起きて!
目を覚して、おじさん。
起きてください。おじさん、いつもボクたちに暖かい空気を運んできてくれる南風のおじさん、起きてください。お願いですから目を覚して。んっ、何だね、騒々しい。わしの眠りを邪魔する奴は一体誰なんだ?
おじさん、ボクたちです。何だ、おまえたちかい。まさかわしは寝過したんじゃないだろうな。
いいえ、そうじゃないんです。
本当だ、まだ冬じゃないか。わしが春まで眠らなければならない事はおまえたちも知っているだろう。なのに、どうしてわしを起こしたんだ?
ええ、知っています。でもおじさん、ボクたちはおじさんに目を覚ましてもらわなければならなかったんです。そうして、おじさんに暖かい空気をボクたちに運んできてもらわなければ……………
馬鹿な事を言うんじゃないよ。それができない事は、おまえたち獏だって知っているじゃないか。今は冬、北風の時間だ。春までは眠り続けて、それから徐々に交代する。それが昔からの取極めだ。勝手に破るわけにはいかん。
でも、おじさん…………
いいかね、今は北風の時間だ。わしがそれを横取りするわけにはいかんのさ。寒くてつらいのはわかるが約束は守らなければいかんぞ。おまえたちの言う事を聞いてやることはできん。まあ気長に春が来るのを待つことだな。
でもおじさん、ボクたちはそれを待つことができないんです。ボクたちも昔からの掟の事はよく知っています。それを承知の上で、ボクたちのお願いを聞いて欲しいんです。
それはまたどうして?一体何が有ったって言うんだね?
南風のおじさん、おじさんが暖かい空気を運んできてくれないとボクたちは皆死んでしまいます。
何だって、北風が今年連れてきた空気はそんなに寒いのかね?おまえたちのその厚い毛皮さえ凍てつかせる程に寒いのか?
いいえ、ボクたち自身はこの寒さには耐えられます。でも、この寒さでボクたちの食べる夢が枯れてしまったんです。もう何年も前から、毎年枯れる夢が増えてきました。しおれた夢を見て、ボクたちにはもう決してその夢が実らないことがわかりました。
夢は年々減ってゆき、そしてとうとう今日最後の夢が枯れました。この寒さでは、種を播いても二度と夢は育たないでしょう。寒さには耐えられても、食べる夢が無くてはボクたちは生きてゆけません。ひもじい。ボクたちは、今とてもひもじいんです。ここにはもう食べるための夢はひとかけらもありません。だから、夢をください。ボクたちに暖かい空気を、夢を運んできて欲しいんです。そうすれば、現実と言う不毛の大地にまた夢を播くことができるでしょう。
そんな事になっていたとは気がつかなかった。なるほどなぁ、それで理由はわかったよ。けれどおまえたち、やっぱり約束は破るわけにはいかないよ。おまえたちに暖かい空気を運んできてやることは、どうしてもできない。そんなわけにはいかないのさ。
では、ボクたちは飢えて死ぬしかないのですか?もうここには食べる夢が無いんです。ボクたちはどうすればいいんです?
南へ行く事だな。
南へ?
そうさ、南だ。おまえたちは知るまいが、南の空気は北より暖い。ずうっと南の方からわしは暖かい空気を運んできていたのだからね。そこへ行けば、また夢を実らせる事ができるさ。
でもおじさん、それじゃ間に合わないんです。夢が実るまでには多くの時間と手間が必要です。この住み慣れた土地ならともかく、見知らぬ地でそんなにうまく夢を育てる事ができるでしょうか?
ふうむ、困ったな。それではさらに南へ旅をするしかない。夢を育てるのではなく、すでに実っている夢を食べるしかない。
南へ行けばそんな場所があるのですか?
