渡らぬ資料らしい。 その後、これに触れる研究に出あわないのは、中国の研究者にとっても入手しにくい資料だったのかもしれぬ。 土江氏には申しわけないことであった。
 中島長文氏のここ数年に書かれたもの訳されたものを読むと、中国の図書館は必ずしも研究者にとって利用し易いものではなく、魯迅に関する研究もままならぬことが少くないらしい。 自由の国といわれる日本でも五十歩百歩だから、それが世間と思えばよいのであろう。
 わたしの仮説は、李賀の墓碑が掘りおこされ、李孝逸の墓が掘りおこされるときには、事実だったと認められるかもしれず、とんでもない誤りと笑われるかもしれぬ。 わたしは、しかし、人の墓をあばくのは好きではない。 李賀も、李孝逸も、その墓も知られずに、そっと眠っていてくれればよい。 かれらの命は、李賀の二百数十首の

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詩の中で、いきいきと生きているのだから。  (一九八三年七月二十四日一一・一五)

蘇小鶏肋

 李賀の「蘇小小歌」を読むゆかりで、他の詩人たちの蘇小小をうたう作をずいぶんノートに書きこんだ。 たいてい似たりよったりで、しまいにはばからしくなってやめた。 ことし三月八日、乱読中に見出した次の二首は、捨てるには惜しく、書き写しておいたもの。
 その一は、鄭蘭孫の「西冷弔蘇小墓」(西冷に蘇小の墓を弔ふ)

  香車無復碾芳塵  美しい車はもはや花やかな塵をひいてやってくることはない
  帳望西冷草似茵  西冷をかなしみ望めば 草はしとねのようだ
  楊柳風前思舞袖  風になびく柳の前では舞衣がしのばれ
  桃花雨後認歌脣  雨にぬれる桃の花のもと歌声がきこえるみたい
  韶華迅速憐佳日  けぶる樹ははるばると美人をなげく
  千古情深児女夢  千年のむかしながらに情の深さよ女の夢の

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  夕陽憑弔黯傷神  夕陽もともにとぶらうようにほのぐろくわたしの心を傷ませる

 さすがは女人の作、軽薄さのないのがいい。
 作者は、字は娯清、杭州仁和の人で同地の徐鴻謨の妻。 一八六一年に死に年はわからない。 右の詩はその遺著『蓮因室詩詞集』(一八七五年刊)巻上に収める。
 その二は、林景煕の「蘇小小」

  歌扇風流憶旧家  歌の扇のみやびかにむかしの家ぞしのばるる
  一丘落月幾啼鴉  ひとつの丘に落つる月 いくたびか啼ける鴉や
  芳魂不肯為黄土  ほこりたかき魂魄あはれ土くれとなるを拒みて
  猶幻燕支半樹花  べにうつくしき幻のひとかも半ば樹をおほふ花

 林氏(一二四二〜一三一〇)、字は徳陽、温州平陽の人。 宋末の官吏、宋滅亡後は野人として征服王朝に抵抗した。 右の詩は『霽山集』(一九六〇年・上海中華書局刊)巻二に収める。 訳文はいくらかわたしの考えに引きよせた感もないではない。 が、林氏の作は李賀の詩を思いうかべて作ったこと、まず間違いなく、賀の「蘇小小歌」理解において、賀の死後今日まで、この人を越えるものはあるまい、と思う。

