ちょっと雑談

 

 このコーナーはテーマを限定しないちょっとした雑談のコーナーです。適宜思い付いた文章をアップしていく予定です。

 

目次

「フェルメールとその時代展」レポート

学会はオタクの世界

 

戻る

「フェルメールとその時代展」レポート

 

超大混雑、絵画鑑賞には最悪の状態

 日曜日の朝(と言うよりも既に昼)に起き出した私は、表題の展覧会を見に行こうと思い立ち、若干遅めの昼食をとった後、梅田でコンサート前売り券(来週に神戸で行われるクラシック関係のものである。これのレポートは別の機会に行いたい。)と展覧会の前売りチケット(前売りと言いつつ、なぜか開催中の現在も発売している)を入手し、大阪市立美術館に向かうために環状線に飛び乗る。天王寺駅に到着した時には3時過ぎ、やや遅めの到着だが5時の閉館までには十分に見て回れる時間があると判断する。

 天王寺公園内をかなり歩いて美術館に到着(思った以上に距離があったのに閉口した)、入場する。しかしさあ絵を見て回ろうと思ったとたんにいきなり呼び止められる。私は常にリュックを携行しているのだが。リュックは持ち込まずにロッカー室に預けて欲しいと言うのだ。やむなくリュックをロッカーに預けて再入場、しかしまたここで呼び止められる。今度は帽子のつばは後ろに回しておいて欲しいとのこと。面倒なので帽子もロッカーに預けて、今度こそ入場。それにしてもここまでいろいろと注文がつくのは尋常じゃない。嫌な予感がしながら展示場に向かうが、そこで私はその予感が的中したことを思い知らされる。

 展示場の前でいきなり待たされる。なんとあまりに入場者が多いので、内部で会場への入場制限を行っているのだ(もう既にゲートはくぐって入場券は渡した後だというのに)、仕方がないのでここでしばらく待つ。とりあえず数分後には会場には入れたが、当然ながら大混雑である。これでは絵を見に行ったのか、人の頭を見に行ったのか分からない。だが仕方がないので、流れに乗りながらなんとか鑑賞をして回る。

 もう既にこの段階で、絵などゆっくり見れる状況でなく、展覧会としてのコンディションは最悪だと言えるが、さらに日本の展覧会独特のやたらな規制の多さがそれに拍車をかける。まず順路は一方通行で逆走はなし、おかげで先に見た絵が気になっても戻ることはできない。さらに人混みに流されている状態なので自分のペースで絵を見ることができないし、絵の前には柵が設けられて近寄ることはできない上に(もっとも、絵を見るのに近寄る必要はないが)、ガラスがはめてあるせいで光の反射で見にくい絵もある(これは日本の展覧会の最大の悪習とも言われている)という状況である。デパート展などではよくある光景であるが、公立美術館でこの状況では全く閉口する。

 

フェルメールと「その時代」展の意味

 また毎日放送主催ということで派手に宣伝をうったせいか、明らかに普段はあまり絵を見ないと思われる入場者が多いのにも気づかされた。私のように何回か展覧会に出かけている人間なら、「フェルメール展」ではなく「フェルメールとその時代展」と書いてある場合は、フェルメールの絵画はせいぜい数点で、後はそれ以外の画家の絵であるということは推測がつくが(実際に35点の展示作品中、フェルメールのものは小型のものばかり5点であった)、フェルメールの絵画が少ないことに「詐欺だ」と呟いていた入場者もいたし、フェルメールの展示場だけ見て、後は適当に流している入場者もいたようである。おかけでフェルメールの展示場だけが異常に混雑してこれは閉口した。逆走、再入場を禁止してしまったせいで、元を取ろうとばかりにフェルメールの展示場に滞留する入場者が多かったのが原因だが、絵をしっかり見て帰ろういう風でもなく、ただ単にいるというだけの者が多かったのがなんだか情けなかったが。