うむ、わし自身が直接そこへ行った事があるわけではないのだが、わしよりも南を吹いている風が聞いた話じゃ。はるか南の方の何処かに枯れることのない夢が実っている場所があると言う。そこでは鳥が歌い夢は咲き乱れ微笑みが降り注ぐと言う。思いは甘く香り澄みきった優しさが果てしなく広がっていると聞く。
確かに、それこそ枯れる事のない夢の実る場所でしょう。そこは、何と言う場所なのですか?
見果てぬ夢の実る場所、そこは青空公園と言うのだ。さあ、では語って聞かせよう青空公園の話しを……………
あなたの唇を背中に感じて目を覚ます。ハッとして身を起こしかけた私は、あなたである事に気づいてそのまま動かない。一息ごとにあなたの温もりが背中に広がってゆく。そうすると、何故だか知らないけれどとても心が和む。しばらく打ち寄せる波の中で目を細めながら、私はあなたの寝息を楽しんでみる。あなたを起こさないように注意しながら、そっと振り向く。口元へ身を寄せると穏やかな波の音に混ってあなたの呼吸が聞こえる。私の耳たぶが熱い。
ストレンジャー、あなたいつの間に来たの?本当に不思議な人ね。疲れて眠っているそのあどけない寝顔、私大好きよ。枕元で、銀色の魚が跳ねた。あなたの髪に触れてみる。それから、あなたの頭を胸元へ抱き寄せる。クスッ、子供みたい。波は単調に寄せ続け、私はそのまま再びまどろみ始める。本当に海の底へ沈んでゆくような気がして、思わずあなたの頭を抱き寄せる腕に力が入ってしまった。
私の腕の中で、あなたが身を堅くするのがわかる。ごめんなさい、起こしてしまったかしら?囁くと、あなたはまだ少し眠そうな眼をして笑った。いや、レナ、オレの方こそきみを起こしちまったみたいだな。驚いたかい?部屋の中を海草がユラユラと揺れ始め、水母が頭上を漂ってきた。おかげでレナの表情がよく見えないし、気持良く眠りに入る手助けをしてくれた波の音も、今では少し耳障りだ。切ってもいいかい?待って、変えるわ。手を伸してベッドの横のパネルに触れると部屋の中。風景が変わった。夜、見渡すかぎりの草原に黄金色の月が冴え冴えと浮び上っている。シーンと静まりかえって物音の一つも無い。これならいいでしょ、ストレンジャー?いいさ。でも、消しても同じさ、オレはレナを見ているから。その言葉に、二人で笑った。あなたは、いつも予告なしに突然来るのね。それはオレがストレンジャーだからさ。ストレンジャーあなた、でもいつまでそのままでいるつもり?いつまででもさ。プリンセス・レナ、悪いけどオレはどの恋愛ギルドにも所属する気はないんだ。じゃあ私はプリンセスのまま待ちぼうけをくうの?ストレートの恋人が欲しいのかいレナ?そうだって言ったらどうするの?眉にシワを寄せて、困るね。困るだけ?そう言われるとますます困るね。知らない、勝手にすればいいんだわ。あなたは私の都合や私の気持をいつも無視するんだから。ストレンジャー、私あなたの本当の名前さえ聞かせてもらってないのよ。
レナ、レナ、怒らないで。いつか、きっとオレの本当の名前を教えてあげられる日が来ると思うから。それまではストレンジャーでがまんしてくれ。あなたは、じゃあ当分自分の立場をはっきりさせる気はないのね。いや、はっきりさせているつもりさ。オレはストレンジーだ。どの恋愛ギルドにも入る気はない。回収可能な枠組の中に納まるつもりはない。それとこれとは別さ。きみとオレの間にあるものは、そんなあらかじめ割り付けられた組合せに置き替えられないものさ。違うかい? そうね。私達の関係に当て嵌るようなギルドは確かに無いわね。でも、それだから不安なの。ストレンジャー、私、こわい。それに待つだけなのはイヤッ!
