評論ウテナ

 

 このページはウテナに関する、私の個人的評論です。上の方ほど新しい評論です。全部を通してみると、途中で私の見解が変化している場合があり、矛盾も生じています(特に2/2分と11/16分)。しかし、その時点での私の考えを反映するものとして、あえて削除も訂正もしておりません。私の思考の過程がみなさんにとって、何らかの参考、もしくは刺激になったらと思っております。

 

内容

ウテナとは何だったのか(2/2記載)

ウテナにおける「幼年期の終わり」(11/16記載)

ウテナに見るテレビアニメの新しい流れ(6/25「白鷺館」掲載)

 


ウテナとは何だったのか

 ウテナの放送が終了してまもなく一ヶ月が経過する。非常に難解な点があるのがこの作品の特徴であった。そこでここらで私なりの、この作品に関する解釈をまとめてみる。

 

鳳暁生−愛にゆえに堕ちたる王子

 鳳暁生、彼こそがこのストーリーの要であったとも言える。かれはかつて「ディオス」であり、現在は「世界の果て」である。「ディオス」というのは、かつての彼が純粋さを持って社会の中でひたむきに生きていた時の姿であろう。「ディオス」という存在は、いかにも若者的な純粋さの象徴とも言える。しかし彼は、恐らくはその純粋さと一途さのあまり傷ついて疲れていったのだ。その時に彼をかばったのはアンシーだったのだろう。アンシーは愛ゆえに彼をかばったのであろうが、それが彼から社会との関わりを奪い、彼を自らの世界閉じ込め、かつての純粋や一途さも奪い去ることになる。そうして彼が堕した姿こそが「世界の果て」である。「世界の果て」は巧みに表と裏の二面性を使い分けながら、巧妙に生きていくある意味で「大人」の姿である。しかしながら彼は基本的には自分の世界に閉じこもっており、その閉鎖された世界の中でのみ中心として君臨しているのである。そのような一種のモラトリアム状態であるとも言える。

 

姫宮アンシー−愛ゆえに魔女と化した少女

 アンシーは「ディオス」を愛していた。それ故に彼女は傷ついたディオスをかばったのである。しかしそれは結局、彼と社会との関わりを断つことになり、そのために「ディオス」は「世界の果て」へと堕ちてしまい、彼女は男を堕落させた魔女と呼ばれることになる。彼女はその愛ゆえにディオスを滅ぼしてしまったのである。彼女はそのことを分かっていたはずだ。しかしながら彼女は愛に縛られディオスを解放することが出来なかった。そしてその愛は暁生を縛っており、彼女自身もその愛によって縛られている。

 

世界を革命する力−暁生が求めたもの

 暁生が求めた「世界を革命する力」と言うのは、彼がなくしてしまった純粋さではないかと思われる。一途にひたむきに生きていけばいずれ世界はそれに答えてくれると考えられる純粋さ、それこそが世界を革命する力ではないだろうか。世界から逃避し、自分の世界にこもってしまった彼には、もはやそれを自分で取り戻す力はなくなっていた。だからこそ彼は他人の想いによってその力を取り戻そうと試みたのではないだろうか。そしてその想いを持った者を見つけ出すための仕掛けこそが決闘だったのだ。

 これは暁生の中の矛盾、もしくは虫のいい考えと言っても良いものと思える。彼は自分の世界に逃避したままで、かつての純粋さを得ようとしていたのである。

 

天上ウテナ−純粋にして無垢、しかし自立を目指す少女

 天上ウテナ、彼女は非常に無垢な心を持った少女である。そしてその無垢な心故に、運命に縛られ身動きが取れなくなっているアンシーを解放したいと願ったのである。

 ウテナが決闘に巻き込まれていくことになった原因は、かつて自らを助けた王子に憧れたことだった。しかし彼女はお姫様として王子に会うことではなく、自らが王子となることを目指した。彼女は王子に対して自分の有るべき姿を見たのだろう。ここに彼女の自立志向が現れているのだ。

 それだけの自立志向を持っている彼女から見れば、アンシーは明らかに可哀相な存在だった。彼女はアンシーにも自分のように自由に生きるチャンスを与えたかったのであろう。

 彼女は過去の思い出に触発されて決闘に参加したが、決して過去の思い出を守りたいと考えているだけの少女ではない。明らかにその視線は未来を向いていた。だからこそ彼女は決闘の勝者となった。

