委員長報告

委員長報告


1 はじめに

 平成7年10月14日(土)15日(日)の両日にわたり、熊本県阿蘇郡小国町及び山鹿市の視察を実施したが、非常に大きな成果を得ることが出来たと思う。詳細は後述するが、参加メンバー全員が素晴らしい出会いを体験することが出来た。ここで得た感動はそれぞれのメンバーの中で根付き、芽生え、大きな花を咲かすと信じている。

2 視察内容
<小国町>




 熊本県最北端、阿蘇山系の北部に位置する山村。旧国鉄の廃線に伴い、村の中心部にあった肥後小国駅跡地に建設した交通センター「ゆうステーション」を契機として小国の「まちづくり」が始まる。小国のまちづくりについて、研修施設「木魂館」館長、江藤 訓重(えとう くんしげ)氏にお話を伺った。(以下講演要旨)
 小国は250年前から林業を中心とした町であった。過去何回も林業のおかげで潤ってきたが、昭和55年頃から衰退の一途を辿っていった。国鉄廃線に伴い、駅跡地に交通センターを建設するとき、就任直後であった宮崎町長は、「木材のまちであるからには木材で情報発信が出来るようなものを作る。ただし、新しい工法で建設する」ことを決めた。これは、例え木造建築のような伝統的なものであっても、今生きている時代を反映させなければ意味がない、という考えに基づくものであった。交通センター(ゆうステーション)の設計を熊本県出身の建築家、葉祥栄氏に依頼するが、葉氏は「光と風」をテーマとする建築家であり、ガラスの使用を得意としているが、木造建築はほとんど扱ったことがなかった。その葉氏との出会いにより、「木造トラス工法」という全く新しい工法による施設が実現した。しかしこれは当時の建築基準法に適合せず、建築基準法改正のために相当の努力が必要であった。結局町長の努力によって法改正がなされ、同一工法による3施設「ゆうステーション」「小国ドーム(体育館)」「商工会館」がほぼ同時にオープンする。しかしながら、非常に現代的な建築物であるこれらは、費用が在来工法より高くつくこともあり、相当住民の非難を受けた。だが、これらの建物が、建築の賞を受けたことで、一躍全国の注目を浴び、それから同種の建築物が官民を問わず建設されるようになる。木造トラス工法という小国町における建築の座標が出来たのである。ここで、江藤氏は一つの教訓を話してくれた。「(まちづくりの)最初の段階ではコンセンサスは重要ではない。物事を作り上げるときに、皆の意見などと言うものほど当てにならないものはない。大切なことは「一人でもやり通す」という意志であり、それに賛同するものが現れ、初めてコンセンサスが形成されるのだ。」
 続いて宮崎町長は、研修・宿泊施設「木魂館」の建設に着手。これの検討を江藤氏を中心とする「町民プランニングシステム」に委ねる。「町民プランニングシステム」とは民間3〜4名、関係する行政の職員3名からなるチームで、年間50万円の予算(使途は自由)をつけた上で、町長に企画書を提出。行政機関のルートを通さずに直接町長が決済するシステムであり、民間の新しい発想を行政の慣行によって潰してしまわないよう考えられたものである。中心人物である江藤氏は行政職員ではなく、タウン誌を発行したり、小国町が作った「小国みらい塾」(ユースフォーラムのようなもの)の塾長をしていた人物で、町長が「こいつは面白そうだ」と目を付け、指名したものである。江藤氏は木魂館の館長となり今に至るが、行政からの束縛を受けることなく自由に館の運営を行っている。江藤氏はこう言う。「人を育てるのは任せてしまうことしかない。若いやる気のある奴を集めて、すべて任せてしまうことが必要なのだ。」江藤氏は「小国みらい塾」については否定的である。「みらい塾では、色々勉強させてもらったが、結局それが住民には広がらなかった。「まちづくり」という抽象的なものを追いかけたこと、また、同じ顔ぶればかりが揃うことに原因があったのではないか?」また、「みらい塾」以降、小国にはたくさんの個人中心のグループが出来、活動を始めた。しかし、個人中心の故にリーダーが意欲を失うと潰れてしまい、結局町には広がらなかったと言う。それはさておき、研修施設「木魂館」の誕生は町民に大きな刺激と自信を与えた。町民が利用すると同時に、外部からの見学者・研修者が訪れるようになったのだ。町民はそれらの人々(建築関係・芸術家などを含む)と交流することで、刺激を受け、新しい知識を学び、町に対して自信を持ち始めたのである。その自信が新しい行動を生み出し、その結果がまた新しい人を呼び寄せる、そんなサイクルが生まれた。江藤氏は言う。「農村にソフトなんかない。ハード先行でいいじゃないか。ハードが出来て初めて住民の要望が生まれ、木魂館のソフトが出来たのだ。」