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老仙・壺・女人・少年

 一九七六年三月拙稿「残糸曲」(本誌第十四号)を書くとき、「緑鬢少年金釵客、縹粉壺中沈琥珀」を釈くために、わたしが子供のころ読んだ中国(?)の説話を思い出そうとして。どうしてもその出拠が見あたらず、やむなくぴったりはしないが「壺公説話」と「巨霊説話」で、いわば、間に合わせた。 間には合ったがゆるんだ入れ歯のようにしょっちゅうそいつが持ち上がって仕方がなかった。 一九八〇年夏安居のつもりで『大正蔵経』第四巻を読んでいたら、そいつにぶつかった。 地獄で地蔵さまに逢ったようにうれしかった。 呉天竺三蔵康僧会訳『旧雑譬喩経』巻上第十八話で原文は下掲の通り。(*入力者注:割愛) 以下拙訳。
 むかし国王がいて、婦人をきびしく取りしまった。 正夫人が太子にいう。 わたしはお前の母だが、生まれてから国中を見たことがない。 一度出てみたいから、お前から王にいっておくれ。 太子は王に言い、王が許したので、太子は自ら車を御し、群臣を道路に出し奉迎拝礼させた。 夫人はその手を出し帳を開いて、人たちに(おのれの姿を)見え

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るようにした。 太子は見て、女人がこんなことだとは、と、腹痛だといつわって還った。 夫人は、わたしはとてもたのしかった、と言った。 太子がおもうには、わが母上さえこんなことだ。 ましてほかの女は。 夜になると国を捨てて山中に入りあちこち見て歩く。 と、道辺に大樹があり、下にきれいな泉がある。 太子が樹に上る。 ふと仙人がひとりでやって来て、池で水浴し、食事をし、術を使って一つの壺を吐き出した。 壺の中には女人がおり、<女人とキャンプをとり出し>キャンプの中で仙人は女と寝た。 <仙人が眠ると>女人もまた術を使って一つの壺を吐き出した。 壺の中に年少の男がいて、またいっしょに寝た。 了ると女は<少年を収めた>壺をのみこむ。 と思うと仙人が目をさまし、壺の中に女人を収め、そいつをのみこむと杖をついて去った。 太子は国に帰り王に申し、その仙人と諸臣下を招き、三人分の食事を一とところに用意した。 仙人がやって来て<用意された食事を見て>わたしはひとりだ、と言った。 太子がいう。 仙人よ奥さんを出していっしょにおあがりなさい。 仙人はやむなく妻を出した。 太子が女にいう。 男を出していっしょにおあがり。 再三いわれて、やむをえず男を出し<三人は>共に食事をして、去った。 王が太子に問う。 お前にどうしてわかったのか。 答えていう。 わたしの母が国中を見たがったので、わたしが車を運転しましたが、母は手を出して人に見せました。 わたしは女人がそんなに欲望が多いのかとおもい、腹痛だといつわって還り、山に入り、この仙人を見たのです。 かれは妻に姦通させまいとして妻を腹中にかくしたのでしょうが、このように女人の姦通は絶やすことはできません。 どうか王よ宮中の人たちが自由に往来できるようにしてください。 王はそこで後宮中の女に行きたい者は行かせることにした。 師いわく「天下ニ信ズベカラザルハ女人ナリ」と。

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 以上がその話である。 わたしがかつて読んだのは父の蔵書の『仏教信仰 実話全集』(昭和六、七年刊)か何かだったろう。 訳者は中央アジアのサマルカンドに祖先をもち、代々インドに住み、商人の父にともなわれて交趾に移り、十余歳で両親に死別し、出家し、三世紀の中ごろ建業(今の江蘇省江寧)に来て伝道・訳経に従った。 この経は『高僧伝』等に見える。 「師曰」としてときどき話の終りに格言をのせるが、それがおおむねつまらないのは、後人の付加かもしれぬ。
 李賀はこの経を読んでいた、と思う。 そうして「残糸曲」を作るとき、この話を胸においていたに違いない。 もしかれの読んだこの経にも「師曰」がついていたとすれば、何というくだらねえ師だ、と笑ったことであろう。 わたしの中には、この話に出てくるへっぽこ仙人のようなケチくさいところがあるのを自覚するだけに、「残糸曲」を作った李賀のやさしさがいっそう心に沁みる。 なお原文の「手」というのはインド(であろう)のテキストでは「足」「ふともも」などであったかもしれぬ。 あるいは「女陰」とはっきり表現してあったかもしれぬ。 中国語に翻訳されるとき、中国人の神経を逆なでしないため、こうした処置がとられたことは、先人がすでに説いている。 (一九八三年七月二十九日一三五〇)

