尺八課外読み物

飯田峡嶺


1.尺八の歴史I

1.セビ


古代エジプトの壁画(BCl500〜1200)(エジプト支化の最盛期頃に画れたと推定されている)に、セピ(Sebi)が屡々見られる。(立奏でスネの半ばまである長いもの、または、立て膝の座奏で斜めに持って吹奉・管長1200粍程度管は芦茎で作製され歌口は斜めに切ってあり4個の(或は3〜5孔とも云う)指孔を有し、これはリード〔簫)を有する(尺八は気鳴管楽器てあり又縦型唇笛属に類する)が東洋首楽研究家の間ではこれが尺八の遠祖であると考えられている。
なお、壁画は全て笛を斜めに持っているので従来横笛かと考えられた事もあったが管長が長い為に斜めに持っているのであり、矢張りこれは縦笛であると断定された。
また、古代エジプトの楽器には横笛は無かった。


セビ
2:ネイ


BC527工ンブトはペルシャ(イラン)に征服された。
セピは.ペルシャに移りナイまたは、イネ(Nai or Nei)と言う名で中世を通じて今日まで行われている。
ペルシャでは座して吹奏されたので長さが短くなり450−600粍程となった。
このネイが.中国に聞こえて[礼言」[詩経」などには「伊耆の葦(イヤタ)」と記されている。一方、モハメット帝国の東漸と共にペルシャからアフガニスタンに入り其所で材が葦から竹に代った。
〔ぺルシャ以西には竹は産せず、また西部アジアでは葦の茎が非常に丈夫である)


ネイ
3:洞簫


中国には.周代末期葦ヤクが中央亜細亜を経て伝来し漢の時代に竹に代わったと考えられて居るが、葦ヤクの入る前に南洋方曲から渡来した簫が有り、また古く黄代の頃から律管(竹材の縦笛で指孔なし)が存在した。
これは下端を密閉し歌口は管の内部から丸く、くり削ってある。これの簫(近代は排簫と呼ぶ)の一本に似せて葦ヤクの歌口を改造し指孔を前面背曲1にして中国の7音音階に合わせた。
これを洞簫(下端の開放された簫の意昧)と言う。

4.雅楽尺八


アフガニスタンで竹材に代わっイネは、インドを経て南中国から中国へ唐初期に伝来したが、中国では、これを管絃の合春の中に加える事を考え当時の楽律に合わせるため、その時代の中国の基音・黄鐘管(管長9寸)(閉管)に合わせてl尺8寸の長さを定めた。
また、指乳も中国音階に合わせて洞笙と同じく6孔(前5脊1)とした。ただし、当j時の中国の律尺は現有の曲尺8、01寸を以て1尺とした。

5:本朝伝来


上記の尺八は、白済の義慈王(本朝考徳・斉明天皇頃)から日本に献進された(東大寺献物帳に載っている)これが、今日まで正倉院(北倉階上の4本)に御物となって保存されている。
これは、多くは竹製であるが、象牙製や土製のものもある。しかし、象牙や玉製のものも殊更に竹を模して節が刻んであるところからして、中国の尺八は竹で作るのを本体としていたと考えられる。
これら尺八は、雅楽の合奏用としてであった我国ではほとんと用いられなかった(中国でも同様宋の頃消失してしまった)
そして.平安末期か鎌倉までの間に消滅した。
仁明朝に慈覚大師(円仁)唐に留学して引声阿弥陀経の旋律を尺八をもって習い帰朝したと称される。
また、源民物語にも「さくはち」の笛を奏した記事あり、後自河法皇も復活に努力をされたが不成功に終わったと伝えあり、皆雅楽尺八を独奏用として転換した話である。
下って江戸時代に、田安宗武雅楽の管絃合奏に尺八を使用する目的で、雅楽曲の尺八譜を作らせたが、その時は既に雅楽尺八は全滅しているから普化尺八をもって代用線としたものと推定される。