何を待つかが問題だけど、大丈夫、こわがる事はないさ。わかってないのね。私、あなたの事が心配なのよ。このままでやっていけはしない、そんな気がするの。あなたは恋愛ギルドの枠の中に収まる人じゃない、それはわかっているわ。でも、仮初にでもどこかのギルドに所属していれば、心はそこになくても狩られる事はないでしょう?
そんな事を心配しているのか?そんな事を心配しているのよ。馬鹿気た事だとあなたは思うかも知れない。けれど、もしあなたがストレンジャー狩りで狩られてしまったら私はどうすれはいいの? また狩りが始まるのか。連中も御苦労な事だ。レナ、オレは平気だよ。捉まりはしないさ。あなたがそのつもりでも、私は心配なの。もしそんな事になったら、私は自分自身を失くしてしまうわ。あなたはそんな私の気持をちっともわかってくれないのね。レナ、たとえ狩られたとしても殺されるわけじゃないんだから。でも、そうなればあなたは変わってしまう。別の人間にされてしまうのよ。適性検査をされて、強制的にどこかのギルドに加入させられるわ。そして強制加入の場合にはギルドに向いていない性質を除去されてしまうのよ。そんなあなたは、もうあなたじゃない。私、あなたを見失うし、あなたにも私が見えなくなる。任意加入なら、仮初にもどこかのギルドに所属していてくれたらそんた事はないので少しは安心していられるのだけれど…………。
レナ、きみの気持はとても………でも、待ってくれ。もう少し待って欲しい。オレは恋愛ギルドに所属する気はないし狩られる気もない。なったく別の答えを用意しているんだ。だから、もう少しの間オレを信じて待っていて欲しい。ずるい、あなたはずるいわ!私、いつもいつも…………。そんな風に言うつもりはなかったのに、そんな事を言うつもりじゃなかったのに。ロにしてしまった言葉が悔しくて瞼が熱くなった。
レナ、オレは…………。ちがうちがう、そうじゃないの!それが言えなくて拳をギュッと握り締めると却って涙が滲んだ。
レナ、きみの肩が震えている。長い髪が月の光を浴びて小きざみに震える度に光の滝のようだ。何と言えばいいんだろう?どこを探しても言葉が出てこない。そんなきみの姿を見ていると、声をかけてはいけないよりな気がしてくる。レナ、何と言えばいい?レナ、何と言って欲しい?草原が風に揺れ少しざわめき始めた。緑色の波が夜の岸辺へ次から次へと打ち寄せていく。冷やかな光を放っていた月は、今黄金色に大きく潤んで脹れあがり、見つめ続けていると光の雫をこぽしそうだった。
黙っていると、やだ、涙が止まらなくなった。ストレンジャーは、ただ私をながめ続けるだけで何も言ってくれない。今は声をかけないで一人にしておいて。でも何か言って欲しい。本当はどちらなの?自分でもわからない。頭の中で行き場のない思いだけがグルグルまわり続けてしだいに加速度を増してゆく。助けてストレンジャー、私を助けて。
ストレンジャーがとまどったように私の肩に手をかけたのがわかった。バカッ、今そんなことをしないでよ。でないと私………。
レナの瞳から涙がポロポロとこぽれる。月の光を浴びて、それがあやしい銀色の軌跡を描く。彼女の肩に置いた手の下で、レナは激しく泣き始めた。抱き寄せると頬に冷たいものがかかった。
ポト………ポト……ポト ポト………その水滴が額にかかって、オレは頭上の海を見上げる。海原は大きくうねって、逆巻く波がオレの額にまでしぶきを飛ばしたのだ。オレは白く崩れる波を目で追いながら、今頃レナはどうしているだろうかと思った。風が強くて、またしぶきが飛んでくる。オレは頭上に広がる夜の暗い海から足元へ視線を移した。そこでは銀河の星々が冷たい硬質的な眼差しを放って夜空が広がっている。その中で、とりわけ不安気な眼差しでこちらを見ているのは満月に近い月だ。黄金色の光の周囲には夜の闇をざわめかせる狂気がたちこめていた。オレは乾いた声で奴を呼んだ。