 ここまでの小国町のまちづくりをまとめると次のようになる。

林業の退潮により町が衰退する→生き残るためには山村の体質を変える必要がある→そのために住民の視点を広げなければならない→外から人が集まってくるような仕掛けを作る→そのためには世界に通用するもの(ハード)が必要→木造トラス工法による建築がスタート→人が集まってくる→住民と外部の人とのつきあいが始まる・外からの小国についての情報が入る→自信をつける・ノウハウが蓄積される→様々な活動が始まる

 さて、これまでの小国町のまちづくりはどちらかというと行政主体であったが、住民主体のまちづくりのために「地域デザインづくり(自分たちで自分たちの町をデザインしていく)」が始まった。それが、6つの地区別に行われている「土地利用計画づくり」である。しかも、地域の主役を変えるために、2010年の土地利用計画をである。20年後の土地利用のためであるから、必然的にメンバーは20代から40代の若い層に限定される。未来の土地利用計画は、目標がないと立てられない。目標探しのために地域を見て回ることが始まり、そこで地域に対する愛着が生まれた。例えば、西里という地区では、目標を「遊んで暮らせる百姓(!)」とした。農業を基盤とする地域づくりである。農業を基盤とするからには水が大切である、ということで、下水道がいるぞ、という結論が出た。しかし、若い衆が言ってもなかなか受け入れられない。そこで、土地利用計画チームは一計を案じた。住民を集める手段として、カボチャ(この地方では「ぼぶら」という)の栽培コンテスト、「ぼぶら祭」を企画した。元々が農民ばかりの住民は一生懸命カボチャを作り、ぼぶら祭に参加した。集まってきた村の人に土地利用計画チームは「ぼっちゃん計画」を発表した。(西里地区は川の上流にある。上流にすむ家庭は上流家庭である。上流家庭の息子は坊ちゃんである。坊ちゃんは「ぼっちゃん」というようなトイレを使ってはいけない。だから下水道が必要である。)まるで落語のような話だが、それが住民に受け入れられ、山奥の地区に下水道が出来たのである。いま、この地区では住民全員がヘリで上空から村を見て、新しい土地計画を練っている。とりあえずは、住民が交流できるサロンのような公園を作るようである。他の地区でもこのような動きをしており、住民主導のまちづくりはどんどん進んでいる。つまり、土地利用計画チームは「町民の夢を実現させるシステム」なのである。
 最近感動したこととして、江藤氏は次のような話をした。北里地区というところで、老人たちが野菜の直販所を作った。野菜を作って売るために休耕田が復活するという副産物も生まれたが、直販所では毎日交代で老人たちが立って野菜を売ったが、その老人たちが病気をしなくなったという。生き甲斐が生まれたのだ。老人たちは「ムーンライト交流会」というイベントを行った。そこに集まった若者たちを老人たちは一生懸命もてなしていた、その姿が印象的だったという。
 江藤氏は小国の人づくりには技術が必要であるという。例えば、小国では板金の技術を磨いている。その技術を求めて、最近大企業の工場が出来た。一つの技術立地が出来たのである。
 最後に江藤氏はこういうことを言った。「小国では若者がたくさんいるように見えると言うが、本当はそれほど数が多いわけではない。若者が元気に活動しているからたくさんいるように見えるのだろう。」また「次の世代を育てることは、今の世代つまり自分たちが楽しく暮らすことだろう。自分たちが楽しく暮らしていれば、次の世代は勝手に育つだろう。」





