尺八課外読み物

飯田峡嶺


11.著名虚無僧寺 寺別略歴

金竜山一月寺

鎌倉時代の正嘉年間に創造され開基は金先(●先)居士である。
居士は正嘉2年(1258)10月13日入寂。
普化宗旧記一月寺の項によれば、次の如し。
開山は金先古山禅師也。金先と言うは人皇88代聖帝深草院の治天に建長の頃、紀州由良の法灯国師御入宋して帰朝の時普化禅師の四居士宝伏、国佐、理正、僧恕同船して我朝に至る宝伏居士暫く山城宇治の辺に居をしめ普化の禅を融通せんと庵室を結んで行住座臥の法容偏に普化の遺風を慕う居士専ら尺八を吹いて始祖振鐸の話に準拠す。
時に中秋の夜川辺にて一曲を催す。
其夜万里雲なく月光河水を照すこと金竜波におどるに似たり、爰において頓に水辺を起し一端をそめて一天清光満地金竜波と言句を設けたり其頃頭陀あり。
金先と名付く、宝伏の法莚につらなり倶に尺八を奏し行脚修行して所々を経巡り東に下り下総国小金の宿に止り光陰をすぎしむ。
然るに宝伏居士年を経て卒しぬ。
金先其法統をついで妙音また奇なり、聞く五感六欲の昔迷を照し本来無一物の順縁を結ふもの多し、髪に一宇を造立し宝伏の遣意に任て山を金竜山と号し寺を一月寺と号す。
此時の執権北条平経時、金先の碩徳を尊んで造立の大且那として之を経営し金竜山一月寺と言う。此の開山則金先禅師なり。
金先を以て菰僧の基とす。
「尺八筆記」には其後宝伏卒し金先一宇を造立し、宝伏の遺言により山を、金竜山と号し月は一翰万境を照す、普化の異名を取って一月寺と号す、普化を祖として益々尺八を吹き宝伏の素志を伝えん事を欲す。
正嘉二戊牛の春三月勅諚によって参内し尺八を奏しければ、天機叡慮ありて精舎、地並に禅師号を賜ひあまつさえ宸翰を染められ金竜山一月寺とす。
同年10月13日金先寂す。其徒金先の愈をつぎ二世の住職となる。
二世鼓岩了波のとき北条長時朝臣随喜し給ひ、新に堂塔を造営し霊仏庄園を寄附し給う。
また亀山天皇の文応元年(1260)三浦の一族戸部某其領地を没取され、家臣数十人と共に一月寺にかくれ行脚修行のうち、春が巡って北条時頼に召出されて旧主にかえった。
また文明年間(1470〜1486)50世住職覚祐の時代北条家没落で、堂中破損し寺領没落されたのを51世住職松滴と、二代の住職を助けて寺を再建したのが、狂僧小烏坊と言われる。
小烏は身長6尺3寸頭髪6尺6寸に及んだと言い、「文明の頃の人、頭髪は身に等し道を行く事、甚だ早く或る時箱根権現にて尺八を吹きしかば山谷鳴動す、吹終って八尺有余となり光明を放って去るといえり時人、多門天皇の化身なりと言う」一月寺の寺歴は同寺が慶応年間に焼けた為、殆ど不明であるが開山以来第115世は長田逸平と言い、その代で明治4年の廃宗となったが後にその娘婿が第116世として、一月秀興と名乗りその息正空117世をっいだ後また正空の兄がその跡をっいだが後逐には、寺は創価学会に売渡された。
また天文年中小金城落城して、一月寺破損したので大谷口から風早庄に移った。
この時豊臣秀吉が寺院保護の為「一銭切の制本山を下附した(万願寺に現存。
当時は方願寺の支配下にあった)之は矢張り明暗寺が興国寺の未寺である如く一月寺も万願寺の末寺となり指示を仰ぎ住職の任免をされていた。
一月寺最後の住織は宵海蚊竜で天保13年寂以後は住職なし。

廓鈴山鈴法寺

天文元年(1532)第17世湛空臣円大和尚が武州幸手藤袴村から、武ナ川越庄葦草村に居を移し、伽藍を築き正法を挙揚したと古文書に見る由。下がって慶長年間武州忍藩の吉野織部之助が、主家没落の後多摩郡霞村に新田を開発し、新居の井戸掘の用件で柏原に行く途中、旧知の月山養風(秋山太郎の剃髪した姿)に逢い、何処に住んで居られるかと尋ねたので、今は虚無僧となり葦草村鈴法寺の住職をしているが、御近所へ引越して暮らしたいが寺地を寄附願へないかと頼まれ、織部之助はお安い御用と引受け慶長18年9月草庵を建てヽ寄進し月山は其処へ移ったと吉野家に伝はる「仁君開村記上に記されている由。
現在は吉野家の右方2丁程の処に、鈴法寺跡があり総門の礎石と鈴法寺住職代々の墓があるのみ。
鈴法寺の過去帳は吉野家に保管されている。)
また付近の建長寺派寺院金錫山東禅寺があり、北方に旧鈴法寺の総門にあったと言う「武叢禅林」の届額が保管されている。
従って、明暗寺の親寺興国寺に当たるものが、之の東禅寺ではなかったかと考えられる。
尚明治4年の太政官布告により、廃寺の印を押したのは、役僧梅我であり之は住職ではなかった。