 また子供連れの親子もいたが、そもそもほとんどの子供にとって絵画鑑賞など退屈以外の何者でもないし、私でも疲れてしまうぐらいの人混みである。かなりぐずっている子供もいた。親御さんは子供の情操教育のつもりなのかもしれないが、子供が特に絵画に興味を持っているわけでなければ、このような場に無理矢理つれていくのは、子供に展覧会というものに対する悪い印象だけが残ってしまい、今後無条件に敬遠されてしまうことになるのがおちで、かえって逆効果になることがある。子供の情操教育を考えるのなら、無理強いでなく、子供が何らかのきっかけで興味を見せた時を見計らって連れていく方が効果的である。あせらなくても、子供は年齢とともにいろいろなものに興味を示すものである(私がそうであった)。

 途中で子供の教育論に話がずれてしまった。もっとも子供はおろか結婚もまだの私が持論をぶったことであまり説得力はないので、話を元に戻す。

 とにかく絵画を鑑賞するには最低に近いコンディションであったということだ。すぺては異常な人数が原因となっているので、ゆっくりと絵を見たいと思う者は平日に出かけることをお勧めする。もっとも、休暇をとってまで見に行く価値があるかと言えば人にもよるだろう。私について言えば、そこまでの価値はないと判断した。

 

寓意を秘めたオランダ絵画

 今回の展覧会の主題は17世紀オランダ絵画である。この時代のオランダ絵画は、中世期のあの嘘っぽい宗教絵画から脱して、素材を風景や市民生活などに求め始めた時期であるようである。ただ画材はともかくとして、画法的には中世からの流れが見えており、例えば光の表現なども後の印象派のようなきらびやかな光ではなく、もっと中庸な落ち着いたものが多い。またちょうど遠近法などが導入し始められた頃であるとのことで、これでもかこれでもかとばかりに遠近法を用いた風景画が多かった。ただどんな時代でも新しい手法が開発されると殊更にその手法を使いすぎるものがいるが、今回展示されていた絵の中にも、遠近法の扱い方がおかしいせいで背景が傾いて見える絵とか、遠近法を強調しすぎているせいで不自然な室内風景の絵などもあった。しかし全般的には奥行きの扱いは実に自然であり、むしろ最近の絵画の方が平面的なものが多いのに気づく。

 なおこの当時のオランダ絵画は情景に寓意を加えることが多いらしく、深読みをしていくといくらでも深読みが出来るそうだ。例えば静物画で花の絵の中に懐中時計を一緒に並べているものがあったが、これなどは所詮は花の美しさは一時的なものであるという意味を秘めているとのことである。ただ解説などに書いてある「意味」については、やや深読みのしすぎではないのか思われるものもあった。音楽などでもモーツァルトの音楽はまるで楽譜の一音一音まで計算し尽くして作っているかのような解説がよくあるが、実際にそこまでモーツァルトが考えて作っていれば、彼はその短い生涯の間に一曲も作曲できなかったのではないかという皮肉を読んだことがある。それと同じことは私も今回の展覧会を見ていて感じた。中でも「これは・・」と思ったのは、ある家族の肖像画(夫婦と子供達の絵)について、「この絵画に描かれている五人の子供達の内、一人を除いて他はこの後他界する。背景に書かれている海の絵や、机の上に置かれている時計は彼らの波乱を暗示しているようである」と書いてあったが、いくらなんでもこれは言い過ぎ。これではまるで画家が彼らの将来を予言していたようだし(そうだとしたら水曜スペシャルの世界だ)、もし予言したとしてもそんな不吉な予言を絵に込めれば依頼者は激怒しただろう。これについては「いくらなんでもそれは無茶」と思わず一人ツッコミを入れてしまった。

 ある絵は二階のパーティーから降りてきた女主人が、階下でメイドが客の一人と逢い引きしているのを見つけ、のぞき見ている構図になっていたが、この絵などは画家の道徳観や当時の社会的状況なども見えるそうである。ただ私個人としては、この絵の構図というのが明らかに「家政婦は見ていた」(実際は見ているのは女主人で、家政婦は見られている方だが)であり、中心の人物の顔が市原悦子に見えてしまって、一人で爆笑してしまった(「あらあらあら」というセリフまで聞こえてくる気がした)。

 さて今回の展覧会の表題ともなっているフェルメールの絵画であるが、柔らかめのタッチに光の美しい絵画であると印象を受けた。特に今回の展覧会のシンボルともなっていた「青いターバン少女」については、そのターバンの柔らかい質感が実に見事であったのと(残念ながらこの質感はポスターなどでは再現できていない。やはり原画を見る必要がある。)、少女に非常に実在感があったことである。こういった点で明らかに日本人に好まれるタイプの絵画であると感じた。ただ今回に展示された画家達の中で、フェルメールが突出した才能を持っているかと言えばそれは疑問である。私個人としては、フェルメールの絵画よりも好ましいと思われる画家も存在した。