 

作品にうかがえる女性の自立・解放

 この作品はある面では、姫宮アンシーと言う狭い世界に閉じ込められた少女が自立し、開放されていく過程を描いた作品である。前半部分で見られる、アンシーのまるで自我など存在しないかのような振る舞いは、まさしく「家」という鎖につながれて、自己を押さえることを強制されている女性の姿そのものである。

 それに対して天上ウテナは、男性と対等に世の中を渡って行こうという思考を持った自立した少女である。こういった女性の存在は、旧来の男性上位社会的考えからいけば非常な脅威である。それ故に暁生はウテナに惹かれつつも、ことさらにウテナに対して「女」を意識させようと試みたのである。これはまさに自立しようとする女性に対して男性社会が強いるいろいろな制約の象徴でもある。

 しかし結果的には彼女は勝利した。彼女はアンシーを開放して自立されることに成功したのである。そして後には旧来の世界に閉じこもったままの暁生が一人だけ残された。最終回で見られた暁生の哀れな姿は、男性上位社会の崩壊に戸惑う哀れな男性の姿であった。

 この意味において、ウテナのタイトルの「少女革命」とは、少女が革命を起こすという意味と共に、少女に起こる革命というニュアンスが読み取れるのである。そして最終的に王子が力を失ったことは、男性上位社会の崩壊の暗示のようでもある。

 

世界から逃避した内面世界での自己完結

 ウテナに関してのテーマとしては、上に挙げた女性の自立の他にもう一つ、鳳暁生に象徴される、世界からの逃避ということが見られる。かつては真摯に世界と向き合っていたと思われる暁生が、何故に世界から逃避していくことになったのかについては語られていないが、明らかに彼は世界に対して敗北したのである。その結果彼は快適な自らの世界に閉じこもり、プラネタリウムという幻覚の世界に逃げ込むことになる。この観点で見た場合、姫宮アンシーの存在は、すべての障害から自分をかばってくれる母性の象徴となるかもしれない。暁生のこの姿は、Evaのころに盛んに議論された、自らの殻にこもって自己完結しがちの「オタク」の姿のようにも見えるが、Evaが内面世界から始まって結果として再び内面世界に戻っていったのに対して、ウテナは最終回でアンシーが学園から去ることから分かるように、内面世界から一歩を踏み出す結論になっている。このあたりはウテナがEvaに対するアンチテーゼとなっており、庵野氏と幾原氏の志向の違いであるのかもしれない。

 

一歩を踏み出した者たち

 自身の内面世界から一歩を踏み出すということに関しては、生徒会メンバーも同様である。例えば幹は妹への想いの強さに引きずれていたが、明らかにその感情は自分本意の思い込みの面が強く、それ故に、実は梢の側も幹に対してかなり強い想いを抱いていたにも関らず、一方通行のすれ違いになっていたのである。そしてその態度がアンシーに対してもそのまま現れていた(彼がアンシーについて一方的に自分流で解釈していたのは印象深かった)。その彼も自分の世界から一歩を踏み出すことにより、妹との関係が変わってきていることは終盤に示されている。

 樹璃に関しては、彼女は枝織に対する自身の感情に戸惑いおびえており、それ故に心に鎧をかぶせて自らを欺いていたのだが、その想いに対して正面から向き合うことが可能となってきていることが物語後半部で暗示されている。

 西園寺と冬芽に関しては、明らかに両者は友人として存在しながら、互いに距離を置いて相手を利用するような立場を取ろうとしていた。両者ともに心からの友人となりたいという潜在意識が見えたにも関らず、裏切られることによって傷つくのを恐れていた節が強い。西園寺はことさらにアンシーに対して所有欲のようなものを見せていたのは、自分を無条件に受け入れてくれる存在に対する願望であったと見える。また冬芽が妙に策略家ぶろうとしていたのは、自分がクールなワルであると思い込むことで、自らの寂しさを誤魔化そうとしていたように感じられる。しかしそのような彼らも、最終的には互いにかなり親密なものを感じたようであることが、冬芽の決闘前後のエピソードによって語られる。彼らも一歩を踏み出したのである。

