尺八課外読み物

飯田峡嶺


2.尺八の歴史 U

1・一節切(ヒトョギリ)


室町初期または、中期頃南中国(福州辺りか)または、今少し南の印度支那または、インドネシャがら南洋系統の竹笛(ネイの竹に代わったもの)に属するものが日本に伝来した。
伝説によれは異人芦安(朗庵または朗庵とも書く)が管長1尺1寸2分(インドの梵唄ボンバイの昔律に従う)の尺八(すなわち一節切)を持って渡来したが、一休和尚カが、彼に「汝の言語は、全然日本では判らないから説教することは不可能である。唯汝が所持する一節切は、誰れにもわかるからその楽器を吹泰して行脚せよ」と教えたので、それ以後、芦安は一節切の吹奏行脚をして歩いたと言うことで、これが薦憎(コモソウ)の起原であると言われる。
縦笛を吹いて行脚するのは南方の風習にある由で、一節切の出所は南中国か南方から直接渡来したと言うことも理由がある。芦安の吹奏行脚以後、日本各地の乞食がこれを真似て手製の一節切で食を乞うて廻国し、これらを薦憎と称した。
日暮れれば、場所を選ばずコモをしいて寝た所がら生じた名称とも言う。
これは、後の虚無憎(コムソウ)とは区別される。

一節切は以後、次ぎの如く相伝された。

芦安→宗佐老人記→高瀬備前守→三井寺の日光院一安田城長→大森宗動

崇勲は大森彦七の裔と口こわれ、始め織田信長に仕え信長死後浪人して専ら一節切の研究に没頭、有名となり巧妙な奏法を案出し、また、多くの作曲をしたので一節切は広くに世に流布した。
後陽成天皇の勅を拳じて一節切5本を製作献上した(現存する)斯く流行したためか「閑吟集」の著者宗祇(シ)法印・小唄の祖と言われる堺の隆達等もこれを好んだと言われる。
大森宗動→指田一音・指田一傳→指田傅兵衛指田傅兵衛は、江戸時代徳川四代家網の頃で指「指田流」を流行させた。
宗勲の弟子中村宗三が「糸竹初心集」や「紙鳶」(イカノボリ)(共に一節切指導書)を苫した。
元禄以後、逐次衰退して天明・寛政の頃全く行われなくなったが、化文年間江戸の町医者、神谷潤亭が非常な熱意で復活し、名称を「小竹」と改称したり、「糸竹古今集」「一節切温古大全」一節切譜糸竹互色目」等の譜書を、高弟である
伊能一雲と共に著し一時盛行したが機運至らず天保年間跡を絶った。大正年間パーロフオンレコ¥−ド会社が「日本音楽史」のレコードを作製するにあたり、藤田鈴朗(現在も発行されている雑誌「日本音楽」の主筆で琴古流尺八家)が、古
譜から「稚児」(一書には「小児」こちご)の曲を復活演奏して吹き込んだ一節切は.真直な竹で節は一節、尺八とは反対に根に近い方が歌口で、管尻が根に遠い方となっている。また.根竹ではなくもっと上部を使用する。
指孔の位置は、尺八の手孔と類似し、音律は次きの如くである。

指孔 筒音 第一孔 第二孔 第二孔 第四孔 裏孔
日本律 黄鐘 神仙 壱越 平調 双調 黄鐘
洋楽律 A C D E G A