Feuillet d'album / 音楽帳の一頁

Leaves of Souvenir in July ...... 2002年7月の日記

7月の音楽帳は空の色
涙を流すたびに夏へと近付く
空の水色

眩しい日差しの光と
静かな雨の翳りが織り成す
気紛れな追走曲
......... Sky color, the Leaves in July
Water blue..., Close to summer
whenever shedding tears

Glaring sunlight and
Cloudy rain weave
Capricious Kanon

2002年7月1日 (月)

[ 小市民な私の『良かった探し』(^^; ]

 今日は、ちょっとした『良かった』が幾つかあった日だった。

 何より良かったのは、今日は事務関係の電話を2本掛けたこと。人と話をするのがあまり得意でなく、特に電話で喋るのは苦手な私の、ほんの小さな努力だが、それでも何だか嬉しいものである。人と接することに少しずつ努力して、一歩でも前に進んだ気になれるのは、やっぱり嬉しいことである。

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 でもやっぱり、世の中良いことばかりは起こらない。うまく行かないことや、努力しているのに裏目に出てしまうことも、やっぱりある。そしてやっぱり今日、そんなこともあった。

 「良いことも悪いことも、色々あって人生…」 とはよく言ったものだと思う。きっと面白くない事もあるから、ちょっとしたことを嬉しいと感じられるんだろうと思う。
 まあでも、一日の終わりに、ほんの小さなことでも『良かった』があったな…と思えたってコトは、今日はやっぱり「ちょっと良い日」 だったんだろうな (^_^) 。


2002年7月2日 (火)

 今月の5日、私の門下の卒業生が、とある室内楽の演奏会に出演するのだが、今日はそのリハーサルがあったので様子を見に行くことにした。

 私は火曜日は基本的に大学が午前中で終わりである。午前中の授業は12時45分に終了するのだが、そのリハーサルは当初13時30分スタートの予定と聞いていた。場所はフェニックスホールのリハーサルルーム。大阪駅から急いで歩けば7分で着けるので余裕で間に合う…と思っていたのだが…

 その日の授業は、大学院生の発表会の聴講であった。まあ、えてして発表会とか演奏会というのは時間が延びていくものである。終わったのは12時59分であった。…………このままでは間に合わねぇ(汗)。学内ホールから駅までは急いでも10分近く掛かるのだから大変である。この時間の阪急電車は7分、17分、27分…という予定なので、7分に乗らないとリハーサルには間に合いそうも無い。

 走りました。この炎天下の中を。そりゃもうゼイゼイ言いながら。彼女にとってはピアノトリオ、しかも外国のソリストたちと合わせるのは初めての経験である。様子をよく見て的確なアドヴァイスを 、と教育者としての使命に燃えて、ホントに火がついてしまいそうなほど暑い道を一生懸命走り、ギリギリセーフで電車に滑り込むことに成功 (T_T)/~~~ 。

 ほっと一息つこうと、飲みかけの烏龍茶のペットボトルを鞄から取り出すと、モノの見事に泡立っていました。
 これはビールかいっ!と見紛うばかりに(笑)。私の熱意と努力の程が知れようというものである。そこに当人からのメールが入った。

リハーサルはかなりの渋滞中で、今私を合わせて2人待ちの状態です。あと1時間はかかると思いますのでゆっくり来てください!

( ・ ・ ? ……… (゚ Д ゚) !!!! ……… (TT_TT)

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 会場に到着して一息どころか一眠り出来そうなほどの待ち時間(大袈裟)を過ごす。今回もJ&Jというエージェントの企画なのだが、私がキエフで同行して頂いていたN氏がいらっしゃった。まったりと世間話をする。彼はこの旅行中に5キロも痩せたそうである。どうやら食事のサイクルなどの違いらしいのだが……羨ましい限りである。
 「お腹がへこんでると快適です」 とのコト。くぅぅ…(T_T)