満紅紅・夜遊宮

一九七九年九月九日、饒宗頤『選堂詩詞集』(一九七八年刊)を入手、その日のうちに一読了し、李賀にかか

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わる詞二首を写した。 ここにその二首と別の一首を転載する。 「満紅紅」は同書一九九頁、「夜遊宮」の二首は二一二頁。

  滿江紅 讀昌谷詩
日上三竿,休報道先生睡足。偶墜向、文章劫裡,碧緗盈束。 年少空教簫化淚,蹉跎早是髀生肉。但徘徊、眸子射酸風,看新局。   蘭欲笑,雞可卜。琴已瘦,腸仍曲。遍人間、坐閲山丘華屋。 喝月曾驚群綠走,飛香羞入叢紅宿。少待有、紫帳熱春雲,楊花撲。

  夜游宮
  列寧格勒藏有長安詞,缺其後半。曩於英倫,曾見蝴蝶裝小册,泥污日久,黏緊上下葉,內書此詞,僅白馬駝經數可辨。頃魏智小姐書來,稱已掀開,錄示其文,足為延津之合。就中以「雨下沾(霑)衣不覺斑」句為佳,喜極題此。記長吉詩云「長翻蜀紙卷明君。」錢飲光解為展玩明妃圖,今敦煌有明妃變文,卷末記云「立鋪畢」可證也。
  雨下沾衣蘸水。夢回首、家山千里。昔日長安宦遊子。譜新詞、度關山、歌地市。  蠹簡驚砂底。檢數葉、泥污飄墜。曾為篝燈夜分起。記年時、卷明君、翻蜀紙。

 「夜遊宮」の序にいう事項に関連する記事が本誌第八号「雑記六〇・巻明君」にある。(一九八三・七・二九)

王礼錫の墓

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 『社会科学戦線』一九七九年第一期掲載、方殷「痛懐老舎」に王礼錫氏の死の前後に触れた記事があるので、節略して紹介する。

 一九三九年夏、わたしは老舎が"八方風雨"のうちに提唱したあの「戦地訪問団(作家戦地訪問団)に参加した。かれは慰労総会組織の慰労団の北団に参加した。そのとき、わたしとかれは別々の経路を進んだ。……同年末、両団は前後して重慶に返った。かれはわたしに王礼錫の「死後のこと」についての処理をほめてくれた。王礼錫は当時、「戦地党政工作委員会」の特派員の身分で西北戦地の視察に出発し、「作家戦地訪問団」が訪問しようとする地区が同じであり、さらにかれが英国の「援華」運動に功のある人であり、……、といったことでかれは訪問団の団長を委ねられた。かれは不幸にもわれわれが山西の中条山を訪問したとき急に黄胆にかかり、洛陽に送って手当したが効なく、世を去った。かれの死後、わたしが中心になって、かれのために、洛陽竜門と白居易の墓とにはるかに相対する一個の山頭の墓地を選び「詩人王礼錫之墓」なる墓碑を立て、この詩人を葬った。老舎はこのことを例としてわたしの処理能力をほめてくれるのだが、わたしはかえってかなしく、万丈の烽煙のうちにあって好戦友を顧みることもできず、心いたむばかりであった。

 一九七三年七月四日から十五日にかけて「二〇世紀の李賀(四)王礼錫」を書き本誌第八号に載せた。 その時にはわからなかったことを方氏の記事で知りえてうれしい。

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 なお、思いついて『中国文学家辞典・現代第二分冊』(一九八二年・四川人民出版社)をみると、四五—四六頁に「王礼錫(1901—1939.8.25)」の項にかなり詳しい記述がある。 旧稿に引いた橋川時雄の記事では王氏の生年は一八九九年だった。 どちらが正しいのかわたしには判断がつかぬ。 この辞典の通りなら三十九歳で死んだことになる。 この人と直接交渉のあった人達のいる間にどなたかがこの革命詩人の伝記を書いてくださらないものか。 (一九八三年七月三十日一七一〇)

