虚無僧

虚無僧は普化宗の徒で、出家者として全国を行脚していました。
しかし、お坊さんのように剃髪していたわけではなくまた、お坊さんでもなく 、徒として所属していたようです。そして、基本的には武士(浪人)が虚無僧に なれる条件でした。
だから、適当な仕官口が見つかると、再び還俗したようです。
中には、黒沢琴古のように指南役として尺八を教えることを専門に、江戸など で、一般のお弟子を取っていたようです。と言っても、これは、庶民の音楽とは 無縁でした。
商業都市が形成され、一般大衆(といっても所謂、中流以上の人でしょうね。 )の生活と時間に余裕が出来てくると、文化も多様化してきました。
それでも、尺八は庶民には高嶺の花だったのでしょう、と言うのも、男伊達と 言えば尺八をカッコよく手にした歌舞伎絵が多くあるからです。
庶民の憧れのカッコだったんでしょうね。
いつも、かっこいい男は、少しやくざっぽくて、楽器の一つでも粋に奏する ものです。
しかし悲しいかな、多くの、真の芸術家はそんなにカッコ良くはありません。 いつも、生活の塗炭にもがき苦しんでいるようです。

【もう少し詳細】
虚無僧の起源は、「徒然草」に
<しら梵字という暮露、師の仇なる、いろおし坊という暮露と互いにつらぬき合いて死にたる・・・>
とある。この暮露なる者の語源は、”ぼろぼろ”の紙衣を着ているその容姿からくるものとも言われる。
この暮露が後に薦(菰・こも)僧と言われるようになる。薦は藁(わら)の筵(むしろ)を抱えた姿の乞食僧であり、薦(こも)僧-->虚無(こむ)僧と変化したと言われる。
何れにしても、両者共に室町頃までは尺八を吹いたとの記録はないが、室町から江戸初期にかけて、尺八を吹く薦が現れる。
この薦は江戸時代になり、鉢巻きに紙衣姿から編み笠に白衣の姿になります。さらに元禄頃にいたり、袈裟をつけるようになる。しかし、服装、袈裟共に鼠いろか白の地味なものであった。琴古流の祖黒沢琴古が活躍する明和(1764-)になってやっと現代人がイメージする深編み笠、錦の袈裟や笛袋と言った虚無僧が出現することになる。(この項、「琴古流尺八史観」参考)
このように、元禄にいたり薦僧が袈裟をつけるようになったと言うことは、ここで初めて薦僧が宗教と結びつけられ、ここに、普化宗と言う宗教がうまれた。また、そのために色々と宗教組織としての体裁が整えられたのではないかと考えるのである。かくして、薦の吹く尺八と、普化思想とが結びつけられることになる。
確かに薦の生き様が、古く中国の普化禅師の伝説に非常に似通っている。そして、何よりも、普化宗とは、正統に法嗣を引きついだ者がいない、絶えた宗教思想であると言うことである。このために、多くの偽史が多く作られることになる。

絵の中の天蓋、袈裟、着物をよく見て、下の虚無僧の変遷を読んでください。




三衣袋。無笛=桜井無笛先生
乾伸箱。
文字は、「明暗」が多いが、これは明暗寺あるいは、普化の明頭来也 、明頭打。暗頭来也、暗頭打の意から来ている。
しかし、結局は何でもよい。こだわらないことが普化の真意では?

扇子と、刀(尺八を入れて刀に見せてある)。他に印篭などを腰にぶら下げる 。

天蓋。時代によって変化しているが、一番ポピュラー。竹製、葦のものもある 。

「尺八史考」(栗原広太・竹友社)による虚無僧の変遷は次のように述べられ ている。
元禄以前 散髪に常の編み笠をかぶり、白衣の一重を上に着たり。
元禄ごろ 袈裟を着たり。笠は、浅く開いたもの。
寛延ごろ 丸ぐけ帯、編み笠のしたの方に窓あるもの。
明和以降 錦の笛袋を腰にさげ、笠は莟(つぼ)めた、伊達風俗
文政、天保の頃 はなはだ華やかな美服の僧多く、また、普通服の者も多く居た
嘉永、安政の頃 あまり虚無僧を見かけなくなる。
三都(京、江戸、大坂)の虚無僧
扮(装)に大同小異有り。 頭には天外と号する編み笠をかむり、尺八と言う笛を吹く。
袈裟を掛けて、法衣を着ず、藍あるいは、ねずみ色の服を着る。粗なる綿服が 多く、希に美服を着す者あり。
京、大坂 平裃の男帯を前で巻き結び、三衣袋を首にかけこれに、施米、施銭を納める。 背に、尺八の空袋を挟み垂れ、別に、袋に納めた尺八を刀のごとく、腰にさし、 五枚重ねの草鞋をはく。
江戸 三衣袋や空袋はなく、別笛は腰にする。衣服も京、大坂と同じだが、綿厚く、 女服のごとし。
旅行(行脚) 藍の綿服に脚半、甲掛に草鞋をはき平裃帯を前結びし、三衣袋を掛けず尺八1 本を持ち、1本を腰にさし、柳ゴオリを浅木木綿に包み背負う。天蓋は冠か、風 呂敷きの上におく。