 さて、やっと時間である。彼女が演奏するのは邦人作品で、湯山昭 作曲の 「ピアノトリオ イ調」である。フランス風な洗練されたハーモニーや邦楽風なメロディなどが組み合わされた傑作で、最近では海外でも演奏される機会が増えていると聞く。N氏が彼女に続いて私も弦楽器の二人に紹介してくれる。彼らはワルシャワ・フィルハーモニーのコンサートマスターなのだが、元々はウクライナの人達なのだ。この間私がキエフで協奏曲をやったという話をすると嬉しそうな表情を見せてくれた。

 この作品はピアノパートの技術的難度もさることながら、アンサンブルとして相手と合わせるのがかなり難しい作品である。テンポや拍子、表情などが結構頻繁に変わっていくので一体感を出すのが難しい。その上、ピアノトリオという形態は、いわゆる「三つ巴の戦い」なので、互いに主張し合い、また相手の音も良く聞き…と、バランス間隔がかなりシビアに求められるのだ。

 途中、いくつかのアドヴァイスを行いながら、無事リハーサルは終了した。一回目であれだけやれれば大した物だろうと思う。これで相手の歌い方や音楽観がある程度判ったので、後はそれに合わせて自分で調整をしてもらえば大丈夫だろう。

 弦楽器の彼らは、彼女に対して『あなたの先生に敬意を表します』と言ってくれた。練習中の彼女へのアドヴァイスが、恐らく彼らにとってもちょうど的確だったということなのだろう。何はともあれ、音楽的な感覚を認めてもらえるのは非常に嬉しいものである。それが、本場の一流アーティストであれば、なおさらだ。嬉しいことに、彼らは私にプレゼントまでくれた。彼らの属するワルシャワフィルは昨年100周年を迎えたそうなのだが、その記念に作った封筒と切手とスタンプ(消印)である。300枚しかない限定品らしい。私が感激して何度もお礼を言ったのは言うまでも無い。というわけで今日はここまで。オチはありません、悪しからず(笑)。

★7月6日付記

 5日当日の彼女は、初舞台を、なかなか堂々とした演奏と立ち居振る舞いで、見事にこなしてくれた。アンサンブルという点でもリハーサルとは全然違ってそれなりの一体感を醸し出していた。なかなかそう簡単に出来ることではないのである。私はかなり満足したし、温かい拍手で聴衆にも受け入れられたと思っている。

 そして今日、マネージメントの方から(例のN氏ではないが)電話を頂いた。一つは彼女の演奏に対するお礼。もう一つは、ワルシャワフィルの方たちが、私に対して非常に大きな賛辞を述べてくれたということ。
 やはりリハーサルの時に、自分たちの言いたいことをどんどん彼女に先に伝えてくれて、その音楽的洞察力とセンスに感嘆したという事だった \(*^_^*)/ 。彼らともいつかは共演してみたいものである。


2002年7月4日 (木)

 今日は、日本ピアノ教育連盟主催で、ディーナ・ヨッフェ ( Dina Joffie ) というロシアの先生の公開講座があったので出掛けて来た。ちなみに会場は大阪音楽大学である。午前10時開始だったので、殆ど普段出校するのと変わらない感覚であったが(笑)。

 ディーナ・ヨッフェ先生は、モスクワ音楽院で勉強し、既に在学中、1974年に東ドイツ(当時)でのシューマン国際コンクールで第2位入賞。更に1975年のポーランドでのショパン国際ピアノコンクールで第2位を獲得なさっている。そして1977年の卒業以降本格的な演奏活動を開始し、現在に至っている。
 ロシア人の方は良くも悪くも非常に個性が強くて、作品によってはかなり強烈な解釈をすることも多いのだが、ヨッフェ先生は良い意味で音楽の中にある美しさを素直に汲み取って表現するタイプの演奏をなさる方である。我々アルス・ノーヴァの考え方とも強く通じるものがあり、共感する部分もとても多い。