 その後、江藤氏の案内で、「小国ドーム」「ゆうステーション」「坂本善三美術館」を見学。小国ドームのお陰で、小国の子供たちのスポーツのレベルが上がったという。すなわち、子供たちの練習中にも見学者が絶えず来るということで、子供たちが見られるのに慣れるということ。そして、ドームでレベルの高い試合も行われるようになったからだそうである。また「ゆうステーション」は土産物などで2億円の収益を上げる観光施設になっているが、実は観光のために作ったものではないという。町の若い人たちが待ち合わせ出来る、そんな場所をイメージして作ったし、実際そういう風な使い方がされているという。だから、仮に観光が駄目になっても、「ゆうステーション」の存在意義は失われない、地域住民のための施設なのだから、と言ったのが印象的であった。
 小国町の視察は、正味約2時間30分。メンバーからは、もう少し話を聞きたかった、もっと色々見たかったとの声が強かった。

<山鹿市>




 山鹿市は熊本市の北部、菊池川沿いにある地方都市。山鹿の歴史は古く、数多くの古墳群に見られるように1300年から1400年前から文化圏を形成していた。また、温泉地としても古くから知られている。その温泉と菊池川の舟運によって江戸時代に栄え、明治以後は熊本県城北地方の交通・政治・経済・文化の中心であり、また旦那衆のまちでもあった。昭和29年市制施行。現在の人口は約3万4千人のある意味で五條市とよく似たまちである。
 山鹿市の視察については、山鹿八千代座桟敷会世話人の城 恵一(じょう けいいち)氏にご案内いただいた。なお、城氏は今回の先進地視察の段取り、打ち合わせ、手配等すべてしていただいた方で、熊本空港到着から出発まで、丸々2日間(事前調査を合わせると4日間)ご案内いただいた。

〜古代の森コンサート〜

 山鹿市にある古墳群を公園として整備し、「古代の森」と名付けているが、訪問客が少ないため、市民にコンサートに来てもらうことで「古代の森」の良さを知らしめたいという意図で始められたコンサート。今年で3回目を迎える。視察できたのは終演前のほんの数十分であったが、夕闇の中で行われるバンド演奏(地元の有志。年齢50歳前後)はとてもアットホームな雰囲気が感じられた。イベントそのものは朝10時から午後7時まで、五條メロディフェアと同様、市内の小中学生・市民等が演奏を繰り広げる(ゲストはなし)。メロディフェア同様、実行委員会組織を組み、市からの補助金100万円+寄付金の総額120万円で運営しているそうだ。実行委員会メンバーの多くはそれぞれバンドを組み、出演したりしているという。城氏も毎年出演されているそうだが、今年はユースフォーラムのために断念された模様。いずれにしても、五條メロディフェアの原点のようなイベントであったと思う。

〜懇談会〜

 宿泊先の田島旅館(専務が桟敷会の世話人だという)にて、城氏・桟敷会代表の高武(こうたけ)氏・世話人の上野(うえの)氏を交えて懇談会を開催。メンバーは個々に懇談をした。なお、高武氏は西南戦争のころのたばる坂の戦いを映画にする準備を進めているという。高武氏は後述する八千代座に関連してこう言った。「古い遺産を今必要ないからと言って壊してしまうのは間違いだ。いま必要ないのなら、将来必要になったときのために、せめてきちんと保存すべきだ。」

