尺八課外読み物

飯田峡嶺


13.箏の歴史概要(その2)

筑紫流の発生

平安末期に京都中心に近畿一円に行われた箏は、鎌倉時代以後漸次衰亡して行ったが、壇ノ浦で滅亡した平家の落人等が原因して九州地方に箏の流行が移り筑紫流として近代に残った。
此の筑紫流箏曲が我国箏曲史上民間に行われた箏独奏曲の元祖と見做される。
ただし奈良朝に民間音楽の俗奏が中国から九州に伝来したものが連綿と続いてこれに京都方面から流れ伝わった上方箏曲が混合して出宋たものと言える。
北九州の箏曲は次の三種に区別する事が便利であるとされる。

  1. 善導寺雅楽久留米の善導寺に伝わる雅楽で学のみの曲ではない。
  2. 筑紫楽平安以後安土・桃山時代頃まで北九州各地に散在して発達した筆独奏曲後に賢順が集輯整理して筑紫流中に加え筑紫流秘詠や奥義の曲になった。
  3. 筑紫流安土・桃山時代に賢順が作曲した組唄10曲を基とし、これに、上記筑紫楽から来た秘詠8曲や奥義5曲を加え手法・奏法を統一整理して一流を開き、佐賀を中心に賢順を初代とし、江戸末期に至り明治以後急連に衰微した。
石川色子の伝説
宇田天皇の御宇九州彦山の彦山権現に参寵の析り内教坊の妓石川色子が唐人から箏を学び色子は、之を宇田天皇に授け奉ったと言う。(続日本記には仁明天皇の時内教坊に石川の色子という女があって、叙位されたと言う記事がのっている)この伝説の示唆するものは、平安朝にも中国から北九州には管曲が輸入されて居たと考えられることである。
また京都から九州に伝わる箏曲も平安中期・平安末期と、次々に渡状伝波したと考えられる。

善導寺楽にづいて

久留米善導寺に伝わる雅楽を特に善導寺雅楽と言う。始めは30曲余有ったが琴自在抄(安永7年9月百井定雄著)序支によれば当時既に「千秋楽」「白柱楽」「越殿楽」「太平楽」「青海波」「五常楽」の6曲のみが保存され、他は断絶して、之の6曲も横笛3、堅笛(箪簗ヒチリキ)3、太披1、合鼓(鞨鼓)l、箏2面の小合奏となってしまったと記されている。
これも、なお戦国の兵火に焼亡したものを江戸時代に辛うじて復活し得たにすぎない。

筑紫流の系譜

初代
賢順、阿部宗任の後裔、宮部日向守武成の子で、父武成は厳島の合戦に戦死、以後善導寺の僧となる。幼より善導寺雅楽を学び13才にて中国より渡来した鄭家定より琴、瑟及び箏を学んで妙技をっくし師を驚かした。

◎伝説によれば藤原藤秀が寄進した経巻の裏紙に雅楽の箏語(奏箏語調の越天楽譜とその今様歌詞らしい)が記してあったのを研究し、これを変奉してその歌詞を数句当嵌めて「富責」(フキ)の組唄を作曲した。
これが筑紫流組唄の始まりと言われる。
以後、組唄10曲を作る即ち筑紫流本曲である。その題名下の如し。

富責。春風。梅ケ枝。四季の乱。乱曲。秋夏曲。寒夜曲。花宴。秋山。四季

また北九州各地に遣存しておる古曲と鄭家定から学んだ箏曲、琴曲を箏に移して筑紫流秘詠8曲をまとめたその題名下の如し。

陽関曲。秋風辞。小倉曲。冬長歌。朗詠。帰雁曲。浮雲。乙女曲(1名滝落また筑紫流奥義5曲として、秋興三曲。雨夜曲。採菊。八卦曲。一絲曲。

以上の内、陽関曲、秋風辞は中国の琴曲として有名なもので、歌詞、発音も明音そのまま。(魏氏楽譜と発音同じ)
また朗詠、乙女曲(五節の舞の歌)帰雁曲、冬長歌等は京都雅楽系の移人と考えられる。
賢順は大友宗麟の知遇を得但て諸田(モロタ)姓を名乗り還俗した後、大友が切支丹を信奉したのでこれを嫌い肥前にかくれ夛久の竜造寺安順に仕え夫人千鶴子(鍋島直茂の女)に箏を教え、また多くの門人を養成した。
後朝鮮の役や慶長の大坂陣にも従軍。(寛永13年7月投90才)

