尺八課外読み物

飯田峡嶺


13.箏の歴史概要

琴の起源

弦楽器の起源は狩猟に使った弓を弾いて種々の音を知りそれが専門の楽器に進化したと考えるのが常識らしい。
高砂族のように弦の倍音を聞き得た民族もあり、弓に共鳴器をづけたり弓の弦の長さを指でづまんで変えることを知った民族もあれば、ちがった張力の弦を並べる事に成功した民族もあったであろう。
これらの音を作る上から分類してみれば次の三方法になる

(1)弓の弦の倍音奏法
(2)弓の弦を指で分割する
(3)音程の異なる弦を多数張るもの

日本の古代に弦楽器として存在したのは「コト」と言われる(3)の種類のものである。

曰本古代の「コト」

古書「御鎮座本記」に金鵄命、長自羽命、天の香弓6張を用い弦を叩いて妙音を供すとある。これ和琴(ワゴン)の起源と伝えられる。
日本神話に大国主命が素盞鳴命から琴をゆずりうけた話がある。群馬県出土の埴輪に「弾琴」がある。(膝の上に五絃の琴を置いて弾奏している)(伊勢崎市:相川氏蔵)静岡県登呂遣跡の出三土晶に[登呂式やまと琴」(1951.11.9出土)と東洋音楽会1952.10.命名したものがある。
素盞鳴命の神話(天照大神の怒りにふれて根の国に追放された)等にある如く、日本は古代から出雲地方等で朝鮮半島とは往来があったと考えられ、そのためか、古代の琴は朝鮮北部の「玄琴」(但し高句麗の王山嶽が改造する以前のもの)と共通するものがある。
従って、古代に朝鮮から出雲地方へ渡来したとも考えられる。

中国古代の琴

琴(キン)は神農氏が作り5絃に始まり周代に7絃になったと言う。
瑟(シツ)は伏義氏が作り5絃に始まり大瑟50絃中瑟25絃小瑟は5絃になったと言う。
何れも黄河文化の所産である事はたしからしい。

「こと」と言う語の起源

(l)オト(音)と言うのが訛ってコトと言った。
(2)弾ずる音がコンと音がするので「コンノオト」と言ったのを略してコトと呼んだ。
(3)天詔言(アメノノリゴト)を略してコトと言った本居宣長説は一般に信じられている。
(4)朝鮮半島北部古語で琴のことをKotと発音していたらしい。之が古代に出雲地方に入って来た。

以上の数種の意見があるが(4)辺りが一番信用の置けるものかと考える。


琴の種類

和琴(ワゴン)または、矮琴(ヤマトゴト)
琴(キンノコト)
瑟(ヒッノコト)(または、シツノコト)
琵琶(ビワノコト)
箏(ソウノコト)
新羅琴(シラギゴト)
百済琴(クダラゴト)

等の呼び名があったが(コトは絃楽器の総称となった)近代になり新羅琴・百済琴は亡び琵琶のことは単に琵琶となりキンノコトも琴と呼んでしまい、それからはコトと言えば、箏と和琴だけを呼ぷようになった。
なお、和琴も「ワゴン」「ヤマトゴト」と言う場合が多くコトと言うのは箏だけになった。

◎古代琴の形
膝の上にのせて弾奏するもので共鳴箱はなく、先に6個の突起のある板に5絃が張られたと考えられる。
この突起が、とびの尾のようなので鵄尾琴(トピノ才ゴト)とも言い、また天沼琴(アメノノリゴト)(アメノヌゴト)天鳥琴(アメノトゾゴト)とも言われた。

やまとごと

前記の古代琴は「やまとごと」或いは和琴(ワゴン)と称して、箏等と区別されるが奈良時代には神楽や古楽の伴奏に用いられた。胴長2米余6絃となり各絃毎に柱(ヂ)が設けてあり、奏者は床上にこれを横たえて右手に琴軋(コトサキ)と言う細長い角製のヘラを持て絃をかきならした。
時には左手の指で絃を弾ずる手法も交わる。

きんのこと

琴の外に筑(チク)と云う類似の楽器も有ったが消滅した。
琴は全長3.66尺を標準とし絃数は古くは5絃後7絃となり今日に及ぶ。
(これを我国では7絃琴と呼ぷこともある)
柱はなく左手指にて感所(カンドコロ)を押さえて右手の爪で弾ずる。
また之は机上に横置して弾じた。
「琴は禁なり邪念を禁ず」等と言われた。
孔子も平素之を弾じたと云う。また公衆の面前で演奏するものではない。
音は微弱で辛うじて小室内できこえる。

しつのこと

瑟は、今日の箏に似てそれより大きく全長は8尺と定められている。
絃数は、17、19、23、27等あったが、中古以来25絃と定まった。柱があり12律を完備し(1の絃から半音即ち1律の音程で2オクタープにわ
たり調律)床上に横たえ奏者は左右両栂指と食指とで絃を摘まんで弾く。
琴と合奏し琴の伴奏として用いるもので瑟のみの独奏は稀である。