 

学会はオタクの世界

 

学会なるものについて

 この文章のタイトルを見て「?」と思われた方もいるかも知れないが、これについては後で説明する。その前に一体「学会」とは何かを説明しておく(言うまでもないが、ここで言う「学会」とは創価学会のことではない)。

 学会と言われてもピンとこない人も多いかもしれない。学会を一言で説明すれば、ある分野の研究者の組織のことである。そして学問その他およそありとあらゆる分野に学会は存在する(建築関係なら建築学会、歴史関係なら歴史学会という調子で)。そしてこの学会は年会と称して、定期的に大会を開催する。これは日本中(場合によっては世界中)からその分野の研究者が集まって、研究の成果を発表する場となる。なおこの大会のことを「学会」と呼ぶこともある。以降の文章では、「学会」と言えばこの年会を指すことにする。

 ここで私のプライバシーに関することを少し明かしておくと、私は某化学メーカーの研究員である。その仕事柄、専門分野の最新情報は常に把握しておく必要があるので、場合によってはこの手の催しに参加することになるのである。そして実はこの度名古屋で行われた「日本高分子学会」なるものに参加してきたのである。

 

学会とあるイベントの意外な共通性

 学会と言えば、どうもお偉い先生が顔を合わせながら、難しい議論を延々としているというイメージが一般には強いと思う。このイメージもある意味では正しい点もあるのだが、実は学会とはもっと一般的(?)なあるイベントに非常に近いものなのである。

 「実は学会とはコミケなのである。」

 とここまで書くとまた「?」という反応が返ってきそうなので、説明をしておく。

 学会とはその分野の専門家の情報交換の場であるのだが、概してその手の専門家というのは互いに顔なじみであるので(この分野も意外と世界が狭いのだ)、久しぶりに顔を合わせる仲間同士が交流を暖める会という側面が強いのだ。実際、あちこちで先生同士が挨拶をしている姿も見られるし、「以前から論文は拝見しておりましたが、初めてお目にかかります」式の挨拶も多い。実際、学会終了後には懇親会や交流会などと銘打った「オフ会」もよく開催される。

 一般的に一つの趣味に徹底的にこだわって打ち込む人間のことを「オタク」と言うが、ある分野に関する研究に一生を捧げる大学の先生などは、究極のオタクと言える。専門分野こそ違え、大学の先生や研究員なるものがこういった性質を持っている以上、このような連中が中心となるイベントが自ずと性格が似てくるのは当然なのである。

 日本有数の(場合によると世界的な)オタクイベント、それが学会の正体である。いずれアニメが文化として公に認められるようになると、日本アニメ学会なるものが結成され、コミケも日本アニメ学会年会と名称を変更することとなろう。

 

学会の光景

 さて学会にもいろいろな分野があるが(文系・理系およそあらゆるジャンルが存在する)、私の属する化学の分野について言えば、「日本化学会」とか「日本高分子学会」などは大手組織になる。ここの年会ともなれば、国際会議場などの大きな施設を借りきって3日間くらいにわたって行われ(この辺りもコミケと同じである)、あちこちの会場でそれぞれの分野の発表がなされる。なおこのような大手イベントだけでなく、もっと狭い分野の専門的な会が開かれることもある(たとえて言えば、ウテナ専門、セラムン専門の即売会のようなものだ)。

 しかも当日は、入場手続きの際に各講演の要旨をまとめた「予稿集」という分厚い本を紙ブクロに入れて渡されることがあるので、大きな紙ブクロを持った者が場内や周辺をウロウロしている。この辺りもコミケとよく似ている。

 そしてコミケでは人気サークルには行列ができ、マイナーサークルには閑古鳥が鳴くというのは日常光景であるが、学会もこれと同様で、人気のある分野や有名な先生の発表は場内が一杯になるが、そうでない場合は聴衆が数人というお寒い光景も存在する。聴衆の入りは、発表者の知名度や研究内容のレベルなどが影響している。

