「情報ボランティア」(共著)、NECクリエイティブ、1998年8月、
第7章原稿(水野義之)


第7章 現代社会と情報ボランティア    (目次) 7・1)科学・技術とこれからの社会 7・2)科学・技術とその問題 7・3)学問の歴史と社会の現状 7・4)情報ボランティアに期待するもの 7・5)「専門性を持ったジェネラリスト」 7・6)私たちにできること 7・7)今後の課題 7・8)誰でも出来る情報ボランティア Q&A集 Q:普通に生活していて、災害時に、ネット上の情報をどうやって知るのでしょうか? Q:間接的なボランティアに驚いていますが、やっぱり直接見たりしないと大変ではないですか? Q:誤報対策やデマ対策などの具体的な方法を教えてください。 Q:こうしたボランティアは誰もが参加できるのでしょうか。また、参加するにはどうしたらよいので しょうか。 Q:震災情報活動のうえで、インターネットにこうあって欲しいとか、ユーザの望ましい振るまいがあ ると思いますが。 Q:先生自身の「インターネット観」をお聞かせください。 Q:今後もし阪神大震災クラスの災害があったとき、情報ボランティアは今回の問題点を補う活躍でき ると思われますか? Q:社会の皆が、誰でもすぐ情報を得られるようになったら、根本的な活動の視点はどこへ移るので しょうか? (本文)


第7章 現代社会と情報ボランティア ここまでの各章で見てきたことは、情報ボランティアの活動事例(第1、2章)、情報ボランティア が関わる情報技術の仕組や考え方(第3、4章)、メディアとしてのインターネットとその特徴(第 5章)などである。しかしそもそも、人はなぜボランティアをするのだろう?また情報化社会と言わ れる中で「情報ボランティア」はどうなっていくのだろう?そして今後、私たちに出来ることは何な のだろうか? 20世紀は実に様々な社会的実験が行われた世紀だった。実際、20世紀は社会主義や戦争の世紀で あり、科学技術の世紀でもあり、マスメディア・情報産業や情報化社会が始まった世紀でもあった。 行政規模の拡大もあったが、同時に赤十字に代表される機動的な「ボランティア団体」(NGO、NPO) が始まったのも、実は20世紀だった。20世紀にはたくさんの悲劇もあったが、人類はそこからい ろいろな事を学んだはずである。希望もなかったわけではない。例えば、これまでに述べて来たよう に大災害からも私たちはたくさんのことを学んできたし、そこに希望を見ることも出来る。 この章では、こうした社会の大きな流れの中で、20世紀の終わりにこうして始まった「情報ボラン ティア」という活動の意味や今後の課題について考えよう。特に私たちが今後かかわっていく社会に おける科学・技術の変化や、情報化社会の展開という観点から考えて見ることにしよう。 7・1)科学・技術とこれからの社会 私たちの日常生活は、もはや科学技術を抜きには考えられない所まで来ている。また国民生活は行政 の役割を抜きに考えることも出来ないだろう。これは国にとっても同様であり、科学技術への施策を 抜きに国民経済を支えることも出来ない。こういう事情は情報メディアの役割についても同じであ る。そんな時代に、私たちは生きている。 しかしそのような科学・技術・情報メディアの中味に、私たちはどれだけ関われているだろうか?私 たちは物や情報を与えられ、それを消費するだけの存在なのか?民主主義という価値は、いったいど こへ行ってしまったのか?このような悩みはもう何十年も前からわかっていたが、いっこうに改善さ れそうもない。それが現代社会なのだ。しかし、どうしてこうなるのだろうか? 結論を最初に言ってしまうと、こういうことである。人類はやっとの思いで民主主義なる価値を獲得 し、それは本来「決定の手続き的正当化」を保証するものだった筈である。しかしそれが感じられな い。例えば、選挙にいって政治に参加していると感じられる人はいるだろうか?今後、社会の発展と ともに組織はますます複雑になり、民主主義は形骸化せざるを得ないだろう。しかしこれを回復する 方法がないわけではなく、その一つが「ボランティア」なる方法である。つまり「ボランティア」と は、そこに民主主義の自己決定の原理を内包しているために、自己責任と自己決定を直接的、感覚的 に感じさせてくれる社会的仕組の一つなのである。そして、情報化社会におけるそれが、この本で調 べている「情報ボランティア」というわけだ。 もっとも、次の第7章で述べるように、「情報ボランティア」もそんなにいいことばかりではない。 失敗だらけであると思った方がいいだろう。しかしそこには、原理的に小さなボランティアにしか出 来ない機動性、自発性、非営利性があり、さらに独自性、社会性、そして活動の先駆性に対する社会 的インセンティブ(奨励)がある。ここで先駆性とは、換言すれば活動の創発的、実験的、研究的、 開発的側面である。そのような活動への直接的な参加経験は、参加者に大きな知的感動を与える可能 性がある。これが私たちに貴重な新しい社会的価値の可能性を感じさせてくれる。もちろんボラン ティアも(人生も)そんなに甘いものではないが、それもやって見なければメリットもデメリットも 見えないだろう。 そこで、このような現代社会の問題がどれくらい必然的なものなのか、それを科学や文明の歴史を振 り返ってみることによって考えてみよう。そしてそこから今後の展望を探って見ようと思う。 以下には、ギリシャ哲学の昔話も出てくるが、そんなもの私たちと無関係だと思ったら大間違いであ る。中世後期の西欧におけるギリシャ哲学とキリスト教という大きな2つの精神のぶつかりあいこそ が西欧近代科学を誕生させ、それが今の科学や大学の在り方を決め、それが大学以下の全ての教育を 規定し、それが社会の在り方にいかに大きな影響を与えているのか、調べてみると驚くばかりであ る。まず社会の仕組の歴史性を考えて見て欲しい。それが理解出来たら、次の社会に私たちが主体性 を持ちつつどう生きていったらいいか、見えてくるだろうと思う。結論があるわけではない。しかし 希望がないわけではない。 7・2)科学・技術とその問題 科学・技術を支えているのは大学と企業の研究活動である。国公立大学に対しては、国民は国にまず 税金を払い、官僚や政治家の判断で国の基礎研究費が決まる。企業には、国民は消費者として、間接 的に応用開発研究費を払っている。国民が直接決めているわけではない。そしてこのような2重構造 は、科学・技術の専門性のため、一見どうしようもないように見える。また本来、この関係はループ になり、国民の期待が科学・技術にも届いているはずである。しかし現実はそうなっておらず、技術 はますますブラックボックス化を強め、科学はますます専門化を強める。現実問題として科学・技術 は、社会の期待に応えられていない。どこかに、うまくいかない原因となる自己矛盾がある。この傾 向がわかっていて、止められないのである。そして現代における多くの問題が、このような構造に よって突破口が見えにくくなっている。 ここではこのような問題解決の突破口の一つとして、そのような研究活動を支える「学会」がどう なっているか、そこにおける問題を調べて見よう。日本の科学研究(自然科学、人文科学、社会科学 を含む)の学協会なるものの総数は約1220団体もあり、その研究者総数は約70万人である。こ れを代表するのは日本学術会議と呼ばれる組織である。もう一つ、科学技術会議という組織がある。 これは首相を議長とし、国の科学技術政策の総合的な調整機関である。この両者が打ち出す方針に対 して、各省庁の審議会や委員会が最終的な判断を加え、科学技術の政治と行政が回転し、これを国民 に還元している。そういう構造になっている。 しかし、これもうまく回転していないことが自覚されているのである。例えば日本学術会議では、次 のように問題を分析している: (日本学術会議第17期活動方針より、一部を引用) 問題とすべき学術の状況とは、各領域での科学者の真摯な努力にもかかわらず、領域を超えて全体と して生起してくるものである。それは研究領域の細分化、領域間の関連軽視、領域進展の独立性によ る学術全体としての不均質な展開、学術の応用における領域知識の孤立的適用などがある。