 以前、他の公開講座で先生のレッスンを受けたことがある。ちなみにそのときはスクリアビンのピアノソナタ第9番「黒ミサ」という作品だったのだが、さすがにネイティブの作曲家に対する解釈は一味違うという感じであった。そんなわけで、かなり楽しみに出掛けたのであった。

 講座が終わってからほんの少しだけ挨拶をする時間があった。以前一度レッスンを受けたことが…と話すと、「もちろん覚えているよ」と言ってもらえて嬉しかったというかホッとしたというか(笑)。今日のお話も非常に興味深かったと伝えると、また演奏を聞かせて欲しい、とのことだった (^_^)/~ 。

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 さて、今日の講座での話の中で興味深かった点を幾つかメモしておきたいと思う。付属のコメントは、先生の発言に対する私の考察である。自分の覚え書きのような感じになってしまうので、判らない用語があったらスミマセン。でも、音楽を学んでいる人にとっては必見だと思いますよ(^^; 。

和声はバス(最低音)から生まれる。
 これは西洋音楽の基本でもある。基本的に和声は倍音構造から生じるものであり、それは最低音を基準にしてその上に積み立てられて行くものだからである。従って低音の動きは曲全体の和声の動きを司っており、そこからカデンツ(和音連結)という概念が生まれる。最高音は所謂メロディとして、音楽において一番目立つものであり、それゆえその流れや感情の動きに追随することは比較的容易い。だが音楽の持つ大きな流れや起伏を根底で支えているのはバスの動きであり、そこから生まれる和声である。和声の動きから本質的な抑揚が生み出され、その結果が旋律として表現されるという感覚が必要である。
旋律の連続性を意識する。
 これも、「規則的な拍節構造が連続して行く」という西洋音楽の基本に対応するものだ。(作曲者が明示している部分は別として)音楽は、時間が(時空が、と言うべきか)澱み無く流れ続いていくように、自然な流れの中で連続していくことが必要だ。一つ一つの小さなフレーズは、例えば単語のようなものである。それが文章となるためには、一まとまりとして認識されるだけの「繋がった感じ」が必要なように、音楽上のフレーズも細切れにならずに自然な繋がりが感じられることが必須である。更に言えば、tempo rubato はその連続性の自然な伸縮を意味するものである。例えばゴムを伸び縮みさせるかのように。不自然に引き伸ばし過ぎて千切れてしまっては、それは既に音楽ではなくなってしまう。
多層的な表現を考える。
 和声という「縦の線」と、拍節構造の連続という「横の線」から、 polyphony (多声音楽)という概念が生まれてくる。西洋音楽はこのような多層構造を本質的に持っており、これを織物に例えて texture と称することが多い所以である。オーケストラなどの合奏では、ここのメンバーは自分のパートを旋律として捉え、それが他のパートと重なった時にどう響くかを考える。楽器が異なれば音色が全く違うので、聞く者が異なる2つ以上の線を識別することは比較的容易い。ピアノはそれを全て一人で処理しなければならない点に、演奏技術の本質的な難しさがあるのだ。ここから音量や音色を区別するテクニックの必要性が生じる。
よく考えた練習をする。
 余りにも当然なことではあるが、上記のようなことが出来るように練習していくには、機械的な指の運動の訓練だけでは全く不十分である。よく聞き、よく考えた練習が求められる。また、楽譜から様々な要素を読み取って、「完成図」を頭の中に明確にイメージし、それを具現するためにどのようなテクニックを用いればよいか…そういうことを考えながら「分析」して「理解」して「実践」して「評価」する。頭を使って練習しなければならないのは当然である。これはヨッフェ先生の言葉だが、  
「1時間練習したとして、精神的に疲れたとしたら、それはいい練習です。手が疲れたとしたら、それは悪い練習です。」
 まさに至言である。

