「暗闇公園」
渡辺直人


黄色く、瞬き一つする間黒く、そしてまた黄色く。
四川省峨嵋山。雲の切れ目でまばたいた最初の陽光がその山に虹を灯した。その球形の虹はブロッケンの妖怪と同工異曲で宝光とか仏光と呼ばれる現象だ。そして七色の輝きを帯びた球形の虹の中に二人の人影が浮かび上がる。
「昨夜の夢見はどうであった?」
白髪の長い髭を垂らした老人とおぼしき姿がそう問うた。
「夢鳴りが、いっそうひどくなってまいりました。現実がまどろみ始めたのは間違いございません」
若い声が緊張した様子でそう答える。
「夢鳴りは日に日に大きくなってくる。その事だけを見ても現実が眠りに就くのは時間の問題だろう。問題はその後だ。現実が目覚めていた間はその強大な力によって眠りに就いていた夢たちがざわめき始めるであろう。どの夢が目覚めるかは予断を赦さぬ。しかしわれらは夢道士としてただひとつどうしても目覚めを赦してはならぬ夢が存在する」
「承知いたしております。凡ての悪夢を統べる悪夢の王、魔夢だけは目覚めさせてはなりません」
「そうは言ってもわれらの力では真に目覚めかけた魔夢を止めることは出来ぬ。たとえ目覚めなくとも、魔夢の眠りが浅くなっただけでもわれらの手に負えるかどうかすら定かではない。われらに出来ることは魔夢を目覚めさせようとする悪夢どもを阻止することぐらいじゃ」
その時虹の中で二つの人影は大きく揺らいだ。
「これは、また大きな夢鳴りが‥‥‥。魔夢だけは何としても目覚めさせてはなりません」
「さて、そう巧く行けばよいのだがな」

陽の光が強くなり、辺りの靄がその光に蹴散らされだしていた。球形の虹は消滅の瞬きを繰り返す。
黄色くそれから瞬きひとつするあいだだけ黒くそれからまたもや黄色く。
つまりひろげた翼太陽と眼のあいだに迅速な弩の形
顔の上に一瞬ビロードのような闇
一瞬手がひとつ
闇それから光
というよりむしろ想起(告知だろうか?)
下から上へすさまじい速度で湧き出してゆく触知できる闇の行う記憶の呼び戻し
すなわちつぎつぎに顎口鼻額は闇を感じとることができ
しかもその闇の一握りの黒い土のような墓穴めいた湿っぽい匂いを嗅覚的に感じとることさえでき
同時にまた絹の裂けるような音つまり空気がこすれるのを聞きとり
あるいはことによるとそれは聞きとれたのでも知覚されたのでもなく想像されただけかもしれぬ

まばゆい太陽の光を、一瞬何かの影が横切った。私は思わずハッとする。黄色い光はまばたき一つするほどの間遮断され、私は柔らかな闇で造られた手で顔の上に触れられたように感じた。昼間の明るい光に属する明晰な意識が一瞬遮られたことによって、心の底に沈んでいたものたちがざわめいて、それがまるで羽音ででもあるかのように思えた。
いや、それは単なる私の想像ではなくて本当に聞こえたのかも知れない。一瞬の知覚の錯乱の後に、私は私の眼と太陽との間を横切った弩の形の柔らかな影が鳩の飛翔によるものであることを認識していたのだから。
光に満ちた世界の不意の中断。その中断によって解き放たれた連想が泉のように次々と湧き上がる。それは遠い鐘の音のようにあたりをかき乱して反響しながらもゆっくりと消えて行く。しかしそれでも、そのざわめきは意識の底に沈殿物を残していった。ひそやかな不安が、私の中で揺らめいている。
けれど、私の眼には再び太陽の光が蜘蛛が紡ぎだした金の糸のように見え始めていたので、それは文字どおり陽光の前の淡雪のように溶けてしまうだろう。

