劇場版少女革命ウテナ解説

 

 

傑出した絵画的画面構成

 今回のこの作品の最大の特徴を一言で語るなら、まるで近代絵画のように構成されたその画面であろう。本作は画面のおのおのがすべて複雑なメッセージを秘めており、さりげなく作られているように見える背景の一つをとっても、その背景が心理的に与える印象などを計算した上で極めて人工的に設計されているのは明らかである。例えば序盤の鳳学園の描写について印象に残るのは、色数を極端に減らした上で直線と曲線を巧みに組み合わせて、まるで現代絵画のような奇妙な空間を作り上げていることである。またこのような場面構成は現代演劇の舞台装置のようにも見え、以前から「演劇的」と言われているこの作品の志向を鮮明に現している。このような舞台装置は、非現実的な世界を演出することで心理劇を展開しようとする場合に不可欠なもので、この作品がその躍動的な展開に反して実は心理劇であることの証明でもある。

 さらに絵画を越えたアニメ的表現として、多重的に重ねた背景のそれぞれに時間差をつけて移動させるという技法を用いていたが(このあたりはCGを使用したのではないかと思われる)、これは画面に奥行きを与えると同時に、いかにも人工的空間であることを強調していた。またこのような俯瞰的風景の中に主人公などのキャラを配することで、視聴者にキャラクターから分離した神の視点を与え、視聴者が過度にキャラクターに感情移入しすぎることを防いでいたように感じられる。そのためにこの作品は妙にクールな印象を受けるが、これもやはり心理劇を展開するための一種の技法である。視聴者に第三者としての視点を強調することで、全体の見通しをよくするのである。

 

思春期におけるインナーワールド

 さてこの作品のメインテーマとなる心理劇の方であるが、このテーマは「思春期などにおける自身の内面的世界(理想・夢・希望など)と外面的世界(現実世界)との軋轢や葛藤、そしてそれに対する克服」であると考えられる。

 このテーマ自体は以前のテレビシリーズとほぼ同じものであると言っていいだろう。ただ今回の映画では微妙なニュアンスに違いがある。例えばテレビシリーズでは、鳳学園という一つの非現実的閉鎖世界は鳳暁生の世界であった。そして彼がしくんだ決闘劇は、アンシーの愛情に縛られてしまうことでディオスから「世界の果て」に堕落してしまった彼が、他人の強い思いや気高い心によって自らを救済しようとしていた行為と言える。しかし今回の映画では既に暁生の存在はこの世界にはなかった。と言うよりも暁生の存在自体がアンシーによる幻想である性格が強かった。つまりこの映画における鳳学園は純粋にアンシーの世界なのである。そしてこのアンシーの世界に、やはり何らかの原因によって外面世界と関わりを断って内面世界に志向した者たちが感応して集合したのが今回のストーリーであると言っていいだろう。

 ウテナもこの世界に感応した一人である。彼女は冬芽という恋人を亡くしたにも関わらずその事実を認められず内なる世界にこもってしまった女性と言うこともできるだろう。もっともこの場合の冬芽の存在をそのズバリの恋人と見ることもできるが、冬芽がウテナの王子様的存在であったことを考えると、冬芽自体がウテナの理想や夢などといった抽象的なものの象徴と見ることもできるだろう。

 この世界に感応した者はウテナだけではない。樹璃や幹、西園寺などもいずれも何らかのしがらみを持っている者たちばかりで、やはり外の世界に向かっていけないという原因を持っている。そのような彼らが集まったインナーワールドが鳳学園であると解釈しても良いだろう。

 

インナーワールドからの離脱と社会的軋轢

 そしてこの世界に迷い込んだウテナはアンシーと知り合い、そして心通いあうものを感じる。やがてウテナは冬芽が既にこの世にはいないことに気づき、それをはっきりと認識する。その時にこの内面世界からの離脱を決意するのである。彼女はその時にアンシーを誘い、アンシーも外の世界に飛び出す決意をする。 この過程などはまさに自己の内面世界に逃避していた者が、友の存在によって現実世界に飛び出していく行為のようにも思える。

 しかしその過程は必ずしも平坦ではない。それを阻もうとする存在も多く、これでもかのように攻撃をかけてくる。これなどはまさに人が現実社会に飛び出していくときの軋轢そのものである。ましてや自身の夢や希望をそのまま持ったままそこに飛び出そうとする者に対する社会の妨害というものは容赦なく過酷なものである。だが彼女たちは友の助けもありなんとか外の世界に飛び出そうとする。