〜八千代座〜




 明治時代、温泉と商工業で栄えた山鹿の旦那衆が劇場組合を作り、一株三十円の株を買って出来た芝居小屋。明治44年にこけら落とし。地域の娯楽の中心として栄えたが、昭和40年代以降の庶民の娯楽の多様化により衰退の一途を辿る。昭和55年八千代座組合は建物を山鹿市に寄付。しかしながら、閉鎖されたままの八千代座は老朽化を続け、ひどい雨漏りがするような状態で、解体もささやかれ始めた。朽ちかけていく八千代座に一番心を痛めたのが華やかだった頃を知るお年寄りだった。老人会は一人1000円の「瓦一枚運動」を展開、行政や若者が応援する中で昭和62年5万枚の屋根瓦の修復を実現。八千代座の復興が始まった。八千代座の復興に至る道のり、これからの活動について城氏にお話を伺った。
 最初、老人会が「瓦一枚運動」を始めたときは、「何だあんなもの」という冷淡な気持ちで眺めていた。しかし、行政に言われ、八千代座復興既成会に入り、ぼろぼろに朽ち果てた芝居小屋を月に一回掃除しているうちにだんだん気持ちが変わってきた。決定的だったのは昭和63年、八千代座で行われた永六輔さんの講演だった。「ただ、八千代座がそこにあると言うだけでは駄目。芝居小屋は使われて初めて生きてくる。」永氏は集まった若者を叱咤激励したという。意気に感じた城氏ら青年会議所メンバーはすぐさま実行委員会を結成。八千代座の復興記念イベントとして11月に博多淡海一座の公演を開催することに決めた。教育委員会の許可を取ってすんなりイベントは成功するかと思えたが、消防法や建築基準法を満たしていないことを理由に、市議会が猛反対。使用許可も棚上げになってしまった。10月には博多淡海一座の座長が病気で倒れ、また昭和天皇のご病気が重く世間では自粛ムードが漂っていた。城氏は述懐する。「本当は、座長が倒れたこと、天皇陛下のご病気が重いことを理由にして、こんなしんどいことやめてしまおうと思った。でも、ここでやめたら八千代座は永遠に使えなくなってしまう。そう思って頑張ったんだ。」役所を駆け回り、市会議長に直談判する日が続いた。公演3週間前にようやく、消防署が消防車を小屋に横付けしてやろう、という話になり、許可が下りた。公演5日前、地元紙に八千代座復興の記事が大きく載り、その2日後に城氏がラジオ出演して八千代座復興の「想い」を熱っぽく語ったことも相俟って事務局の電話が鳴りっぱなしになったという。そして、公演当日、開演3時間前にはすでに300人もの長い行列が出来たという。大成功だ。
一度公演が出来れば、許可も下りやすくなる。城氏たちは八千代座の保存・活用運動を担うための市民グループ「桟敷会」を結成、八千代座で様々な活動が始まった。そして平成2年、一通の依頼状をきっかけに板東玉三郎公演が実現。八千代座は全国に名を轟かすことになった。城氏は言う。「八千代座に色々な人が集まるようになり、集まってきた人々がまた何かを始めるようになった。八千代座を中心に人が動き始めたのだ。」八千代座では現在、大小合わせて年回100回近くも利用されている。大きな公演だけでなく、例えば幼稚園の発表会、市民団体の演奏、等々地域に密着した形での利用がされている。しかし、復興したとはいえ、八千代座はまだ建築基準法や消防法の基準をクリアしたわけではない。法をクリアし、これから先何十年も使い続けていくために、大改修が必要だという。早ければ来年にも改修工事にはいるが、工事に入れば3年間は八千代座が利用できなくなる。「3年間の空白があるということで、その間今までの熱が冷めてしまうおそれは十分にある。しかし、これからの若い人材をどう育てていくかなど、やるべきことはまだまだある。私はあくまでも八千代座桟敷会にこだわって、これからも活動を続けて行くつもりだ。」こう語る城氏は、メンバーの「山鹿で一番自慢できるものはなにですか?」という質問に、「人です。一緒にやってきた桟敷会のメンバーが私の一番誇れるものです。」と即座に答えた。
 なお、八千代座周辺の旧豊前街道沿道は決して十分な状態で街並みが保存されているとはいえないが、最近になって「景観形成を図る上での基本方針」が定まり、補助金等もつくようになったそうである。数年先に、八千代座を中心として素晴らしい街並みが形成されることを信じるものである。
 その後八千代座を見学。木造トラスの素晴らしい建築物であり、音響効果も抜群であった。プラザファイブを見学後、「夢小蔵(八千代座資料館)」にて昼食を挟んで懇談会。山鹿市の課長と質疑応答を行った。