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 まあこのように考えてみると、単調で無機的な練習の時間というのは、無駄…という以上に有害である、とさえ言えると思う。例えるならば、コンピュータの合成された喋り方を一生懸命真似しようとしているようなものだ。それは血の通った命の息吹のある言葉とは似ても似つかぬものだし、音楽とはその対極に位置すべきものだと、私(も、師匠も、私たちアルス・ノーヴァのメンバーたちも)信じている。ヨッフェ先生の含蓄のある講義もさることながら、そういったことに思いを馳せてみる、いい機会になったのではないかと思っている。…………って、固いっすね、今日の日記(笑)。


2002年7月8日 (月)

 今日はどうにも腹が立つことがあって……、正直、鬱憤晴らしです。

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 他人にアドヴァイスを求めておいて、その答えが気に入らないのか、答えてくれた人のことを更にほかの人に向かって非難する態度というのはどうかと。
 そもそも自分が蒔いた種だということを、ものの見事に棚に上げてしまって、自分を批判してくる人を「気に入らない」と断じるのは、御門違い甚だしいと思われる。

 誰だって、自分のしでかした間違いを直視するのは辛い ものだ。だからといって、目を背けてしまって他人に責任を押し付けようとしても物事がうまく進む筈は無い。心配して、親身になって、手を差し伸べようとしてくれる人を裏切り、傷付ける事にしかならないだろう。

 素直に自分の行動を認め、頭を下げることが出来る人間は、はっきり言ってカッコいいと思う。だって、間違うことが無い人間なんて存在しないのだから。その上で、どう対処できるかが問題だと思う。虚飾を廃した素直な心を持ち続けたいと思う。


2002年7月9日 (火)

 うにゅう〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 と、融けてしまいそうな蒸し暑い日が続いている今日この頃、皆様はお元気でしょうが、私はもうホントに脳味噌溶けてしまいそうでダメダメな日々を送っていて崩壊寸前でありまアヒャヒャッヒッヒ! <暑さにヤられている上に毒電波まで受信しているっぽい(笑)

 などと、くだらない時候の挨拶をかましてみたところで、このどうにもならない暑さが緩和されるわけでもなく、結局冷房に入り浸ってしまうことになるわけで。で、快適に冷えた室内猛烈に暑い戸外とのギャップに、再び、となってしまうわけで(泣)。で、そうこう繰り返しているうちに体力がどんどん減っていってしまって、気がつくとバタンQ〜となってしまうワナ。

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 今日はひさしぶりにぶっ倒れてしまった。…って大袈裟ですが、要するに練習もしないで爆睡モード(別名、強制終了ともいう<笑)に突入して2時間半も逝ってしまいました。まあ、外国から帰ってきて結局休みの日って一日も無かったし、昨日も夜9時近くまで学校の仕事してたし、今日もレッスン続いてたし…………

 ま、仕方無いよね。テヘッ ←文字参照を調べて使ってみる位の気分的余裕は出てきたらしい(笑)。

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 ちなみに私は、大変な汗かきである。背広を着ているせいもあると思うが、大学最寄りの庄内駅から校舎内の自分のレッスン室まで徒歩で約10分。部屋に着く頃にはワイシャツがぐっしょりになるのはもちろんのこと、背広にまで汗で世界地図が出来そうな勢いである。

 また私は水分を非常にたくさん摂る人である。底なしである。ちなみに私は水瓶座だが、きっと私の水瓶は底に穴が空いているに違いないと自分で思っている(笑)。これまでも500ミリのペットボトルを2本ほど買い込んでいたのだが、最近ではこのうち片方が900ミリサイズのものに変更された。また一歩、神の領域ダメ人間に近付いてしまった気がする。実際は、コストパフォーマンスを考えると1.5リットルとか2リットルのボトルを買うほうが遥かに安い のだが、それをレッスン室で生徒の前でラッパ飲みするのは、人として何か大切なものを失ってしまう行為のような気がして未だに踏み出せずにいる。でも、時間の問題かもしれないが(爆)。

 そのくせ、私は半袖というものを着ようとしない。別にこれは紫外線予防とか日焼け対策とか皮膚癌になるのがイヤとかそういう理由なのではなくて 日焼けはともかく皮膚癌にはなりたくないけど(笑)、腕を冷やさないようにしているのである。これでも一応、ピアニストのはしくれですから (A^_^;