一方、学 術と社会との関係に関して、学術の自律性の曲解による独善性、研究の自治についての硬直的観念に よる閉鎖性があり、また基礎研究への人々の期待を研究者に届かせる社会的装置の欠如などもある。 このような学術の状況は大学・研究機関等の経営に影響し、研究の社会的体制に影響し、またそれら を通じて社会の状況に影響し、現在に特徴的な問題を生起させる要因となっている。これらの問題は 個々の学問領域の努力では解決できず、学術全体の状況の変化があって初めて解決されるものである から、多くの領域の協力が不可欠である。 (引用終わり) また科学技術庁でも、国民と科学者・技術者との意識のギャップの増大を、大きな問題であるとして いる。これは上記の「研究への人々の期待を研究者に届かせる社会的装置の欠如」の問題と同じであ るだろう。現代社会では、実はあらゆる組織で、こういう問題が起こっている。 一方で、科学技術の規模は増大を続けている。例えば1995年に成立した「科学技術基本法」は、 そのような国による科学技術への大きな「期待」を、率直に表明したものである。そこでは科学技術 政策が、ついに経済政策の一つとして取り扱われ、政治レベルの問題として進行している。それにも かかわらず、上記の「人々の期待を届かせる社会的装置の欠如」を、今後どうしたらいいか、まだ見 えていない。 しかし、本書で論じている「情報ボランティア」の動きは、このような困難な問題にも何か対応出来 る可能性がある。実際に、このような「人々の期待を届かせる社会的装置の欠如」を最も深刻に受け 止めている学会の一つは、まさに、地震学会だった。そして彼らもいわば「情報ボランティア」的な 活動を試行し始めている。地震学会では、広報委員会の活動として1997年10月、地震学の専門 研究者と一般マスメディア関係者、そしてこの問題に興味を持つ市民や非専門家(他分野)研究者、 民間研究者の共同参加のメーリングリストを開始し、学会WWWとも連携させた運営を開始した。そして ここでもWNN(情報ボランティアらの社会ネットワーク)の参加者の一人であったマスコミ関係者が提 唱者の一人となり、規約作りと議長役の一人として活躍し、非常に有益な異分野交流が始まってい る。 もちろん日本の地震学は、いはば特殊な例であって、一般にはこのような分野を超えた交流の時代に はほど遠いのが現状であろう。では逆に、社会における学問の現状は、なぜこのように分かりにくい ものとなってしまったのか?その原因は、実は学問の歴史的展開の姿そのものに中にあるのである。 現在、人類の歴史上いまだかってなかった高学歴社会と高齢社会が同時進行している。すなわち、国 民の教育レベルと教育年限はどんどんと上がっている。その中で大学、地域社会、ボランティアの役 割も増大するだろう。即ち、生涯学習や社会メディア、社会教育の課題とともに、まさに一人一人の 思いを生かすことが出来るという意味の「ボランティア」なる社会的メカニズムの中に私たちは、 21世紀社会の在り方を垣間見ることが出来るのである。 7・3)学問の歴史と社会の現状 現代文明の基礎は、ギリシャ数学とギリシャ哲学に遡る。例えば日本では幾何学を中学2年生の数学 で習うが、これは2300年前のユークリッド「原論」で学問的に完成された。またギリシャ哲学の 自然、人間、論理学など全分野を1つの世界観としてまとめることに成功したのがアリストテレスで ある。この世界観はその後2000年もの間、ヨーロッパやイスラムで紆余曲折と批判に耐え続け、 同時に全学問の基礎となった。ついにそれが論破され近代科学的世界観が確立されたのが17世紀 だった。これが現代に至る文明社会の学問的、思想的基礎である。例えばニュートン力学の主著の構 成は、ユークリッド「原論」の書き方そのままである。また中世ヨーロッパの理想は古典古代にあっ た。近代文明とは、これらを超えるための努力の中から生まれてきたのである。日本がこの成果を取 り入れたのは19世紀末であった。現代社会がいかに深い歴史性の中にあるか、従ってこれをさらに 超えることが如何に困難であるかが見えてくる。この困難さはおそらく17世紀(近代科学の誕生) の比ではないかもしれない。 では、現代における学問の専門分科傾向という悩みは、どこで生じたのか?その出発点は、実は ニュートンにあったことが分かっている。アリストテレス「自然学」からデカルト「哲学原理」まで は、自然に関する認識は一つの学問(自然哲学)であった。しかしニュートンはその主著「プリンキ ピア」を「自然哲学の『数学的』原理」と題し、その数学的側面だけを書かざるを得なかった。それ 以降、学問の分科が始まったというのである。ニュートン自身は、彼の仕事をデカルトの様に「哲学 原理」と名付けたかった。しかしその内容が許さなかった。学問の専門分科とは学問の内容が要求す るものであり、内在的なものなのだ。以降、現代に至るまで科学は、分科に分科を重ねている。そし て人文科学も社会科学も、実はこのニュートン力学の完全なまでの成功を、その模範としているので ある。 当面この専門分科の傾向を止めることは出来ないだろう。なぜなら現在でも学問は分科によって進歩 しているからである。吉川弘之が「テクノロジーの行方」(岩波、21世紀問題群ブックス)で指摘 するように、技術(工学分野)の場合、その分野はさらに細分化の傾向にある。また技術にはスケー ルメリット(多く使うほど質が向上する)があり、量的問題に伴う自己矛盾を最初から内包してい る。すなわち技術とは、ある意味でよくなるほど悪くなる。また科学の場合、自己矛盾はこの専門分 科にある。すなわち科学とは、ある意味で発展するほど発展出来なくなる。 現在では、日本学術会議が把握する全分野の学協会の数は1200団体を超えていると言ったが、 「専門」なるものの種類はおそらく何万種類にもなるだろう。誰もその全貌を捉えられない。それが 現代の姿である。学問が社会の要請に答えられないのも必然というべきである。20世紀の社会と は、このような科学と技術の在り方に大きく規定されている。その理由は、このような学問の在り方 が、大学の在り方を規定しているからである。そのような大学(学校システム)が、社会に人材を供 給し続けている。 7・4)情報ボランティアに期待するもの 日本や欧米先進諸国での生活は「もの」にあふれ、もう結構、これ以上進歩しなくてもいいとの感覚 もきっとあるだろう。しかし同時にエネルギー問題、環境問題など解決困難で複雑な問題もまた増大 している。そしてオゾンホール発見や地球温暖化問題の発見、環境ホルモン等に象徴されるように、 困難な問題も科学によって初めて予見される。現状の持ち駒で何とかするしか当面、いい方法はない のである。このような問題を私たちは、社会構造の変化、生産効率の向上(労働時間の短縮)、教育 レベルの向上、高齢社会、そして行政依存の社会という条件の下で解かなければならない。果たして そんなことが出来るのか? 結論を言おう。私は可能であると思う。その理由は、そのような問題があることに私たち自身が気が 付いているからであり、それを解決するためのエレメントは、実はかなり十分にあると判断されるか らである。では、そこに欠けているのは何か?それは、例えば大災害時に情報ボランティアが行って いるのと同様な種類の活動、すなわち社会要素の(学問分野の)必要な人間同士を必要に応じて繋ぐ 活動なのである。そしてそれは当事者を巻き込んで行われなければならない。阪神淡路大震災やその 後の「情報ボランティア」の社会的意義は、そういう活動が社会的に可能であることを、実際に示し た点にある。 しかし繋ぐだけで解決するほど、簡単な問題ではない。そこでここでは、今後の一つの方向性を示唆 し、すでにわかっている問題点を指摘しておきたい。その一つの方向性とは、「専門性を持ったジェ ネラリスト」を目指せ、という主張である。 7・5)「専門性を持ったジェネラリスト」 情報ボランティアとは、「専門性を持ったジェネラリスト」である。そう言い切っておこう。単なる 情報技術だけでは、情報ボランティアは出来ない。また社会ネットワークに関する「幅広い教養」 (知識と常識)がなかったら、人的ネットワークをネットワーク化することなど出来ないし、そもそ もそのようなニーズを直覚することもないだろう。 