そうだよ、もうやめよう。嫌なことはみんな後にしてきたはず。そんなことはもう終わってしまったんだ。だから、よけいな事は考えないようにしなくちゃ。楽しいことだけを考え感じていればいい。
白く大きな建物の正面に位置した光の降りそそぐ広場の中で、私はそんなことを考えていた。こんな風じゃ、いつまでたっても被害妄想的な強迫観念にとらわれたままでいなけりゃならない。
私は軽く握った拳で自分の頭をコツンと叩く。いい加減にしなけりゃね。何も起こるはずはない。なにも、‥‥‥。
腰の後ろで手を組んで、踵でグルリと回転してあたりを見まわす。MIOの姿は、まだどこにも見えない。
こんなところで一人で待ってるから余計なことを考えちゃうんだ。だからMIO、早く来てよ。ちょっと遅いぞ。
それにしても本当に遅すぎる。こんなところで人を待たせるような子じゃないのに。MIOに何かあったのだろうか?胸騒ぎというほどのことはないにしても、何か落ち着かない。私を不安にしているのはその事なのだろうか?
「お嬢ちゃん、待っている人が来ないのかい?」
そわそわしている私を見とがめたのだろうか、隣にいたアイスクリーム売りのおじさんが笑顔で私にアイスクリームをさし出しながらそう話しかけてきた。
「遠慮はいらねえ。これはおじさんのおごりだ」
私は少し後退りながら首を振る。私はお嬢ちゃんなんかじゃない。私は男でも女でもない。忌むべき存在を見る眼差しにはもう慣れっこになっていたが、誤解の上に成り立つ善意にはいつもとまどわされる。
私が少女の格好をしているのはMIOを好きだから。MIOと同じようでいたかったからだ。なぜって、ただMIOだけが私がエンジェルだと知ってからも私に降りそそぐ笑顔を絶やさなかったから、‥‥‥。
私はエンジェルだ。だから私は男でも女でもない。
私がエンジェルだということを知ったら、このおじさんは私のことをどんなふうに思うのだろうか?きっと今とはまったく違う態度をとるに違いない。
私が頑なに首を横に振り続けていると、おじさんは少しさびしげに肩をすくめてアイスクリームを引っ込める。私はホッとして肩の力を抜いた。
MIO、早く来てよ。でないと私は、私の心はまたあの暗い場所に‥‥‥。

そうして不安げに待ち続ける私の耳に、やがてざわめきが打ち寄せる。いぶかしく思いながらもそちらへ目を向けると、そこには小さな人だかりができていて、それがゆっくりとこちらの方へやって来るのだった。まだここからは距離があるにもかかわらず、そのざわめきが何か普通ではないことはすぐに感じとれた。いったい何が?
人垣が割れて、そこに赤とピンクの花束らしきものを両手に抱えた白い服の少女の姿がチラリと見えたが、すぐまた周囲を取り巻いた人々に隠されてしまう。
MIO? でも、MIOならどうして花束なんか?
少女の足取りはゆったりとしており、ここからはまだよく顔が見えない。少女はまっすぐこちらへ向かっているようだ。そして、それにつれて人の輪とざわめきも移動する。再び大きく人垣が割れた。
あの服装はMIO? そう、あれはMIOの服だ。
でも、どうして人々がMIOを取り巻いているのか? それにあのざわめきはいったい何なのだろうか?
光を浴び、両手いっぱいに花束を抱えた少女。そのどこが、あんな不安気なざわめきを生むのだろうか? その時私は少女の足取りがよろめくように大きく揺らいでいることに気がついた。私は胸を締め付けられるような恐怖を感じながらそちらの方ヘ走りだした。
私は、視野の中で急速に大きくなって行く少女の顔をすぐにはっきりと見分けることができた。MIOだ。間違いない。
そしてその顔に浮かぶ表情は、両手に花束を抱え込んだ少女の笑顔ではなかった。その顔に浮かんでいたのは、苦しみに耐えている人の表情だったのだ。

近づくにつれて、私にもその恐ろしい真実が見えてきた。MIOが抱えていたのは赤とピンクの花束なんかじゃなかった。彼女が両手いっぱいに抱えていたものは、水平に切断された腹部から腹圧に押されてはみ出した彼女自身の腸だったのだ。
駆け寄った私の目の前で、彼女は力尽きたように崩れ折れた。私は彼女を抱きとめる。私の腕の中で、彼女の体は小刻みに震えていた。ゆっくりと薄膜がかかったような眼差しでMIOは私を見上げる。その瞳に、サッと灯を点したように表情がよみがえり、彼女が私の存在を認めたことがわかった。
「RYOU」
小さな、少しかすれた震えるような声で彼女は私の名を呼んだ。
「MIO。いったい誰が君にこんな事をしたんだ?」
「RYOU。憎んではだめよ。憎んじゃいけない。それより逃げて!」

