考察セーラームーン

 このコーナーではセーラームーンに関する考察を掲載しています。

 

セーラームーンとその時代(「白鷺館」より再録)

 


セーラームーンとその時代

 

 90年代前半をリードしたセーラームーン

 90年代はその前半と後半にそれぞれ、アニメ界をリードする作品が1つずつ存在した。後半のそれは言うまでもなく「新世紀エヴァンゲリオン」であり、前半のそれは「美少女戦士セーラームーン」である。

 セーラームーンについては、今さら説明する必要もないと思うが、武内直子氏原作で「なかよし」に連載された同名コミックのアニメ化である。ただし、武内直子氏の原作については、少女漫画に戦隊モノ的要素を取り入れたという発想には注目すべきものはあるが、画力・ストーリー構成力ともに未熟な面が目立つ。セーラームーンの成功の原因としては、あのクセの強いキャラ絵をもとにアニメ向きかつ魅力あるキャラへと仕立て上げた、キャラクターデザインの只野和子氏、お気楽極楽ギャグ路線というTVシリーズの方向性を決定した、SDの佐藤順一氏、演出面で非凡な才能を発揮し、後にはSDともなり、天才と呼ばれることとなる幾原邦彦氏らのTVスタッフの力量、及びその話の方向性に影響さえ与えたといわれる、主演の三石琴乃氏の快演に負うところが大きいといえる。

 セーラームーンが描いた「戦う女の子」像

 セーラームーンがそれまでの少女アニメと異なる点は、「戦う女の子」を描いているところである。それまでの少女アニメの主人公は、日常生活中における恋愛物語のみに終始することが多く、ドラマ性というのもあくまでもその範囲の中であった。そしてその運命の中で翻弄されるヒロイン像というのが主流であった。また少年アニメにおけるヒロインは、マドンナとしての飾り的要素が強くて存在感は薄い。

 これに対してセーラームーンでは主役のうさぎを始め、みな積極的に運命に立ち向かい、未来を開いていくという強い女の子達である(一見そうは見えなくても)。世界を狙う悪の組織に、ごく普通の女子中学生が立ち向かっていくのであるから、その精神的強さというものは並大抵ではなく、そういう意味では彼女たちは颯爽とさえしているのである。またそのような過酷な運命下でも、彼女たちは過度に大きな使命感を抱くでもなく、世界の平和を守るという正義感に燃えているわけでもなく、あくまでこの日常生活を守りたいというスタンスで戦闘に挑んでいるのは、今時の女子中学生らしいというべきか。このあたりの強いが等身大であるヒロイン像というのが、広く受け入れられたと考えられる。

 基本的に彼女たちは男性に依存することがなく、自立している。セーラームーンが危ない時、タキシード仮面こと地場衛がオタスケマンとして現れることがあるが、彼の存在は王女様の危機を救う白馬の王子様というよりも、苦しい時の心の支え的側面が強い。実際にタキシード仮面は、セーラームーン達の戦闘を物理的に助けることは少なく、最後を決めるのは彼女たち自身である。またタキシード仮面自身がセーラームーンに助けられる場合も非常に多かった。そういう意味でタキシード仮面は、スポ根ものなどの少年アニメのマドンナと同じ位置づけであるのである。つまりセーラームーンは旧来のアニメとは男女が逆転した「男女同権アニメ」という解釈も成り立つのではないか。彼女たちは、白馬の王子様を待つ王女様ではなく、時には王子様を守るために戦う騎士でもあるのである。つまりセーラームーンが描く「戦う女の子」像は「自立した女の子」像であるわけである。

 セーラームーンがアニメ界に与えた影響

 それまで低迷傾向にあったアニメ界が、セーラームーンの成功によりにわかに活況を呈し出したのは事実である。それまでは、児童人口の減少と共にアニメはゴールデン枠から駆逐され、徐々に縮小傾向にあったが、セーラームーンの成功により、民放のゴールデン枠にアニメが復活してきた。またセーラームーンの描いた新しい女の子像に刺激され、いくつもの戦う女の子達がTVアニメに登場した。例えば「レイアース」は戦う女の子を代表する作品であるし、「りりかSOS」などもそうである。また「ウェディングピーチ」のような、セーラームーンの設定をそのまま流用して2匹目のドジョウを狙ったパクリ作品も現れた(なお現在の「超者ライディーン」はセーラームーンの設定をそのまま男性に当てはめた作品。タイトルが往年の名作「勇者ライディーン」のパクリなら、内容もパクリである。ある意味で現在のアニメ界を象徴する作品)。このようにアニメ界がにわかに活気づいてきたことにより、その内容はともかくとして、第2次黄金期ともいわれるアニメの隆盛期を迎えることとなるのである。

 セーラームーンの時代の隆盛と終焉

 セーラームーンは大人気を博し、その第1シリーズの最終回では、その凄惨なストーリーのため(少女漫画であのようなラストを持ってくるのは画期的だった。私個人としてはあのラストの衝撃はミンキーモモ以来である)、子供に対する悪影響を懸念する投書が新聞にまで登場するほどであった。

 こうして大人気を誇ったセーラームーンはその後、R・S・SS・スターズとシリーズが重ねられていったが、やがてはどの作品も運命的に避けられない、長期低落傾向に入っていく。セーラームーンは幾原氏などの独特のテンションの高い演出手法でも高い評価を得て、他の作品にも大きな影響を与えたのだが、やがてこれらの手法も他に真似されることで陳腐化していく。また「戦う女の子」がTVに大量に現れたことで、設定の独自性も薄れてきた。

 Sにおいては魅力的な新キャラクターの登場により、新キャラ人気を中心として再び盛り上がるのだが、これは諸刃の剣でもあった。新キャラクターを描いていく中で、どうしても従来キャラは表現がパターン化し、内容が薄くなっていく恐れを秘めていた。(ストーリーを描いていく時、対等な主人公として描くなら、主役は2人。誰か中心となる主人公を1人にして、それに絡む準主役として描いていくのなら準主役+主役で5人。このあたりが無理なく話を進める限界ラインである。このことについてはまた機会があれば、改めて論じたいが)

 SSはキャラクターが増えすぎたことに対する反省や、新キャラクターの登場によってファン層が高年齢シフトしたことに対する懸念があったのか、キャラクターを整理し、うさぎとちびうさ中心のストーリーとなった。ただしちびうさがストーリーの中心となったことにより、ストーリー全体が幼稚化して、一般ファンのセーラームーン離れを加速した感は否めない。

 スターズにおいては、幾原氏の離脱が決定的要因となり、スタッフの力量不足が目立った。そのため設定を十分に生かしきれず、話の中心を絞れないまま終わってしまった印象が強い。

 セーラームーンの終焉とその意義

 こうしてセーラームーンは97年春、200話を迎えると共に、その5年間の歴史を終えた。しかしこの間に、瀕死であったアニメ界は再び盛り返すきっかけを得たし、セーラームーンが描き出した新しいヒロイン像は世の中に大きな影響を与えた。今や、彼女たちのような自立したヒロインは珍しいものではなくなった。アニメの中でも、現実世界でも、颯爽としたヒロイン達が活躍しているのである。このことをもってしても、セーラームーンはその使命を十分に果したといえる。

 セーラームーンの時代は終わった。しかしそれはこの作品が否定されたのではなく、もはや普通のものとしてこの世の中に受け入れられたことを示すのである。そして時代は次なる新しきもの「エヴァンゲリオン」へと移り行くのである。

 

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