日本音楽の歴史
- 琵琶、箏・三弦の歴史について少し述べてみたいと思います。
現在の”こと”と言うものは箏(そう)の”こと”を指し、元々は渡来してきた楽器です。
現在、”こと”と言葉は”琴”と言漢字をあて、琴(こと)と読んでいます。この”琴”は弦楽器の総称あるいは、共鳴胴に弦を張った楽器などと意訳されていますが、古来は琴(きん)の”こと”と言って明らかに、琴(きん)は固有楽器を指し示していて、”こと”というものが本来の弦楽器全体のことを指していたようです。
たとえば、今でも鉄琴、木琴、風琴(アコーデオン)というように、”琴(きん)”と言う文字を使った楽器がありますが、確かに楽器をイメージしはていますが、この楽器類は弦楽器ではありません。
さて、日本古来の楽器としては、倭琴(やまとごと)、琴(きん)の”こと”と言ったものがありました。かしこれらの楽器は平安時代の前半には古くさい楽器となり衰退し、新しく渡来した箏(そう)の”こと”が普及していました。源氏物語、枕草子ではもうこの頃、当世風の人は琴(キン)は古めかしい人々が弄ぶ物で当世風では大方、箏と琵琶となっている。それも戦乱時代の鎌倉・室町時代には姿を消すのですが八橋検校がでて、九州の善導寺の僧、法水や玄浄らに箏(そう)を学び、俗箏と言われるものを草案、以降、現在にいたるまでこの箏曲が引き継がれてきています。
箏・三絃は室町時代後期頃、もう少し正確には言うなら江戸時代から明治4年までの間は、全てではありませんが盲人の専業として保護されていました。これは、”当道”と言う盲人の自治組織であり、幕府の保護の下に、琵琶、箏、三味線、鍼灸等を仕切っていたわけです。
琵琶とか箏という楽器は、古く奈良時代ごろ渡来し雅楽や宗教の儀式に使われていました。
貴族文化の一つであったこれらは、盲人達により祭事節目に、「地神経読」を琵琶の伴奏に使っていました。
また、室町時代に入り、成仏と言う盲人に琵琶の伴奏で平家物語を語らせたのが「平曲」と言われます。
当時、琵琶法師達は、節目節目の儀式に呼ばれた見返りに金品を得たり、請いに応じて平曲を語ったり、一軒一軒流し歩いたり、人の集める場所で平曲を聞かせたりして喜捨をを受け生活の糧を得ていたのではないかと推測されます。
室町後期は戦乱世で無常観漂う平曲はそれなりの需用が有ったのかもしれません。このように、当時は賤業と呼ばれていた職に就いて盲人達は生活の糧を得ていたのですが、そこに、明石覚一と言う人物が現れ、社会的な地位向上や、生活の糧を確保するために当道座と言う、職業組合のようなものをこしらえました。そして、徳川時代に至り伊豆円一が幕府の庇護の元に当道座を確立し、盲人の専業として琵琶、箏等を占有したのです。ただし、これらは男子のみであり、女子についてはあまり明らかではありませんが、”ごぜ”という地域ごとの職業組織に属していたようです。
当道という組織は、盲人達を統制し巨大な社会勢力をなし、伊豆円一の政治力によって、一部の職業を独占する権利を得ることが出来たわけです。
幕府にとっては、組織を保護をするだけで、障害者の福祉や治安維持を一切を互助組織にゆだねることが出来たのです。
障害者達にとっても社会的地位の向上や経済的安定を得る、自立の道が開かれたわけです。
以降、明治4年に至るまでの間、原則的には琵琶、筝、三味線や鍼灸、あんまと言った盲人達のみに許されていた職業などを、一般人がその職業領域を犯すことは出来なかったのであります。
- 三味線の渡来について
三弦あるいは三絃といいます。(弦と言う字にこだわる方も居られますが、大体は、絃の字を使います。)は、字を見れば大体想像がつくと思いますが弦は3本です。
三味線は永禄頃、琉球(現沖縄県)から日本に伝わったと言われています。
沖縄には中国は明時代初期に、沖縄に移民した中国の帰化人によって伝わったと言われます。後、赤犬子が琉球歌曲を作ります。
このように琉球で進化した三糸(サンシンと言う。別説に二弦の説あり)が日本に伝わるわけですが、諸説があります。
その代表的なものは以下の通りです。
一つは、1560年頃、泉州堺の港に琉球(沖縄)に蛇皮線が堺に伝わり、中小路という琵琶法師が、長谷寺(堺市)に籠もり工夫改造して作ったのが三味線といいます。
もう一つは、文禄の頃、琵琶法師石村検校が琉球に渡り、蛇皮線と言う楽器を知り、帰国後三味線と言うものを作ったと言うものです。
その後、中小路、石村、虎沢と続き、この後沢住検校(浄瑠璃系)と、山野井から柳川の流れに分かれます。、柳川検校が三味線組唄を、また、野川検校が大坂で野川流を興します。野川は、柳川検校の後、浅利、浅妻の後の人です。
江戸時代の三曲の状況はどんなものだったのでしょうか。
「盲人の生活」(大隈三好著、生瀬克巳補訂:雄山閣)と言う本にはおよそ次のようなことが書かれています。
江戸中期を過ぎる頃、歌舞伎、芝居、浄瑠璃には三味線が欠かせなくなっていたが、当道座中の手中にあった。
そこで当道座中に指導を申し込んだがにべ無く断られてしまう。
その理由は古来の座法であると言う。