 彼らはいずれもこのように、現実から目を背けて己を偽っていたようなところが見られたのだが、みなウテナとの出会いによってそれを乗り越えていくのである。この意味では自我の成長エピソード的ニュアンスも含まれている。最終回だけでははっきりとは語られていないが、いずれは彼らも鳳学園を後にしていくであろうことは暗示されている。

 そして暁生だけが取り残された。鳳学園という世界は暁生が君臨する暁生のための世界であるが、彼を縛る牢獄でもあるのである。果たして彼がこの牢獄から抜け出せるのかは誰にも分からない。暁生自身、いまだに自分が牢獄にとらわれていることに気付いていないようであるのだから。しかし彼がこの牢獄から抜け出せた時、彼は再びディオスの力を得ることができるだろう。

 

多様な解釈の可能性こそこの作品の芸術性

 以上のような多面的解釈が可能なのもこの作品の特徴であろう。そのあたりがウテナが「芸術志向」と称される所以のところでもある。芸術作品というものは必ずしも一つの解釈に縛られないものである。ここで述べた解釈もあくまで私自身の解釈であり、もしかしたらうがちすぎた見方かもしれないし、逆に非常に浅すぎる解釈かもしれない。だからこの作品については、実際に見た個々人が自分なりに解釈すればいいのかもしれない。少なくともそれだけの幅は持っている作品である。なお随所に映像的遊びが見られたので、それについて細かく解釈していったらいくらでも説明がつくような気もするが、そのようなことも無粋な気がするので、あえてそれは省略する。またチュチュは一体なんだったのだろうかとか、影絵少女は?などという疑問もあるようだが、私はすべてそれは製作者の映像的遊びのように感じている。

 最後に、このような作品を我々に与えてくれたスタッフに対して感謝したい。

 

 

 

ウテナにおける「幼年期の終わり」

 

 1112のサードインパクト

 11/12に放送されたウテナに関して、ウテナサイトの多くがまさに「サードインパクト」と呼んでよいような大混乱に陥った。私自身がその衝撃に打ちのめされた一人であるし、私のサイトでもかなりの反響が掲示板等で見られたのも事実である。今後のストーリー展開が全く分からない以上、今の段階でこのことに関して書くのは非常にリスキーであるのだが、やはり何か書かざるおえないと考え、筆を取る事にした。私が書く事は一週間後には的外れの論評である事が証明されてしまうかもしれないが、その際には許していただきたい。とにかくこれが現状での私の考えである。

 

 作品の本質に根差す不快感 

 11/12のパニックの原因は、とうとうウテナが暁生に屈してしまった事に対する不快感である。颯爽としてかなり自立しているように思われた主人公のウテナが、結局は単なる女タラシにしか見えない男に屈してしまった(しかもほとんど自発的にも思える)ことは、多くのファンには彼女のキャラクターに反する行為として、かなりの困惑をもたらしたと考えられる。

 しかし今回の出来事ははっきり言えば、ヒロインが視聴者に嫌われているキャラクターと寝てしまったというだけの事である。このようなことは最近のコミックでは珍しくないし、ドラマなどでは日常茶飯の事である。それにも関わらずなぜこれのほどのパニックが発生してしまったのか。これはこの出来事が、この作品の本質に大きく関わってくる事であるからである。

 ウテナの純粋さとその幼児性

 視聴者の多くがウテナに対して、魅力と感じるのはその純粋さである。子供の時に出会った王子様にひたすら憧れて、それが故に自らが王子様になるべく決心してしまった。これは非常に純粋な想いであり、その純粋さの魅力が視聴者を引きつける。この想いはまた、純粋であるが故に非現実的な色彩を帯びており、それがこの作品の独特の世界設定とあいまって、いわゆるおとぎ話的世界を展開しているのである。

 しかしながらこのウテナの純粋さは、ある意味では非常に幼児的なのである。無垢なる幼児が持つ純真さといってよい。そもそも憧れる対象そのものになりたいという「同一化願望」というのは非常に幼児的心理であり、子供がよくヒーローごっこをするのと同じである。黒薔薇編で御影草時がウテナに対して、「君も過去の思い出に囚われている」と言った時、ウテナは激昂し、頑なにそれを否定した結果決闘を自ら申し込んだが、これなども自分の信じている事を否定された子供が起こすヒステリーに近いものである。

