尺八課外読み物

飯田峡嶺


10.虚無僧略縁記(年代不明・星咬輝蔵)

  1. 虚無僧之元祖は於大唐珍州雲橋山に住たまう、普化禅師と尊敬奉る。
    日本の元祖紀州由良の光国寺開山法灯国師なり、元祖普化は元化人なり。
    大唐珍州隣国にりんさいという所あり、此地にゑいめい和尚とて名僧あり、此僧の法、繁栄助のために何方ともなく出たまい、かの師雲橋山に座ぜんしたまうを、ゑいめい夢中に拝みたまひかの山に登り我師のごとく敬ひて普化を同道して我等に帰らせたまい、常に法を聞たまぶ、普化は、折々市町へ入って鈴鐸を振って執行したまふと云。
    1.宗旨を元祖とたて普化禅宗と申、然るに其弟子虚無僧金山金松覚て常に、どうしやうと言う、竹壱尺八寸(原註歩)穴の数12ある笛を吹、是尺八の初也、元祖有時船遊びしたまえば俄に霧ぶり四方かすみ、船頭是を悲めば普化和尚彼宙を取て観音経を祈させたまへぱ、霧はるゝと言う。真後八百年以前(原註来)に日本の元祖法灯国師和尚比伊奈と云俗弟子を連れて入唐したまい、普化和尚に尊拝す。
    比伊奈は金山金松の笛を伝授し、後和尚を伴ぴ日本に帰り、比伊奈居士は諸国行脚を志し下総国にて清浄の地を求め小金といぶ所に金龍山一月寺と申寺を建立す。
    是日本虚無僧本寺の初也、末世に至りて此寺を総本寺とも触頭とも言う、代々色衣の寺也。
    然るに比伊奈は繁昌の念願有て此寺にて、六斉の薬風呂をたき諸人に施す、此故を以て宗門の本寺、本寺を風呂地と云、又風呂屋とも云、住持を風呂僧とも云、是人名付たり。
  1. 天蓋と伝起は比伊奈の弟子に隠覚と云人あり、元来武士にて、有時人をあやめ此寺にかけ込、我身を頼み、比伊奈是をかくまい、大きなる箱を取出し其中に隠し仏天蓋を頭にかぷせ置しに跡より追手も来らず、事納りて彼人を呼出し直に師弟のけいやくして此人を隠覚と名付、行脚の身となす。其時丸あみ笠を作らせ是を天蓋と名付たり、彼仏天かいの中にこもりしなり、其いはれを以也又次にけさを出し、又次に洞簫を取出して比伊奈彼隠覚に打向、汝我影によりて命助る、今又行脚の身となす依之三品の道具をあとふる也。
    天蓋は諸入に面を合せぬ為なり、袈裟は心を柔和にして志を求めさせんが為なり、此笛は声を諸人に聞せん為、是を赦すなりとありければ彼隠覚涙を流しながらに頂戴して、其座を立て出にけり。
    年月重ねて五とせすぎ又彼寺へ戻りけり、彼どうしやう笛を吹きわりし故、外に竹を求め一尺八寸に切、穴はヒツ略して五ツ穴となし、五智の如来を形取て又指にてこそは吹しけれ、其竹の間合の寸、下より上三四五六と読上る。
    是にて尺八天蓋の其謂荒増し如此なり。
  1. 唐僧は皆浮髪なり金山。金松。比伊奈。隠覚皆浮髪の僧にて百年余以前に至迄ずん切髪にて、油元結尤不用、然処に其後茶せん髪となり油元結用之、其謂は帰参の刻間に合せんがためなり、日本虚無僧の本寺都合八十三ケ寺、内八ケ寺は或る年余以前に絶地、今残て七十五ケ寺、法孫相続繁昌なり。
  1. 昔国々に書躰の虚無僧本寺あり、児はと云、是を二百年以前の比、清僧の虚無僧より潰す。
    ーケ寺残る、今尾州護屋の町に有之候、則、権現様御察の節、彼一寺の住僧供奉、同町の者共御供仕。
  1. 虚無僧の免を本則と云、又嗜道具あり、天蓋掛落尺八是を三ツ道具と云。
    次六服乾坤けんこんさし一刀ふくす此四品に有の三ツをかけて七ツ道具と云。
    本書に擯罰と云事あり、是は宗門の掟に有、其罪に依てはぐ事を云、右のごとく罪に依て三ッ道具扨は七ツ道具を、取あぐる事もあり、流命ひんぱっと云事またおしてをのぐと云事又は髪を半分そり、半分は其儘差置事もあり、扨又命を取事もあり、右の品々口伝有。
  1. 京都明暗寺開基は其名を基露虚竹居士と申、開山其尊名天法妙普禅師、二世
    は無法心外和尚、中興開山は元空淵月禅師と申。
  1. 同寺会合は正七月両度廿八日を当る月とす。翌廿九日より十日の間、面々寺役を相勤、門弟遠国にて病気の節は其断に書簡登之、会料快気の時全登山して納之、日本の内四国中に定宿無之、其外は定宿有之、尤も寺より宿手形遣す、住持の代替りの節、書改遣す、依之宿札に中候て他門弟又は俗門弟等其宿々立寄、本境界居し得は我名を申、礼儀を述候事、委日伝あり。