「ピエロ、準備はいいか?」
「大丈夫。いつでもOKさ。動かしてみるかい?」
闇の向うから陽気な声が返ってきた。
「もちろんだ。そのために来たんだからな。本番の時に動かなければ困る」
断続的な笑い声。
「わかってるさ。ギルドの連中がオレ達ストレンジャーを狩りに来た時、この青空公園に助けてもらわなければならんからな。連中、きっと腰を抜かすぜ。楽しみだな」
「ピエロ、これでは低すぎるぞ」
「それもわかってるさ。まあ見てなって。この青空公園の重力場制御は完全さ。今動かしてやるから驚くなよ」
その頃になって、ようやくピエロの姿が判別できるようになった。髪に触れてみると、しぶきでぐっしょり濡れている。ピエロの奴早く動かしてくれればいいのだが。
突然、足元の星が流れ始めた。動きだしたのか。なるほど、重力場制御は完璧だ、反動がなかった。しかし、このスピードでしぶきをかぶってはたまらないと思って見上げると海面は見る見る高くなって遠ざかって行った。波頭が、今はもうあんなに小さく見える。そして離れて見え今こそ海の大きさを実感できた。夜の海の暗い重量感は圧倒的な力で見る者の心を打ち砕く。眼下では星が光のせせらぎを作っていた。この青空公園が高速度で移動するために周囲の空気が大きくゆらめくのでそんな風に見えるのだ。しかし、それがどれ程速いスピードなのかは水平線の端に陸が見えてくるまではわからなかった。ポツンと点状の陸が見えたかと思うと、それはアッと言う間に視野いっばいに拡がった。そして、地面が、森が、町が頭上を流れていた。急に高度を落とし草原に出る。緑の波が頭上に打ち寄せている。それは巨大なアミーバがうねっているようにも見えた。不意の静止。とたんに頭上の緑の川は一本一本が見分けることのでさる草に戻り、何処からか虫の音さえ聞こえてきた。
「遊園地の乗物は、もうおしまいかいピエロ?」
「ああ、今日はこれぐらいにしておこう。それに、どうやら中央ギルドからのお客様も粉れ込んているようだしな」
その言葉に、オレは額の中央、第三の眼の位置に埋め込まれたアルケミック・パワー・シフターを作動させてピエロの言うお客を探した。空中に虎のシルエットが浮び上る。
「アニマロイド」
「そうだ。この青空公園の内部に奴が居る限り外へ通信を送れっこないが、虎のアニマロイドとは始末するのが少しやっかいだな」
「あいつはプリンス・ダークのアニマロイドだ。前に見た事がある。帰すわけにはいかんな」
「そうか、ストレンジャー狩りの情報収集の為にアトランダムに放ったアニマロイドの一つが粉れ込んだのだろうが面倒な事だな。どうする?」
「オレが始末する。プリンス・ダークには貸しが有るんでね。あいつだと思って解体してやるさ」
オレは笑みを浮べてピエロにそう言うと虎の方へ向き直った。ぎこちない動作の普通のロボットに比べてアニマロイドは手強い。直線的で一方向への強い力しか発揮できない普通のヒューマノイドに比べても、動物の形態に似せられたアニマロイドの動きはしなやかだ。虎のアニマロイドともなれば、その前足の一撃は軽く鉄板をぶち抜くだろう。それ故に一般市民に所有は許可されていない筈である。そんなぶっそうな物を持てるのは、各ギルドの代表委員によって構成されている中央ギルドの者だけなのだ。
アルケミック・パワー・シフターからの力はオレの体に漲っていた。オレは虎との間合を足早に詰める。虎は、そんなオレの方をいぶかし気に見ている。あたりまえだ。常識で考えれば、虎のアニマロイドに素手で立ち向かえる人間など居るわけがない。ギルドにはアルケミックパワー・シフターの存在を知るよしも無いのだから。この装置は人間の気の力を物理的な力に変換してしまう。ヨガや密教や道教の修業者がそうするように気の力をコントロールして、それを増幅し、物体に働きかけるのである。この装置によって、人間は自分の体が固体、液体、気体からなる楕円形の球体であることを知ることができるのだ。