私は同時に二つのことに気がついた。一つは腹部の切り口の見事さだ。この犯人は血をほとんど流さず、内臓はもとより主だった血管や神経節を傷つけずに切り裂いていた。MIOが私にメッセージを伝える時間を確保するための工夫だろう。それだけ冷酷な相手なのだ。
そして、二つ目はそのメッセージ。それはMIOの腸の上に普通の人間の眼には見えない方法で書かれていた。
MIO自身の体の生体磁気を利用して、人間には不可視の文字でそのメッセージは書かれていたのだ。そこにはただ「ロートレアモン伯爵」とだけある。私がそれを読める事を予想していたのだろう。ロートレアモン伯爵が何者であるかは知らないが、向こうはこちらが何者であるか知っているということだけはわかった。そして、これが私に対して仕掛けられた罠だということも。
「RYOU。憎んじゃだめ。みんな忘れて逃げるのよ」
どこへ逃げろというのだ? 誰から、そして何のために?
「MIO。もうそれ以上しゃべっちゃだめだよ」
MIO、私はこんな事で君を失うわけには行かない。もし君以外にも誰かが私に笑顔を向けてくれるようになったとしても、私にこんな事を仕掛けてくる者がいるかぎり、やがて私のまわりには誰も居なくなってしまうだろう。だからこの事からは逃げるわけにはいかない。
私はMIOの容態を詳しく調べてみる。この腸を、血管一つ破らず、神経一つ傷つけずに元に戻すのは至難の技だ。けれど私にこれを仕掛けてきた者は、私にそれができることを知っているか、あるいはその事を確かめようとしている。私は自分の髪の毛が波打ち始めるのを感じていた。
「だめよRYOU。そんな事をしちゃいけない。みんなに気づかれてしまう。だからあたしを置いて逃げなさい。早く!」
私の意図をさっしたMIOが、私の腕を痛いほど強くつかんだまま血の気のない顔で言う。
「かまわないよMIO。私は私でしかないのだから。すぐに痛くなくなるよ。君にアガペを与えよう」
「だめよ、あたしの心に触らないで。恥ずかしいの。あたし恥ずかしいの」
そうだ、それが私が忌み嫌われる理由なのだ。私は、私を逃すために、そして半分は本気でそう言うMIOに傷ついたふりをしてみせる。
「君までがそんな事を言うのかい。生きてなきゃ、恥ずかしいと思うことさえできないさ。いま楽にしてあげるよ」

私の髪の毛はもう治療を開始していた。髪の毛の一本一本がMIOの脊髄や神経節を探り当てて結びついて行く。血管にはエンドルフィンやエンケファリン等の脳関門を通過する脳内麻薬物質を大量に送り込み彼女の苦痛を和らげる。
私の髪の毛が彼女に巻ついて行くとともに私の背後では嫌悪のどよめきが拡がっていった。そして誰かが叫ぶ。
「こいつはバイオノイドだ!禁じられているはずのあの化け物だ!バイオノイド・エンジェルが、あのかわいそうな女の子の心を食ってるぞ!」
そうだ。私は彼女の心を食べている。心を食べなければ彼女を助けることができないからだ。私は髪の毛を通じて彼女の生体組織深奥部まで入り込み、彼女の生理的な機能のバランスをとっている。
脳はもとより、その他体内のあらゆる場所で彼女の体に余分な緊張や負担をかけそうな神経回路を封鎖したり迂回させたり、ある部分の血液中のホルモンを中和させたり逆にアドレナリンを大量に分泌させたりもした。彼女にショックを与えそうな記憶やそれにつながる連想と知覚を締め出し、痛みを遮断しつつもその痛みによって動きだすはずであった自己防衛機能を稼働させる。
そのためには彼女の心に触れ、勝手に奥まで入り込んで手を付けいじりまわす。一時的にであれ心の自由を奪い、プライバシーを奪う。
苦しく嫌な記憶を取り除き、替わりに明るく楽しい記憶を捏造する。後で元に戻すつもりだけれども、記憶を戻さずにおくことも出来るし、取り除く記憶と捏造する記憶を逆にも出来る。
だから私は忌み嫌われるのだ。心を食べる魔物。それがバイオノイド・エンジェルだ。バイオテクノロジーが生んだ化け物、人の心や体を生化学的に奪い操作できる生物を産み出すような実験は当然禁じられていたはずなのに。その禁じられた実験によって産み出されたのがバイオノイド・エンジェルなのだ。

恐るべき生物兵器として秘密裏に造られた私達は、しかし完全な人造物ではなく人間の胎児から造られた存在であることによって人々の心に与えるおぞましさを増している。
そうまでして造られた私達が、その存在を忘れたがっている人々の希望どおりにまず眼にすることがないほどに数が少ないのは、禁じられた実験の当事者達が、その能力が必ずしも敵に向けられるとは限らないことと、自由意志を持ったバイオノイド・エンジェルが危険であるということに気づいたからだ。
それにしても、ロートレアモン伯爵とは何者だ?どうして私のことを知っているのだろうか?そしてその目的は?