立花隆は「知的亡国論」(1997年8月の雑誌「文芸春秋」等)と題した議論を展開し、受験科目 減少など日本の高校教育を巻き込んだ形での高等教育(大学教育)の危機(ものを知らない大学生の 増加とレベル低下)を嘆き、その再生を訴えている。その中で彼は若者に、もっと勉強をせよ、 「ジェネラリスト」を目指せと言っている。上記の提案「専門性を持ったジェネラリスト」という表 現は、ここから採らせていただいた。実際、立花の立論は本稿での主張と重なる所もあるので、ここ で若干長くなるがその言説の一部を引用させていただく。 立花隆「知的亡国論」より引用: (中略) <新しいリベラル・アーツの構築> バランスがとれたゼネラルな知識を与えることで、ものごとをトータルに総合的に見ることができる 人間を育てようということです。現代の知の世界は、とめどない細分化によって、その全体性が失わ れようとしています。細分化による知の解体現象に抗して、知の全体性を復元し、それを維持してい くためにも、リベラル・アーツ教育は大切なのです。(中略) 高等教育の現場では知の細分化がどんどん進んでいますが、社会のあらゆる現場は、ゼネラルなので す。ゼネラルな知が求められるのです。 たとえば環境問題を解決しようと思ったら、工学、医学、生理学、化学、気象学、法律学、経済学、 社会教育学などなど、あらゆる関連学問を動員する必要があります。社会のあらゆる部門の現場で同 じような要求があります。そのような要求に対し、それなら、必要な専門家をどんどん集めてくれば よいかというとそうはいきません。どういう問題でも、その問題の全体像をとらえ、いま何が必要 で、それは誰がどう役割分担すればいいかを考えるマネジメントが的確にできるゼネラリストが必要 なんです。問題解決に参加する専門家も専門領域をこえた目が持てるゼネラルなスペシャリストが必 要なんです。(中略) (引用終わり) この問題意識は本書と共通している。すなわち、情報ボランティアが誕生したのは、まさに大災害時 に「専門性を持ったジェネラリスト」の必要性を自覚した人々がいたからである。またそのような活 動がインターネット技術の駆使によって自由自在に可能であろうと直感されたからであった。では、 今後、私たちには、何が出来るのだろうか? 7・6)私たちにできること 普段から誰にでも出来ることの一つは、「学会のようなもの」の役割を見直すことである。例えば、 人々の繋がりを「ある種の学会」とみなしてみよう。「コミュニケーションには時間がかかる」が、 逆に、「コミュニケーションに時間をかける」こと、これをやってみよう。情報ボランティアとは、 このようなコミュニケーションが上手な人といってもいいだろう。通常はそれを情報ボランティアと 呼ばないだけであって、こういうことは誰でも普段から心掛けていることの一つである。この当り前 のことを、いますこし距離をおいて、再度眺めて見よう。すでに第5章で指摘したように、インター ネット上の「メーリングリスト」とは、ある種の「学会」とみなすことが出来る。これを思い出そ う。そうすると、「メーリングリスト」とリンクしたWWWホームページとは、その「学会」の「学会 誌」と見えてくるだろう。この2つが舞台である。 道具立てとして、当面この2つ(メーリングリストとWWW)だけで十分である。私たちはそれに参加し て、問題を一つ一つ解決していこう。あるいは議論を深め、問題そのものをより深く理解しよう。何 が問題なのか、それをはっきりと意識しよう。そしてそれを関係者が共有し、情報の公開もしてしま おう。それが問題解決の出発点である。このことは政府、行政、市民団体であろうが、あるいは学会 そのものであろうが、みな同じである(これらの共通点は、問題解決を目的とした非営利活動である ことだ)。これは形骸化した民主主義の内容を回復するための、単純な手続き的正当性を保証する。 だから当然のことだ。議論の内容そのものは、その「学会」が扱う問題を重要であると感じる「あな た」が考えるのである。それも学会と同じである。学会というのは普通、自分の意思で参加し、自分 の考えを発表し、結果を公表し、意見を聞き議論を行い、理解を深める。それが「あなた」の仕事の 一つになるだろう。 次に、複数の「学会」に参加しよう。普通の学会ならば、参加費がかさむばかりであるがそれも、イ ンターネット上の「学会」の場合は基本的に自由参加である(参加費は無料か小額の運営協力費)。 また普通の学会の会員になる時は、すでに会員である人の推薦が必要な場合が多いが、メーリングリ ストの場合はそれも必要ない。それはメーリングリストを読むだけで勉強になるからであり、そうい う会員にも参加してほしいと願うからである。だから興味があればまず参加することを推奨したい。 またこれは、専門家の議論を非専門家が聞くことを奨励するための社会的メカニズムとしても、有効 である。そのかわり通過儀礼として、誰であろうと自己紹介を責任を持って行い、質問には答えられ なければならない。 メーリングリストの有効性についてはすでに第5章で述べた。実際、参加者の質と量がある一定のレ ベルを超えるとメーリングリストは非常に有効に機能することがわかっている。例えば実際にある教 育系メーリングリストでは次のような感想も出ている: 「この『メーリングリスト』というメディアが、これからの教育界(一般には、学会)に及ぼす影響 は非常に大きいのではないかと考えています。その、即時性、双方向性、また議論の深まりの度合い などは、今までの発表形態(論文・口頭発表・著作等)では考えられなかったことだと思います。」 逆に、メーリングリストの問題点についても第5章で指摘した通りである。それは広い意味の情報リ テラシーの問題であり、情報リテラシーそのもので対処する以外に方法はないだろう。例えばメール 上での議論には限界があることも、よく理解すべきである。これらの問題点の多くは、すでにその存 在が分かっている。これらは例えばWWW上にも有用なまとめが書かれている。その多くはQ&Aの形で書 かれ、初心者にも大変わかりやすい。またネットワーク上の議論の問題点における心理学的分析と研 究も進んでおり、多くの知見も得られている。 重要なことは、このような新しいメディアを、今後の社会の問題解決に生かすことである。このよう に考えると、大災害におけるインターネット利用も、そのような社会問題解決のための努力の一つで あったことがわかる。これを「情報ボランティアのすすめ」と呼ぼう。情報ボランティアは、規模の 小さいものならすでに始まっている。これを大規模な社会の仕組の一つにしていこう。それは世の中 を変える契機の一つにはなるだろう。 しかし残念ながらこれだけでもうまく行かないことが、経験的にわかっている。それは、いわゆる コーディネータ、あるいはインタープリタの問題である。 7・7)今後の課題 このような「情報ボランティアのすすめ」を行うと、なんらかのコーディネータが必要になるとする 議論が起こるだろう。これは第7章でも紹介するように、すべてのボランティア組織と同様である。 また上記のような広い意味で「学会(のようなもの)」を考えると、その相互理解のため、あるいは 専門家と非専門家の相互理解のために、ある種の「インタープリタ」が必要になるだろう。「イン タープリタ」とは、ある分野の専門知識の「解釈者」という意味である。例えば科学研究で言えば、 科学ジャーナリズムの役割、あるいは啓蒙書の著者の役割である。 しかしこれはなかなか難しい問題を含んでいる。例えばコーディネートだけを専門とする場合には、 その問題の責任をとるべくもない。従って関係者や当事者にあまり信用されないという問題がおこ る。単なるインタープリタも同様にあまり信用されない。その理由は、本当の「責任」とは、当事者 でなければとれない。あるいはインタープリタでなく専門家に直接聞いたほうがよい。これはちょう ど立花が指摘するように、「ジェネラリスト」が、専門性を持たない単なる「何でも屋」ではいけな いのと同様である。従って、コーディネータもインタープリタも、その問題の当事者でなければなら ない。すなわち当事者に対して、幅広い能力の向上を求めざるを得ない。これが果たして可能であろ うか、という問題がある。 このような問題は情報ボランティアにおいても同様である。