 当然のことだが、体が冷えると動かしにくくなる。ピアニストにとっても同様である。私は冬でも、指先がかじかんで弾きにくい…というのは余り感じないのだが、体全体、特に腕が冷えていると途端にタッチのコントロールがやりにくくなってしまう。オリンピックのテレビ中継などで、選手が演技を終えてすぐに上着を羽織る気持ちというのに近いものがあると思う。やはり自分の体の感触をよく知ってちゃんとベストコンディションを保つべく調整しているのだなぁ…と妙に共感してみたりして。

 でも思い起こしてみると、子供の頃も大学時代も、腕が冷えると弾きにくい…なんて感じたことは無かったような気がするのだが。……ハッ! するとこれは「年をとった」ということの表れなのかッ (;_;)/~~~

 …………まあどちらにしても、体のためには冷え過ぎない方が良いことに違いないですし。余り冷房に頼ると、本当に体の体温調節機構が逝かれてしまうらしいですし 俗に冷房病と言われてますな 、エネルギー節約と地球温暖化の防止のためにも冷え過ぎにはご注意を…、とお茶を濁しつつ本日はこれにて。最後の最後で切れが悪いのがお笑いを目指す管理人としてはちょっと不本意です(泣)。


2002年7月15日 (月)

 いま日本近海では、台風というのが流行っている(笑)らしい。
 んでもって、現在は台風7号が接近中で、既に各地で暴風雨による被害が出てしまったりしているらしい。
 そして、奴は今夜半に関西地方に最接近する予定らしい。
 各地で、奴に対する警戒や対策が練られているらしい。

 それは、それとして、だ……。

 家を出るときには降りそうな素振りも見せなかったくせに、なぜに駅へ向かって自転車で走っている最中に急に雨が降ってきますか(泣)? しかも、なぜに距離的にちょうど大きな傘を取りに戻るのが無理な地点に差し掛かったのを、見計らったように降ってきますか (T_T)/~~~ ?

 まあ、私は普段から折り畳みの傘を鞄に入れているので、その場を凌ぐことは出来たのだが、それにしても、自転車で走っているときに降られるのは余りいい気分とは言えない。なぜって、やっぱり片手でハンドルを持って運転するのは普通に漕いでいるときに比べてスピードが落ちるからだ。前も書いたが、私は朝をギリギリまで寝ている人 なので、そういう所で予想外のタイムロスがあると通勤のタイムスケジュールが狂ってくるのが、致命的に困るのであった。更にいうと、今日から大阪音楽大学ではピアノの前期実技試験が始まる。色々と準備を担当させられてしている私としては、遅刻は勤務評定に響いてしまう(笑)……というのは冗談だが、少なくとも他の先生方に迷惑は掛けられないので、大変なのである。

 とまあ、心の中で悪態をつきつつも、駅近くのスーパーマーケットに自転車を止めて駅へ向かう。……まあ、どうせ帰りに買い物する予定だし (^_^; 失礼ついでに、傘をしまっておく細長いビニール袋を一つ拝借する。現在時刻8時55分。ココは9時開店なので、既にお客様用に、そういうアイテムが準備されているのであった。

 そんな苦労をしつつも、庄内駅に着いたら、既に雨は止み、雲が切れて太陽が照っていたりして…………
 何でやねん(泣)

……………………………………………………………

 まあ、どちらにしろ、この季節にこれだけ「台風」と騒ぐのはやはり珍しいコトではあるらしい。大学に着き、教員集会室へ出向くと、そんな話題が飛び交っていた。

 さてところで、どこの学校でも交通機関がストライキをやったり、天候不順で気象警報が出たりすると、授業が休校になるものである。 これに関して例外的な教育機関ってあるのかな? 大体そうした決まりは、学生便覧とか生徒手帳とかいったものに明記されているものである。で、これが試験となるとどうなってしまうのであろうか?