二代
玄恕肥前諌早(イサ八ヤ)の慶巌寺の僧典誉と号し賢順の高弟、後京都に上り薮大納言に妙技を知られ、後奈良天皇の叡聞に供えた、玄恕帰郷後代人を送れと言う大納言の伝言で同門の法水と言う者が進んで上京したが技拙く辱めをうけ江戸にのがれて日本橋で柏屋と言う箏屋となった。
(之の法水が八橋検校に技を伝え八橋流箏曲の基となった)

◎伝説によれば玄恕上京中、後陽成天皇第8皇子良純法親王に筑紫箏を伝授申し上げた其の中で「懐舊曲」が、特に御気に入り常々御歌いになるのを都の人が聞き覚え「投げ節」となった。

三代
徳応鍋島勝茂の子で寛永16年10才で出家大運寺に人り晩年浄林寺の開祖となる。
超誉上人と号し玄恕の門人となる(正徳5年妓89才)これ以後筑紫流の中心は佐賀に移った。

四代
武富咸亮元禄3年肥前大財に孔子廟(大成殿)を建立し琴翁と号す、琵琶をよくした。
老母に孝行して貝原益軒に称讃された、京都に上り琵琶を天聴に達した。
(享保3年妓82才)「月下記」と言う筑紫箏の著書あり。

五代
村島政方咸亮の高弟筑紫流中興の名手と言われた。鍋島藩孔子廟(大成殿)の音楽司役となり、藩主の嗣子富丸の学師となり江戸に出て寛保3年病死。(42才)
政方は師よりl曲学ぷ毎に、必ず1000回復習した程熱誠でまた手法の改革も行った。
また多くの作曲もし之を「鎮西楽」と唱えたが、今は伝わるもの稀。

政方門下の伊東祐英は、その子伊東祐之(竜卿の号)に継ぎ祐之は筑紫流に関し「筑紫楽私記」「筑紫楽詠曲秘訣訓解」を著す。(文政元年正月高野山にて歿)
伊束祐之は、高弟今泉千春に継き千春は漢学を佐賀藩士伊東全竜に学び、私塾「立誠堂」を建てヽ子弟を育成した。
晩年藩の記録・祐筆、藩主の子の師範となり、天保7年歿(62才)著書に「松響閣箏話」あり。
技を実子今泉千秋に伝える。
今泉干秋は、明治4年佐賀県神社調役を命ぜられた。
後肥前の田島神社権宮司を経て後、東京蒲田の稗田神社宮司となり明治33年病没。(92才)
賢順より13世となるが以後、其の伝統は殆ど絶える。
千秋の門人野田聽松あり。
野田聽松は晩年京都の鈴木鼓村(京梅流箏曲の創始者那智俊宣と改名す)に伝えた。
鼓村の没後は京極流の後継者、雨田光平(福井市に現存)伝承されておるか如何か、それ以外には断絶かと見られる。
後京都の尺八家塚本虚童が苦心して筑紫流の資料を集めて研究復元中に、野田聽松の晩年の門人井上ナミが発見された。

筑紫流の演奏姿勢

古図によれば片脚を立てヽ坐したが、江戸中期よりこの風習なくなり普通の正座となった。

筑紫流の作法

盲人に教える事を禁じた。(法氷は八橋検校に伝授したために破門された)
(野田聽松が鈴木鼓村に伝授のとき津田青賢が秘かに聞こうと邸外に佇んでいたのでその折り聽松は弾かなかった)
浮いた女に伝授しない。(但し女子全体にではない)

筑紫流調絃(雅楽の水調(スイチャウ)・・・呂旋(リョセン)に属する)

10
平調 黄鐘 盤渉 上無 平鐘 下無 黄鐘 盤渉 上無 平調 下無 黄鐘 盤渉
→低8度← →中8度← →高8度←

之の調絃は琉球の箏に現存の由