情報ボランティアを行うと、ある種の社 会関係のコーディネータ、あるいはインタープリタの能力を伸ばす結果になるだろう。それによって いったい彼らに「何が」出来るのか?コミュニケーションそのもの、あるいは社会関係を作ることそ のものは、一体、活動の目的になりうるのか?その先はいったいどうするのか?仮に社会全体のコ ミュニケーションネットワークが改善され、産官学民の協力も進展したとしよう。そこにどういう意 味があるのか?情報ボランティアの専門性は何なのか?そういう問題である。このような問いは、 「幅広い教養の目的はいったい何か」という問いと似ている。そこに答えはない、しかし必要である ことはわかっている。それが答えであろう。すなわち情報ボランティアそのものは、目的とはなりえ ない。そこには、まず問題意識がなければならない。その問題意識は、自分の専門性に裏打ちされた ものであるはずだ。「あなた」自身が必要と感じるからそれを行う、そういう活動でなければいけな い。だからその活動自体が面白いと感じられなければ、やめた方がいいだろう。それは「幅広い教 養」の勉強と同じである。そのことを忘れないようにしよう。 しかし社会の側から見た時、社会的な仕組として「情報ボランティアなる種類の活動」が認知されて いることは、おそらく重要なことだろう。それは第8章で検討するように、経験的に必要であること がわかっているから、というのがその理由である。社会常識の一つとして「情報ボランティアなる種 類の活動」とはどういうものか、それを広く理解しておく必要があるだろう。これは常識としてイン ターネットの社会的機能をよく理解しておく、ということと同じである。あるいは社会問題の解決の ためにインターネットがどのように使えるのか。そういう「常識」といってもよい。 次に問題を難しくしているのは、そのような広義の交流活動を奨励する評価システムが、少なくとも 日本においては2重構造になっていることである。当事者内部の専門性に対する評価システムと社会 的評価システムは、異なっていることが多い。時には両者が逆転している。例えば科学者は啓蒙書を 書くようになれば研究者生命も終わり、と思い、国民は「本」を書かないのは学者として一流でない からだ、と思う。これは笑い話しではなく現状である。このような状況が生ずる原因は、日本社会が モノカルチャーであり広い社会性と狭い専門性のバランスをとる社会的仕組がなく、両者が個人レベ ルで二律背反になっているからである。しかもこれを変えることは、それを含む社会的経験の蓄積が なければ難しい。 しかしこれも変わっていく可能性がないわけではない。社会全体の教育レベルが向上すると人々は何 事にも説明を求めるだろう。従って行政官や専門家の能力の一つに、社会性(説明責任)が今後、要 求される可能性が高い。こうして広義の交流活動を奨励し評価する社会システムが今後、幅広く形成 される可能性がある。若い世代にもコミュニケーション能力の高い人々が増えている。歌って踊れる 専門家というわけだ。今後の展開に期待しなければならない。 大災害などの情報ボランティア活動も、個人レベルから出発して必然的に社会性を獲得し、それが災 害情報など社会的ニーズともマッチしたために適切な社会的広がりを獲得した。阪神淡路大震災から 始まった情報ボランティアも、その後徐々に広がりと定着の様相を見せていると言ってもいいかもし れない。もし情報ボランティアが今後定着することになれば、その背後には日本社会の構造変化が関 係しているはずである。しかしそのことは、まだわからない。 そこで次に、このような現状の変化とその問題点があることを理解した上で、実行可能な提言を引き 出してみたい。改めてこれまでの情報ボランティアの活動事例を、具体的に振り返って見ることから 始めよう。 7・8)誰にも出来る情報ボランティア 第1章と第2章で紹介したように「情報ボランティア」を行ったのは、ごく普通の市民だった。彼ら はたまたま、インターネットを普通の人より数年ほど早くから使っていただけだ。だから「情報ボラ ンティア」というのは、きっと誰でも出来ることの一つなのだろう。確かに何年も「情報ボランティ ア」を続けられる人はいない。実際のところ「情報ボランティア」に聞いてみると、彼らも大したこ とは何もやっていないと言うだろう。そしてそれは当然のことなのだ。普段はみな普通の生活に戻っ ている。その中で社会の組織相互のコミュニケーションに、ちょっと気を付けている。逆に、そうい う気配りが出来ると自分で思える人は、立派な情報ボランティアができると言えるだろう。 災害の時、もし既存の組織が対応できれば、本来はそれで十分なはずだ(そしてそれは「大」災害と は呼ばれないだろう)。実際、行政系の防災情報システム整備も進行している。これは情報ボラン ティアがいままでやってきたような情報活動を、行政システムの情報インフラの内部に埋め込む動き といえるだろう。そうなるのが当然なのである。 このような社会の動きを横目に見ながら、阪神・淡路大震災や日本海重油災害などで「情報ボラン ティア」を経験した人たちは、ではその後、何をしてきたのだろう?それは人さまざまであろうが、 例えば、どうすればあの体験を、今後の社会に生かせるかを考えながら、普通の生活をしてきた。そ してその生かし方は、様々だった。一緒に苦労して気心が知れた仲間として、連絡を続けているグ ループもある。あるいはボランティア団体がインターネットを日常的な活動に役立てられるように、 技術支援をしているもの。地域の住民が主体となって、インターネットを地域づくりに役立てなが ら、情報ボランティアの養成と、地域内外の人的ネットワークづくりを行うもの。情報ボランティア や行政関係者、研究者、災害救援ボランティアなどの人たちをメーリングリストで結び、日頃から情 報を交換するというものなどである。中には通産省や郵政省からの依頼で関連委員会に出席し、情報 ボランティア代表として意見を述べた人たちもいた。また災害救援のボランティアネットワーク作り に発展しているグループもある。しかしこれも特別なことではないだろう。日常的な自分の体験や持 ち味を生かすことが、全体として社会を強くすることになる。 参考までに、震災で活動した主な情報ボランティアのグループには、表6-1のようなものがあった。ま た日本海重油流出災害では、表6-2に記載されているような団体がインターネットを利用して情報流通 を行った。 インターネットを使い始めた人の多くは、インターネットがもっと社会の役に立てられると感じるだ ろう。そういう活動の大切さに気が付いた人は、この本を参考にして情報ボランティアを経験してほ しい。そこからきっと多くのものを学べると思う。 [表7-1] 阪神・淡路大震災における主な 情報ボランティアのグループ(結成順) [表7-2]日本海重油流出災害でインターネットを 利用して情報流通を行った主な団体および メーリングリスト(情報流通活動の開始順) では「あなた」が今、情報ボランティアをやってみたいと思った時、具体的に何をすればいいのだろ う。 情報ボランティアというのは、要するに、情報技術とボランティア精神の両方を持っていれば、だれ でも出来ることである。ボランティア精神は誰でも持っているものだとすれば、例えばキーボードで 入力ができる、ネットワーク技術に精通している、ホームページづくりができる、足で回って現場で 取材ができるなど、得意なところを活かせば、それだけで立派に情報ボランティアの活動に参加でき る。 もうすこし詳しく言えば、まずこの本の第3章、第4章にあるように、情報通信の仕組や役割に関す る知識を復習しておこう。また第5章にあるように情報技術や情報ネットワークの社会的な特徴や留 意点なども理解しておく必要がある。また社会的な人的ネットワークの意味を理解し、必要な情報を 必要な人に届けることも大切である。そうするとさらに新しい人脈や人的ネットワークが必要になっ たり、別の情報の要求も出てくる。それらをさらに繋いで、より優れた社会的ネットワークを作って いくことが大切である。 その時、特に覚えておいてほしいことは、情報の流れにはある種の法則があるということだ。あるい は、ある種のパターンがある。情報の流れを効率的に扱うために、次のように考えよう。 