説話について

説話は広義に、「神話」「伝説」「説話(狭義=民間伝承説話)」の総称とし て使われています。


このうち、神話、伝説、等の説話を素材とした文学的な体裁を整えたものを説 話文学と言います。
 古い叙事文学、説話を蒐集した今昔物語集、宝物集の類や御伽草子のような 平安末期から鎌倉室町時代に現れた文学をいいます。

御伽草子:狭義には、亨保のころの「文正草子」「鉢かづき」などの刊行本。 広義には室町時代頃からの短編小説。
舞の本:幸若舞の台本。中性芸能。桃井直詮(幼名、幸若丸)
民話:民衆により伝承されてきた説話。詳しくは「民話てなーに」の項目を見 て下さい。
伝説:うわさ、風説、昔から人々によって言い伝えられてきた”言い伝え”神 話などを含めた、口承文学
御伽:戦国時代以降の君主のそばにいて話し相手となったもの。もとは、神祭 やお通夜、などで、睡眠を防ぐための「とぎ」に行われた話。
童話:子供のために作った物語。お伽噺や伝説、寓話などはばひろい話類。メ ルヘンや空想も含む。
昔話:むかしのはなし。古い話。口承文学でむかしむかしで始まる空想的な興 味を抱かせる話。「桃太郎」「舌切り雀」など。
口承文学:記録されず口承によって伝承された文学。
メルヘン:説話文学の一形態。神話、伝説にたいs、空想的で驚異を含んだ物 語。童話。 児童:こども。小学校在学生。あるいは、心身が完成期に到達して いない人。学校教育法では万6歳から12歳までの学齢児童。児童福祉法では、 満18歳未満。児童文学としては高校生位まではその範囲に含まれる。
      民俗学:民間風俗、民間伝承。常民に伝わる文化変遷を明らかに する学問。民族学。


ここで「(カタル)」とは何かを考えたいと思います。

柳田国男氏の「国語の将来」(創元社S14版 P125 話の発達)にこうあります。(要約)

「語」とはもとは単に二人以上が集まった人の前で隠すところ無く、もしくは 特に告げ知らせんがために叙述する事だけをいみした・・
(そして変遷があり)
カタリ上手下手が早く現れ従ごうてこれを専門として、また職業とする階層が 成立ち得たことであろう。
 語部と言う部局は久しからずして朝廷の制度の表面からは消えたが、その頃 からこれを衣食の糧にする者が地方に分散してますますその数を増したようであ る。
(略)
ハナスと言う言葉がカタルと言う言葉に対立する一語として標準語で用いられ ようとしているが、気をつけてもらいたいことは日本の領土の三分の二以上にか けてはまだそう言う動詞は知られていない。
東北は一般にシャベルまたはサベル、西の方の田舎ではイフとカタルとを以て 間に合わせ、中央部ではハナシスルと言うのが普通である・・・・・・・
少なくとも「ハナシ」が名詞だったことがわかる。
これに「」と言う漢語をを配したのは近年のことで前には「」だの「」だのと言う和製字を当てていた・・・・・
いまの心持ちからいうと話の無かった時代などは想像出来ぬようであるが一族 一邑の心を知り合った者の間では意を通ずるのにたごんの必要はない。珍しい叙 述や稍重々しい言明は兼ねて用意した形式の整った物語で表現しなければならぬ とすれば、話は本来無くても済んだのである。
咄の者などという職業の記録に見えだしたのは足利第三代の我儘将軍などの頃 からであった。
それより古くからは無かったとは固より言われぬが本来は今日のジョウダンな どと変化している雑談の中でも特に智功を弄し聞く人の耳を怡ばせたものだけを ハナシと呼んだのである・・・・
単にこの様な話を聴いてきた、またはこういう斯ういうことを言う者があると いうだけの噂話の類に至っては欠くべからざる一種であった。
これはまあ話として聴いて置いてもらうとかただそういう話だよとかいって責 任を負うまいとする風習は、均整のいわゆる人情本にもよくみえている。
しかし庚申待、日待、不幸の夜伽あるいはよりあいのあとか風呂もらいの晩と か、そういう話の需要は次第に増加してきたのである。・・・・
ただこれを原始以来の我が邦の風であった思ったら誤りだというだけである。
古い姿のハナシもまだ残っている、私達は特にこれを昔話と呼んで別にしてい るけれども、大抵の子供はハナシといえばこればかりだと思っていた。
そうして成人の間にも近い頃までこれが普通のハナシであって世間話や噂話と いうものもそれぞれにその「話」の影響を著しく受けている。
たとえば、普通にゲナという語を添えて言うために西部日本ではゲナバナシと いう名もあり他の地方でもダソウナまたはトイフ東北ではトゾの名残かと思われ る”アッタゾン”をつけるが、これが昔話だけでなく多くの世間話にも共通の叙法で あった。
つまり真実を請合われぬという意味で大いに民間に栄えたものである。
話を真実の歴史の上にまで延長しょうとするのは悪いことではないまでも新し い現象であった。・・・

児童には菓子よりも話の好きな者がある。しかし、かれら徹頭徹尾聴き手であ って話をする役ではなかったのである。
なぜなら、 昔話 の一つを取り上げて見ても、子供が年長者に向かってカタル形で伝わってい るものなど絶無である・・・
祖父祖母の物語を聴いた時代にも彼らに期待せられるのはゲニとかサソとかフ ンフンソレカラとかいう合槌を打って熱心に耳を傾けていることを示すだけで、 覚えてすぐにまた自分でも同じ話をすることはなかった。それには、口まねでな ければ移せない感じがあまりに多く混じっておりまた二度や三度聴いただけで承 継ぎ得るほどまで単純なものでなかったからである。
年寄りが昔話の宝の庫となるにはなお一生の間に何遍も黙って同じ話を傍聴し 、幼年、少時を追憶する機会が多かったからで国語の教育としてはこの方が遙か に価値が多かったのである。
それを、児童が話がわかるくらいなら話をすることも出来るはずだと思ってい るのは荒っぽい推論ではなかろうか。・・・・
児童を話好きにする好結果はむしろある年月を過ぎてからおさめられるように 自分などは考える。・・・・
笑い話のごとき上品で我々の心から面白がるようなものは、大人が笑うからま ずおかしいと心得るだけである。・・・
何回も黙って傍聴しているうちに想像も鮮やかになり、人の憂いや悲しみも身 に沁みてくるのである。・・・
詳しく叙説してもらって和やかな気持ちになるだけの聴き手が以前はしばしば 児童にまじって耳を傾けていたのである。・・・・
一言の談義も添えずに端的に胸を打たしめるということは、いはば言語の最終 目途であった。・・・
(ごく、ごく要約です。詳細は原書をお読み下さい。とくに、・・・・・・・ 部はかなり省略しています。)


照資料
広辞苑(岩波書店)、国語辞典(岩波書店)、机上辞典(誠文堂)
今昔、宇治拾遺物語(有朋堂明解シリーズ:青木敦)
日本伝説集(社会思想社:武田静澄)
国語の将来(創元社:柳田国男)
日本のわらいばなし、日本のふしぎ話(童心社:川崎大治、解説:松本新八郎 )
日本昔話(岩波書店:関敬吾)
童話への招待(日本放送出版協会:神宮輝夫)
日本百科事典(平凡社)

  ほか