阪神大震災ボランティア公演

神戸の夜景

 1995年1月17日(火)午前5時46分その大きな揺れは、私の住む松原市までとどきました。近所の墓地の墓石が、いくつも倒れ、もっと大きな揺れが来るのではと、すぐ逃げられるように毎晩玄関を少し開けて寝ました。しかし、神戸方面での被害にくらべたら、この辺の被害は何ともなかったかのように映ります。いつしか何かできることはないか、何か役に立てることはないかと自分に問うようになっていました。

 1月22日に大阪市平野区の「メガロコープ寿楽会」という老人会で、人形劇の公演をしました。その日の公演も通常の公演のはずでした。しかし、そのときにはもう、とにかく一度被災地に出向き、この目で確かめなければと考えていました。できれば、何か救援物資を持っていけたらと思っていました。そのことをメガロコープ寿楽会の方がたに話したところ、高齢者用の肌着などがあるからと、押入れの奥から引っ張り出してきていただき、段ボールにいくつもお預かりしました。

 2月19日、はじめて被災地に足を踏み入れました。電車で行けるところまで行こうと家内と話して、着いたのが、西宮市平木中学校のグランドでした。こんな時に人形劇でもないだろうという声を聞きましたが、こんな時だからこそ人形劇が必要なんだという声に励まされ、ここまでやってきました。公演は、30分ぐらいでした。車ではないので、大きな舞台装置やたくさんの人形を持って行くことはできません。マジックエプロン、ガマの人形と南京玉すだれ、小さな立絵人形芝居、ギターに歌といった演目が、二人で持ち運ぶには精一杯の舞台でした。平木中学は午前中に、昼からは西宮中央体育館での公演でした。半年後、平木中学からは、校長ならびに教職員、避難所本部の連名で礼状が届きました。

 3月5日午後1時、西宮市のマリアの園幼稚園での公演でした。幼稚園とカトリック仁川教会は隣接していて、その日は救援物資の配給が園内でありました。親たちは、あちこちの列に並ばないといけなくて、子どもたちを引っ張りまわすわけにもいかず、私たちの公演に預けていく親もいました。幼稚園を後にし、午後2時半からは、段上西小学校で人形劇をしました。

 3月12日、その日は天気が悪く、今にも雨が降りそうでした。西宮市立養護学校のグランドについて、準備をはじめた頃には、ぽつりぽつりと降りはじめました。しかし、天が味方してくれたのか何とか無事公演も終了しました。そして、この日は「地震にあった子どもたちと絵を描く会」の ピントゥーラ さんたちの活動を知ることにもなりました。また、どこの市かは忘れましたが、埼玉から交替でボランティアに来ている市役所の人たちもいました。ところで、松原市の震災ボランティアに登録していたのですが、一度もお呼びはかかりませんでした。しかしながら、こうして自分たちで最初の一歩を踏み出せたことを考えると、登録制のボランティアとそうでないものを今一度考える機会にもなりました。

 3月21日、西宮市の甲武体育館でのボランティアのミーティングに参加したり、「すばる舎ともだちや」さんからもいろいろ情報も得ました。この日の公演は、 西宮市立平木小学校 (西宮市平木町4-1 )での公演でした。この頃からでしょうか、復興に向けて前進していく人たちと、停滞している人たち、いや後退している人たちとの差が広がっていったのは。実際のところどうだったかわかりませんが、それは何回か公演しているうちに感じはじめたことでした。

 3月25日午後2時、この日は西宮キリスト教会(西宮市上ヶ原七番町3-22)での公演でした。やっと車で舞台を運ぶことができ、そして、はじめての室内での公演でした。今回の公演では、教会から離れた子どもたちが、また帰るきっかけにもなったようです。聞けば、この地区では、一週間前にやっと水道が使えるようになったとのことでした。ガスはまだで、ここではこの後一週間遅れることになりました。

 4月8日、神戸市西区西神での公演でした。中国自動車道を走りましたが、渋滞は免れません。帰りに西神の仮設住宅のそばを通りましたが、坂が多くてお年寄りにはとても辛く見えました。この前後に、この地区で被災者の方が凍死されたたというニュースが流れ、胸が痛くなりました。