1)まず問題の大きさを全体として、定量的に把握することから始めよう。 例えば、阪神淡路大震災で30万人の被災者が避難所にいた時、1日の食費を計算してみると呆然と する(1人3食2000円としても毎日6億円!)。そのような全体の評価から出発し、自分に何が 出来るかを考えよう。現地のニーズは何か。どの程度の量か。どこにどんな情報があるか。それを効 率的に伝えるにはどういう組織を通すといいか。誰にそれが出来るのか。自分に出来ることは何か。 自分は何が得意か。その中で自分がやるべきことは何か。 2)情報というものを、「専門性」と「地域性」に分けて考えよう。 例えば、情報の専門性も地域性も大抵、孤立している。もともと、情報とはそういうものだ。だから そこに問題がないか、まずそれを見て見よう。そしてそれらを繋ぐことを考えよう。そこから何か新 しい活動が生まれないか。問題を見る新しい視点が生まれないか。 3)支援者の発想が、地域性と専門性によって、非常に異なることを理解しよう。 人が大災害に出遭う時、その人の意識は、被災地の内と外とで、非常に異なる。このことから支援者 の発想も、支援者の住む場所(被災地からの距離)によって非常に異なる。これを相互に理解しよ う。災害全体の定量的な規模の大きさを思い出そう。そうすればどちらも必要であることがわかる。 逆に、それは自分の責任で行う活動である。常に自分の活動の社会的意味を考えよう。「専門性を 持ったジェネラリスト」でなくてもいい。しかしそれを努力目標にしてはどうだろう。 4)どんな情報伝達にも、異なる「役割階層」が必要。自分の「役割階層」を意識しよう。 インターネットで情報伝達を行うためには、それぞれ異なる役割の「階層」が必要である。これを第 4章で説明した。この「層」の役割はそれぞれ異なっている。この役割を相互に理解しよう。例え ば、情報工学の研究者から見たら情報ボランティアは「町のものしり」程度にしか見えないかもしれ ない。しかしこの「ものしり」の存在が実は非常に重要で、災害時に限らず「情報ネットワーク技術 の普及・浸透時代」において重要な役割を演ずる。逆に情報技術者層も、情報ユーザー層と現場で直 接出会うことにより、おそらく初めて社会との繋がりを身に感じ、自らの社会的役割を再認識する契 機となるのである。 このような、いはば「既存の仕組を繋ぐ仕組」は、第6章で述べてきたように広く社会的に必要とさ れているにもかかわらず、それを行うような組織は存在していない。しかし、大災害の時というの は、まさにそのような意味で、「既存の仕組では対応出来ない事態」なのである。必然的にこれらを 繋ぐ必要が発生する。その時、既存の仕組を繋ぐことは必要だから自分一人でもやろう、そう感じた 人は、もう立派な情報ボランティアだ。 では具体的に何をするか。これは何も難しいことではない。このような「繋ぐ活動」の社会的役割や その意味を全体として理解できる人であれば、その中のどの部分を担当してもいい。皆さんは、自分 が持っている情報技術は、今まで自分のためだけに使ってきただろうと思う。情報ボランティアと は、この自分の情報技術のうち得意な所を生かすだけで、実は大きな社会貢献が出来ることに、気が 付くことでもある。 具体的には、例えば家庭の主婦で、パソコン通信の投稿に慣れている人は、必要な原稿入力をして投 稿を担当する仕事に立候補してほしい。あるいは企業で情報技術者に近い仕事をしている人であれ ば、このような活動をするグループに参加し、そこで必要なソフトウェア整備などを担当したいと申 し出て戴きたい。それは大変喜ばれるだろう。またキーボード入力に慣れていて、多少時間の余裕も ある人は、原稿をFAXで送って入力する仕事がある時に、手を挙げてはどうだろう。このような仕事を 行うための連絡網を作るために、ますメーリングリストを活用する。そして情報技術とは、実は社会 のあらゆるところで生かすことが出来る。 情報は、それが必要なものであれば、それは情報ネットワークや社会的ネットワークを通じて、それ を必要とする人たちに届く。もちろん反応がないこともある。しかし、思いがけないところから反応 があったり感謝されたり、あるいはまったく意外な人と巡り会い、新たな展開を経験することもよく あることだ。私たちに出来ることは、それが役に立つことを期待して、自分が大事だと思うこと、自 分が得意とすることに、努力することではないだろうか。役に立つかどうかは、自分が決めるもので はない。しかし自分が持っている情報技術を生かす機会は、実は他にもたくさんあるというわけだ。 これに気が付くことが、情報ボランティアなのである。 ================================= この章の最後に、「情報ボランティア」について寄せられた典型的な質問について、お答えしておき ましょう。 ****** Q:普通に生活していて、災害時に、ネット上の情報をどうやって知るのでしょうか? A:これはいい質問ですね。最初はマスメディアの災害情報(ニュース速報など)です。それをキャッ チした人が(これは誰かがテレビ等で知りますが)災害の規模が大きいと判断した場合、WNN(情報ボ ランティアらの社会ネットワーク)など関係者のメーリングリストに速報を流します。同時に手があ いた人がそれをチェックします(例えばその地方に知り合いや親類がいる人が電話で確認したり、海 外ならば留学生に地理を確認するなど)。平行してオンラインサービス等で関連情報の新聞記事速報 が自動的に届くように出来ますのでそう設定しておきます(WNNグループなどでは自主的にそういう活 動をしている人がいます)。また新聞社ホームページも30分から2時間に1回程度更新されますか ら、速報の確認に使えます。また最近はWWWホームページで地震情報(準速報)を見ることが出来ます (自治省消防庁のページ、日本気象協会のページ、アメリカ地質調査所や東京大学地震研究所の地震 データ解析速報のページなど)。さらにアメリカCNNニュース速報のページ、赤十字のページや時には 国連機関のページ等で、世界の災害速報を非常によくカバー出来ます。これらは情報の継続性も信頼 出来ます(この面では日本のメディアはまだまだ改善の余地があります)。これにさらにWWW全文検索 や地図情報ページを駆使すれば、世界のどの地方のどんな情報でも驚くほど的確かつ敏速に把握する ことが出来ます。 このことは逆に、情報化社会がいかに急速に進展しているか、現状はどうか、その証拠を発見する過 程でもあり教訓的です。例えば1998年1月と2月に中国の山奥とアフガニスタン山岳地帯で大震 災があった時、最寄りの地方都市の新聞社が大活躍し、彼らが日常使うWWWを駆使して世界に向けて、 その地域の災害情報の詳細を伝えてくれました。これは生きた地理、歴史、文化、政治等の勉強にも なりました。様々な情報ツールの利用方法を把握し活用技術の腕を磨き、社会と情報との関係変化を チェックし、また人的ネットワークの陳腐化を防ぎこれを発展させるためにも、このような機会を捉 えて勉強することを薦めます。 WNN(情報ボランティア)などではこのような情報収集と編集作業を常に全員参加のメーリングリスト 上で行います。これにより作業者の発見と経験蓄積が参加者全員にも共有され、それが新たな発見と 経験の模索に繋がり、人的ネットワークが広がる契機となります。途中の議論と判断もネットワーク 上で行い、軌道修正もリアルタイムで行い、間違いを減らす努力もしています。 では逆にどういう災害を無視するか。それは参加者の自主的判断によって決まります。例えばWNNの誰 かが情報を集めてきて関係者にメーリングリスト上で相談しても、理解者や協力者が出現しなければ それは無視されることになります。活動は自主的なものであり、従ってこのプロセスを通じて参加者 全員による総合的な社会的判断が入ると考えることが出来ます。 ****** Q:間接的なボランティアに驚いていますが、やっぱり直接見たりしないと大変ではないですか? A:コンピュータというのはネットワークに繋がなければ、ただの箱に見えるかも知れません。しかし 例えばテレビもただの箱ですが、動的な情報を受け取る人間には「その箱の先に」人間が見えます。 