投稿時間:22/01/22(Sat) 13:55
投稿者名:happiM
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タイトル:Re: 法悦
宗教的の歓喜の体験を法悦というが、それはわずかな心の置き所によって、今までの人生の苦悩がたちまちにして楽観にかわる。
極めて簡単である。間一髪の相違である。そこに法悦があるのである。
例えば親鸞が九歳から叡山で修業し、二十年の苦心もますます煩悶を増すばかりであった。ついに法然上人に会って、
ただ南無阿弥陀仏といえばよいということを忠告されて、たちまちにして悟ったようなものである。
もし人生において財産とか地位とかいうものは、必ずそれ相当の努力と年数とを要するものであるが、心の極き所は、
自分が一度その境涯になってみれぱ、極めて簡単であるから、世の中の人の誰にでも、ちょっとこんなうまいものを一口食べさせてみたいと
いうのが、すべての宗教家の希望である。ここに初めて犠牲心が起こり、もし世の千万の人びとに、この大安楽を与えうる事ができれば、
自分の命も惜しくはない。すなわち法然が遠国されても喜び、キリストが身を殺しても自ら満足するのであります。
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