その時、誰かが私の肩に手をかけた。その手が力を込めて私を揺すぶる。
「その女の子からさっさと離れるんだ、この化物め!」
今はまだMIOから離れるわけには行かない。今はまだ無理だ。私の髪の毛が、彼の腕の神経節を探り当てた。海の思い出が一連の鎖となって彼の右腕を通り抜ける。なかば目覚め、なかば眠った状態で彼はそれをとらえるのだが、それは風にあおられた泡のようだ。左腕は逆に、さまざまな鉱物の集団に作用されているらしい。背中の大部分は、たそがれどきのさまざまな部屋のイメージを上下に積み重ねて保っている。

黄色く、瞬き一つする間黒く、そしてまた黄色く。切れかけた電球のせいで、まるで生き物のように影達が脈打っている。自分がどこにいるのか、ゆっくりと彼女は思い出してしまう。戻りたくないのに、彼女は戻ってきてしまったのだ。
口の中にやり切れない嫌な感じの味覚が拡がった。現実だ。ちくしょう現実だ!
逃げ出そうとしても、いつも途中で力尽きてここへ滑り落ちてしまう。ああ、助けて。誰かあたしをこの現実から連れ出して助けておくれ。
むろん誰も助けに来てはくれない。ただ周囲に淀んだ現実がどんよりとした眼差しを返すばかりだ。ふやけた死体のような現実が、視覚を通じてようやく彼女の中に入り込んでくる。彼女は自分が公衆トイレの中にいることに気がついた。腕が痙攣して手の中から注射器が滑り落ちそうになる。彼女はハッとしてそれをつかみ直す。
大丈夫、無事だった。震える手で彼女はそれをしまう。腕を曲げる度にそこに鈍い痛みが走る。顔をしかめて腕を見ると、針を刺した所には血が一筋流れ出した跡があった。それはもう褐色に変化している。血管が硬くなって針を受け付けなくなっていたので、どうやら力まかせに無理に差し込んだみたいだ。

彼女はよろめきながら立ち上がる。鏡のところで鏡の中から見返す自分自身から眼を逸らしながらも、それでもなんとか身なりを整える。そして、ちくしょう、ちくしょうとつぶやきながら外へ出る。
空腹だった。それに薬を買う金も要る。先ほどチラリと見てしまった血の気のないやつれた自分の容貌を思い出して不安を覚えつつも男をつかまえることを考え始めていた。ゆっくりと相手を選んではいられなかったし、選べるとも思えなかった。相手を値踏みせずに、見境もなく声をかけるのは危険だったけれども仕方がなかった。

昔に比べればこの商売もやりにくくなったもんさとマギーはこぼしていた。トラブルはごめんだもんね、素人娘に邪魔をされないような相手を選ばなくちゃいけないけど、近頃の素人娘ときたら‥‥‥。
エイズはもちろん、レジナみたいに変態じじいに殴り殺されないように気を付けなくちゃね。そう言うマギーは心臓病の母親を養うために、そしてルーシーは赤ん坊のミルク代を稼ぐために街頭に立っていた。誰にも優しかったクィーンのジンジャーは、ある日男であることがばれて怒り狂った客の工員にくびり殺された。
どんなトラブルにも巻き込まれず無事でいるためには声をかける相手を選ばなければいけなかった。そんな事は充分承知していたけれど、薬を手に入れられなければ死んだほうがましだった。
それに、金を持っていそうな男達が物欲しげに目をむけるのは、むしろこれ見よがしにピッタリしたジーンズをはいている締まったお尻の少年たちだった。その少年たちはゲイでもないくせにただ結構いい金になるから、あるいは彼女と同じように薬代欲しさに街頭に立っているのだ。
いっそのことあの坊やたちに薬を分けてもらおうか? そんな事さえ考えずにはいられない彼女だった。