これは読書によって1000年前の源氏物語の人物を身近に感じたり、電話によって声の向こうに人 が「見えたり」するのと同様の現象です。人間は想像力によって「もの」を見ているのではないで しょうか?そうすると見る手段よりは、情報内容やその先にいる人間そのものが問題になるようで す。 ****** Q:誤報対策やデマ対策などの具体的な方法を教えてください。 A:完全な誤報対策はないだろう、むしろ情報を受け取る側に判断能力を求めたいと、私は思います。 情報を元に動く時、その情報の信頼性を判断する能力、あるいは確認する要領というのも、異常事態 を生きる力ではないか、とさえ思うくらいです。 1997年1月、日本海で発生した重油災害でも、公的機関の情報に当初誤報があったこともあるく らいですから、恐らく、誤報を完全に避けることは不可能でしょう。誤報を恐れるあまり、慎重に成 りすぎて畏縮し、情報をタイムリーに出せないとすると、それをむしろ、私は残念に思います。 多くの人は、非常災害時には人間の善意を信じて、相互の信頼関係を基礎にして、動くものだと思い ます。そういう事態での心構えとしては、たとえ後で誤報であると分かっても、まず、怒らない。 (例えば、開いているはずのお風呂が閉まっていても、文句を言うのではなく、情報を出し合う、と いうスタンスで、連絡する)。あるいは、「誤報」の可能性を常に、念頭に置く。そして出来るだ け、その情報源がどこかということを、確認して行動する、等でしょうか? 情報を出す側としては、やはりニュースソース、その責任主体の連絡先、情報の賞味期限、等を忘れ ずに書く事、くらいでしょうか? デマについては、行政やマスコミに対応してもらうのが、いいように思います。そのための、住民に よる監視や苦情受け付の窓口、「目安箱」のような投稿口、等を、行政やマスコミは、明記して設け ておき、そういう仕組みがあることを周知しておくことが大事ではないでしょうか? 一般的には、この様な仕組が機能するためには、投稿に対する迅速なフィードバックが日常的に確保 されているという状況を、行政が維持し続けることが前提条件になります。作るだけならいつでもど こでもすぐにできますが、それは機能しない。しかし行政も市民の一人であり、確かな情報がないこ とによる住民の不安はよくわかるわけです。問題を抱え込まず、「答えはネットワークに聞く」とい うのが一つの解決方法だと思います。 ****** Q:こうしたボランティアは誰もが参加できるのでしょうか。また、参加するにはどうしたらよいので しょうか。 A:誰でも参加出来ます。もちろん、情報通信(インターネット利用)の基本的な技術やネット上での 情報リテラシー、コミュニケーションのマナー等は必要ですが、それは誰でも、慣れることで学んで いると思います。リテラシーについては時間を掛けないと分からない事も多いですが、最近はネット 上のマナーやルールについても、よくまとめられた資料がネット上にもありますから、今ではかなり 短時間で慣れるのではないかとおもいます。また逆に失敗をしないとわからないことも多いですか ら、どんどん参加して、しかもいいネットに参加して、その現場で学んで行くことを薦めたいと思い ます。 ボランティア精神というのは、なにかが必要なことが分かった時、たとえ自分一人でもやる、という だけのことだと思います。ですから誰でも日常的に行っていることの延長だと思います。 ****** Q:震災情報活動のうえで、インターネットにこうあって欲しいとか、ユーザの望ましい振るまいがあ ると思いますが。 A:まず、東京がやられても大丈夫なように、機能分散をハードにおいても、また組織のソフト面にお いても、真面目に考える必要があるのではないでしょうか?コストもかかるでしょうが、危険分散と いう意味では色々なメリットもあるのではないでしょうか? また最初は、メイリングリストやネットニュースのような、文字ベースでの情報提供や情報整理が主 体になるだろうと思います。しかしそういう観点から文字情報での広域のインターネット利用を、積 極的に行っている自治体も行政も少ないのではないでしょうか? 自治体での電子ネット利用としては、自治体によるパソコン通信(市民広報を入力する、意見を集め る等)も盛んのようですが、インターネットについても、WWWだけに目を奪われることなく、電子 的なメリットを生かした情報交換の基本に立ち戻り、もっと、電子メイルでのメーリングリストの利 用や、ネットニュース等、文字情報の情報交換システムの利活用経験を、積んで頂きたいものだと思 います。 それが普段の情報交流の道具に成り切っていないと、いざという肝心の時にメールもニュースも使え ない事は明らかです。そのためには行政の方々も、もっと、私はこう思う、ということを、もっと発 言するといいのかもしれません。そうすると情報交換が楽しくなります。仕事にからむと難しいかと おもいますが。そういう意味では、防災の話題、というのは、社会のあらゆる人の立場を越えた、共 通の話題であるとも言えますから、適当な話題ではないでしょうか?実際に、歴史的な大地震のあと の報告書の中には、そういう点に触れているものもあります。 ****** Q:先生自身の「インターネット観」をお聞かせください。 A:インターネットというのは、よく、コンピュータの「ネットワークのネットワークです」という言 い方がされますが、実際に使っていて、繋がっていると感じられるものは人間のつながり、ですよ ね。人間関係というのは誰にとっても、その人の財産の一つですが、そういう人間関係というのは、 ビジネスでも何でも、社会活動の基本となります。そういう意味でインターネットで繋がれるもの は、コンピュータではなくてヒューマンネットワークなのですね。 そういう意味での人間関係という財産を、インターネットという広域の繋がりを生かした繋ぎ方に よって、誰でもいくらでも増やして行くことも出来るわけです。それは、インターネットの持つ特性 (時間的、空間的、社会的な制約を越える、という本来的な特性)によっていますから、誰にとって も非常に自然にそれが行なわれていると思います。これが一人ひとりにとってメリットであると感じ られるなら、インターネット的な繋がり方というのは、今後の社会においても広く歓迎され、生かさ れて行くことになるとおもいます。 社会の発展に伴って、様々な組織が次第に複雑になっていくと、どうしても人間のつながりが間接的 になり、つまらないものになります。現代社会の抱える問題の一つですよね。これが、ある程度は解 消できるかもしれません。といっても、これは手紙や電話が果たしている役割に、即時性や広域性、 蓄積性と同報性等を持たせた程度であり、特に新しくはないとも言えます。コミュニケーションのた めのメディアの発達に伴う新しい文化状況の出現としては、私たちはすでに経験している、というこ とも言えるかもしれません。 テレビ等の受け身の(双方向性に乏しい)メディアに比べると、ネット利用は利用者に主体性を要求 しますが、それはメディアのレベルアップにも寄与出来ると思います。ネット中毒の指摘について は、テレビ中毒の弊害と共に、メディアとの付き合い方の問題だと言えるのではないでしょうか?む しろ「はまる」位に面白くないと、広く使われないと思います。広く使われることによってどんどん 良くなりますので、それは大事なことですよね。読書文化でも一度は「はまら」ないと、その良さも 問題点も理解できないのではないでしょうか?そして最終的には、複数のメディアが共存すると思い ます。何事もちょっと距離を置いて付き合うことが出来れば、心配することはないと思います。 ********* Q:今後もし阪神淡路大震災クラスの大災害があったとき、情報ボランティアは今回の問題点を補う活 躍できると思われますか? A:これは何とも言えませんが、私はおそらく失敗を繰り返すような気がします。災害の記憶は個人的 には残りますが、社会的な記憶は風化し失われます。社会は痛い目に遭わなければそれが見えませ ん。環境問題は、時間的に離れた社会に対する想像力を試す試練となっていますが、災害の教訓を生 かすことは、時間的にも空間的にも離れた場所の見たこともない社会への社会的想像力を試す試練で す。これは簡単なことではありません。