独断と偏見で言葉足らずに語る由布院


(1997-5-6)

 日本書紀の昔、「ああ、なんと美しい国を得たことよ。まるでかげろうが交尾しているようだ」とうたわれた由布院盆地。万葉集にも二首の歌が残されているこの美しき地は、古くはキリシタンが集い、昭和初期から第2次大戦後までは多くの外人の避暑地として知られるエキゾチックな”まち”である。同じ頃、別府温泉開発の祖、油屋熊八翁が文人顧客のための別荘を由布院に作り、与謝野晶子、菊池寛、犬養木堂といった各分野での著名人がその別送に滞在し、そこに文化が花開いた。

 その由布院にも、戦後の荒廃から立ち直れず、ダムにするしか方法がないとまで言われた時期があった。そのどん底から不死鳥のように蘇り、年間400万人に迫る観光客を迎え、“大分の迎賓館”として、若い女性の“憧れの地”として、そして“文化”の発信基地として、全国に名を知らしめる存在までにした、中心人物、中谷健太郎氏が別荘守中谷己次郎翁の孫であることは、決して偶然ではないと思う。

 現在の由布院を創った三人の男たち。中谷健太郎・溝口薫平・志手康二(故人)という30代の旅館経営者たちが模索の末に見出した由布院の生きる道とは、その昭和の時代の文化の香り高き由布院、あるいは、キリシタンの時代救いを求めた人たちが集まってきた「癒しの里」としての由布院のイメージだった(と思う)が、そこには別荘守の孫に生まれ、映画監督への道を歩んできた中谷健太郎の芸術家としての「資質」のようなものが色濃く反映されていたに違いないと思う。そして、三氏は、この(自然・文化・人、すべての面での)”美しき”由布院を守り、あるいは再生するために活動を始めた。それは、由布院という”まち”を(経済的に)救う手だてでもあったが、それよりも、動機として、自分たちの”理想”を実現するための戦い、という側面の方が強かったのではないかと想像する。三氏の目指すものは、決して自分たちの職業、観光業だけで出来るものではない。農業・林業を含めた”まち”の人々の営みから考えなければならない、という、その発想こそが、今の由布院を創る大きな源であったのだと思う。

ほたるみはし  由布院の理想の姿を、自分たちの経営する旅館、「亀の井別荘」「玉の湯」「夢想園」を通じて具体的に示しながら、様々な手法を駆使して邁進していく。「由布院の自然を守る会」「牛一頭牧場運動」「牛喰絶叫大会」「映画祭」「音楽祭」「辻馬車」「親類クラブ」等々の数多くの仕掛けの斬新さ、緻密さ。何か事を興すときに必ず外部の人間を巻き込む柔軟さとしたたかさ。一度巻き込んだ人間を決して離さない魅力。これらの底に共通して流れるものは、強固な目的意識とそれを達成するための信念と粘り。これを忘れてはならないと思う。由布院の凄さはここにある。目的のために手段がある。決して形にはとらわれていない。目的のために必要だから行政を巻き込む。決して「住民と行政が一体になったまちづくり」などというお題目が頭にあるわけではない。必要だから外部の人間を入れる。マスコミを巻き込む。30年にわたってそういう努力を続けてきたから、今の由布院があるのだ。翻って私たちの”まちづくり”はどうか?改めて考える必要があると思う。

 年間400万人の観光客を集めることは、逆に少しばかり由布院を”壊す”ことにもつながっている。若い女性をターゲットにした(と思える)”かわいい”店が林立した、由布院駅から金鱗湖までの光景は、決して”癒しの里”のイメージで語られるものではない。声高に歩き回る観光客の群れは、”古き良き由布院”にとってマイナスなのかもしれない。今後の由布院は、観光客の量的な拡大を望まず、質的な向上を図っていくものと考えられる。

 そして、由布院にとっての最大の危機は未来にある。それは、日本人の感性の質的な変化である。由布院を表わすのに有効な言葉、例えば「幽玄」「粋」「木目」「静謐」「気品」、これらの言葉は私たち、或いはそれ以下の世代にとって、日常的なものではないし、感覚的に捉えられるものではなくなりつつある。時代が流れ、今の由布院を愛でる世代が消え去ったとき、由布院が由布院でありつづけられるかどうか、そこが問題であると思う。今、由布院のあちこちで動き出している、芸術や文化、食の試み。それらが果たして、由布院の現在の価値を守るものであるかどうかは分からないが、それ以外に、”由布院らしさ”を残していく術はないのかもしれない。

 それらの試みがうまくいったとき、由布院は恐らく文化・芸術を営むあるいは志す人たちにとっての「ユートピア」になるのだろう。