どっぷりと首まで漬かった現実から逃れるために、彼女は道行く男に声をかけた。けれど、男は彼女にチラリと目をくれただけで足も止めずに行ってしまう。彼女は惨めさに打ちのめされた様子もなく、怒りもせずただ肩をすくめるが、その顔には不安がにじみ始めている。
二人目も空振りし、三人目も首を振りながら離れようとした時、彼女は思わずその男の袖をつかんでいた。
「お願い。ねぇ、お願いよ」
「金がねぇんだよ。ねえさん、悪いけど他を当たってくんな」
そう言って彼女を振り払おうとした男の目が、急に彼女の顔に釘付けになる。唇が震えて、つぶやきが洩れる。
「まさか、こんな所で‥‥‥。」
彼女の方もハッと気がついて男の顔をまじまじと見上げる。
「そんな事ってあるのかしら?」
「女王様。こんな所でお目にかかるとは思ってもみませんでした」
男は彼女の肩を押さえて、目をのぞき込むようにして語りかける。
「信じられないわ。夢を見ているのではないのね。本当にあなたなのですね、ユニコーン?」
「そうですよ。私がユニコーンである事に間違いはありません、フェアリィ・クィーン」
「でも、私も現実で逢えるなんて、思ってもみなかった。あなたは何時こちらの世界へ来たの?」
「来たのではありません。私もまた、あの時にこちらの世界に封じられてしまった一人です。今ではフェアリィ・ランドに棲んでいた者たちはちりぢりになってしまいました。それでも、この私のように姿を変え現実の中を生き延びている者たちも居るのです」
「ああ、でも私とあなたがこうして遭えるとは、あえてお互いがわかるということは、ただ一つのことを意味しているのではありませんか?」
「そうです。現実がまどろみ始めているのです。でなければ私達は逢うことが出来なかったでしょうし、逢ってもお互い本当は自分が何者であったのか思い出すことは出来なかったでしょう」
「では、道が開くのですね? あの懐かしい世界が戻ってくるのですね? もう薬の助けなど無しにあの世界に帰る事が出来るのですね?」
「そうは簡単には行かないでしょう。確かに現実は眠り始めている。けれど、だからといってそれがすぐに私達がフェアリィ・ランドへ帰れるということを意味しているわけではないのです。かつて、魔実が眠り現実が目覚めたときに私達の不幸が始まりました。その時魔実と共に魔術もまた眠りに就いてしまったからです。味気ない現実が、他のあらゆる夢に対して圧倒的な暴力をふるってきました。今、現実が眠りに就いたとしても目覚めるものが魔実とは限らないのです」
「現実に匹敵するほどの大きな力を持つ夢は、そんなには多くはないわ。魔実でなければ、いったい何が目覚めるというのですか?」
「もし目覚めるものが魔実ではなく魔夢だったらどうしますか?」
「そんな、‥‥‥。恐ろしいことね。それだけは、何があっても決して起こってはいけないことだわ。どんなことがあってもそれだけは‥‥‥」
「あらゆる悪夢を統べる悪夢の王、魔夢が目覚めれば、他の夢はその強大な力の前に屈し、二度と目覚めることなく潰え去ることになるでしょう。あの青空公園の夢をも一瞬にして凡て凍てつかせてしまったという魔夢だけは、何があろうと決して目覚めさせてはならないのです。それに、まどろみ始めたとはいえ現実はまだ眠ってしまったわけではないのだから、何が目覚めるのかは予想もつかない状態なのです」
「では、私達の魔実は今どこに?そしてフェアリィ・ランドに帰る道は?」
「魔実は他の夢と同じく、あそこ、すべての夢の眠る場所、暗闇公園に封じられたままです。そしてフェアリィ・ランドへ到る道もまた私達には手が出せない場所、暗闇公園の中に閉ざされたままなのです。私達にはどうすることも出来ません」
「暗闇公園。夢の光がまったく届かない場所。あそこへ行くためには夢の外側へ出なければならないけれど、夢から出来ている私達にはそんな事は不可能ね。あそこへ行ける人があるとすれば、それは夢を旅する人か、夢道士くらいかしら」
「いえ、それだけではありません。悪夢を旅する人も、それに邪夢達も、その他幾らかの者たちもまたあの場所に行けるはずです。私達の望むようになるという保証はどこにもないのですよ。それどころか、あの場所では悪夢の側に属する者たちの方が有利だと言えるでしょう。魔実は、さて、どちらに属しているのでしょうか?ともあれ魔夢を目覚めさせずにおくには、夢の瞳が必要になるでしょう。そして、もし夢を旅する人の方が先に夢の瞳を手に入れなければ、もはや魔夢の目覚めを防ぐ方法はどこにもないでしょう。むろん、それでも魔夢は目覚めないかも知れないし、目覚めるかも知れない。しかし、魔夢が目覚めてしまえばすべては終りです。夢の瞳ははたして閉じているのか開いているのか?そしてそれは今どこにあるのか?私達としては夢を旅する人に期待するしかないのです」
「夢の瞳が開いた時、凡ての夢の可能性も開かれる。現実がまどろみ始めたということは、夢の瞳は開きかけているに違いないわ。でも、それは凡ての夢の可能性が開かれるということ。悪夢の可能性もまた開かれるということなのね。夢の瞳が開いた時、本当は何が起こるのかは誰も知らない」
「私達としては現実が眠るのは有難いけれど、魔夢にも眠ったままでいてもらわなければ困るということです。夢を旅する人に期待するしかありません」
「でも夢を旅する人は遥かな昔から夢の瞳を探し続けているのでしょう?それが今になって現実が眠るまでに間に合うように見つけることが出来るのかしら?」
「現実が眠り始めたからこそ夢の瞳は現われようとしているのです。かつて現実によって閉じられ、そしていずこかに隠された夢の瞳はその姿を現わそうとしているのです」
「ああ、もしも夢の瞳が暗闇公園の中にあるのなら、そして魔実の中に隠されているとしたら、その時はどうなるの?」
ユニコーンは答えずに視線を上げた。視線の先には黒い悪夢のような蝙蝠たちが羽ばたいていた。蝙蝠たちは黄色い哀しそうな顔の月を横切る。