 しかしそこで最後に出くわしたのは巨大な車輪で踏みつぶそうとする城の存在である。この城は遠くから見れば美しい出口のように見えたものだが、いざ接近すると極めて過酷なマシンである。これこそがまさに夢と現実の最大の軋轢そのものといっても良いものだろう。

 遠くから眺めていたときにはいかにもすばらしく夢に満ちているように思えた世界が、いざその中に飛び込んでしまうと、こちらのすべてを押しつぶさんばかりの破壊的機構であることはよくあることである。この場面などは私個人としては、夢を持ってアニメ界に入った幾原氏が直面した厳しい現実を示しているのではないかという感も受けた。

 

ウテナとEvaの違いに見る幾原氏の作家性

 さてこのような思春期における内面世界と外面世界の関わりを描いた作品として思いつくのが、庵野秀明氏によるエヴァンゲリオンである。あの作品のテーマも思春期の少年が子宮内(エヴァのエントリープラグは子宮の象徴であるということは以前から指摘されている)から外部の人間と関わりつつ外の世界に向かっていくことであった。だがそのテーマに関する庵野氏と幾原氏のスタンスは全く異なっている。エヴァンゲリオンにおける碇シンジは結局は人との関わり合いを恐れすぎたがために、最後は他者を拒絶してしまう悲劇的結末に陥っていって、最終的には完全に自己肯定を行うことができなかった(劇場版。テレビ版では逃避的自己肯定という結論がついているが)。これに対してウテナでは、最終的にウテナとアンシーはその強い信頼関係によって力強く外の世界に踏み込んでいった。確かにその世界はラストシーンに見られたような荒涼として厳しい世界ではあるが、この二人なら逞しく乗り切っていけるのではないかと思わせるものであった。

 この両者の最大の違いは他者に対するスタンスである。庵野氏のエヴァンゲリオンは人との相互理解に限界を感じ、最終的には自身の中に回帰していくのに対して、幾原氏のウテナは友情を肯定し、そのことによって二人三脚で現実に立ち向かっていく肯定的ニュアンスが非常に強くなっている。だからこそ我々視聴者は、エヴァンゲリオンからは救いがたい重苦しさを感じたのに対して、ウテナからはさわやかな余韻のようなものを感じるのである。どうもこのあたりは自己矛盾の落とし穴の中に落ち込んでいって作品を崩壊させる傾向がある庵野氏と、ビーパパスという創作集団での活動を基本にして、作品自体に常にエンターティーメント要素を忘れることのない幾原氏の作家性の違いが反映されていて興味深い。

 

多用な解釈が可能な象徴的作品

 以上に私なりの解釈を掲載したが、この作品自体は非常に記号的・象徴的な作りをしているので、可能な解釈は一つとは限らない。また明らかに、幾原氏自身が一つの解釈を押しつけることを考えてはいないことが、作品の作りからもうかがえる。

 例えば私はこの作品のテーマを「思春期などにおける自身の内面的世界と外面的世界との軋轢や葛藤、そしてそれに対する克服」と解釈したが、もっとストレートな解釈として「レズビアンの肯定」という解釈などもなされている場合があるようだ。

 確かにウテナとアンシーの関係は同性愛そのものであるし、男に媚びを売りつつ樹璃の自分に対しての想いに嫌悪を感じている枝織は一般的女性の象徴ともとらえられる。そして王子様の存在しない世界というのは、もはや理想的な男としての男性が存在しない現実を象徴しているとの解釈である。そして二人が社会的軋轢をはねのけて新しい道を開いていく。

 確かに可能な解釈ではあるが、私個人としてはこれはあまりに見たままで面白味と深みに欠けるような気もする ただこの作品の解釈に「正解」はないだろう。この作品を見てあなた個人が感じた印象、それこそが正しい解釈なのかもしれない。

 この作品を読み解いていく手がかりとなるのはウテナの感情であろう。よく無意味に象徴画面だけを連ねたような作品(要するに画面効果だけに落ちていった独善的作品)などの場合は主人公の感情にもリアリティがなくなってしまい、もはや視聴者と制作者の接点がまるでなくなってしまっている場合が多いが、この作品の場合はそのような小手先の作品とは一線を画しており、ウテナを初めとする各キャラクターの感情・行動には一貫性と目的がある。だからこそ、視聴者が作品から様々なメッセージを受け取ることになるのである。視聴者を完全に置き去りにしてしまうことはなく、それでいて多用な解釈が可能であること。これがこの作品が真に「芸術的」とも言われる所以であろう。

 

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