トロッコと模型

御祖父さんの嫁さんは、見合い結婚でも、恋愛で結婚もありません。

岸和田市の新聞に、”親孝行”で載ったひとだから結婚した、とだけしか私は知りません。
ミツと言いますが、私は、「叔母あちやん」と言っていました。
子どもか生まれませんでした。
実は、私の母は、津田の音やん(津田音吉が正式名称)です。
妾の子供です。よねさんと言います。
よねさんは、終戦直後、昭和20年に亡くなりました。
戸籍名称は難しいので、間違って使っているかもしれません。そこは、賢い読み手かカバーしてください。
このよねさんの実の夫は、音やんとは親しい間らしいです。
しかしながら、大正7年、38歳で、亡くなりました。
子供は、私の母、久子と2人の男の3人兄弟でした。
久子は、養女として、音やんの家に引き取られました。
陸海軍人用文 明治37年
その久子は、終戦前に結婚していました。
薬品会社勤め父は、戦前、海軍にいたようで、呉の病院に、一時入院していました。
母久子は、あまりその時の事を話しませんでした。

よねさんは、早くに夫を亡くして苦労したと思います。

実は、よねさんも養女です。
T家で生まれましたが、奥さんのことは分からないが、男子が再婚した時に、子供だったよねさんは養女に出されたのてす。

2人の男の子は、亡くなった夫方の家と、嫁ぎ元の家の名前を継ぎました。
夫婦別姓の時代から見れば想像も出来ない事です。

その後、一人は亡くなりました。
もう一人は、戦前、シベリアにいっていましたが、この頃の話は何も聞かせてくれませんでしたが写真1枚が残っています。結婚したので、そちらの家にあるのでしょう。
宣戦大詔謹解 朝日新聞社刊
終戦後は、警察官を勤めていました。
柔道の方でなかなかのもので、戦後のどさくさの時に、トラックに乗っての取り締まりで、活躍した時の映画があると聞きました。
モデルになったので?勲章を貰ったんや、燕尾服をこっそりと拵えて東京に行きよった。
嫁さんは叔父さんが亡くなってから初めて、その事を知った、と言ってました。
とにかく、叔父さんは変わった方で、「いつ家が、仕事で引越しが有っても良いように」と、ちゃぶ台はりんご箱を使っていたと言う質素振り、自分には厳しいひとでしたが、私には頼りに人でした。

そうそう、音やんの子供は、本妻に子供がいないく、よねさんが男3人を生んでいました。
一番上の子供は、父と子がうまくいかなかったのか、戦前、海軍にいて写真館で撮った海兵隊の写真が記憶している
姿ですね。
ニ番目は専売公社に勤め、三番目は薬品会社を辞めて芸能会社を設立しましたね。

養女だった母も結婚しました。
夫が、一流企業の会社勤めを辞めて、事業をしたが、莫大な借金だけ残してしました。
静岡の父方の家に、母と一緒に汽車に乗って行ったことがありましたが、今思えば借金の話だったと思います。
結論から言えばなにも出来ず、逆に縁切りになりました。
そして養父の音吉に頼りることになったのてす。
音やんは、母屋を売る等をして金の始末をしてもらいましたようです。
そして、二人目の妾さん方義父は行ってしまいました。
戦争と言う社会と、60歳近い年齢の義父に出来る事方法だったのですね。

それでも、吹田から摂津、茨木の学校の講堂とか公民館等を借りたして演芸大会をしたり、豊津で劇場をしていました。
まあ、古き悪しき慣習がまだまだ残っているころ、何かあるごとに、地域の顔役とか、お役人様に挨拶回りしたり、若い衆だった人に手伝いを頼んでましたね。
まあ、そのおかげで?何をするにも、スムーズに行えました。


そんな話は、また別の折りに書くとして、私の母と兄、妹、それに 子供のできなかった養母みつさんとが、義父の世話で作って貰った小さな家で何とか暮らしていました。

母は、養父とミツさんには世話をかけたので、とても気を使っていました
別れることになった夫のことは、なにも言いませんでした。

そうそう、まだ、小学校に行く前の事です。
阪急電車の”吹田駅”が”省線”を挟んだ大阪寄り側にあった時、今の吹田駅ところは、”市役所前”駅という駅でした。
今は有りませんが、吹田駅の所は柳通りの始まりでもあつて、結構賑やかな場所で銀行もありました。
旅館もあり、みたさん、きくさん、じろうさんとか言う名前の薬局、駄菓子屋、そうそう、電気屋もあったです。
電気屋の息子さんがは、そろばん塾とか学習塾をされていて、兄、妹と共に、そろばん塾の方に習いに行ってましたね。

話は前後しますが、まだ、小学校にも行ってない頃の阪急電鉄(子どものころは、電車と言ってたです)事です。
その頃ですが、市役所前駅に引込線が引かれていました。そこにトロッコが止められていました。
そこに、1人だったか2人だったか思い出せないのですが、その子供と一緒にトロッコを押して遊んでいたらしいく、急に本線に電車が入って来た音にびっくりして私は家に逃げ帰ってしまったが、友達の方は捕まってしまい大目玉。私の方も、親父が呼びだしを受け散々注意をうけたようで、家に帰ってくるなり私を押入れに放り込んでしまった事が有りました。
ま、電車の走るところで、トロッコを押すような危ないことはもうしなかったですが、その頃、工事中だった安威川(吹田で神崎川に名称が変わる)のあちらこちらに止めてあったトロッコを押して遊んでいる、そんな悪ガキ連中の1人でしたね。

今考えるに、その頃の子どもの生活の大部分は、足で歩ける、ごく狭い範囲であったわけで、トロッコが一番身近な乗り物であり、生活の全てであったように思います。
その後、自転車が流行して、人間の行動範囲も広がると、買い物場所も、まとまったところに集中しだしました。
次に流行ったのが、車ですかね。私も昭和43年に中古の空冷式パブリカを乗った頃は、まだ、サラリーマンでは珍しかったころてす。





と、言っても、もうぼつぼつバブルが始まるところだったのだと思います。
電報局と疎開道路

その、かかりの頃ころの、駄菓子屋、ℤゲーム屋、ダンスホールなど、家の近くに、出来たと思うと、もう直ぐになくなしまってしまうといった状態で、叔父さんとこも、道路に面した小さな庭を潰して、なんか店をこしらえては、儲からづ、直ぐにみせを辞めてしまう、といった落ち着きのない時代でした。

お金のことを話せば、5歳ごろでしょうか。50銭玉を握り隣りの駄菓子屋にあめを買いによく行きましたね。あめ玉を2個買えたからです。
吹田。柳通り

その頃、模型店で、ひごを買って、飛行機を作ったり木材でトロッコを作り、特にレールのポイントを作るのが楽しかったです。
ボビンと鉱石、クリスタルイヤホンなどを買って、ラジオを作ったりもしました。
貸本も近くにあり、そこの若夫婦には本を貸してもらい、大変お世話になりました。

まあ、結構単純な子どもです。

1960年大阪港 大宇宙博

ロケット

世界最初のロケット


それが、阪神淡路大震災の時には、車が動けなくなる中、私も電車で行けた蘆屋市まで10回ほど調査で行きました.
仕事の休みの日たまたまいった万博公園東口近くから、ヘリコプターが何機も休まずに飛んでいく光景をみて、感動に近いものを感じました。
人間の行動の広さを知らされましたね。


昭和28年頃の米国アンブラー郊外宿舎


みそたねくん