尺八課外読み物

飯田峡嶺


15.鶴の巣篭もり

虚無僧濫觴
巣篭りは曲中の秘にして片管にては吹く事ならず連管にて吹くものなり。
親鳥は子を憐み、子鳥は親鳥を慕う、仏は衆生を救いとらんと思い、衆生は仏にならんと渇仰するが如し。
法華経に今此の三界悉是我有其中衆生皆是我子と説き給う。仏は親、衆は子、仏は請の法を説いて衆生を救いとらんと思い、親鳥は空にもうて子を呼ば雛鳥は、巣の中に居て声を合わするが如し。卵より生るヽ時既に其の機あって、子は卵の中より出んと嘴にて卵をつヽけば、母鳥は卵より出さんと嘴にづヽけ割って出す、啄同時と言う。
智度論に十喩ある内谷響す。谷響はこだまなり。老子経に谷神不死と言える。
母鳥が子を呼べば、子鳥も声を合わする、是こだまの如くなり。
和歌三鳥伝に呼子鳥と言うあり。
猿丸が歌に
遠近のたづきも知らぬやまなかに、おほづかなくも呼子鳥かな
とは、猿のことじゃと言い、また、雉子の事ともいうなり。
権中納言定家卿の歌に
道おくのちかく浜辺の呼子鳥、なくなる声はうとうやすかた
と詠みしは雁の事じゃといえりし双ケ岡の法師徒然草に招魂の法をなす時呼子鳥ありといえり。鶴の事じゃともいはれしは、子規のようにもおもわるヽ也。
何れ相より慕うのこヽろなるや。細川幽斎戦場に在りし時勅使あり。
古今集の伝授の絶えなむ事を嘆かせたまいしかば幽斎しばらく軍を止めて御伝授ありしより、連綿として今の世に残り、其の中に三木三鳥の伝あり。
富虚山の解説
大阪上村雲翁(宗悦流)のスゴモリは(晩年関西流と称す)10段の符、真法流の尾崎真竜の符は12段巣篭もり。
富家に残る明暗寺符は段切りはないが、12段である。根笹派乳井軒堂の巣篭もりは、擬音の入った頗る手のこんだもので、根笹の修練をづまないとマネは出来にくいと思われた。大正の始め藤田松調は松調流を立てていた。
胡弓のスゴモリは、仏説巣篭因縁経によって作曲されたと言われ曲趣は、巌寒の頃雛が餌を求めるので、親鳥が餌を探すため、空高く舞い上がると言う状景。
明暗真法流12段スゴモリ、現在の明暗本流10段スゴモリ共にこの胡弓の手と殆ど同じ手である。
元来鶴は、渡り鳥で寒中雛を育てるのは、生物学上は不自然で、これは仏説のたとえにすぎず、故に余り写実的描写は、巣篭本来の姿と言えない。
また、尺八巣篭は連管を立て前とし地の入れ方がまずいと、本曲はぶちこわしになる。
藤田鈴朗の解説
巣篭もりは明暗寺伝となっているが東北ではまた異なった手法を用いる。
伝説では、越中富山の某寺の老松に毎年鶴が巣寵って不思議な事があると明暗寺の玄妙なる僧が聞いて、その松の根方で7日7夜味声を聞いて作曲したものであると伝えられ、大阪では厳松検校が尺八の手を胡弓に取り、久幾検校が箏にうっしたと言う。(藤植流では組曲となっている)
高橋空山の解説
渡り鳥の鶴は、アイヌが多く住んで居たと言われる秋田、山形、新潟、金沢等の裏日本ではシベゾヤから鶴が多く渡ったようで、このような裏日本の虚無僧寺では、巣籠がいたく童んぜられ、また、曲が発達した。
秋田から仙台に移った布袋軒のものや、山形の臥竜軒、越後の明暗寺、加賀の国泰寺のもの等がある。
また、琴古により明暗寺から伝えられたもの、明暗寺に伝わったもの、楠正勝の弟子儀道作と言うもの、それから変化したらしい浜松の普大寺のもの等がある。
九州や中国には、巣寵がないのは、その辺りは早くから鶴が居なくなったためか、福島の蓮芳軒、相馬の喜染軒伝の神保政之輔伝の曲と言われるものが有るが、神保は新潟の明暗寺の出で、晩年福島に住んだがその頃には蓮芳軒、喜染軒は廃寺になっており、その寺の曲は残って居なかった。
勝浦正山の解説
禅で悟り切って余りに脱俗してしまって、暖い情、即ち慈悲心を失っては真の禅にはならない。慈悲が仏心であり、それは親子の情が基だ。
それで虚無憎もこれを忘れぬよう巣籠を最も終わりに教えたと昔から明暗寺に伝わっていた。要するに此の曲は、外典曲であるが昔から重く考えられ、多くの場合、本曲の最後に伝習されたものらしい。


16.増補

○現在明暗流の「虚空」とは昔「虚空」と呼ばれた曲の前半である。
それで宮川如山は後半も教えた。折半したのは、樋口対山で対上川ま後半に別の曲名をつけた。
この「虚空」は(特に前半)荘厳にして幽玄大伽藍の本堂にて奏するにぶさわしい。)
○錦風流の「鈴慕」は竹調べ、竹落し、鉢返しの三部から成る。何れも、元は普化宗本山でまとまったもので、形の整った曲であったのが、九州に流れて九州人の生活感情の影響を受けて、今日の「サシ」になった。
また、鈴慕は東北人の生活感情の中に濾過されながら、今日の鈴慕に変わって来た。
ただ、虚空だけが、本山である京都に伝えられているだけに、比較的昔の形を保ちながら、より完成されたものになった。これは楽譜よりも竹の造り方に根拠をおいて考える、即ち荘厳な音を出すようにつくられて来たと考える。
そこで、南国を表徴する阿字はテンポが早く、明るく、感情の発露があらわである。東北的鈴慕は、リズムが長く感情の発露がこまやかである。
これは民謡等に表れる感情と一致する。そして、虚空は紫衣正装の法衣になぞらへ鈴慕阿字観は、行脚の菰僧を思わせる。(浦本析潮)
高橋空山の琴古本曲評
福岡の黒田藩士黒沢幸八は、当時最も新しい文化の受け入れ口、長崎に行き正寿軒で尺八を学んだ。二代琴古も、正寿軒で一計子にづいて多くの曲を習った。
従来の曲は、中国風の起承転結形式や序破急の形式、或いは、頭韻脚韻の修辞法によるものであったが正寿軒の影響で少し変わった。
また、音形(フシ)や装飾法、節奏、吹奏技術等の細部も変わって来て新味が付加された。
次に、1月・鈴法両寺の吹奏法を採り人れてサッパリした、江戸前の気性にした。
そして、清澄で且つ深見のある、グレゴリアン的なものにしたのも大きな功である。
次に、オランダ風の対位法を採り人れて、虚空の替手を作ったのなど面白い試みである。
然もなお、京明暗寺系の古典もよく保存している。
此の外、明暗寺伝に「観月」(真言系と云う)「供養」(天台糸と云う)「如意」(宮川如山伝)等あれど解説を知らず略す。
また、津野田露月は、黄昏の曲をもっていた由。

17・琴古流系譜

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