林同済

 林氏については、本誌第十五号に「李賀詩歌需要校勘」「両字之差」なる氏の論文名をそのまま題として小文を書き、後者の末に「林氏の<李賀集>校勘の全貌が近い将来に出版されることを熱烈歓迎する」と記した。
 その後、中国で出る各種の人名辞典を繰ってみるが、氏の名は見えない。 銭鍾書氏入洛の際の談話の記録を読むと、ああいう人名辞典は……ということで、あまりまともに考えない方がよいらしいことがわかった。
 『復旦学報』一九八一年第二期が来て見ていたら趙守垠「林同済教授与莎学」(林同済教授とシェクスピア学)があり、読んで感動した。 追悼論文だった。 ただ、いつなくなったのか、いくつだったのか、そういうことは書いてない。 李賀との関わりについても触れていない。 がとにかく、その摘要を紙きれに写した。 ところが日付がぬけていて、いつのことだったかわからない。 ここにはさらに縮めて写しておく。

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 教授は生涯不遇で、研究も度々主題を変更した。 五十年代後期からシェクスピア校勘に集注し、一九六三年、英文論文<SulliedIsthe word>を書き、デンマーク王子の独白中の Solid flesh か sullied flesh かにつき考証し、一九八〇年に発表、英・米・日・独の学者に称賛された。 文化大革命中、種々の圧迫を受けたが、その間に翻訳を進め、演出について考案した。 この学問が、中国でようやくレールに乗りかけたときに、教授は世を去った。 熟読・鑑賞・研究・評論・翻訳・演出から文献考証にいたる一門の総合科学だ、とかれは常にシェクスピア学をいっていたが、かれはそれを体現した。

 『中華文史論叢』一九八二年第一輯に林氏の遺稿「李長吉歌詩研究」が掲載された。 一七 --- 九八頁。 編者の按語にいう。
 林同済教授は中国・西洋の学問に通じ、わが国著名の西洋文学専門家で、中国古典文学にも深い素養があり、一九八〇年夏、招かれて英・米で講義し、過労のため不幸、米国で逝去した。 十年の動乱期間、困難な環境で李賀歌詩の整理・研究に心をひそめ、十万語に上るノートを書き、まっすぐな愛国知識人の仕事への献身と高度の責任観と学術において不断に真理を探求する貴ぶべき精神を表現した。 その成果の一小部分はかつて『光明日報』『復旦大学学報』に発表、学術界の重視と好評を得た。 李賀は唐詩の代表作家の一人で、その詩は南宋以降、注家が次々に出、注釈・校勘に少からぬ作業がある。 ただ長期にわたる刊刻の誤りや注家のもってまわった表現傾向から、詩旨になお闡発すべきものがあり、校勘に正すべきところが多い。 林氏は李賀詩歌の研究過程で前人の研究

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成果を注意して吸収し、また旧説にとらわれず、西洋の文学研究の方法を結合し、詩意と勘誤の両面にあまたの創見を提出し、典故を示し、論理を通し、人の耳目を一新させ、おのずから一家の言となった。 いま、手稿により、生理選択し「釈意」と「校勘」の両部分に帰納し総題を『李長吉歌詩研究』とし、林氏の中国古典文学研究成果の結晶として学術界に提供する。 篇幅を節省するため、李賀の原詩は詩題のみをかかげ、あるいは関わる詩句のみ出して全詩はあげない。 林氏校釈の李賀詩集全稿はなお整理校訂のうえ、別に処理されることとなろう。
 以上の編者のことばのほかに、林氏の手稿の写真四葉が二一 --- 二四頁に収められる。 林氏の引言を節録しよう。