黄色く、瞬き一つする間黒く、そしてまた黄色く。
太陽の光を横切った鳩の飛翔によってもたらされた一瞬の知覚の錯乱が遠い記憶を呼び覚ます。思い出したくないものが泉のように吹き出してくる。いやだ、そんな事は思い出したくない。私は思わず手にしたアイスクリームを握りしめる。
「RYOU、見て!」
不意にMIOの声がして私を驚かせた。今まで何処に行ってたんだろう?
文句の一つも言ってやろうと振り向いた時私は一瞬激しい恐怖に襲われた。MIOが両手いっぱいにはみ出した自分の腸を抱えているように見えたのだ。
つかの間の幻覚。しかし、前にもこんなことがあったような気がチラリとする。目を開いてみれば、もちろんすでに悪夢のような幻覚は去っている。MIOが両腕いっぱいにピンクの花束を抱えて私に微笑みかけていた。
「ね、すごいでしょうRYOU」
無邪気に笑いかけるMIOに、私はあわてて自分の暗い記憶をしまいこんだ。
「どうしたの、これ?」
「こちらの方にいただいたのよ。こちらはデュカスさん。デュカスさんこの子があたしの友達のRYOUです」
MIOの視線の先を追った私はまたも冷水を浴びせられたようにゾッとした。そこには誰もいなかったからだ。そして、その何もない空間から声が聞こえてくる。
「こんにちはRYOU。ぼくはデュカス。MIOを見たときあまりに可愛かったので思わず花束をプレゼントしてしまったけれど、そのお友達もこんなに可愛いとなるとぼくは花ばかり買って破産してしまいそうだね。ぼくからのプレゼント、ほら、受け取ってもらえるよね」
本人やMIOが姿が見えないことに全く気づいていないみたいだ。その歯の浮くようなうさんくさいお世辞の主が私の目には見えない。これは私の幻覚が持続しているのだろうか?

何もない空間から突然花束が現われ、私に差し出されたようだ。私は何もない空間にちょこんとおじぎをして空中に浮いている花束を受け取る。腕の中の花束には何もおかしなところはない。本物だ。バイオノイド・エンジェルの私の知覚を欺くようなものは考えられない。やはり暗い記憶に触発された私の心理的な幻覚なのだろうか?
「ありがとう」
仕方なく私は何もない空間にぎこちない笑顔を返す。
「ねぇ、ところでちょっと変なことを聞くようだけれどロートレアモン伯爵って人の名前を聞いたことはない?」
私の思いをよそに脳天気な明るさでその声は私に聞いた。私は首を横に振る。
「そうか。うーん、それじゃ夢の瞳って聞いたことない?」
この声は何を言っているのだろう? 本当にこの声こそが幻覚ではないのだろうか?
「聞いたこともないわ。でも、それってちょっと素敵な名前ね。夢の瞳って何なの?」
MIOが目を輝かせて問い返す。何かが私の記憶の底をくすぐる。
「そうか。この夢でもなかったか」
先ほどとはまったく違ったトーンで声がつぶやく。その時私の胸にある記憶が閃く。
「違う。夢の瞳は暗闇公園の中の‥‥‥」

晴れ渡った空に突然雷鳴が轟き私の言葉を引きちぎった。
「来たか、ロートレアモン」
雷光に照らし出されたシルエットがそう言うのが今度は私にもはっきりと見えた。稲妻が空を切り裂く。