 台風の影響で(前期実技)試験が中止になったとか、順延になったとか、今までにそういった事態を想定すること自体がなかったというのが、先輩の先生方の話である。……やっぱり今年の気象はちょっと可笑しいおかしいようである。結局主任の提案で、ガイドラインは策定されたのであるが。

 それにしても、今日の天気は変であった。それまで晴れていたかと思ったら、昼休み我々が学生食堂で昼食を食べている時突如としてタライをひっくり返したような土砂降りになってしまった。とある先生曰く、「この熱気といい蒸し暑さといい、このスコールみたいな雨といい、…ここは熱帯雨林かい!」 我々は頷きながら苦笑するしかありませんでした。

 困ったのが、学食から校舎へ戻るのには10メートルほど雨の中を走らねばならないということ。さすがにこの異常な降りっぷりがずっと続くことは無いだろうから、雨足が弱まるのを待てばいいのかもしれないが、我々は午後の試験の準備をしなければならない。あまりゆっくりもしていられないのであって…………

 結局、走りました。ダッシュしたつもりでしたが、しこたま濡れてしまってかなりしょんぼりな感じでした。で、しばらくして午後の試験が始まった頃にはまた既に日が差していたし。

 何でやねん(;_;)

 まあ、台風の影響で、それだけ雲の流れが早いということなんでしょうけどね。天気ってのは自分の力ではどうにもできないので、どうしても不条理だなぁ… と感じでしまうのであった。
 結局その日はそれから余り降らなかったのだが、おかげで傘を忘れて帰りそうになってしまって、校門から自分のレッスン室まで無駄に往復することになってしまって、……不条理だなぁ… と、また感じてしまうのであった……って、それは自分のせいだって(藁)


2002年7月20日 (土)

 今日、とあるスーパーの駐車場で、轢かれてしまった猫を見た。

 毎日自転車に乗って往復40分以上も走っていると、そうした死体を見ることはそれほど稀な事では無い。その度に、一抹の憐憫の情を催すのだが…
 だが、今日の猫は、まだ生きていた。ぐったりと横たわり、頭は半分血糊で見えなくなっている。目は殆ど閉じていて、その動きさえも恐らくは生物的な反射運動でしかなかったのかもしれない。でも、体をよじり、腕を伸ばそうとするその姿は、普通の猫が気持ちよさそうにひなたぼっこをしていたりするときに見せるような、それと何ら変わらなく見えた。

 その、本当に何気ない所作と周りの凄惨な赤とが妙に生々しく感じられて、暫く息を呑んでしまった。

 きっと、いくつもの運の悪い偶然が重なってその猫は事故に遭ってしまったのだろう。恐らく野良だったのだろうが、少しでも何かが違っていたら、本当に心地よいまどろみの中で伸びをしていたんだろうに……そう思うととてもいたたまれない気分になった。
 ルーレットの出目を呪っても仕方が無いことは判っていても、「もしも」という問いを止める事は出来ない…ヒトの知能が獲得してしまった時間の概念は、時に止まることの無い蟻地獄のような思考の迷路に我々を引きずり込んでしまう。

 祝日の夕方、賑やかで人がたくさんいるはずのその場所の、一部分だけがまるで空間を遮断したかのように静かだった。

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 きっと程無くその猫はこの世から去って行くだろう。
 最後に彼は辛かっただろうか、苦しかっただろうか。
 ひょっとしたら幸せな幻の中へ消えていけるのだろうか……

 否、ただ最後まで生きようと、動こうと、命の灯火を絶やすまいと、無心に静かな努力を続けるだけなのだろう。恨むのでもなく、逃げるのでもなく、単純に前を見詰めて行き続けようとするだけなのだろう。人間の安っぽい同情など、恐らく毛ほどの価値も無い。

 その純粋さが、私の生温い心に、痛かった。


2002年7月29日 (火)

