薄れていく記憶を思い出して、書いてみよう。



平成16年に、透析療法をする事になりました。
仕事とはきっぱりと縁切りし、趣味に集中して生きようと、ま、そんな素人考えの折、全てを失われた気持ちは、なかなか難しいものです。
それでも、若いころから、好きで習っていた、尺八と、ギター演奏を続ける事にしました。
そんなときに透析になってしまったのです。ショックでした。
それでもなお、頑張って、好きな演奏をしていると、今度は脳出血。

ベツト生活になってから5年目で、ようやく1時間ほど歩けるようになりました。
PCも少しずつ勉強している状態です。
我が家も、平成29年から30年の地震、台風で被害を受けても、どうすることもできずに、被害物として捨てるだけの自分が辛く思います。

さて、思います。
昭和20年を境に、戦前と戦後は大きく変りました。

昭和19生まれ。
こどものころ、母は、豊津の芝居小屋に毎日、出かけていました。
養父、私はおじいちゃんと言ってました御祖父さんは、ちょつとした親分肌で、戦争で、津田組の瓦職を辞めた後、興業を初めでいました。
御祖父さんはいろんな話しのある人?でしたが、礼儀の正しい人で、また、付き合いかたも、そんな感じの人が多かったように思います
そうそう、昔の仕事の若い衆で、一郎さん?と言う、ちょつとした顔つきのひとがいまして、御祖父さんが亡くなるまで、演芸会などの手伝いをしてくださいました。
母は、若い頃、自転車を乗ったりしていた娘で、家の手伝いをするようになったのは、えらい違いようにです。

茨木でも、もう一軒つくった時のことは、よく覚えています。
小屋近くにいて、いつもj芝居の手伝いをしている“金ちゃん”というおじさんが時々三輪自動車の後部に、吹田から茨木神社近くの近くにある「京阪劇場」までいきました。
むこうで、ちんどん屋と合流して宣伝回りをしてくれました。

そうそう、劇場の近くの家にの2階だったかのベツトに泊めてもらったのを微かに覚えています。
親父は、まだいた頃で、芝居小屋にいたとき、小さな飲み店で、何か食べ物を食べたこともありました。
大手企業に勤めていたが、結婚をしてすくに、会社を辞めて水商売を初めたのです。
しかしながら、事業に失敗しました。

叔父さんが居て、十三にある工場に勤めていたが、嫌が気さし、祖父さんの仕事で、西成の、チンチン電車が通過していたとこ、線路の下をくぐり抜けたとこに「○○芸能俱楽部」を開業しました。

事務所とは言っても、どまに机が置いてあるだけの質素なものてす。
まだ、芸人さんがぶらぶらしていた頃で、仕事の入った時、たまたま表を通りかかった芸人さんに声掛けをしたりするそうです。
この建物には、ほかの部屋に、いろんな人がいましたね。
中学生の時に、私は、そんなところに興味を持っていて、夏休みに1人で、遊びに行きました。
何もかもが珍しく、商店街も叔父さんに連れていってもらい、ワクワクしていました。

戦前の地図



渡航条件

[大正8年義父〕                  タイプを使っていました
]   

「平成のパスポート」
私のものです。
病気の前の頃には、よく行きました。

昔、べリカードと言う、無線遊びが流行りました。
ラジオをひねくり回して、放送の内容や時間を記録して放送局に送ります。
すると、各放送局によって趣向を凝らしたカードが送られてます。

米とか中国、ロシアなどの国外も、冊子が送られてきましたね。
大人になって、その国に行くとは、思いもよらず、そんなことを楽しんでいました。

昭和20年頃

                         
             昭和25年頃の自転車




昭和15年頃、笠置山ハイキング
昭和10年頃の香櫨園
                          
昭和10年六甲ロックガーデン                             昭和10年頃の大洋丸。妻の父(妻は50超えての娘です)




            昭和5年頃の橿原ハイキング


昭和35年頃、祖父津田音吉に盆の灯籠を墓に立てる仕事を言いつけられました。
木製柱の灯籠ですが結構重いものです。
対のもので、お母と二人で13日前までに墓に立て、15日以降にまた、かたずけを済ませました。
墓は観音寺で、吹田のメイン通りの端(その当時)からすこし入ったところです。
高浜神社の近くなので、その近くの高浜旅館に普段、置かしてもらっていました。
そこのおばさんは、祖父の妹と聞いていました。
しかし、連れ込み旅館だったので、知っている人に見られるのがやなので、こそこそ運びましたね。
これについて別の話ですが、祖父が、阪急豊津で芝居小屋をしていました。
1950年頃の事だと思います。
上之川と言う天井川後のトンネルをくぐり抜けた所に、ひかり食堂と言う寿司屋を兼ねた店を小倉さんが出していました。天井川が無くなると、ひかり食堂の後に振興市場を立てたのてす。お金を集めるのが大変だったでしょうね。
母は振興市場の仕事をして終わってから、芝居小屋の仕事をしていました。
雉畷碑へのまわり道の所で、昔は村のまわり道の所です。
それと、垂水郵便局の前あたりにいつ頃か映画館もできました。
入場券の販売やら、食べ物の店など、小さい小屋の仕事をもう一人のひと、妾さんですが頑張っていました。
私も学校が終わってからよく芝居小屋の手伝いに行きました。
芝居の他に、役者との時間が調整などで時々ストリップのときがありましたが、たまたまそんなとき母が熱をだしてしまい、私に代わりに行って欲しいと頼まれたのに、意地になって行かなかったことがありました。