また映像メディアの発達は災害救援の姿を大きく変えていま すが、その教訓を次に生かすためには、そこから学ぶ人が問題です。人の想像力や経験を運ぶメディ アはありません。社会は徐々に災害に強くなっていますが、それでも対処できない事態を(社会が) 大災害と呼んでいるわけです。従って常に、大災害とは教訓の再発見の歴史なのです。 情報ボランティアの活動も同様で、それは何かに定義できるものではありません。これが出来ればそ れでいい、ということもありません。その時々の社会の情報化や行政活動の様子を見て、そこで出来 ないことを発見し、すべきことを判断します。今後もし阪神淡路大震災クラスの大災害があったとき (そんな時は来ないと祈りますが)、社会はまた別の問題を発見し、それを解決しなければならない でしょう。そんな気がします。逆に言うといつの時代でも、情報ボランティアのような活動が必要に なるだろうと思います。環境問題をきちんと理解するにはかなりの知性が必要だと言われます。情報 ボランティアにも同様な面があり、さらに、短時間に臨機応変の対応が必要である点で、より多面的 な対応が必要とされるかもしれません。 ********* Q:社会の皆が、誰でもすぐ情報を得られるようになったら、根本的な活動の視点はどこへ移るので しょうか? A:「教育」だろうと思います。教育は、永遠の課題だと思います。何も分かっていない人達がどんど んと生まれてきますから、心配の種は尽きないでしょう。しかも放っておくと人間は、自分のことだ けで精一杯になりますから、社会性を身に付けることはいつの時代でも容易なことではありません。 さらにその上で「専門性を持ったジェネラリスト」を目指せと言っている分けです。情報ボランティ アとはその意味では永遠の課題の一つかもしれません。逆に言うと、情報ボランティアは社会的には あまり広がらないかもしれません。しかし今後、社会的に教育レベルが向上し、人々に時間的余裕も 出来るでしょうから、まさに生涯教育のテーマの一つになるかもしれません。 ======================================== 参考資料  水野義之「インターネットと情報ボランティア −これまでとこれから」、 季刊「兵庫経済」1996年1月、No.50、pp.38 - 57. 古川俊之責任編集「科学研究の大航海時代」(学会センター関西/学会出版センタ ー、1997年) 吉川弘之「テクノロジーの行方」、21世紀問題群ブックス8(岩波書店、199 6年) 佐々木力「科学論入門」、岩波新書(岩波書店、1996年) 広重徹「科学の社会史」、自然選書(中央公論社、1973年) 伊東俊太郎「近代科学の源流」、自然選書(中央公論社、1978年) [1] 下條真司「阪神大震災と情報技術」(日本ソフトウェア科学会、緊急シンポジウム、1995年3月 24日) [2] 水野義之「数学・物理学の話題交流とネットワークの利用」(「大学の物 理教育」95-1号(通算2号)(日本物理学会), p.29.) [3] 石田晴久「コンピュータ・ネットワーク」(岩波新書); 村井純「インターネット」(岩波新書) [4] 金子郁容「ボランティア−もうひとつの情報社会−」(岩波新書); 今井賢一、金子郁容「ネットワーク組織論」(岩波、1988年) [5] 堀田力,金子郁容,本間正明,座談会「阪神大震災・NPO・ボランティア」, (「経済セミ ナー」,日本評論社、1995年10月号); 特集「いまNPOに注目!」(「経済セミナー」,日本評論社、1995年10月号); 特集「都市行政とボランティア」(月刊「都市問題研究」,平成7年8月号) [6] 岡部一明「もう一つの公共=NPO制度とは」(雑誌「技術と人間」、1992年9月号,pp.42- 56) [7] 岡部一明「パソコン市民ネットワーク」(技術と人間、1986年) [8] 『神戸新聞』「淡路島版,1995年9月12日「洲本市災害情報ネットワーク」; 『産経新聞』「淡路島版」1995年9月12日「洲本市,災害支援システム構築」; 『朝日新聞』「兵庫版」1995年10月4日「三木市,パソコンでネットワーク,避難所と市役所結ぶ」; 『神戸新聞』1995年10月4日「パソコン通信,市役所と避難所直結,災害対応へ情報ネット,年度内に 市,データベース構築へ,個人情報カードも計画」 [9] 高崎望「マルチメディアの現実−浮かれすぎては未来はない−」(経済界、1994年10月31日); 特集「高度情報化と自治体の情報政策」(月刊「都市問題研究」,平成7年2月号); 「ひょうご情報化ハンドブック」(兵庫ニューメディア推進協議会、平成7年3月) [10] 「中田厚仁 記念文庫」(大阪大学付属図書館) [11] 高田裕之「ボランティアは何をしたか」(岩波「世界」,1995年10月号, pp.89-94.) 山口元「西宮YMCA救援活動はらたち日記」(大阪YMCA国際・社会奉仕センター編集,1995年11 月1日) [12] 早瀬昇「市民活動の現状と可能性」(「市民活動の時代」所収、とよなか国際交流協会、 1995年4月) [13] 島崎眞波 「『阪神・淡路震災復興計画(ひょうごフェニックス計画)』への提言」 (1995年) [14] 奥乃博「阪神大震災でインターネットの果たした役割と残された問題点」、(IAJ NEWS(日本イ ンターネット協会ニュース), Vol.2, No.1, pp.2-9.) [15]「大規模災害とインターネット−阪神大震災にインターネットはどう対応したのか−」, 「INTERNET magazine」(インプレス)、1995.4、pp.064-067. 「大規模災害とインターネット−残さ れた課題と今後のインターネット活動−」、同上、1995.6、pp.076-079. [16] ITフロンティア「阪神大震災とインターネット」(「日経ビジネス」,日経BP社,1995年5- 22号、 pp.54-56.) [17] 高野孟「GO QUAKE−パソコンネットが伝えた阪神大震災の真実−」(祥伝社、平成7年7月5日) [18] 今瀬政司「電子ネットワークを活用したボランティア活動」(『地域開発』1995年5月号所収、 (財)日本地域開発センター) [19] 水野義之「被災地からの情報発信サポートシステムと今後」、CG Osaka'95シンポジウム、1995 年6月20-22日、特別プログラム(「災害とマルチメディア」予稿集所収,日本能率協会,1995) [20] NHK取材班「ボランティアが開く共生への扉」(NHK出版、1995年7月20日) [21]芝勝徳「緊急時のネットワークコミュニケーションの大切さ」(AccessPlan Extra, 199, Ver.9,全国大学生協, p.13.) [22] 座談会(辻新六、他6名)「災害と情報システム」(コンピュータサイエンス誌bit,共立出 版、1995年8月号、pp.29-43.) [23] 水野義之「インターネットがつなぐ子どもの心」(季刊「子ども学」Vol.10所収、ベネッセ、 1996年1月) [24] 座談会(石田晴久、ヘーラトA.S.