 なお学会においては同人誌の即売こそ行われないが、大学の先生は日頃からいろいろな本をマイナーな出版社から発行しており(その中には「東京化学同人」とか「化学同人」などの名前の、まさしく同人誌も存在する)、ここでの発表が自身の発行している本や論文のPRをある程度兼ねているのも事実である。

 

大学教授のオタクな世界

 一般的にオタクは「議論を仕出したら熱くなる・自説にこだわる・中には攻撃的な者もいる」などと言われているが、オタクの象徴のような大学教授にも、当然この傾向はあてはまる。なかにはよく似た研究分野でお互いに競い合っている教授同士もいるので、このような人物同士が出くわした時はすさまじいことになる。

 学会での発表は教授自身によってされることもあるが、年会のような大きなイベントは新人デビューの場も兼ねているので、学生による発表も多い。大体発表は20分ほどでこの後に質問の時間がある。ただこの時にさっき言ったような教授の対立関係があるときは、その相手教授から意地の悪い質問がくることがある。これに対して、発表した学生が自分で質問に答えられればいいが、あまりにたちの悪い質問だと返答に困って立ち往生してしまうことがある。そんな時はその学生の指導教官が代わって説明することになるのだが、場合によってはここから思いきり話がこじれてしまうことがあるのだ。

 というのも質問があって回答を返して、さらにそれに対する質問があってというやり取りを繰り返しているうちに、次第に双方が興奮してくることがあり、どちらかの教授が人格的に未熟(笑)な場合には最後には議論と言うよりもケンカになってしまうこともある。実は私もかつて「そんなつまらん研究のどこが面白いんだ。」「これを理解できないぐらいなら口をだすな」といったほとんど子供のケンカレベルの口論に出くわしたこともある。(この時は座長が「もう時間がありませんから」と強制介入(笑)してことをおさめたが、あのまま放っておけば「お前のかあさん出べそ」とでも言いかねない雰囲気であった(笑))。なお某学会で、興奮した教授同士がとうとう殴り合いになってしまったという噂も聞いたことがあるが、残念ながら(笑)私はそこまでの場には出くわしたことはない。

 大学の教授と言えば知識・人格ともに優れた人という偏見(笑)を持っている人は認識を改めた方がいい。大学教授には、知識のほうはともかく人格的には問題のある人は意外と多い。そもそもどこかに子供のようなところを持っていないと、一生研究なんて出来ないという話もあるぐらいだから。

 企業の研究員などは、なんだかんだ言っても最後は儲かる研究でないと続けていくことが出来ない。その点大学の先生は、その研究が独創的で面白いものであれば実用性はその次である。つまり大学の先生の研究とは、究極の趣味活動と言えるだろう。

 

世界はオタクが支えている?

 そしてこのような愛すべきオタク連中が、世界の最先端の研究分野を支えており、彼らの研究の中から明日の世界を変えていく大発見が現れるのである。

 一つのことにこだわるという志向は決して悪いものではない。中途半端にあれこれに手を出して結局どれもものにならない人間よりは、10倍は世の中に貢献できる可能性がある。最近はとかくオタクを敵視し、まるで一芸に打ち込むことが危ないことであるかのような風潮さえもあったが、これは決して正しいことでないことは明らかである。別に卑下したり姑息になる必要はない。

 自分がオタクだと感じている人は、いっそのこと大学教授を目指してみれば。残念ながらまだ「アニメ学」は存在していないが、ありとあらゆる学問の中には面白いものも結構ある。長い人生の中で、興味を持てる分野の一つや二つは出てくるかもしれない。ちなみに私が興味を持ったのは、化学以外では電子工学と歴史学だった。

 なお学問とは学校の勉強とは根本的に違う。学校の勉強は強制されるつまらないものだが、学問とは自発的に行う面白いものだ。学校の勉強は単なる記憶力テストであるが、学問で問題になるのは記憶力ではなく、分析力や推理力や想像力である。(記憶だけで対処できるようなものは新規性がないということであり、そのようなものは学問の対象にはなり得ない)

 少なくとも何かに打ち込めた人には、何かの研究者としての十分な素質はあるということだ。もしかしたらあなたも、何かの分野で世界をリードする大研究者になれるかもしれない。

 

戻る