 長吉の詩はむかしからむつかしいといわれた。 細読してみて、その十中八、九は理解しうることがだんだんわかってきた。 その理解しがたいものは、印刷上の誤りによるか、ことばの典拠不明による。 しかもその少からぬ部分は注釈者がくだらぬ考えにとらわれ、わざわざ分りにくくしているからで、長吉はもともとわかりにくかったのではない。
 で、整理のしかたは三つ。 校勘によって本文を正す。 注釈によって語義を明らかにする。 解釈によって詩意を会得する。 この三つの基礎に立ち、進んで鑑賞し、評価すれば、作者の創作の達成したものにつき、そのいずれが独創であり、いずれが成功しなかったかが体認でき、古人に負くなきに近いだろう。
 長吉の歌詩は必ずよく校勘せねばならぬ。 この仕事は一面細心、一面大胆でなければならぬ。……
 解釈作業では各人の主観にかたよることは免れない。 次の点に注意すれば、長吉の詩は読みにくくはない。

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(一)最も大切なのは章法を明かにすること。 長吉の詩はすべて条理がある。 その層次、段落を尋ねて解けば半ば以上わかる。
(二)題旨をわきまえること。 長吉は題詠はやらなかった。 ただ、詩の内容と題とは密接な関係がある。 題目に関係づけて読む、各詩製作の意図を摘出する、これが最も要領をえた方法だ。
(三)文体別に考えること。 突出するのは楽府体。 楽府中でも「楚辞」を学び、「文選」を学び、李白を学ぶ各体がある。 風格はきっぱり分れている。 その各々の風格に従って会得すれば一切は自然でわかりやすい。 旧解は儒家の道徳観・芸術観にとらわれたものが多く、そいつをあてはめるのでとんでもない間違いがおこる。 このほか、抒情あり、感諷あり、ドラマあり、写実がある。 詠史についていっても古事をいたむもの、現代を諷刺するものがある。 姚氏はほとんどどれもみな現代諷刺として解釈する、こじつけをまぬかれない。
(四)語句を味わうこと。 長吉が心臓をはき出すほどに苦心したのは多く一語一句の間にある。 こまかくさぐってゆくと、往々、一句、あるいは一語のうちに全詩の主題と用意を見出す。 軽易にやりすごしては、長吉にそむくことになる。 鬼才だからわかりっこない、などがなりたてる者にいたってはまさに長吉の罪人だ。
 長吉歌詩の特長は次の各条に帰することができよう。
(一)生活の消極面から宇宙・人生の消息を見出すことにたくみで、精練の手筆で芸術に昇華させる。 この点フランスの詩人ボードレルによく似ている。 あるいは、賀が没落貴族であるためこんな傾向があるのだろうか。
(二)客観描写に主観を交えない手法に長じる。 この点では近代西方の自然主義派に似る。 で、その詩の特有の

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風味は、きっぱりと筆を停め、意が言外に寄せられるところにある。
(三)大胆な構想、大胆な造語。 論者はかれの下筆の勁抜と言い古されたことばを使おうとしないことをたたえる。 そうだ。 この点では、韓退之が散文領域で陳腐なことばをつとめて除いたのと気味相通ずる処がある。
(四)最後に重ねて指摘しておきたいのは、長吉の詩は結構にすぐれ、章法が井然としている点である。 その詩句に眼くらんで、ついにその詩意に条理なしといってはならない。 長吉の詩がむつかしいと批評する者の病はみなこれをおろそかにするところにある。

 わたしは、林氏のこれらの説に全く同感である。 というより、わたしが四十年にわたって李賀の詩について言って来たことが、林氏の説とつき合せて、ほとんど全く同じだった、というべきであろう。
 とはいっても、「引言」に続く賀の詩の一々についての林氏の説と、わたしの考えとが常に合致するわけではない。 その原因にはいろいろの要素があろうが、氏が見ておられない(見ることができずに)と察せられる宣城本を、幸いにしてわたしは早くから見得たこと、李賀の伝をさぐって、氏の気づかれなかったであろういくつかの賀の発想の根拠に思い至ったこと、楞伽経との関連において賀の詩を考えていること、わたしの無知不学が氏の説を理解することをさまたげていること、などにあろうか。
 しかし、部分的な違いは、だれにもどこにもあることだが、大筋において、これほど同じように李賀の詩を見る人がいることを知ったのは大きな喜びであった。 だが、その人の存在を知ったとき、すでにその人は世を去っ