 少年時代の冬芽と西園寺が、棺桶の中に入っている少女と出会うエピソードがあった。この少女の正体については作品内で明言はされていないが、どうやら少女時代のウテナであったようである。この時彼女は「生きているって気持ち悪い」と言った。これはこの時点で彼女は自らの生の意義を見失っていたということである。その彼女が生きていくためにすがった一本の糸は、憧れの王子様に再び会いたいという一つの想いであった。そしてその想いにのみ忠実に従ってきた彼女は、ある意味で成長を拒否してきた部分があるとも言える。彼女は自分の想いの強さ故に、社会と折り合う事を拒否してきたのではないかと思われるのである。

 このような幼児的純粋さは、多くの人間にとって憧れるものではあるが、現実には継続不可能なはかない夢である。それ故にこのウテナという作品はおとぎ話なのである。

 押し寄せる現実、崩れゆくおとぎ話

 しかしここに来て、そのおとぎ話の中に突然現実が乱入してきたのである。鳳暁生というキャラは典型的な大人であり、大人独特の二面性や卑怯さというものを持ち合わせている。そして現実はこの鳳暁生という形を取って現れたと言える。そして大人である暁生の前では、ウテナはあまりに危うく、無防備であったのである。大人の冷徹な計算が、子供の純粋な想いを打ち砕いていく過程というのがそこに現れていたのである。

 多くの人が聖なるものと感じるのは、母の愛情と幼児の純粋無垢な心である。ウテナが暁生に惹かれていく過程と言うのは、この聖なるものが踏みにじられていく過程とも見え、多くの者にとっては不快感を催すものであった。つまりウテナが幼児である(あくまで精神的な意味であり、ウテナの年齢設定が14才であると言う事には直接の関係はない。大体今時、キャラをその年齢設定通りに描いているアニメなど皆無である。)が故に、いきなり幼児ポルノを見せられる等しいような嫌悪感を無意識で感じたと言えよう。

 しかもこれは、おとぎ話的世界に無意識に逃避しつつあった者たちに、いきなり現実の冷水を浴びせ掛けたような残酷さをも持ち合わせている。そのことに対する拒否の感情が大きな衝撃となるのである。「裏切られた」「認めたくない」というのはまさにこの心理であろう。

 今後の彼女が歩むいばらの道

 これからのストーリーの方向性であるが、ウテナは明らかに大人に向かって一歩を進み出したが、これは多分彼女を深く傷つけていく事になるだろうと予測される。その結果が果して彼女にとって好ましいものになるかは不明であるが、結局は彼女にとって通過する必要があるものである。そうして考えた場合、決闘というのは社会に出て行くための通過儀礼であり、その中でいかに自分の想いを守り通す事ができるかという試練のようにも思えてくる。

 結局は「世界を革命する力」というのは、「自分自身を革命する力」だったのではないかとの気がする。つまりこの物語は少女が大人へとなっていく成長ストーリーではないのだろうか。

 現実の世界では、大抵の者がその成長の過程において、その純粋さ気高さというものを失っていく。それが「大人になる」という事の一面であるのだが、そのことに一抹の寂しさを感じるのも事実である。それだけにウテナに対して、その純粋さ気高さを失わないで欲しいという願いを重ねてしまったのであろう。しかし幾原監督はそれをあっさりと切り捨てた。間違いなく周到な計算の上であろう。果してこれから彼女の前途にどんな試練が待ちうけるのか、とりあえず我々はそれを息をひそめて見つめていくしかない。

 幼年期の終わり、それは往々にして厳しく残酷なものである。しかし生きている限り必ず訪れる人生の峠の一つなのだ。

 

ウテナに見るテレビアニメの新しい流れ

 

 「天才」による意欲作

 エヴァンゲリオン以来あまりパッとしないテレビアニメだったが、この春注目すべき作品が現れた。その作品こそが「少女革命ウテナ」である。

 この作品は当初から、あの「セーラームーン」の最盛期を築き上げた「天才」幾原邦彦氏の作品ということで注目されていたが、その全貌が現れると同時に、今後のアニメの方向に大きな影響を与えうる作品として、一気にこの春のテレビアニメ界の中心的作品の位置を占めることとなった。なんといってもこの作品が強い印象を与えるのは、その独特の演出手法によるところが大きい。今までの一般的なアニメの画面構成とは一線を画しており、まさに「天才」による意欲作と呼ぶにふさわしいであろう。