〜プラザファイブ〜

 「山鹿千軒たらいなし」と謳われたほどの温泉地である山鹿市の中心部に、参勤交代途中の細川藩主が使った「御前の湯」を起源とする公衆浴場「桜湯」が道後温泉と同じ棟梁の手によって新築されたのが明治3年。「湯の街山鹿」の象徴として、また市民の交流の場として長年愛され親しまれてきた。「山鹿灯籠民芸館」でその模型を見たが、道後温泉をしのぐ規模を持つ、素晴らしい建物であった。しかしながら、昭和50年、国道の拡幅事業をきっかけとした市街地再開発事業により、桜湯及び周辺の旅館・商店が取り壊され、複合ビル「プラザファイブ」が誕生した。延べ床面積2万8千平米の巨大なビルは、スーパー・名店街・住宅・温泉・プール・市民会館などを収納した、高度成長時代の山鹿市を象徴するものであり、西日本のほとんどの市町村が見学に訪れたという。プラザファイブの誕生により、山鹿市の商業統計に見る売上高は激増し、例えば昭和49年の売上高約100億円に対し、ピークの平成2年には340億円に達している。これは山鹿市の人口がさほど伸びていないことを考慮すれば素晴らしい数字であり、この時期の山鹿市の発展に大きく寄与したことは間違いがない。しかしながら、市民(及びその周辺住民)の購買活動がプラザファイブに集中したため、プラザファイブに出店していない商店は衰退し、またこの地にあった旅館街は郊外の住宅地に移転を余儀なくされ、これまた閑古鳥の鳴くような状態であるという。しかも、プラザファイブ自身が、ここ数年の中小スーパーの林立により競争力を失ってきており、来店者数はピーク時の3割にまで落ち込んできている。しかも、ここに来て郊外に大規模スーパーが相次いで出店する計画があり、今や危機的状況にあるといっても過言ではない。管理組合専務理事の田上氏にお話を伺ったが、権利者が多数存在するこのビルについては、リニューアルも難しい状況であるようだ。当時の市民の総意によって、古くからの温泉や旅館街・商店街を潰し、まちの中心部を分断して作られたこのビルについて、良い悪いの判断を下すのは難しい。しかしながら、今は少しばかり老朽化し、汚れてしまったプラザファイブの入り口に、ぽつんと残された桜湯の玄関を眺めるとき、なにかしら寂しさのようなものを感じさせられた。

〜肥後古代の森〜



 山鹿市周辺には数多くの古墳群があり、山鹿市・鹿央町・菊水町のそれぞれの古墳群を公園として整備し、「肥後古代の森」と総称している。鹿央町にある「古代の森」には安藤忠夫氏設計による「県立装飾古墳館」があり、見学させていただいた。

<まとめ>

 小国町と山鹿市。片や行政主導で無から有を生み出す。片や民間主導で古くからの文化遺産を復興させる。うわべは対照的な町と市であるが、本質的には同じであると思う。すなわち、
ハードが出来る(復興する)→注目を浴びる→地域の住民が利用し、外部から人が集まってくる→交流が生まれる→情報が入り、まちに自信が生まれる→新しい活動が始まる→また人が集まってくる→・・・
このようなサイクルが誕生し、そのサイクルの中で人が育ち、まちが作られていく。肝心なことは、行政がどう、住民がどう、形がどうということではなく、いかにして人が育つ仕掛けを作るかどうかだと思う。
 そしてもう一つ、私たちは本当に大切なことを学んだ。それは、素敵なまちには素敵な人がいること。いや、そういう人がいるからこそ、まちは作られていくのだということ。きっかけは、ハードでもソフトでも構わない。でも結局は「人がまちを作る」のだ。今回、お話をいただいた江藤氏・城氏・その他の方々。それぞれが自ら実践してきたことを、気負わず驕らず話してくれた。その実践の重み、人に対する暖かさに私たちは圧倒された。学習途中で、話を聞き、机上で考えるだけの私たちは、自分のことを語ることすら出来なかった。
 しかしながら、私たちは、世の中にはこれほど素晴らしい「まち」や「ひと」がいることを知ることが出来た。そして、頑張れば私たちにも出来るかもしれないということを学んだ。そういう「想い」をメンバーで共有できたことが今回の先進地視察の最大の収穫であったと思う。
 メンバー一人一人が得たものについては、それぞれの報告をお読みいただきたい。必ずやメンバーの文章の行間に、そんな「想い」を読みとっていただけるものと信じる。

3 今後の課題

 今回の先進地視察で学んだことは多い。しかしながら、学んだことをそのままにして、心の中にとどめておくだけでは何も生まれないし、いつかはこの感動も風化してしまうだろう。今年のテーマ、「まち」や「人」に対する動機付けは、この先進地視察までで十分に出来たと思う。これから私たちがしなければならないことは、いたずらに知識を増やすことではなく、何事かを実践していくことだろう。実践することによってのみ、知識は身に付き、感動は風化せずいつまでも心に残るのだと思う。
 第4期の後半は、「イベント」という実践にチャレンジする。しかしながら、私たち自身が本当の「まちの人」になるために、それ以降もより多くの「実践」のチャンスを与えていただければ、と願っている。

五條ユースフォーラム
第4期委員長  栗山 芳郎