虚霊山明暗寺

当初は三条臼河橋付近に有ったが、寛永年中14世住職渕月了源の時、京都所司代板倉周防守より大仏池田町に寺地を拝領して移った。
普化宗廃正後は本尊の一つ、虚竹禅師の像と位牌は、東福寺内善慧院に移され、什物は悉く四散した∩また記録類は34世昨非居士が保管。
その孫秀次郎氏が京都布壬生松町36にありとまで判明している。

宝珠山観念寺(山号は高台山また宝慶山)

所在地:埼王県北葛飾郡宝珠花村(現在小学校校舎になっている)建物大きさ、8帖、6帖、4帖半で明治中期まで在った。
鉄透祖関は俗名三木一甫、将盈、豊后日出の産、木下藩揚心流剣法に秀で、感ずる処あって普化門に入り後、l月寺108世を継き宗務改革を行った。
後観念寺に隠棲し地方人に剣を教えた。

大光山安楽寺

鈴法寺末寺頭院号は三照院
所在地:東京都多摩郡調布町字上布田354番地
開基は天支永禄の頃(足利13代義輝)、開山は大光南州。
葬式其他の法要は真言宗栄法寺に於いて行われた。
本尊は薬師如来と風土記に有るが、弥陀の定印を結んだ尊像だから、阿弥陀仏である。
支政ll年再興願主竹居隠居宗原と像に記されている。
厨子裏面に次の如く記されている。
   活総末頭
   大光山三照院安楽寺24世現住
             開山我安置之

神明山清山寺

所在地:舟橋五日市にあり
一月寺の末寺頭である。
之の清山寺の看主か、神奈川の西方寺の看主かが、次代の一時住職に任じられた同現在(昭和12年頃)川澄寅雄氏所有となっている。

鈴鐸山普大寺

所在地:浜松市常盤町にあり。
昭和の初期に住職として、堀内是空(吉田一調門下の加藤松月門人)が80才で旧普大寺本尊を安置した堂守をしながら(山門も建立)●先派普化道場として、普化尺八の普及にっとめていた。

布袋軒

所在地:宮城県名取郡増田町
以前から秋田にあった、虚空山風袋寺出身の芭蕉和尚が開山。
伊達政宗尺八を好み、芭蕉を重用した。
政宗が米沢より仙台に、城を移したとき「芭蕉の辻]と称する付近に邸をあたえられた。
芭蕉は密使、間諜の用も勤めた。
本山は別になく、幕府寺社奉行直轄であったが、一月鈴法両寺の宗令によった。

林棲軒(松音山)

所在地:久留米東方約25K米、福岡県浮羽郡吉井町宮田(千年村宮田)
普化宗金先派金竜山一月寺末寺
開基 無外無眼禅師

松見山神宮寺

鈴法寺末寺頭
所在地:神奈川県伊勢原町大字伊勢原字北側247番地
境内地は287坪、伊勢原神明社の社寺をっとめていた。
開基年月は元和寛永の頃、同町のでさた年代と同じらしい。
本尊は普化禅師画像(行方不明)
現在、釣鐘、灯籠、手洗鉢、塔などがのこっている(伊勢原神明社にて使用)石灯寵には空山祖来の名あり、手洗鉢には閑山 我の名を刻す。
釣鐘の銘は永平寺住職大享貞の撰で文中「照見山神宮寺蘭快秀代」とある。

普化塚

京阪電車宇治行黄檗駅下車旧陸軍火薬庫付近に在り。
虚竹禅師の墓並びに明暗寺歴代住職の墓もあり、重修碑が出来ている。
上部に樋日対山著虚鈴の譜
下部に重修記下の如し
居号朗菴 塚呼普化 虚竹禅師心 迹可日示矣 禅師則明暗寺
開山虚無宗祖 天保中東岳 禅師修築之 小竹彼翁碑成 人皆仰之 明治以降虚無宗廃 洞笙蘭笠 掃無痕 而碑塚荒無 頼村民保護 留其跡耳頃者 爾以三 樋日孝道二君 欲重修之 明暗教会大輔其志 乃拡塚域 修草庵 美挙整頓 人益敬礼 二君功徳余音々竟能  無断 及記録 由以垂後世

        大正三年仲秋 浪華南岳藤沢恒撰

其下に重修特別会員名下の如く達なる(氏名省略)

海軍大臣     八代六郎
建仁寺管長   竹田黙雷
          禅居庵
          釈玄竜
          西村唯妙
          林誠一
医学博士    猪子止戈之助
          竹内柄鳳
          上田万次郎
          内田紫山
琴古流      荒木古童 他
宗悦流      伊藤虚眼 他
都山流      岩崎奇山 他
明暗対山派   小林紫山 他
明暗露月派   津野田露月 他
明晴教会京郡 山本彦兵衛 他