黄色く、瞬き一つする間黒く、そしてまた黄色く。闇に息を吹きかけられて消えかけた炎は弱々しくよろめいた。炎はまったく周囲を照らしだすことが出来ずにいる。断末魔の炎は逆にまわりの闇たちからその最後の生命力を貧り食われているかのようだ。炎の命も後わずか。もう火にくべるものがない。
夜なのだろうか、ひっそりと静まりかえったその場所には炎と闇以外には動くものの影一つない。吹き抜ける風の音も、虫の鳴く声さえも聞こえない。空には月一つなく星一つない。近くにはもちろん、遠くにも街灯の灯すら見えず、すべては闇の中に沈んでいた。

炎の最後の食事。それは薄い紙の束だ。紙には色んな文字が書き込まれている。炎の中で紙とともに反り返って消え去ろうとしている文字の一つは希望と読めた。希望が今、燃え尽きる。煙となって空中へ消えていく希望が、怒っているかのように幽かに爆ぜるような音をたてた。そしてその音もすぐに闇に吸い取られて行く。あとにはただ‥‥‥。
いやまて、今何か音が聞こえた。紙を擦るような小さな音だ。しかし、瞳を凝らしてみても何も見えない。

炎は今度は記憶という文字と眼差しという文字を呑み込もうとしている。双つの文字が反り返りもつれあった時、炎と踊る紙から淡い光が放たれた。
その光が、そっと周囲を照らし出す。黒々としたこの場所。ここが公園らしいことがその淡い光でやっと見てとれる。炎のすぐそばにはベンチがあり、そこに腰掛けた人影が一つ、どうやら眠っているらしい。
眠っているのはボロボロになった服を着た疲れ果てた様子の年老いた男。男は夢を見ているのかいないのか、見ているとすればそれは悪夢なのかそうではないのか、いずれにせよ今はピクリとも動かない。
男の片手には一枚の紙が握られている。先ほどの音の正体はこの紙だろうか。その紙はどうやらどこかの地図らしい。そして、その紙の上の方には大きな文字でこう書かれている。
「フェアリィ・ランド売ります」
売るためのフェアリィ・ランドとは何処にあるのか?それはこの地図のことなのだろうか?
火影が紙の上を揺れる。地図の上の線が音もなく踊り始める。揺らめく線は脈打ってまるで生き物のように見える。地図の上には山が有り川が有り、そして森が有る。その揺らめきに黒く描かれた森の木々の梢が揺れているようだ。大きく揺れる梢からは数枚の葉がすぐ下の街道に振り落とされて行く。地面に着く間もなく風がその葉を巻き上げる。そしてその街道の上を何か黒い点が動いて行く。それは火影の揺らめきが産み落した目の錯覚だろうか?

いや、そうではない。それは確かに街道の上を動いている。黒々とした体は闇に溶けかけていても、その瞳は光を帯びて闇に浮かび上がり、その蹄が大地を打つ音は辺りに響き渡った。その馬は恐ろしい速度で街道を駆け抜けようとしているのだ。
目を凝らしてみれば、今度は身を低くして馬にしがみついている人影もはっきりと見えてくる。その人影は黒い頭巾を被り、わずかに覗いた目が鋭い光を放っている。頭部以外も全身黒づくめで、小さな体はともすれば夜の中へ溶け込んでしまいそうに見える。

森は視界の左右に流れ去り、急に空いっぱいに星が開けた。野原へ出たのだ。
月は青ざめて星々のきらめきから顔を背けたが、草原の草たちは夜露を含んで笑みを浮かべ、月と星々の光を混ぜ合わせて映しだした。前方には、ひときわ大きく輝く光が見える。その光は月よりも大きいけれど、それは星ではない。誰かが野営の火を焚いているのだ。黒い影は人馬一体となってその光を目指した。

その馬が到着した時、お前は顔も上げずに炎を見つめたままだった。火影が揺らいで、光の縞は地面にどこかの地図のような模様を描き出す。お前はその地形をどこかで見たような気がするが、つかの間の啓示はたちまち崩れ去ってお前の記憶をくすぐるばかりだ。お前のとなりで、きみは不安そうな眼差しを馬から降りた人影に向ける。
炎に照らし出されて影が伸びる。きみの眼には、その黒い人影が突然大きく膨れ上がったように見えた。黒い人影は頭巾の中からきみに鋭い眼差しを返す。きみは手をぎゅっと握り締めるとあわてて眼を逸らした。そんなきみの態度を横で冷笑しながら見ていたあなたは、その新参者を値踏みする。この男はいったい何が目的で、どういうつもりでこんな時間にここにやってきたのか?