、水野義之、赤城昭夫)「インターネットと災害」(季刊 「予防時報」、No.184,日本損害保険協会, 1996年1月) [25] 干川剛史「もう一つのボランティア元年−阪神・淡路大震災と情報ボランティア−」(『徳島大 学 社会科学研究 第9号』 徳島大学総合科学部、1996年2月出版予定) [26] 「災害時における情報通信のあり方に関する研究」(兵庫ニューメディア推進協議会、平成7年 5月) [27] 兵庫県震災ネット事務局 「こうのとりニュース 」(1995) [28] 清水和佳「『VAG』と情報ボランティア」(1995) [29] インターVネット事務局「インターVネットニュースレター」(1995) [30] VCOM「VCOMニュースレター」 (1995) [31] AMDA「72時間ネットワーク発足式開催報告」(月刊「国際医療協力」, Vol.18,No.11,1995,AMDA、岡山) [32] 野田正章「災害救援」(岩波新書、1995年7月20日) [33] 成田雅博、他「インターネットの教育利用と山梨大学教育学部附属小学校の実験」(IAJ NEWS, 日本インターネット協会ニュース, Vol.2, No.1, pp.17-29.) [34] 山内祐平「教育現場におけるインターネット利用の動向」(100校プロジェクトシンポジウ ム、1995年5月27日、大阪大学) [35] インタ−Vネットユーザー協議会・VCOMケースプロジェクト、 「インターVネット防災情報通信システム構想 (案) --- 「情報ボランティア」 からの提言 ---」 (1995年11月23日) 4)水野義之「地域社会と大学」(神戸大学総合情報処理センターニュース「MAGE」、1996年3 月) 5)水野義之「NGO/NPOとインターネット」(大阪国際交流センター「i-Houseニュース」、 1996年4/5月) 6)水野義之「大学や地域ネットワークにおけるボランティアの役割」(文部省「教育と情報」平成 8年12月号(No.465)、pp.46-49、1996年12月 ) 7)「インターネットLIVE 災害とインターネット  岩井五郎 今回のE-mailのお相手:大阪大学  水野義之先生」 (「DOS/V magazine(ソフトバンク発行) 1997年2/15号、p.240-241) 8)水野義之「ネットワーク型学習社会と大学の役割」 (読売新聞「論点」、1997年5月17日) *** 1)梅棹忠夫「情報産業論」(1962年「放送朝日」、「中央公論」1963年3 月号) 2)A. トフラー「第3の波」(1980年、中公文庫) 3)今井賢一、金子郁容「ネットワーク組織論」(1988年、岩波書店) 4)金子郁容「ボランティア -もう一つの情報社会」(1992年岩波新書) 4)公文俊平「情報文明論」(1994年、NTT出版) 5)逢沢明「ネットワーク思考のすすめ −情報ハイウェイ社会を見通す」 (1997年、PHP新書) 6)古瀬、広瀬「インターネットが変える社会」(1996年、岩波新書) 7)I. イリイチ「コンヴィヴィアリティのための道具」(1987年、日本エディタースクール出版 部) *** 2)村上陽一郎「科学者とは何か」(1994年、新潮選書) 科学者の社会的責任とその意味について、中世社会から近代科学を経て、現代的に至 る動きの中で考えつつ、提案を行う。 3)佐藤文隆「科学と幸福」(1995年、岩波、21世紀問題群ブックス) 人間にとって科学が持つ意味とは何か、という点を、科学者の立場から根本的に考える。 4)小泉賢吉郎「科学・技術論講義」(1997年、培風館) 戦後の科学と技術の発展について、多くの事例を入れながら学び、今後の在り方につ いて考える。 *** ======================================= インターネット関連 □ 吉田,森,杉岡著 「インターネット漂流記」 □fj の歩き方編集委員会「fj の歩き方 −インターネットニュースグループの世界 」(オーム社、1995年) □ ラクウェイ,ライア著 「Internet ビギナーズ・ガイド」(トッパン,1995年) □ グループまたたび著 「インターネット情報生活入門」(技術評論社,平成6年) □ 吉田,森,杉岡著 「インターネット漂流記」(オーム社開発局,1994年) □ 力武健次著 「インターネット・コミュニティ」(オーム社,1994年) □ 村上健一郎著 「インターネット」(岩波科学ライブラリー17,1994年) □ 石田晴久「コンピューターネットワーク」(岩波新書,1994年) □ 村井純「インターネット」(岩波新書,1995年) □ 渡辺保史「はじめてナットク! マルチメディア」(講談社ブルーバックス,1995年) □ 黒田 豊「インターネット・ワールド−米国シリコンバレーより」(丸善ライブラ リー,1995年) A)大震災での情報ボランティア,市民活動における電子ネット利用について  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ A1)本間正明/出口正之「ボランティア革命−大震災での経験を市民活動へ−」 (東洋経済新報社,1996年1月) A2)岡部一朗「インターネット市民革命−情報化社会・アメリカ編−」(御茶の水書房,1996年5 月) A3)兵庫ニューメディア推進協議会「情報の空白を埋める−災害時における情報通信のありかた報 告書−」(兵庫県,1996年6月) A4)金子郁容,VCOM編集チーム「つながりの大研究 −電子ネットワーカーたちの 阪神大震災−」 (NHK出版,1996年7月) A5)田中克己編著「震災とインターネット −神戸からの提言−」(NECクリエイティブ,1996年 12月) A6)WIDE Project編,村井純・吉村伸監修「インターネット参加の手引き1996年度版」,(bit別 冊,共立出版,1996年6月),第6章「災害とインターネット」pp.339-348。 B)インターネットについて考える  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ B1)岩谷宏「基礎からわかるインターネット」(ちくま新書,1995年11月) B2)吉村伸/金子郁容/松岡正剛「インターネットストラテジー −遊牧する経済圏−」(ダイアモ ンド社,1995年11月) B3)古瀬幸広/廣瀬克哉「インターネットが変える世界」(岩波新書,1996年2月) B4)岩谷宏「思想のためのインターネット」(ジャストシステム,1996年9月)(渡辺京二/渡辺梨 佐訳・日本エディタスクール出版部,1989年3月) B5)永田守男「ソフトウェアの挑戦」(講談社選書メチエ) C)インターネットの利活用について考える  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ C1)中村正三郎編著「インターネットを使いこなそう」(岩波ジュニア新書) 中村正三郎編著「インターネットパワー」(ビレッジセンター) C2)古瀬幸広「インターネット活用法」(講談社ブルーバックス,1996年7月) C3)アリアドネ「調査のためのインターネット」(ちくま新書,1996年9月) C4)石田晴久「ンターネット自由自在」(岩波新書、1998年) D)インターネットと社会との関わり  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ D1)村井純/坂本龍一/成毛真/佐伯達之「インターネット近未来講座」(アスキー出版,1996年 8月) D2)牧野 昇/西垣 通「インターネット社会の「正しい」読み方」(PHP研究所,1996年11月) D3)西垣通「インターネットの5年後を読む----仕事はどうなる、日本はどうなる」(カッパブッ クス、光文社 1996.4) D4)クリフォードストール「インターネットはからっぽの洞窟」(草思社、1996年) D5)大山博、須藤春夫「ふれあいのネットワーク」(NHKブックス、1997年) D6)立花隆「インターネットはグローバルブレイン」(講談社、1997年) E)関連する社会的問題(著作権の保護,情報の公開など)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ E1)中山信弘「マルチメディアと著作権」(岩波新書,1996年1月) E2)松井茂記著「情報公開法」(岩波新書,1996年4月) E3)名和小太郎「サイバースペースの著作権」(中公新書,1996年9月) G)ネットワーク上のエチケット(「ネチケット」)等のマナーについて  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ G1)「ネチケット」の様々な話題に関するWEB上での内容豊富なリンク集 http://www.edu.ipa.go.jp/mirrors/togane-ghs/netiquette/ G2)バージニア・シャー著,松本功訳 「ネチケット - ネットワークのエチケット」 (ひつじ書房) 関連URL: http://www.mmjp.or.jp/hituzi/netqmkj.html http://www.hituzi.co.jp/hituzi/netiq.html (「ネチケット」第3章の全文) http://www.hituzi.co.jp/ (ひつじ書房のホームページ)