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投稿時間:19/12/05(Thu) 22:50
投稿者名:直人
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タイトル:Re^4: 治せない

森田博士の著書より抜粋しました(雑用をして一生過ごすS氏の教えは危険です)

こころは万境に随って転ず。転ずるところ実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば無喜亦無憂なり
「心は非合理なので、心の自律性に従って空の雲のように変化する。しかし、その変化のままに任せていると、誠の自由を得ることが出来る。このへんの消息を得れば、嬉しいとか悲しいとかの差別はなくなる」
「もし心が自然のままであった時にはその発動がざかんであって、周囲に適応することがきわめて微妙であり、強盛であることを体得することができるのであります。」
「われわれの心は、周囲の事情の変化につれて、常にたえず移り変わるものである。強く打てば大きく鳴り、軽く当たればかすかに響く、その変化の滑脱自在なことは、まことに幽玄微妙である。ちょうど鏡の前に物がくれば映り、去ればなくなって、影をもとどめないようなものである。この心の流れのままに随っていれば、そこに自己本来の性情を見ることができる。そのときには、喜びはそのまま喜びであり、憂いはそのまま憂いである。」
>治癒した日々の心の流れ

迷い、疑いがあって、しかる後に、これを離脱したものが、「悟り」である。「大疑ありて、大悟あり」というのはそれである。 迷いのないものには「悟り」はない。
神経症にかかる前は「ただの本能だけで、それは微妙ではあるが、ただそれきりで、動物や白痴と同様である。それが一度「迷い」に囚われると、本能の働きまでも、全く自由を失うけれども、さらに悟りを聴けば、全ての本能が自由に働き、その働きが広大無辺になる。
>治癒の経過であり結果です

自分の気分や想像で「治った」とか「よくなった」とかいっても、そんなことな問題になりません。
ただ、実際に治ったという事実が大切です。体重がふえたとか、終日よく働くようになったとか、気転がきくようになったとかいう
事実を観察して、初めて「治った」ということが決まるのであります。
>私は32年の会社経営で、多くの従業員と楽しみながら仕事している、十分の治癒の結果を得た。


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- 治せない - 葉月 19/11/29(Fri) 22:03 No.8258

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