無僧本寺覚

下総小金 金龍山 代々色衣 一月寺 七十五ケ寺触頭 武州青面 青面山 鈴法寺 同 目黒 日光山 東昌寺 遠州浜松 鐸鈴山 普代寺 勢州打越 京明末 普済寺 武州金川 西光寺 甲州乙黒 妙安寺 越後中原 明暗寺 筑後柳川 大間山 光月院 筑前博田 一朝軒 相州高崎 慈昌寺 京 大仏三十三間堂下る 明暗寺 筑後生葉 林棲軒 長崎右町 玖埼寺 右七拾五ケ寺の内、十四ケ寺、尤山号失念
残る六拾壱ケ寺の内相州に十九ケ寺、是に従往古虚無僧持、但輪番也、三年代り、亦常州水戸侯領に八ケ寺有り各山号等失念、此外口伝有り。虚無僧の姿にて京都にて天上人、又目附其外諸国為一見高家衆析々御巡回候間何も常に相心得可被申候。慶長拾九年従の御公儀虚無僧宗門御取立の節、被為仰出候掟条々。
向後虚無僧宗門の儀は勇者の隠家として可成守護、武官の輩知行百石以上の牢人をかくまひ、表には僧行習い、内意には武士の儀を立、常に不乱意義、猶又本知帰参の節は則本寺より免を出し為還俗可差帰事。
  1. 諸牢人宗門入の節は生国本名を能聞届け、慥成輩計可取立之、其砌大小一腰、槍一本、具足壱領風呂地へ預置可申、武士たり共足軽風情或は百姓坊主町人、右の類堅宗門に人申間敷、併血刀を持て寺内へ持込候者は其品により下触たりとも可為武士同前事。
  1. 初心を取立宗門に人れ候節、法式執行万端老輩より可申間事。
    宗門の面々正七月両度の会日を定置、虚実を改、若為偽虚無僧或は会判等無之輩は何方にても、見届次第急度可為擯罰、並に旅宿出入、朝辰刻、晩申刻に可限事。
  1. 崇門の面々、武士の附合、出家神主何も可為同輩事、虚無僧宗門の面々、神主堂塔並貴人高家へ行候刻、又は道中或は水茶屋等にて天蓋を取り、諸人に面を合せ間敷候、尚又平生心安者たり共生国本名を口外有間敷事。
  1. 住所有之者本則願候はゞ武士牢人可免、医師出家山伏百姓等に不可指免、町人たる共武士の義類を能為たるものは可免、是等の者を俗門弟又は本則杯と可名付事。

右の条々堅可相守者也。

◎(註)以下解説は中塚竹禅師著「琴古流尺八史観」日本音楽社発行より転記したものである。発行所に連絡がとれなかった。-略-


(「みそたねくん」からの注記:解説のほぼ全文が前記「琴古流尺八史観」本からの転載であったので、解説の一部をあえて省略しました。詳細を知りたい方は、「史観」をお読みください。)