そんな事を知らないこの虎は、まっすぐに近づいて行くオレをうるさそうに前足で引っかけて片づけようとした。オレはそれをよけもせずに払った。普通の人間なら一撃で絶命しただろうその攻撃も気の力に守られたオレには無効だった。そのままさらに接近したオレは無雑作に掌で虎の眉間を打つ。虎の首がガクンと下がっておしぎをする。続けて第二撃を送り出そうとした時虎の姿が眠前から消えた。次の瞬間、首筋にヒヤリとするような殺気を感じて見もせずにブロックした腕に激しい衝撃を感じた。どうやら虎も本気になったらしい。オレはサッと身を沈めると同時に目の片隅で虎の姿をキャッチした。そのまま、低く身を構える。後足に体重を落して半身になって前に出した手足で本体が相手の視野から隠れてしまうように構えるのは東洋武術の基本的な手法だ。これで間合さえ間違えなければ、余程実力差でもない限り一撃で致命的なダメージを受ける事はない。それに眼の高さが低い虎に対しては対人間用の上段及び中段への攻撃技術は役に立たなくなるから、足元の守りを強化する為にも極端に低く構え、しかも自由に素早く移動できるようにしておかなけれはならないが、その為には強い脚力が要請される。オレは前に出した方の腕の肘を照準として虎の動きを見切ろうとした。肘を原点にインサイド、アウトサイド、ハイ、ミドル、ロウの区別をつけた六つの領域は各々異ったディフェンステクニックを使いわけねばならないからだ。軽いフェイントをかけて相手の攻撃意図や潜在的な運動能力を読みとろうとする。相手がディフェンスの時に見せる動きの向う側にそれが透けて見えるのだ。中国武術ではこの技法を探手と言う。何度かフェイントをかけているうちにオレには虎の動きが見えてきた。虎は前足による攻撃、それも片足で体を支えての攻撃が主体で噛みついたり両方の前足で同時に攻撃に出る事はある程度の間合を保っている限りほとんどない。それに横なぐりか上から下への打撃が主体で下から上へのアッパースゥイングもほとんど見られない。さらに、これが一番重要な事なのだが、虎の前足による攻撃はすべてが自らの体の外から内へ向けられたもので、内から外へ向けられたものではないということだ。これは関節の構造を見れば当然かも知れないが、攻撃時の外から内側へ動かされる時には前足は伸びており、内側から外側へと回収される時には縮んでいる。しかも攻撃可能な領域は顔の前面に集中しているから正面からの攻撃には強くても側面に弱く、前足もある角度以上にはあがらない。ということは虎が攻撃を終え前足を回収し始めた瞬間に間合を詰め側面にまわり込めばよいわけだ。先ず特殊な歩法を使って側面にまわり込もうとしたが、こちらの動きにしっかり顔がついてくる。体の反応はそれより少し遅れるが、体が柔軟な為によくしなって位置を調整するのでうかつには飛び込めない。
あんなになめらかに動く首、この虎は本物と同じ骨格をしているに違いない。そこを攻撃させてもらう事にした。オレはチャンスを待つ。そして一気に間合を詰め、側面から虎の首を締めるような恰好で飛びついた。もちろん生身の虎ならともかくアニマロイド相手では頸動脈も気菅も無いのだから首を締めても意味はない。オレには別の狙いがあったのだ。首にかけた腕で頸骨を扣鎖してから大きなハンドルを回すように両腕を捩る。ゴキッというイヤな音がして虎の首の骨が外れた。すべては一瞬のことだ。オレはそのまま転がるように虎から離れる。虎はオレを追って一撃を加えようとしたが明らかに見当違いな方へ攻撃した。思ったとおり首の骨が折れたせいで照準がズレているのだ。
「ピエロ。合図をしたら重力場制御を切ってくれ」
「OK」
背後から声が届いた。オレは今一度大きくフェイントをかける。