すなわち、
賎業とみなされていた職業者には教えないと言うことです。
歌舞伎・浄瑠璃等の側は困ってしまい、幕府に斡旋を願い出ます。
このように、幕府の斡旋で当道座の仲間が芝居関係者に教えたり、当道者仲間の作曲したものを演奏することが出来るようになったのであるが、当道座の仲間が芝居関係者と一緒に営業することはかたく禁止されていて、禁を犯せば所払いや、追放の刑に処せられました。
関が原の以降、世の中も安定化に向かい、文化が発展しだすと趣向も多様化し重苦しい平曲より華やかな娯楽に移るのも自然の成り行きで、筝や三味線文化が発展したものと考えられます。特に琵琶に比べ、音色が軽く明るい、移動性に富む三味線は時代に迎えられたのでしょう。
また、当道座中の構成員は失明した男子の集団であります。(ちなみに女子は”ごぜ”と言う各地に分散した小さな組織に属していたようです)
失明者には、先天的な者のほか、悪環境、栄養失調、流行病や戦乱で失明した者など当時はかなりの人数がいたはずです。
このような状況にあったわかですが、彼らは、古来の節目節目の儀式だけではなく、集いの席や教養・娯楽として、招かれたり、自ら手慰みに楽器を弄ぶ者に教授するとか、あるいはまた、若く美顔の青年琵琶法師に、贔屓(ひいき:今日で言うフアンかパトロン)がついたりして一定の収入を得ることが出来るようになったものと推測できます。
しかし幕府の倒壊により、明治4年、明治新政府の太政官布告で当道職屋敷は廃止され、当道組織と共に盲人の生活を支えていた琵琶、筝、三味線、鍼灸、あんまと言った盲人達のみに許されていた職業の占有特権は消滅してしまいました。
- さて、ここで邦楽と洋楽の関係について明治維新ころの歴史的な関係を少し述べて見ましょう
参考資料は「音楽五十年史」(堀内敬三著、鱒書房昭和17年刊)です。
日本では、前述のような歴史を辿り、特に江戸時代には鎖国という特殊な環境で、邦楽も日本独自の発展をするわけです。然し残念なことに多くの日本の音楽、いや、芸術は限られた階級階層の人たちにのみ伝承され、あるいは支持された芸術であって広く国民に支持されていたわけではありません。庶民的な三絃音楽であっても、お座敷芸であったり、色恋を中心にした唄であったりして、決して子女を含めた家族で楽しめる音楽であったわけではありません。
そんな鎖国の時代に突如現れた、黒船のペリー提督と共に、日本の音楽にも大きな影響を与えたのです。
長崎、函館、横浜の開講により外国の軍隊が駐屯し、そこで行われた集団軍事教練に鼓笛が使われ、礼式、儀式に吹奏楽が使われるのを目の当たりにして、それを、取り入れようとしたのです。
安政8年には幕臣関口鉄之助と白石大八が長崎に派遣されてオランダ人から鼓笛を学んでいます。
慶応2年に福井藩が仏式信号ラッパを採用
明治維新前後の官軍の曲「宮さん宮さん」を品川弥二郎、大村益次郎が作曲下とも言われます。これは、日本の音楽にはなかった、集団の移動に使う行進曲です。
明治2年:薩摩藩士肝付兼弘が横浜の英国歩兵隊に学び、この時、軍楽隊を目の当たりにして、軍楽隊を作ることを藩に建議、日本に初めて吹奏楽が取り入れられる。然し、楽器が足りないのでロンドンから取り寄せたため、到着が翌年となる。
明治3年:薩・長・土・肥の藩士からの徴兵が廃止されたので、軍楽隊も薩摩へ帰郷するがここでも音楽隊を組織する。雅楽局が置かれ、神学、雅楽が行われる。楽人と言う呼称が伶人となる。
明治4年:薩・長・土藩から親兵隊(後の近衛兵)が召集されるがこの時に薩摩藩の音楽隊員も含まれる。
兵部省では、薩摩藩を中心に鼓手を集め軍楽隊を創設。
明治5年:文部省発布に学制に、唱歌(小学校)、奏学(中学校)を規定するが、”当分除く”とあり。
明治6年:キリスト教解禁、賛美歌をリードオルガン等で伴奏
明治7年:雅楽局の若手を中心に西洋音楽を学ぶ
明治9年:宮中で伶人による吹奏楽演奏
明治11年:東京女子師範学校で、日本初の唱歌教育を始める。教材がないので式部寮雅楽課に創作依頼。
元もと日本の音楽には、遊郭での余興、祭事、儀式と言った、大人向けのものが主で、子どものための音楽は皆無であった。
明治12年:雅楽課内の有志で「洋楽協会」発足。
文部省に音楽取調掛が創設。東西二洋の折衷音楽を創作、将来の国楽者となるための傳習生の育成、諸学校に音楽を実施の三項目を主たる目的とする。
明治13年:東京師範付属小学校と、東京女子師範学校付属幼稚園で唱歌教育実施
傳修生募集する。教師は伶人3名、中野博子(ピアノ)、山田流箏曲家山勢松韻と弟子2人
明治14年:傳修中に教材を作成、「小学校唱歌初編」刊行
明治15年:音楽取調掛傳修生規則の改正、傳修生4年とし、学科は修身、唱歌、ピアノ、箏、オルガン、胡弓、専門楽器、和声楽、音楽論、音楽史、音楽教授法。「小学校唱歌続編」刊行
明治16年:「小学校唱歌集第2編」刊行
明治17年:「小学校唱歌集第3編」刊行、「箏曲集」初編を山勢松韻等の採譜で発刊(五線譜)
明治20年:文部省直轄の東京音楽学校の創立。