 ウテナの斬新な画面構成

 ウテナの演出の特徴は、よく演劇的とも評せられる。実際、決闘シーンでのあの異様なコーラスは、いかにも現代演劇の舞台を思わせるものである。また映像としての特徴は、その極端に簡略化した画面構成であろう。背景等の描き込みは必要最小限に止め、人物などもその線が極端に簡略化されており、必要以上の情報量を加えていない。こういった技法は、話の中心部に観客の注意を集中させたいときに用いる手法である。「ウテナ」の画面構成は極めて記号的であり、非現実的である。

 このあたりが、細部に至るまで徹底した緻密な描き込みを特徴としている「エヴァンゲリオン」とは非常に対照的である。この構成の違いは、「ウテナ」は少女漫画の流れを汲んでおり、「エヴァ」はガンダム以来のリアルSFものの流れを汲んでいるからだとして片づけることも可能かもしれないが、実はそれ以上の深い意味を持っている。

 全編を貫く「違和感」

 ウテナから強く受ける印象は、「違和感」である。まずその独特の画面構成が、従来のアニメに慣れた視聴者にとっては、非常に違和感を感じるものである。またその独特の世界観、世界を革命する力を得るための決闘などというおよそ現実離れしたことが、当然のように行われている学園に対する違和感。しかも登場キャラが、王子様にあこがれたばかりに、自分が王子様になるべく常に男装をしているウテナ、バラの花嫁という特殊な立場を全く抵抗なく受け入れているように見えるアンシー、裏表が非常に激しく一体何をたくらんでいるのかわからない冬芽など非常にクセが強く、リアリティーに乏しい。またストーリー中で水と油のようにさえ思えるギャグ編とシリアス編の混在、正体不明でその存在自体が違和感の象徴のような、アンシーのペットのチュチュ等々作品全体が違和感の固まりなのである。

 またストーリー中に、多くのキャラの想いが描かれているが、この想いが尽くといって良いほど一方通行なのである。西園寺のアンシーに対する想い、幹のアンシーや妹に対する想い、樹璃の友人に対する想いこれらはすべて相手にほとんど通じておらず、本人のその思いの丈が深いだけに余計それが悲劇的、時には喜劇的にさえ映るのである。これらのすれ違う想いが、作品全体にクールな疎外感のようなものを醸し出している。この非常に疎外された状況は、心の底では愛や友情といった暖かいものを信じたいと願っている我々にとっては、決定的な「違和感」となる。

 普通の作品なら、これだけの違和感のオンパレードになれば、作品として破綻してしまう。しかしウテナにおいてはこの「違和感」を話の核にして、一種のおとぎ話的世界を構築しているところに、幾原氏の希有な才能を感じる。

 幾原氏の示す新しいスタンダード

 このストーリーの恐らく転機になると思われる第12話では、「普通」ということについて考えている。ウテナでいうところの「普通」とは、世間でいう「普通」とは異なった概念である。ウテナは自分にとっての「普通」を取り戻すと言った。つまり例え世間から見て「普通」とは見えなくても、自分にとって正直なこと、自分の心に素直なことこれが「普通」なのであると言っているのである。 これは恐らく幾原氏自身の言葉なのではないかと考える。普通に見えないこの作品も、自分にとっては「普通」なのだと表明しているようにとれる。そしてこの言葉は、一度ヒットした作品の焼き直しばかりを量産している現在のアニメ界に対する宣戦布告とも皮肉とも受け取れる。

 果たしてこの作品がどう評価されるか。その結果は今年の秋に出るだろう。その時あるのは賞賛の嵐か、それともブーイングの嵐か。どちらにしてもこの作品は明らかに、独自の道を築こうとしている。その意味で現在、ポストエヴァンゲリオンの資格を持った作品はこの作品のみなのである。「ウテナ」がアニメ界に新しい流れを作れるか、それは今後にかかっている。

 

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