芝居小屋の思い出を思い返すと色々あるのですが、言語障害で上手く言葉が書けないのですが、
入場券も、家に帰って来ると、母は遅くまで整理をしていました。
税務の仕事だったのでしょうか、わたしも券の切り取り線の左右に同じ番号をハンコで印刷する手伝いを時々しました。番号を一番ごとにずらして押すのが結構邪魔くさい仕事でした。
まあ、役所の仕事だったのでしょうから仕方がない事でした。
役者さんの名前で、尾形桃太郎さん?と言う方がいましたね。
時々、昼間に妹が遊びに来ていて、役者さんと遊んでいました。

売店の売り物で、ジュースなどの飲み物は、阪急吹田(昔は市役所前駅)の泉町に飲料メーカーがありまして、そこに母の後からついて行きました。飲料品を小屋に運んでもらっていたからです。
昭和30年前後はまだ、阪急吹田から豊津に今のような道路がなく、阪急線沿いのちょつとした商店街の道を通って豊津に行くか電車にのるかしました。
この泉通りに、普通の二階建の木造役所の出先があり、一階に職員が居て、ここで声を掛けて履物をぬいで二階に上がると小さな図書館になっていました。
よく行きました。
ま、こんな事は兎に角、JR吹田駅(当時の国鉄)の線路沿いはまだ木造建築が建ち並んだあたりによくい行きました。
母に連れ立って、駄菓子問屋というのかで芝居小屋の売店で売る品の仕入れの為です。
一斗缶に入れるのて、私が居ないと大変です。

ところで、映画の事で覚えていることはあんまりないのですが、まず、1950年ぐらいまでは、吹田第一小学校の運動場とか疎開道路で夏の夜、朝日新聞などが無料映画会をしていました。
旭町商店街に有った映画館で1950年位に小学校の映画鑑賞に行きました。また吹田館か映劇か、もう覚えていませんがそこでも映画観賞を学校から行きました。ここは、一館だったのが、いつの間にか和洋二館
になっていました.

朝日町の省線側から細い道の飲み屋通りを抜けたあたりの記憶ですが、一度、トーキー映画を見た記憶があるのですが直ぐに無くなりました。間違っているど思いますが・・・

1968年ころ、丁度私が大東の消防学校へ行っていたころで、土曜日昼から日曜日だけ家に帰ることができましたのでその時に大映に行ったことがあります。
その頃は、旭町の外れに本部が有ったころで、火の見櫓の勤務もありました。
珠算3級を持っていた私が経理に選ばれました。

この頃、ソロバンが計算の中心で、電卓は使えるのは少数派です。
会計係は係長(後に消防長になられました)と係員が2名だった所に私が加わりました。そのうち1名は辞めたので、3名で万博の150名を含めて300名の事務をこなしていました。
鉛筆1本でも管理することが仕事でした。
給料日は、計算書に金種も計算したお金を袋に入れてもらって帰り、それを1人1人袋詰して渡すのです。
給料の計算と言っても超過勤務は別で計算するし、人勧で賃金規定が変われば遡って計算して差額支払いするし、万博の景気でベースアップもあって、また、計算をもう一度やり直して差額を支払いました。
役所の金がなくなるのと違うか、なんて言われました。
1年すこし前から万博消防吏員の人が増えて 、給料計算も更に忙しくなりました。

緑色の制服も、万博消防職員として頂いたのですが、一度も使えないまに終わってしまいました。


万博の3年前に北千里の消防に配属されました。
その頃、消防所のまえあたりの道路向こうに阪急の西口駅ができる予定でした。
まだ、静かな団地外れの場所でした。
また、JR岸辺駅からも万博中央駅のバスが出ました。
万博で150人ほども膨らんだ吹田市の中村卯一消防長は豊津の方で、一度家まで行きましたね。
消防の万博の終わった後、暫時大阪市を中心に元の市に帰って行きました。
私は仕事が終わってから、市の消防に付きました。

2年後、消防学校での士長の試験に受かりましたが、たまたま電気主任技術者の免許を持った技術者の試験があり、それを受けて通ってしまいましたので、そちらを選びました。消防には大変申し訳ございませんでした。

高浜神社では、琴の先生に無理を言って夏祭りの奉納演奏会をしばらくの間続けたこともありました。



色々な事を書いていると、いいことばかりの人生のようですが、実際は苦しいことも同じぐらいあります。
小学校でも、いじめられた先生もいたし、可愛がって頂いた先生もいました。
消防学校でも某教師にあることを言った事を根に持たれ何かあると、バツとして400mグランドを100回走る罰を言われました。そんなとき、E教師がいつも用事があると言って助けて?くれました。この教師とは亡くなられた時まで文の付き合いをしていました。
その他、思い返すと、楽しいことと同じだけ嫌なこともあります。
それが人生なのでしょう・・・・


         

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