虎が跳躍した。奇妙に捩れた姿が悪夢のようだった。「今だ!」そう叫びつつオレは空中の虎を蹴っていた。次の瞬間、オレは風を切って頭上の草原へ落ちていく自分に気がついた。オレの先を虎が落ちてゆく。青空公園が消失したのだ。虎の姿が吸い込まれるように大地に消えた。重力場が戻ってオレの落下はピタリと止まる。鈍い衝撃音。虎の体が地面に激突したのだ。頭上わずか数メートルの所で草が揺れている。ヒヤリとするな、まったく。
「うまくいったな」
「ああピエロ。それにしても疲れたよ」
「仕方あるまい。火器を使えば後が面倒だからな」
オレは答えずに草原を見上げた。草原が風に揺れ少しざわめき始めた。緑色の波が夜の岸辺へ次から次へと打ち寄せていく。冷やかな光を放っていた月は、今黄金色に大きく潤んで脹れあがり、見つめ続けていると光の雫をこぽしそうだった。
黙っていると、やだ、涙が止まらなくなった。ストレンジャーは、ただ私をながめ続けるだけで何も言ってくれない。今は声をかけないで一人にしておいて。でも何か言って欲しい。本当はどちらなの?自分でもわからない。頭の中で行き場のない思いだけがグルグルまわり続けてしだいに加速度を増してゆく。助けてストレンジャー、私を助けて。
ストレンジャーがとまどったように私の肩に手をかけたのがわかった。バカッ、今そんなことをしないでよ。でないと私…………。
レナの瞳から涙がポロポロとこぼれる。月の光を浴びて、それがあやしい銀色の軌跡を描く。彼女の肩に置いた手の下で、レナは激しく泣き始めた。抱き寄せると頬に冷たいものがかかった。
ポト………ポト……ポト ポト………
レナの頭をかかえ、あやしてみる。さぁ、もう泣かないでレナ。泣かないで。
レナ、連れて行ってやろう。きっと連れて行くよ。そこには恋愛ギルドなんてない。枯れない夢の実る場所。鳥は歌い、夢は咲き乱れ、微笑みが降り注ぐ場所、青空公園へ。
頭を揺すられて、ゆるやかに私の鳴咽は止まる。心の中のしこりのようなものがゆっくりと溶けてゆく。そうして、穏やかな幸福の中でまどろんでいる自分に気がつく。あなたの肩に頭をもたせかけて、このままいつまでもこうしていたい。
レナ、泣き止んだね。もう、落ちついたかい。夢のような話しネ。何が?今のあなたの話よ。本当にそんな所が有ればどれだけいいでしょう。でも、もう大丈夫。そんなに気をつかってくれなくても、私大丈夫よ。
レナ、オレはいつも君の側に居てやる事ができない。今はこんな風に不意に現われる事しかできないんだ。オレにはきみの心の隙間を埋めてやる事はできないんだ。ごめんよ。今きみの心を支えていてくれるのはきみのドールとシスターだね。彼女連によろしく。きみのドールはとても可愛いし、シスターはとても綺麗だ。
あの娘(こ)達に手を出したら、私承知しないわよ。恐いねぇ。特にきみのシスターは気に入っていたのに、それは残念だね。彼女にはストレートの恋人が居るの。それに、知っているでしょ、彼女のお母さんは最も長い間私をドールとして育ててくれたラインフェルト夫人なの。知ってるさ。かつてきみはこの都市で最も人気のあるドールだった。そして今は最も人気のあるプリンセスの一人さ。しかしきみのシスター・ルナがラインフェルト夫人の娘というのは初耳だな。そんな事より、本当にあの娘達には手を出さないでね。もしそんな事をしたら、私本気で怒るから。大丈夫、きみの恋人達には手を出さないさ。それともそれはヤキモチかな?だったら嬉しいんだけれども。違うわよ。彼女達をトラプルに巻き込むのがイヤなの。危険な存在なのよ、あなたは。私には彼女達を守らなければいけない義務があるわ。ストレンジャーなんかと付き合うのは私一人でたくさんよ。それはまた手きびしい。しかし、きみのドールのエミは一度青空公園に連れて行ってあげたいね。そんな言い方をされると、青空公園って本当にあるような気がしてくるわ。あるのさ。何処であの娘を見つけたんだい?あの時の事は今でもはっきりと覚えてる。天気が良くて、そのことがとても気にいっていた。居るかな?
