トイレットと便 所

 No2

ロシア旅行で、トイレに何度か行ったのですが、それはそれで、別に特別な行為ではなく、日常生活の一つです。
朝起きて、ホテルのトイレに行き、その後の旅行では、トイレのある所を山口先生が教えてくださって、そこを使うことが普通です。

2,30年前の事なので随分古くなったトイレの話だろうと思いますが、聞いてください。
トイレは全て水洗でした。いや、そういう場所の所しかいかなかったからそう思っているのかもしれません。
しかしながら、今思えばそのトイレは、水で流して、川に合流するだけのものだった様に思います。
特に、延々と田んぼが広がっている中で、ポツンと一軒店だけ佇む所なんて、川に流しているハズです。
(と、勝手に考えました。)

日本では、かわやとも言われ、壺に直接排泄物を落とし込む、便所が戦後もしばらく使われていました。
また、万博の作られる少し前のころ、”万博成金”が言われたころの山田周辺で建物の造るのには、し尿処理が必要だが、その処理水を流す川の権利金額に驚きました。(この頃のわたしの知識不足の、水に関して何も知らずに言ってたのですが、川に排水することは、川の全てにおいて、知らずに流すこと等出来ないのですが…)
工事中の万博記  EXPO'70 消防必携
さて、面白いのは、トイレット用紙として、新聞紙を丁寧に4角に切ってならべたものを使っていたのが一般的な家庭です。
四角い紙のトイレは、いつの間にかロールに変わりました。
そう言えば、新聞紙は、かき氷の包みとかなんかの包みと言った、お菓子の入れ物にもよく使っていました。
なんか、便利でいて悲しいなですな…

昭和25年頃GHQ の勧告等で農地に使う事理を禁じられました。
これらのことから、し尿処理も変わり、便所の位置も、くみ取りが便利な様に、家の向き合った裏側とか、家の横手に複数の並んだ家のところを肥えくみの通り易い道ににて有ったものが無くなりました。

話は変わりますが、昭和3,40年位の吹田はまだまだ田舎で、私たちが母家を売り払い、一から生活をはじめたころの話です。
小学校4年のころでしたでしょうか、その頃、通りの向かいに、若夫婦の貸本屋さんが有りました。
おじさんは会社勤めで時折本を持つて帰って来ます。
休みの日に、近くの田んぼ(Y さんの田んぼでした)で、軽い草刈りをしに行きました。
その田んぼに肥溜めがありました。
さて、そこのおばさんは、2階建ての家の掃除、食事の買い物と、忙しい人でした。
そんなおばさんの手伝いではないのですが、貸本の手伝いをした駄賃に、新しく入った雑誌の付録をもらったり、本を貸してくれたりしました。
そうそう、子どもさんが1人いて、よく遊んであげたが、そのことで大事にしてくださったのかもしれません。
とても優しいおばさんで、何もすることがない時は、よく店に行きましたね。

落ちぶれた頃、母は、お爺さんの芝居小屋の手伝いをしたり、演芸大会の仕事のある時は手伝いしながら、o さんの家の政婦もしていました。
o さんは、豊津で食堂を奥さんとともにしていました。
いつも3,4人を使って寿司を中心にうどん等を出前していました。
なかなか流行っている食堂です。
oさんは、事業に積極的な方で、出資金を集めてたりして、学生寮をはじめたり、市場をはじめたりされた方ですが、気の毒な最後でした。
この o さんの家は、店から5分ほどのところにありました。
私のおじいちゃん、音吉の知人だから、母を助けてくれたのかもしれません。
私には、日曜日に秋田犬を1時間以上散歩に連れていくと必ずこずかいをくれました。
こずかいは母に渡しました。
散歩がすんでから、その当時、まだまだ珍しいテレビを見られるほうが嬉しかったです。
店は夜12時近く迄休みなく働きづで、おじさんも家を留守にしますのて、よく見ていました。
いつからか、兄貴とh食堂のほうも手伝うようになりました。
吹田橋と兄貴 吹田の機関車教習所
oさんのおばさんにも大事にしてもらいました。そのおばさんも、私の妹が経済的に逆になって、よく世話をしたそうですが、気の毒な最後でしたね。

とにかく、まだまだ発展途上ころで、店の傍に高川のトンネルが有ったころで、少し歩くとひばりが田んぼから真っすぐに飛び上がるのが見られました。只、のツボが多く残っているのが不思議な感じでした。
1955ころの茨木市駅前

下水処理場が整備された所は水が綺麗になっているように見えますが、産廃の処置のか汚泥をボイラー処置してから捨てなくてはなりません。これ等の費用などを負担していると同時に、これ等の設備、動かすエネルギーなどが必要だと考えると、すごく金のかかるものです。

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ところで、わたしももう、来年80歳になります。
もう、早くに寿命が尽きると思っていたのに、会社の退職者の会からお祝いを頂きました。
こんな自分が祝いを受けることが恥ずかしい限りです。
嫁さんも、今日の事も忘れてしまう様になってしまいました。
二人で阪急まで車で出かけ駅前の駐車場に車を置いて、少し歩いて、コーヒーを飲んで、また、決まったコースを走って帰ってくる毎日。

脳内出血で右側半身がだいぶん悪くなっています。
随分軽くなった感じですが、上手く身体を使わないと、いっぺんに悪くなります。
特に、足とか手などの不自由さは分かるが、内臓、特に、胃腸などの、私だったら右側の不自由さなは、人には分からない事です。


 トイレと便所と



人間は、美味しいものを摂取し、不要になった物を排泄してバランスがとれているが、私のように、体の状態が悪くなった時、このバランスを取ることがいか難しいか、これは医者に見ていてもらっても分かるものではない。
特に、排泄関係は、身体の調子、年とともに悪くなる。
このことを少し話をして見よう。