 4月9日、神戸市長田区の「わんぱくクラブ」に行きました。車でここまで来るのは、まだ無理です。駅から歩いて来ると、焼けこげた臭いが鼻をつきました。そばを通った人に聞けば、今日のように小雨が降ったときは、まだましなくらいだということでした。わんぱくクラブは、 東北福祉大学 のボランティア基地で、二葉小学校前の公園にあり、A先生が中心に活動していました。バスで学生たちが来ると引継ぎをして、先の学生たちはバスで帰ります。しかし、A先生はずっとこの基地にいて、授業はファックスを使って、大学に送信しているとのことでした。「また来ます」と言い残して、帰りました。

わんぱくクラブでの人形劇トムテ (わんぱくクラブ)

 4月16日、この日は、雑誌で見た神戸市灘区徳井町にある石屋川公園の「神戸元気村(神戸元気村の歩み)」に行こうと決めていました。しかし、本部の人は誰もいなくて、人形劇をするような場所もありませんでした。それで、長田区の南駒栄公園に行くことにして駅に向っていたら、大勢の人たちが近くの大和公園軟式野球場に集まっていました。イベント、屋台やらがたくさん出ていました。それに便乗して、私たちも参加しました。神戸新聞のM氏も取材に来られていました。運がいいのか悪いのかちょうど公演が終わったとたん、雨が降りはじめました。グランド内は大騒ぎになり、私たちも大急ぎで片づけて、駅に向いました。駅前の蕎麦屋に入ろうとしたとき、前を 神戸新聞 M氏のバイクが走り抜けていきました。南駒栄公園の公演は、雨が止みそうにないのであきらめました。

 5月14日、雨。大阪市立生野図書館のY館長の紹介で、神戸市兵庫区のSVA(曹洞宗国際ボランティア会)のある真光寺に寄り、Kさんからいろいろ情報をいただきました。その後、わんぱくクラブでの公演を終えて、南駒栄公園に寄りました。ここでの公演はいつできるのだろうかと思いながら、うらめしく雨空を見上げました。

 5月27日午後2時、この日、尼崎市の武庫之荘めぐみ教会(尼崎市武庫之荘1-32-8)で公演がありました。会場の前が空き地になっていましたが、もともとは家があって、すっかり更地になったとのことでした。そう言われないと、もともと空き地だったのか、がれきが片づけられてそうなったのか、その頃わからなくなってきていました。

 5月28日、やっと南駒栄公園で、人形劇をすることができました。その足で、わんぱくクラブに寄りました。ちょうど今日がお別れ会とのことでした。もともと公園には、建造物は建ててはいけないとのことで、今月いっぱいで引き上げなければなりませんでした。いつもは基地のプレハブの部屋で公演をしていましたが、今日は外での公演です。ここでの公演を終えて、私たちの公演もひとつの区切りがきたような気がしました。

 9月3日、西宮市の門戸聖書教会(西宮市門戸荘15-3)での公演。震災後、教会の方がたも、いろんな事情で転出してしまわたようです。小さな教会だけに、窮地に立たされたときにこそ、神のすばらしい愛を伝えることができるようです。いつもこちらの方が、逆に元気をもらってくるようで、感謝のお手紙をいただいても、こちらが感謝したいくらいでした。だんだん震災に絡んだ公演が少なくなってきました。しかし、これからが本番なんだという気持ちが、私たちの心の奥にはありました。

 年が明けて、2月18日、六甲アイランドの仮設住宅での公演。仮設住宅にも空き家が目立ちはじめます。こういう企画に参加される一人暮らしのお年寄りはよくて、参加できない、または、したくないという人が問題なんだということです。人と人とをつなぐ架け橋になることが、どんどん難しくなっていきます。自殺する人、孤独死する人のニュースが飛び込んできます。どうすることもできない無力さだけが、大きくふくらんでいきます。