居るわよきっと。友達とおしゃべりをしながら道を歩くのは楽しい。胸にディスクを抱えてのそぞろ歩き。街角を曲がると高く透明な波が数メートルもの高さに盛り上って道路の端から打ち寄せてくる。いつものように精優の仕事が終った後で皆と待ち合わせて立体映像の波が洗う街角を歩く。んーっ、いいお天気。空はどこまでも高く青い。真珠色の雲がその空を気持良さそうに漂っている。ただちょっぴり気になるのは最近ルナが沈んだ表情をよく見せること。何か悩みがあるのなら私にうちあけてくれればいいのに。そう思ってこれからルナの所へ行こうとしてる。そんな時、エミを見つけたのだ。目の前の道路をちぎれた雲のように白い服を着てフワフワと宙に浮ぷみたいな足取りて横切って行く少女。
わっ、あの娘可愛い!友人の一人が急に声をあげた。そう、とても可愛い少女だ。十三くらいだろうか、綿毛みたいなふんわりとした髪が光に満ちた大気の中に溶けてゆきそう。黒い髪なのにマリンブルーの空の色を帯びているように見えるから。細く濃く、凛々しい印象さえ受ける眉がまだ柔らかさを失わない緑の新芽のような優しさのにじんだ瞳と不思議な対照をなしていた。サクラ色のあどけない唇と貝殻のような小さな耳。
あんな娘がドールに欲しいな。うん、あたしもそう思う。でも、あんなに可愛い娘ならもう誰かのドールになってると思うわ。それとも両親が決して手離したがらないか、どっちかね。
どうしたのレナ、ぼんやりしちゃって?うん、何だかとてもあの娘がドールに欲しくなっちゃった。レナが?あたしだったらレナがドールに欲しいくらいだわ。レナ、若づくりすればあなたならまだドールでいけるわよ。皆がドッと笑う。私は人ごみの中に少女を見失いそうなので、そちらの方が気になって仕方がなかった。レナ、本気みたいね。あなただったら大丈夫よ、レナ。だってあなたは最高のドールだったんですもの。この都市の人間は、誰だってドールとしてのあなたの事をよく覚えているわ。プリンセスとしてもあなたは有名だもの、あの娘の両親だってどうせ預けるならあなたみたいな人に預けたいと思ってる筈よ。がんばってレナ。あたし達応援するから。
プリンセスって疲れるのよ。プリンスやナイトを相手にするって格式ばっていてまいっちゃう。ストレートの恋人は持つ気がないし、シスターのルナは最近あんな風で、あなた達とおしゃべりしている時は楽しいけれど、自分の部屋へ帰った時がそれだけつらいの。だからあの娘がドールに欲しい。ルナの所へは後で行く事にするわ。ごめんネ、ルナには私一人で会って話しを聞いた方がいいような気がするの。せっかく、ついて来てもらったのに、………。いいって、それよりあの娘をキャッチできたらその時にはあたし達にも紹介してよネ、ガンバッテ!
