尺八本曲

伝統の尺八曲である、尺八本曲について

ここで述べる尺八とはは、雅楽の尺八や室町時代の一節切尺八のことではなく、江戸時代の普化尺八、現在一般に尺八と称しているもののことです。
尺八の本曲は、基本的には尺八独管で演奏する曲(独奏)を指します。そして、吹奏には精神性を重んじ、各流派では最も重要な曲として扱われています。
尺八は、江戸時代には普化宗という宗教集団がありその集団の法器として、独占されていた時代がありました(明治4年まで)。
普化宗寺院には、関東に普化宗総本山として一月寺、鈴法寺という二つの寺がありその末寺が関東を主に全国にありましたが。関西にはやはり普化宗総本山と称する明暗寺がありその末寺がありました。末寺と言ってもそのほとんどは庵程度のものです。このうち明暗寺系には、古伝三曲を一に霧海じ、二に虚鈴、三に虚空を言い、別に三虚霊とも言う場合もあります。もともと、記録書、「虚鐸伝記」を良く読めば、普化宗明暗寺系の伝承話として、寄竹(虚竹)が朝熊山にて霧の中で聴いた妙音を師である覚心に尺八で聴かせたところ、その二曲に”霧海じ”と”虚空”と言う名を付けたと言う。なのにいつしか虚鈴の曲が増えてしまい、古伝三曲と言うことになってしまっています。このことについても同書では、元もと、虚鐸とは普化禅師が街中で鳴らしていた鐸(鈴)の音を、張伯と言う人物がその鐸音を尺八(虚の鐸)によって模して吹いたところの、尺八の別名である。それをいつの間にか、”虚鐸”の”鐸”と言う字の意味を知らない者が”鐸”という字に”鈴”と言う字をを当てはめてしまい”虚鈴”と称するようになった。その虚鈴がいつの間にか曲名に間違えられて伝えられた、とこう述べられています。
さて、この書「虚鐸伝記」を読んで一番不思議に思うのは。もともと尺八が中国から伝わったはずのなのに、何故、寄竹が朝熊山で聴いた曲が、尺八の一番重要な古伝三曲となったのかが分かりません。
さて、前述した普化宗の一月寺に、尺八指南役をしていた黒沢琴古という人物がいたのですが、彼は全国を虚無僧で行脚し、各地の普化寺に伝承している曲を集めこれを纏めたのが、今日琴古流と言われている流派の本曲と言われる曲です。
元々、尺八曲は普化宗と言う宗教組織の寺院独自の曲であり、琴古流などと言った流派などは無かった訳です。しかし、明治になり普化宗が廃止され尺八も吹奏が禁じられた時期を経て、尺八の吹奏禁止が解かれた後、尺八は普化宗法器から解放され広く楽器として普及する事になります。復興期、関東では一月寺、鈴法寺系で広く影響力のあった黒沢琴古の系列の尺八家たちを琴古流と称しました。
関西に於ける普化宗は、明暗寺系の虚無僧やその弟子の中から独立して様々な尺八家が現れますが、その中で、中尾都山によって創立された都山流、あるいは大正期、都山から分かれた上田流(芳憧師)さらに竹保流(酒井竹保)と言った新しい流祖によって作曲されたもの尺八曲も本曲とされました。
普宗系の曲に有名な「鹿の遠音」が有りますがこれは二人で掛け合い曲(合奏)をする曲で別格であるといえます。普化宗の流れを汲む虚無僧曲にも、近代になってから創作されてものや、あるいは編曲されたものが結構紛れ込んでいて、古伝と間違って伝承されているものもあります。谷狂竹の「阿字観」や高橋空山の「鑁字」など。
某虚無僧に教わったとか言うたぐいは、かりに教えを受けたとしても、だれから教わったのかその名前も定かでない程度の些細なものなので、伝承という人がいるようですが、これは大いに疑問視せざるを得ないわけであります。
ひょっとして、”教わった”と言っているが実はその御仁の創作で有るのかもし分かりません。
(たとえ、そうであったとしても、長い年月生き抜き、新たな古典名曲となれば、それはまたそれで音楽性を否定されるものではありません。)

昭和31年刊行の「名曲解題」の古典尺八によれば、月刊「芸海」連載の高橋空山師の稿として、都山流は「慷月調、春風、岩清水、霜夜、ほか」。上田流は「五月雨、落葉、湖畔の夕、雪の夜ほか」。竹保流は「胡蝶の戯れ、千代の壽、保津の川船ほか」が記載されていいます。
明暗系は割愛します。

左は佐藤晴美(seibi)の「尺八史」(未刊)より発信者が書き出したものです