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ていた。 こんな悲しいことがあろうか。 だが、これはわたしの私情にすぎぬ。 李賀のために、かれより千二百年のちにもかれの芸術をかくあたたかく正しく理解する人のあることを喜ぶべきであろう。
  (一九八三年七月三十一日二一〇〇)

会津八一の法帖(昭和五十四年刊)

 一九八〇年六月、友人が、見てみろといって持って来られた。 六五 ー 七四頁に李賀の「李憑箜篌引」の揮毫があってなかなかいい。 「解説」に『会津八一全集』第二巻所収「東洋美術史講義」の次の一節が引いてある。
 「李賀は早熟にして空想的な天才詩人であったがために、われわれは絵画的な表現よりも、もっと他の空想的な夢の様な刺戟に襲われる。 然し美術史を研究するものにとっては、彼の詩の中から史的研究をする何程かの材料を見出し得る。」
 会津氏が李賀を愛したことは、早くから聞いていたが、その詩をたびたび揮毫したことは、この本ではじめて知った。 かれの歌はわたしは二十代に愛読したが、李賀の詩と通じるところがあるのかもしれぬ。
 李賀は、日本では、いわゆる中国文学の専家の間でよりも、他の分野の人々の間に愛読者が多いようだ。 これは李賀にとって不名誉なことではない。 かれの詩は「中国文学」という一つの地方文学ではなく、世界の人々に開かれた文学なのだ。 中国の中国文学専攻の学者の書く論文より、シェクスピア学者の林氏の校注が心をうつの

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は、このことと関わりがあろう。 草森紳一氏の未完の李長吉伝が、さまざまの誤りを含みながらも圧倒的に面白いのはかれの感性と知識の根がおそろしく広い領域にのびているからであろう。 かつてあの「長吉伝」を"不出来な作品"と評したら悪口を言うのだと受けとった人がいる。 わたしは、あれが秀才の模範答案でないことを大いに讃嘆したのだ。 杜国清氏の<LI HO>はアメリカでのシリーズの一冊という条件があり、氏としては満足しないものであろうが、しかも、すぐれた李賀概論となっているのは、中国語で数々の詩集を出し、ボードレールの悪の華の中国語全訳をやりとげた詩人であることとかかわるに違いない。  (一九八三年八月一日一七〇〇)

劉辰翁

 劉氏が李賀の詩集の最初の評釈者であることは誰もが知っている。 わたしもずいぶん長い間お世話になった。 しかしその詳しい経歴は知らなかった。 調べようと思いながらそこまで手が及ばなかった。 『詞学』第一輯(一九八一年・華東師範大学出版部)に載った馬群「劉辰翁事跡考」を読んで渇を医した。
 劉氏は一二三二年に生れ一二九七年六十六歳で死んだ。 宋の滅亡を眼のあたりに見、その遺民として古典の評釈に心情を託して生涯を終えた。 李賀がその評釈の最初の作業であり、また最も心を尽したものらしい。 文集も百巻からあったらしいが、早く散失し、後人の集めたものが十巻ほどのこっているにすぎないらしい。 それも中中手に入れにくいが、詞は読むことができる。 かれより七百年のちに生れたわたしは、何も知らずに李賀を読み、

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史記を読み、漢書を読み、老子を読み、荘子を読み、列子を読み、世説を読み、王維を読み、杜詩を読み、そして李清照を読みながら、かれの死の年に近づいていた。 もとよりわたしは、かれのような烈士ではなく、学者でもなく、文人でもない。 しかし好みにおいて相似たところがあったというところに「縁」の近さを感じる。 かれにとっては迷惑であろうが。  (一九八三年八月一日二〇三〇)

