蘇莫者/The Somakusya

聖徳太子が、法隆寺から四天王寺に行かれる途中、椎坂で”蘇莫者”を演奏さ れたら山神が現れ、舞を舞った。

(他にも、説があります。)

尺八本曲に「蘇莫者」と言う曲があります。
塚本虚堂氏の小論文によれば、昭和四年「三曲」で紹介され以来一般に知られるようになったとあります。編曲は多(おおの)忠告氏(シチリキの名家の方)で、荒木竹翁の高弟。
大阪・四天王寺の雅楽には「蘇莫者」と言うものがあります。この曲のシチリキの手を模したものという。

筝曲”竹生島”の竹生島もまた四天王寺と縁のあるもと言われています。

四天王寺について

日本書記によれば、聖徳太子が物部氏との戦のおりに四天王寺像を刻み、勝利の折りには寺塔建立を誓願、これにより玉造に創立。後、海外貿易の港の近くである難波荒陵に(現茶臼山付近)移設。かってはこの四天王寺のある港から飛鳥京に街道が延びていた。
昭和9年室戸台風により寺院は甚大な被害を受け五重塔が倒壊するが再興、然し再び焼失、現在は再建されている。
四天王とは金光明経の四天王品に説く四天王護国思想に基づくものと言われる。すなわち釈迦如来である。
四天王寺は、塔婆(五重塔)を金堂の前方に配置し、この塔婆を中心に伽藍を配置している。この建物配置は朝鮮半島からの影響を受けたものともいわれ、建築的には法隆寺よりも原始的なであると言われている。
塔婆は崇拝の象徴として、本尊にかわる重要な意味を持っていたのではないかという説もある。


敏達3年 (西暦574)> 聖徳太子誕生
用明2年 (西暦587) 聖徳太子、摂津の国に四天王寺を造ることを発願
推古1年 (西暦593) 聖徳太子この年に聖徳太子となる。四天王寺を灘波に造る
推古12年 (西暦604) 聖徳太子、憲法17条を作る。
推古20年 (西暦612) 百済人、伎楽舞を伝える。この伎楽を写しとめ、橘寺(大和国)、太秦寺(山 城国)、四天王寺(摂津国)に寄せ置く。
推古30年 (西暦622) 聖徳太子没