 現在、我が大阪音楽大学では夏季受験講座が開催中(笑)である。

 受験を控えた高校生のために、楽典やソルフェージュの講座、実技の個人レッスンなどが、様々なスケジュールで行われている。私も、昨日と一昨日はピアノ専門と副科ピアノの個人レッスンをやった。技術などの個人差は当然のことだが、みんな受験という大きな目標に向かっているので真剣である。受け手が真剣なレッスンというのは、やっていて気持ちのいいものである。

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 で、そうした種目別(笑)のコースのほかに、実技全般に対するセミナーのようなものが日替わりで開かれている。ベテランの先生方が色々な題目で講演をなさる中で、今回私もその中の一日を担当させて頂く事になってしまったなった (T_T)

 …………何故に (T_T) なのか……と思われるだろうが、私は大勢の前で喋るのが大変に苦手なのである。

 もともと、どちらかというと話をすること自体が苦手なのだが、一対一の話ならいつものレッスンの感じでやればいいので、それなりに慣れてきたという感じはある。相手の様子をしっかりと見ることが出来るので、どういう風に話を進めて行けばいいのか…というのが何となく判る気がする。だが、相手が増えてしまうと、特に二桁くらいになってしまうと、もうどうしていいのか判らなくなってしまうのだった。大体、どこを見て話せばいいのか判らない (*_*)

 ……というような話を、師匠に相談したり、同僚の先輩方に愚痴ったりしてみるのだが、「気にせずマイペースで喋れば…」とか、「まあ、慣れの問題だから気にしないで…」とか、そういう返事が返ってくるのである。きっとそれぞれもっともな答えなのだろうという気はするのだが、じゃあ私は実際どういう対策をとればいいのだろう、と考えるときに結局困ってしまうのであった(泣)。

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 でもまあ、とにかく下準備はしっかりしておくほうが安心できるのだろう…ということでここ数日間はネタ繰りレジュメ製作に精を出していたのであった。でも、どうもかなりプレッシャーを感じていたらしい。前日の夜も練習が終わってから3時 夜中ですよ 位までパソコンとにらめっこしながらレジュメを仕上げていたのだが、ディスプレイを凝視していたせいで今日は酷く眼底痛がする。今までパソコンの画面を見過ぎて肩凝りになったり目の疲れを感じたり…なんてことは無かったというのに…… このプレッシャーは、どうもかなり重症のようである。

 おまけに、朝から4回も「大」のためにトイレに通ったりして。いえ、私は元々「お通じ」は良い方ではあるのだが(爆)。それにしても4回というのは、ちょっとどうかという感じである。おまけに食欲まで無くなってしまっている。それこそこの私が、である。何だか、演奏会の本番前のような気分になっているようだ。

 でも、私にとっては喋るよりは演奏する方がよっぽど楽である。いくらへっぽこピアニストとはいえ、演奏するということにはそれなりの慣れもあるし、自分なりの自信もあるし、意気込みも感じている。でもこれが喋ることとなると、慣れてもいないし、自信も無いし、……要するにネガティブな面しか思い浮かばないのであった。う〜ん、既に気分で負けている ようである。

 ちなみに、今回の演題は「ショパンの練習曲におけるテクニックについて」………いかにも受験生の心をくすぐりそうな(爆笑)タイトルである。でも、喋るより弾く方がと言っても、「じゃあ、ショパンの練習曲をそこで弾け」といわれると、これもやっぱりイヤなのかもしれないが 結局ダメぢゃん(自爆) 

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 何だかんだとグズグズと言っていても、時間は容赦なく迫ってきて、結局おろおろあたふたしながらもやり終えてしまったということなのだが。でも、正直、やっぱり苦手な感じである。

 そういえば、終わってからふと気がつくと、足の裏が引き攣ってました。痛いこと痛いこと…… 喋りながらよっぽど緊張していたに違いない…ということを再確認。このポンコツぶり、何とかしたいですねぇ(泣)。


2002年7月30日 (水)

 大学の仕事はまだまだ終わらない(笑)