 また年が明けて、3月9日、大阪淀川仮設住宅での公演。公演は、神戸の方へ神戸の方へと流れていきまいきましたが、地元大阪でも被災をされた人がいて、当初の救援物資の流れを思い出しました。報道されるところに多くの物資が流れて、その中間を飛び越してしまったことを。私たち「人形劇トムテ」の公演が、長い目で見たときに、本当によりよい選択をしてきたのかと考えたとき、確かな答えは出てきません。とはいえ、これで終わりだとは、まだ思っていません。どこかで、トムテの人形劇がお役に立てるなら、そのような情報をお持ちの方がいらしたら、ご連絡ください。きらきら輝く子どもたちの瞳に出会えるなら、トムテはどこへでも行きます。

 ドラマ「神戸新聞の7日間 〜命と向き合った被災記者たちの闘い〜

阪神・淡路大震災発生当時の神戸新聞社・写真部記者の三津山朋彦さんらの目に映った神戸を描いたドラマ。ドラマと言っても事実の記録に基づく作品になっていて、実際の映像や写真が随所にあり、配役とは別に本人たちも登場してドキュメントタッチになっている。京都新聞社のバックアップのことや社説のことなど知らなかったことがたくさんありました。観ると1月20日朝刊の社説ももう一度読みたいと思うかもしれません。以下に転載しました。

「被災者になって分かったこと
 あの烈震で神戸市東灘区の家が倒壊し、階下の老いた父親が生き埋めになった。三日目に、やっと自衛隊が遺体を搬出してくれた。だめだという予感はあった。
 だが、埋まったままだった二日間の無力感、やりきれなさは例えようがない。被災者の恐怖や苦痛を、こんな形で体験しようとは、予想もしなかった。
 あの未明、ようやく二階の窓から戸外へ出てみて、傾斜した二階の下に階下が、ほぼ押し潰されているのが分かり、恐ろしさでよろめきそうになる。父親が寝ていた。いくら呼んでも返答がない。
 怯えた人々の群が、薄明の中に影のように増える。軒並み、かしぎ、潰れている。ガスのにおいがする。
 家の裏へ回る。醜悪な崩壊があるだけだ。すき間に向かって叫ぶ。
 何を、どうしたらよいのか分からない。電話が身近に無い。だれに救いを求めたらよいのか、途方に暮れる。公的な情報が何もない。
 何キロも離れた知り合いの大工さんの家へ、走っていく。彼の家もぺしゃんこだ。それでも駆けつけてくれる。
 裏から、のこぎりとバールを使って、掘り進んでくれる。彼の道具も失われ、限りがある。いつ上から崩れてくるか分からない。父の寝所とおぼしきところまで潜るが、姿がない。何度も呼ぶが返事はなかった。強烈なガスのにおいがした。大工さんでは、これ以上無理だった。
 地区の消防分団の十名ほどのグループが救出活動を始めた。瓦礫(がれき)の下から応答のある人々を、次々、救出していた。時間と努力のいる作業である。頼りにしたい。父のことを頼む。だが、反応のある人が優先である。日が暮れる。余震を恐れる人々が、学校の校庭や公園に、毛布をかぶってたむろする。寒くて、食べ物も水も乏しい。廃材でたき火をする。救援物資は、なかなか来ない。いつまで辛抱すれば、生存の不安は薄らぐのか、情報が欲しい。
 翌日が明ける。近所の一家五人の遺体が、分団の人たちによって搬出される。幼い三児に両親は覆いかぶさるようになって発見された。こみ上げてくる。父のことを頼む。検討してくれる。とても分団の手に負えないといわれる。市の消防局か自衛隊に頼んでくれといわれる。われわれは、消防局の命令系統で動いているわけではない、気の毒だけど、という。
 東灘消防署にある救助本部へいく。生きている可能性の高い人からやっている、お宅は何時になるか分からない、分かってほしいといわれる。十分理解できる。理解できるが、やりきれない。そんな二日間だった。
 これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。"災害元禄"などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜(ふそん)さ、甘さを思い知る。この街が被災者の不安やつらさに、どれだけこたえ、ねぎらう用意があったかを、改めて思う。」


あなたを必要としているボランティア活動かもしれない。
誕生日ありがとう運動:京都友の会
おもちゃライブラリー:山科タンタンおもちゃライブラリー