『李賀研究』終刊のごあいさつ

 一九七一年一月本誌を創刊して、ことしで満十二年になる。 その間に発行したのはわずかに十六号にすぎない。 あれこれ雑多に取りあげたが、李賀の詩について何ほどのことも解けたわけではない。 「小さな硯」ながら水が尽きた訳でもない。 しかし、わたしはいま数えで六十五歳であり、死んだ父より十歳も年を食い、とりたてた病はなくとも、あとに幾つか仕事をかかえているので、ここらを機に小誌を閉じることにした。
 体裁粗末、内容粗漏の小雑誌が、開店休業のような期間を幾度かはさみながらも、今日まで持続しえたのは、一つは読者諸賢の温いご支持により、一つは朋友書店の土江澄男夫妻ならびに店員諸君の篤い友情による。
 まずこのことを記して感謝の微意を述べずにはおれぬ。
 わたしが李賀を読みはじめたのは一九三三年前後、すなわち五十年前である。 当時、中国文学専攻の人でも李賀の名を知らない人があった、というと今の方々は信じられないだろうが、事実であった。 しかしその年、漆山又四郎氏の訳注が出版され、日夏耿之介、佐藤春夫などの諸氏の紹介・翻訳によって文芸を愛する人々の間にその名

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が水のしみるように波及しつつあった。
 一九五三年、雑誌『方向』を出し、李賀について語りはじめたのは、一人の素人愛読者としてで、専門の方々がやって下さるようになればいつでも観客席におりるつもりであった。 ついぐずぐず舞台の端っこにひっかかったままで馬齢を重ねたが、素人であることは束の間も忘れたことはない。 今では専門家も多く、専門外の人でも李賀を読むための基礎はかなりととのった。 わたしが観客席におりる時機はとっくに来ていた。 李賀を読むことはおそらく死ぬまでやめられまい。 他の方々の作業も眼にふれる限り読まずにはいられまい。 それらはわたしの残年の大きな喜びとなることであろう。
 李賀を愛するがゆえに拙いわたしを長く支持された方々に重ねて感謝し、李賀について研究し、翻訳し、創作し続けられる諸賢の文安を、切に祈念いたします。
 『李賀研究』終刊号を、四十年前に「牛のごとくねばり強くあれ」とさとされた兼子悦治氏にささげます。

 終りに、李賀の独吟連句にちなみ、へたくそな独吟歌仙「幻城」の一巻を、お笑い草までに。

初オ 幻の初詣せむ羅婆那夜叉 耕す牛を小突く女童/ 楞伽の城にぬかる御降 蛤を拾へば昼の月ゆらぎ/ 緑もえ霞さまよふ焼野にて 街角のポスト 黒き自転車/

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ウ 戦争と疫病 地球にばらまかれ/ 海を隔てて苦がき恋する/ ぼろ靴のあまりいとしく触れ難し/ 夕顔のはな見てをりし間に/ 荘子去り王維去り韓愈去り/ 打字機たたいてへぼ歌仙まく/ 停電の庵室の窓 月させば/ 毒茸ばかり臭ふ古里/ 立琴はあれど聞かせむひとまさず/ 爪をとぎたる男まねかむ/ 麗らかに花さくあした退職し/ ペンペン草の丈の高さよ/

名オ ふわふわとシャボン玉飛ぶあと追へど/ 鼻はいつでも目より突き出て/ 宝塔並坐 久遠本仏 地湧菩薩/ 転識の波しきり騒だつ/ 滝凍り声なく冬の虹懸り/ 風邪ひきし夜は生姜酒煮る/ ゴキブリよりも猛きマイカー国に満ち/ 踏みにじられし燕子楼悲歌/ はなだ色の壺に少年うち沈め/ 鉛の涙 魚のまなぶた/ 月来たり庭の穂蓼を照すかな/ あきす(3字傍点)につらき露霜の宿/

ウ 施餓鬼船仕たてて何処へ放たんか/ 天は茫茫 夢は漠漠/ わびしくもまた面白き遍歴に/ サンチョ・パンザの一人だになく/ がらくたの荷はすべて捨て花の春/ 『李賀研究』のはてや春風