2000年2月23日(水) かぜのなかのおかあさん
阪田寛夫という人の詩だそうだ。先日の学年発表会で、この詩の朗読があった。ちょっと長いけど紹介。おかあさん
としをとらないで
かみがしろくならないで
いつまでもいまの
ままでいて
わらっているかお
はなみたい
おかあさん
ねつをださないで
あたまもいたくならないで
どこかへもしも
でかけても
けがをしないで
しなないで
おかあさん
はながさきました
かぜもそっとふきますね
いつでもいまが
このままで
つづいてほしい
おかあさんこんな詩を子供の声で読まれたら、ついジーンときてしまう。お母さん達の感想にも、そういう内容のものが多かったそうだ。かくいう私も朗読を聞きながら涙腺がゆるんでしまった。でも、素直にその感想を書く気にはなれなかった。なぜだろう?
2年生に進級する前の春休み、長介の体調はまだまだ不安定であった。退院して4ヶ月たっていたが、ちょっとした疲れで紫斑が出る。蛋白尿も多い。体調だけでなく精神的にもかなり不安定であった。
その長介が、来る日も来る日も私のところへやってきて泣くんである。
「大人になりたくない」
「年をとりたくない」
「時間がたつのがいやだ」
「パパやママと別れたくない」
「死にたくない」
「パパもママもいつかは死ぬんでしょう」
そんな事を言いながらオイオイ泣くんである。これには参った。病気なんかをしたおかげで、7才にして彼は「死」を哲学してしまったのだ。こうなると、何をどうなぐさめても通じない。彼は、人生には必ず終わりが来ることに怯えているのだ。私はただ、
「大丈夫。パパもママもどこへも行ったりしないよ」
と答えるしかなかったのだが、長介はついに納得しなかった。
これは、春休みいっぱい続いた。しかし、新学期が始まり体調が落ち着いてくるに従って、次第に泣かなくなった。元気な長介に戻った。
そして7月。三太を出産する日が近づく。長介が聞いた。
「もし、ちゃんと生まれて来なかったらどうなるの?」
「その時は、手術してお腹を切って赤ちゃんを取り出すんだよ」
これが、長介を不安にさせてしまった。悪い方へ悪い方へ考える癖は誰に似たのか。
「ちゃんと生まれなくて、ママが死んじゃうこともあるんでしょう」
と言いながらウルウル泣く長介。それを言ったら、ママだって不安なんだよ。
「まぁ、そんなことはめったにあることじゃないから大丈夫だよ」
そう答えたものの、「万が一」を心配する長介には通じない。私が死ぬことを想像して泣く日々は、三太が生まれるまで続いた。
子供が詩を読むというパフォーマンスに感動することは、ちょっと嘘臭い世界である。だからこそ、
「ジーンときました」
と素直に感想を言えるんである。
私にとっては、この詩は現実であった。私にも、そして長介にもそれは生々し過ぎた。この詩が書かれたプリントを持ち帰った日、長介は言ったのだ。
「ランドセルにプリント入ってるけど、見ないでね」
とても、感想なんて書けませんって。