◎琴瑟相和すと言う事
これは一般には夫婦相和すと言う解釈になっているが、元来儒教から出たことで夫婦の道を教えている。即ち琴を夫とし瑟を婦とすると琴は楽曲の旋律を繊細に導いて行くのに対し瑟の方は旋律の腰部を補助する様に奏する。
即ち、琴は主で瑟は従である。然し琴の音は弱く瑟は形も大きく柱があるので音が強いまた絃の数も多く、そのため出すぎて夫の働きを抑制する、そこで女の方は出すぎないように、夫の仕事を妨げないように、常に自分を制御しつヽ夫を助けるようにすれば家庭が円満に行くと言う戒めである。
(但し男女同権の当世にかヽる格言が何程の価値あるか私は知らない)

箏(そうのこと)

箏は中国で奏の世に造られたので奏箏とも呼ばれる。
一般には奏の将軍豪恬が造ったと祢されるが、豪恬は一生を殆ど西域地方の征戦に費やした武将なので、楽器など考案している余裕はない筈と言う説もある。

◎箏の起原に関する伝説
秦の宮廷に一っの立派な25絃の瑟があった。
之を妹姉が相争ったので中央より二つに分け13絃を姉に、12絃を妹に写えたが、元来瑟は竹で造ってあるので竹冠りに争うと書いて箏と名付けた。
秦の滅亡後姉は中国に留まり妹は朝鮮に逃れたので中国の箏は13絃で朝鮮の琴は「伽椰琴」(チアイェチン)12絃である。
ただし、秦時代の瑟は25絃ではなかった。また中国でも中古以来雅楽の箏は13絃、俗楽の箏は12絃であった。なお12絃の箏は中国に現存する由。要するに豪恬の創造と言うのは、実は西域遠征中にイラン系13絃楽器を戦利品として持ち帰り瑟に擬して鳴らしたので、原楽器が竹を以て鼓して鳴らしたので竹冠りに爭(戦争の意味)と書いて箏と言う字が出来たと考えるべきだとの意見もある。
何れにしても箏は、奏代に西域から来た13絃楽器を改造したものらしく形も長さ6尺と定めて瑟より小さく柱(ぢ)の立て方(調絃)は、12律に従うのでなく音階の5声に応ずるようにしたので瑟の如く伴奏楽器でなく独奏楽器として独立した。
中国では、漢以後次第に普及し、民間では独奏楽器として、宮廷・諸侯の間では管絃合奏の一員として加えられたが、近代に至り民間の合奏が盛になり清楽用の俗箏である12絃の箏が行われて13絃の箏は僅かに雅楽用として遣存する他珍しいものとなってしまい現在では衰亡状態にある。


箏の日本伝来

今から1200年前奈良朝初期或いはその直後頃伝来したと考えられる。
当時中国は唐の始めであり、宮廷中心の管絃楽器の一員としての箏と民間に行われた独奏用の箏とにわかれて居て宮廷中心の管絃合奏は、中国の宮廷から日本の宮廷に伝わり京都を中心とする雅楽となった。
また、民間中心の独奏的箏は、中国から九州に渡来し、筑紫流箏曲の基礎となった。
斯る伝来経路は、当時の中国支化渡来の通例と考えられ、琵苞の渡来も同様の経路をたどった。
大宝令の雅楽寮制度の中に箏師がおかれている。
東大寺献物帳中に「桐木箏壱張」と記されている。

我国の箏曲の区分

  1. 楽箏
    雅楽に用いる箏之は雅楽の編成楽器中重要な位置を占めて現在に及んでいる
  2. 筑紫箏(筑紫)
    室町以後北九州佐賀を中心に僧侶・儒者の問に行われた独奏曲及び歌の伴奏に用いる。
  3. 俗箏
    江戸時代より今日に至り専ら盲人の職業“当道”とされ、また、婦女子の用いたもの。
    八橋流、生田流、継山流、山田流の諸派を生じた。
  4. 新箏
    近代になり洋楽の影響により新形式のものが生じた。
    宮城道雄の短箏、17絃箏等が名高い。

平安時代の箏

初期には、琵琶については種々の話が伝わっているが、箏については(独奏曲は)
詳らかでない。末期の平家物語に小督の局が、嵯峨野の隠れ家で「想夫恋」
の曲を奏したことが有名である。

「想夫恋」にづいての諸説
  1. 雅楽曲の相府蓮(斉の大臣王倹の官宅即ち相府の庭の蓮を詠じた曲)の誤りだと言う説。
  2. 「想佛恋」と言う曲があったので、それを平家物語の作者がもじって「想夫恋」としたのであろうと言う説。(高野辰之日本歌謡史)
    ただし、「想佛恋」もまた相府蓮をもぢったものと考えられる。
  3. 唐には「想夫恋]と言う曲があった(白氏文集所載)が日本には伝来してないが[平家」の作者が仮に借用したと言う説。
何れも、甚だ不確実なものである。小督の局が嵯峨野で箏を弾いた事はどうやら信じられるらしく、その時の箏は「佐々波jの銘があり皇室御物として腎所御庫に収納されて居る由。
たたし、演奏の曲目は不明と言う事になるが、田辺氏説では歌曲の伴奏であろうと、そのわけは当時の催馬楽(サイバラ)朗詠、今様(イマヨウ)には箏の伴奏が用いられて居たからだと言う。

-続-