あなたはそんな事を考えながら用心深く立ち上がる。お前は相変らず無関心に炎を見つめたままだし、きみはおびえて硬直してしまっていたからだ。
「こんな時間、こんな場所にわれらを訪ねてこられたのはどなたですかな?」
「あなたがたと同じ目的でやってきた。私が何者であれ、それだけで充分な説明になると思うが?」
黒い頭巾はあなたを冷笑するような調子でそう言う。
「で、その目的とは?」
男の態度に動ぜず、とぼけた調子であなたは質問の言葉を重ねる。
「私と同じ目的でなければ、いったいあなたがたは今時こんなところで何をやっているというのです? 決まっているじゃないですか、ハープとかげですよ。私の目的はあなたがたと同じ、カルペンティエル島のハープとかげです」
「成程と言うべきなのかどうか迷ってしまいますね。ハープとかげについてどれだけ知っておられるのかによって、私たちと同じと称される目的の意味合いが違ってきますからね」
「では、私の知っていることを初めからお話ししよう。ハープとかげとは、人の心をたぶらかし人の心を食らう魔物だ。ハープのような音を立てる背中のひれを鳴らして人を魔術にかけ幻影を見させる。その力を恐れた先王の代からハープとかげを退治するためにこのカルペンティエル島に多くの魔術士や剣士が送られてきたが、ことごとくハープとかげに逆に心を食われてしまった。人々はハープとかげを恐れ、この島を逃れ、この島への交通を閉鎖してしまった。そんなわけで長い間この島は無人島となっていたのだが、人の心を食らえないのがよほどひもじかったのだろう、ハープとかげは海を渡って最寄りの港に出現した。そして折悪しく近くの浜辺に遊びに来ていた王女様がハープとかげに心を食われてしまった。王女の心を取り戻すためにはハープとかげを退治するしか方法はない。そこで王はハープとかげの首に莫大な賞金を懸けた。多くの者がこの島に逃げ返ったハープとかげの首を狙ったが成功したものは未だにいない。私の知っているのはそんなところだが」
「そんな事はわかりきった事だ。私の聞きたいことはそんな事ではなく、あなたがハープとかげの造り出した幻影ではないのか、あるいはあなたがハープとかげ自身ではないのかという事だ。それとも我々の中の誰かがハープとかげの造り出した幻影による変装なのかも知れない」
「すると、いつ寝首をかかれて心を食われるかも知れないとビクビクしているわけですか?」
男は馬鹿にしたように大きな声で笑いだした。きみは、その笑い声にビクッとして縮こまり、あなたは男に渋面を返した。きみはまったく無関心なふりをしたままだ。男は狂ったように笑い続け、その笑い声は次第に大きくなっていった。そしてとうとう背後にある森そのものが身をよじらせて笑うように大きく揺れた。
その笑いの異常さにあなたはハッとして男を見つめた。そして黒頭巾の男はもうとっくに笑ってなどいない事に気がついた。それなのに笑い声はいっそう高く辺りに響き渡っている。じゃあこの笑い声は一体誰が?

響き渡る笑い声はいつの間にか人間のそれから何か動物の鳴き声らしきものへと変化していた。それは馬のいななきだった。黒頭巾の男が乗ってきた馬が後ろ脚で立ち上がり、歯をむき出して前脚の蹄で腹を抱えて笑っていた。
「馬鹿な人間どもめ。オレ様がハープとかげと気付かなかったのか?おまえ達の心オレが残らず食ってやる」
馬がそう言い終えないうちにきみの手が小さく振られ、そこから銀色に光るものが投げ放たれた。その光が馬の喉元に吸い込まれるように消えると、馬は喉から血をほとぼらせながら横倒しにドオと倒れた。馬は喉をゴロゴロと鳴らし、血の泡を少し口からふいて動かなくなった。馬の死体は馬のまま、何者にも変化しなかった。
「今のもハープとかげの見せた幻影ということか。皆心を食われかけているな。しかしこれでハープとかげがこの中に、あるいはこの近くに居ることはハッキリした。今の幻影が見破れなかった者はどうやらハープとかげに食われる運命かな」

あなたの言葉にきみは黙って立ち上がり馬の死体へ歩み寄る。その喉元からきみは先ほど投げたナイフを引き抜く。
「今もハープとかげの造り出した幻影を見続けているのじゃなければ、こいつは確かに後ろ脚で立ち上がっていたよ。でなきゃ命中しなかったはずさ」
きみはナイフの血を丁寧にぬぐって火にかざすが、その刃は曇って黄色い光を放つ。