友人と別れて、私は少女の姿を追い始める。もう遠く離れていてこのまま見失ってしまう事を恐れながらも後を追う。私もあの娘ぐらいだった時にはあんなに軽やかに歩けたのかしら。息をきらせて少女に追いすがり、肩に手をかけた。こんなに走ったの久しぶり。
少女をとても驚かせてしまったらしく、彼女はピョンと跳ねてから振り向いた。あたしビックリしちゃって、………あの何か御用ですか?私、プリンセス・レナと言うの。あなたのお名前を教えてくれる。ああ、どこかで見た事のある人だなあって思ってたんです。プリンセス・レナ、あなたの事はよく知っています。だってよくヴィジターに出てるし、テレパシアターの精優もなさってるんでしょ。わあ、あたし感激です。あっ、勝手なことばかり言ってごめんなさい。あたしエミと言います。どんな御用ですか?
きらきら、きらきら。この娘の笑顔が本当に欲しい。そう、エミちゃんと言うのね。私の用件はね、こうよエミちゃん。私、あなたに私のドールになって欲しいの。ドールに?そして。O型に開かれたロ。あなたのドールにですか?それからエミは目を伏せて少し哀しそうに笑い。夢みたいな話しですね。でも、あたしは、もう誰かのドールになっているの?いいえ、ても母が許してくれません。お母さんが?はい。あたし、今までにもドールにって言ってくれる人もあったのですが、母が全部断わってしまいました。ですから、どうして?どうしてなのかわかりませ、きっとあなたのお母さんはあなたを手離したくないのよ。そうかも知れません。私、あきらめない。あなたのお母さんにお願いしてみ、無駄です。そんな事をしたって、きっと母は承知しませ、けど、やってみなくちゃわからないわ。駄目なんです。母は、どうして、でもどうして、やってみなくちゃわからないと思うわ。
するとエミは不思議な眼差しで私を見つめ、あなたは最高のドールでしたね。あたしずっと憧れていたんです。あたしもそうなりたいなって思ってました。けれど、あなたのドールになら、母は許してくれないと思います。わからないわ。エミ、あなたの言う事が。どうして私ならだめなの?あなたが、最高のドールだったからです。頭が混乱してしまう。どうして?あなたのお母さんは、ドールだった者にはドールを持つ資格が無いって考えてるの?いいえ、あたしが母のドールだからです。ちょっと待って、エミ。それはドールとは言わないよ。母には、もうあたししか居ないんです。じゃあ今はお母さんは、…。エミはコクリと頷く。母も、ドールでした。そして、今は一人なのね。あたしが居ます。そうだったわね。お母さん何かお仕事を? エミは淋しそうな顔をして首を横に振った。お父さんの事を聞いてもいい?
父はストレンジャーでした。その言葉に私はハッとする。そしてストレンジャー狩りで狩られてしまい、人が変わってしまったんです。母とはうまくいきませんでした。二人の間の何かが壊れてしまったと母は言っていました。それでも父はあたしを可愛がってくれ、父の送ってくれるお金であたしたち母娘は生活してるんです。だから、母にはあたししか居ないんです。
ストレンジャーと言っても、それでは私のストレンジャーと随分感じが違う。もちろんそれであたりまえなんだけれど、でも何だかその違いがとても気にかかる。
エミ、あなたのお母さんに会わせて欲しいの。プリンセス・レナ、あたし、いいでしょエミ私はどうしてもあなたがドールに欲しいの。あたしの話しを聞いた後でもですか?
あなたの話しを聞いた後だからよ。苦しそうな顔をして唇を噛むエミ。心配しなくていいわ。あなたをお母さんから取ったりはしないし、あなたの事をあきらめる気もない。けれどそれでも総てうまく行く、そんな気がするの。楽天的なんですね。さあ、どうかしら。母はドールにあまり良い感情を持っていないんです。それよ、私がわからないのは。お母さんはドールを憎んでるの?母も、ドールだったんです。
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