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 間章(Aquirax AIDA:あいだ あきら)の著作より。
 間章とは阿部薫を「何度だって地獄につき落と」し続けた男。
 彼の文章は我々が如何に白痴と化して日々を過ごしてしまっていることを気付かせてくれる。
 情けないことに、我々を取り囲む状況は、阿部薫や間章が生きた時代と何も変わっちゃいないようだ。


 レイシーは類いまれな行為者だ。
 そのことを私は断言する。
 そして私の責務は、ジャズに人間の解放へのひとつの可能性を見、それをどこまでも思惟と行為によって、また闘いとしてつきつめようとする私の責務は、私を決してレイシーから眼をそらすことをさせない。(文献1p.41)


 高度にマスコミュニケーションの発達した社会が管理社会となる要因はシステム化が資本の体制によって果たされるということであると一応はいえるだろう。そのような社会体制の下での音楽はエンツェンスベルガーのいう意識産業の圧力をぬけるパワーをその性質として持ちつつも、常に現在的には意識産業のもっとも強力な花形としての力をあわせ持つのである。そして社会的にもっともフリーな場である音楽という存在でさえ、あらゆるメディアと志向や感受性がまさに抑圧的にしか働けなく、圧力的にしか作用しないという危険を常に有しているのだ。(文献2p.62)


 だが私には、管理社会下におけるロックがすんなりと音楽社会体制にくみこまれてしか現象を形成できないということや、フォークのスターたちがどんなにがんばろうと、彼らの果たしている役割はこの社会においては昔と変わらぬ美空ひばり、三波春夫のそれと決して違わないということが、もっと大きな全状況的な暗い閉塞状態の底にあるニヒリズムやニル・アドミラリ=無関心によっているのだということが、もっとも大きな問題であって、その問題を幾段からの私制、非私制のレヴェルで、フリアとパトスでもって私がそれらに立ち向かうべき基点を持つことが最大の意志的身がまえなのである。(文献2p.64)


 ヒトラー=ナチス=ゲッペルスが体制づけた今世紀のもっともラディカルなコミュニケーション論は「単純明快で結論を持った事柄の果てしない反復による大衆の呪縛、洗脳」ということが基本にあるのだが、それは今や顔のない複数の企業がイデオロギー的な目的のないまま半意識的に行っているマスコミ占有と反復となっており、その素材としての音楽は巨大な幻想企業体的体制を長いあいだ大衆の中で確立させてしまったのだ。(文献2p.64)


 反疑似イヴェント、反疑似文化の音楽状況的志向は要約するとつぎのようになる。


 いつの時代にあっても、音楽のブームとか隆盛は音楽の本質への無関心の大きさによって支えられてきたのだ。
 無数のファン、無数のコレクター、無数の享受者、無数の独善者が音楽の作用力と外延的力を決定してきたこと、それがどこかで変わる必要があることはアトニー症(弛緩=無力症)へのジアスターゼの働きをするだろう。ロック現象はそうした混沌の明らかな様相を示してくれる手がかりとなる。
 私の関心はそこから音楽文化論へと昇りつめて、音楽行為とは何かという行為論へと下降していくのだが、それはいつの日にか必ず果たしたいと思っている。(文献2p.68)


 ただ私には私自身をよりアナーキーにしてゆくことによってしか真に生きえないという確信があるように、音楽はよりアナーキーになってゆくことにしか万が一にも生きえないだろうという確信がある。あとはくずだ。
 私はアナーキストこそを見い出してゆくだろう。もはや制度や思想の一切を超えたアナーキストたちを。これからはアナーキストを探しだすために旅に出る。そしてその旅の果てに私こそひとりのアナーキストになるために。どうだい。<世界は寒い>かい。凍えていな。(文献2p.210)


 本当に生きつづけてゆくのは、単に生きてゆくことよりずっとむずかしい。だってちょっとでも気をぬけばもう<なしくずし>が待っているのだから。自らの地獄を直視し闘ってゆくものしか本当には生きてゆけないのだ。そして戦士には休息なんてありっこないし、ましてや永久革命者の悲哀なんてありっこない。
 本当に挫折し、身を持ちくずしたことのないものにさびしさややさしさもありっこないし、生きてゆくことの確かさなんてありっこない。だから僕は自信家や自分がこれまで勝ちつづけてきたと思いこんでいる人間を軽蔑している。彼らこそもっとも大きな人生の落伍者なんだ。(文献2p.226)


 ジャコメッティはあるインタヴューのなかで「そういうあなたの不可能な作業に進展はあるのですか」という質問に、「私はいつだってどの瞬間にだって進歩しています。とても微々たるものだけれど、私は毎日一歩一歩でも前進しているのです」と答えている。これは真に作業をつきつめ闘っている者のみが言える計り知れぬ謙虚な言葉だと私は解する。それと同じ謙虚さをそして私はレイシーにも感ずるのだ。本当に自らの困難に立ち向かう行為者こそが、苛酷な作業を<彼方>とみまがうばかりの地平へ向けて少しずつ進んでゆくことを自覚することができるのだ。(文献1p.27)