 今日は「到達度テスト」というものがある。入学試験の一環として行われるテストで、楽典やソルフェージュ(聴音や新曲視唱)といった科目がある。ここで認定されると実際の試験のときにそれらの科目は免除ということになる。つまり、音楽関連科目を自分のペースで勉強し、入試の前には実技に集中できるように……という配慮から行われるようになったものである。

 …………ユーザーフレンドリーの鏡のような制度である(爆)。

 このテストは年に3回実施されており、今までも副科ピアノの審査は何度もやっているのだが、今回は聴音や楽典の試験での「監督委員」をやることになった。おかげでいつもより早く起きねばならなかったのだが(笑)。

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 小中高の定期試験や実力テスト、または入学試験などでもそうだが、大体は担任の先生なんかが、こう、教卓の前に座っていて生徒が問題を解くのを目を光らせて監視しているものである。で、時々教室をうろうろと廻ったりして、学生が真面目に試験を受けているかどうかをチェックするのであった。

 学生の頃には、その監督にどんな先生が来るのかに一喜一憂したものである。要するに、勘の働く先生や眼光の鋭い先生は嫌われるのだ。つまり、カンニングなどの不正がやりにくくなるからだ。優しい(という噂の<実際見つかった時の処遇がどうなるかは知る由もないのだが)先生だと判ると小躍りするように喜んだものである。

 …………っていうのは、友達っていうか、一般論的な話です。私はそういうことをやったことがないですから。カンペは作ったことあります。人のために。もちろん作ることで自分が勉強になるわけですけど。で、結局それを使ったクラスメイトのほうがいい点数だったりして(苦笑)。私は気が小さいので、見つかった時のリスクを考えると結局それをやる気にはなれませんでした。まあ、肝っ玉が小さいというか…… もちろん、カンニングすることが勇気があるとかいうわけぢゃ無いですけどね(笑)

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 何だかちょっと話がズレてしまったが、そうやって見回っている先生を見て、「こっちはこんなに一生懸命試験を受けているのに先生は気楽でいいなあコンチキショウ」 とか思ったこと、ありませんでしょうか? お恥ずかしながら私はあります。気が小さい上にヒネクレたお子様だったわけです。大きなお世話ですが(爆)。

 まあ、一生懸命に試験を受けている学生たちを見ながらちょっとそんなことを思い出してしまったわけで。でもまあ、ちゃんと時間を計ったり、質問に対応したりと、やるべきことはやらなければならないわけで、これはこれで責任のある立場なんだなぁと思ったり。まあ、楽な仕事ってのはそうそう無いって事ですか(笑)。

 でもまあ、学生たちは記譜聴音をやっているときに私は記憶聴音に挑戦したり、楽典の試験を制限時間の5分の1程度で解いてしまって一人で悦に入ったり…なかなか退屈しない時間ではありました。……何だか凄くエラそうですが、大学の講師ともあろうものが、入試問題程度をそのくらいのスピードで解けないとすれば、これはこれでちょっと問題ではあります。要するに、我々にとっては「それが普通」でなければならないということです。

 そういえば、流石に問題を解き終わって寝ている学生はいなかったなぁ。私は入試のとき、問題を解き終わって確かめをして、まだ時間が余っていたので机に伏せて眠ったような記憶がある。つまり、気が小さい上にヒネクレて、更に生意気な餓鬼だった訳です。ほっといてください(核爆)。

……………………………………………………………

 昼休みに教員集会室で他の先生方に会ったときに、そんな話をちょっとしてみたり。「記憶聴音してみました」といったら、「いま書いてごらん、採点してあげるから」と返されてしまった。その先生は聴音の採点委員に当たっているソルフェージュの先生で、たった今採点を終えて来た所らしい。ちなみにこの先生、私の学生時代のホントの先生だったのである。私が教わっていたのは和声と対位法でしたが

 流石にそうくるとは思わず「…………スミマセン。もう憶えてないです」 と苦笑しながら返事することしか出来なかったのが非常に遺憾であった。

 出来の悪い子は、廊下に立ってなさい(爆笑)。


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