尺八課外読み物

飯田峡嶺


14.地唄・箏曲(その1)

地唄・筆曲を語る前にその伝承者であった、盲人の自治組織「当道」の説明をしてみたい。盲人社会の最初の職業であった、平家琵琶(略して「平曲」と言う)から略述する。

盲僧琵琶

盲人が僧となって琵琶を弾じて(地神経)を唱え土荒神(ツチコウジン)の法を修するを言う土荒神は(カマド)の神であり、この行事は古代印度に起因する。中国の三国時代に中国に伝束し、また、奈良時代に唐から我国の九州に伝来した。
奈良末期、博多に盲僧の天才「玄清」が現れて筑前盲僧の基を開き、その高弟が京郡に上り地神盲僧となり、比叡山延暦寺と関係が生じ逢坂山に妙音殿を建立した。

平家琵琶

平家物語に節(フシ)をっけて語りっヽ琵琶を伴奏に用いる音楽である。
鎌倉初期(建久年間)に起こり、承久年間に凡そ完成されたもので、音楽的内容としては雅楽・声明(シャウミャウ)盲僧琵琶の合成したもので、就中声明の影響が最も多い。
「徒然草」(222段)によれは、後鳥羽院のとき信濃前司行長が茲鎮和尚の庇護の下で平家をつくり、生佛(又は性佛)と言う盲目(彼は声明に長じていた)に悟らせたのが始まりとある。
生佛は[城一」に伝え、城一は「城玄」と「如一」に伝えた。
城玄は久我大政大臣大納言藤原通光の弟の子で、京都の八坂に住したので八坂検校とも言い、此の系統を「八坂流」と言う。如一は坂東(関東)に住したので、坂東方とも都方流(イチカタ)とも言う。如一の弟子が「明石検校覚一」と言い(足利将軍の一族と云う)朝廷より賜った「雲井本平家物語」を使った。

当道の起源(1)

覚一は総検校となり職屋敷を賜った当道はこの時に始まる。(足利初期)江戸時礼(三代家光頃)八坂流の波多野検校孝一、都方流の前田九一総検校の両名手が出て後,、平曲は前者を波多野流、後者を前田流と呼ぶようになった。
その後、語り物の浄瑠璃に圧倒されてぶるわず明治年問には継絶した。

当道の起源(2)

仁明天皇第四皇子人康親王が盲人となられて山城付近の盲法師を召して管絃を専らとされた。宮の御母が仁和二年に近待した盲人達に検校・勾当等の官位を奏請して授け給ったのが元で宮が法師達を呼ぷに是我当道と称されたことに始まる。
斯くして、当道職屋敷を京都に置き盲入の職業を統括した。これは晴眼者の治外法権的組織で、琵琶・箏・三絃の音曲(胡弓も)に限らず、八リ・アンマの術者もこの支配を受けた。
また、当道の営む職業は晴眼者の就業を許さない方針であり、地唄・箏曲の如何なる名手でも女子・晴眼者は「代ゲイコ」の名称であった。
(江戸時代には、一時、江戸に惣録屋敷なる出張所が出来たが、程なく廃止された)

当道の起源(3)

富崎春昇伝によれば「検校と云う官名が盲人の最高位として授けられる様になったのは鍼医杉山流の元祖にあたえられたのが最初やそうで、当初は鍼医のみに許されたものやそうでしたが後三曲(昔は三絃・箏・胡弓を言うたものですが、胡弓を廃めて尺八になったのは近代の事です)に携わる者にもこの位を賜りそれも盲人の男のみに限られていたのです。
検校を四階級とし検校・勾当・授導・市名に分けて、それぞれをまた細く分けて72段階あったと云えられております。
検校位を受けるには京都の御職屋敷へ金1000両納めなければなりません。
そして、その金を納めさえすれば技倆も経験も間わずに受けられたものやそうです。
検校となれば十万石の大名の格式が写えられ、公の外出には必ず駕篭に乗り槍持をつけねばならず妻は懐剣を帯にさします。
道中で十方石の大名に出会っても、こちらは盲人の事であるだけに、向こうからよけねばなりません。それが若し十方石以下の相手やったら、向こうから丁寧に挨拶をして行かねばならなかったと申します。
明治4年この制度は廃止されました・・・以下略・・・
以上の如く各様の説明があり、どれが本当かわからないが、要するに当道は当初盲人法師の専業として平家琵琶語りに起こり、三絃の伝来以後は、この伝承者ともなり、また、八橋検校城秀(ジャウヒデ)出るに及んで俗奏の伝承者ともなり、之等の音楽(地唄・箏曲・胡弓)の教授を業としたが為政者歴代の好遇保護の下に品位ある芸術を保持した。
なお、当道職屋敷により統括され検校仲間の合議制で行政がされた為上方(関西)には芸の家元と言うものがなかった。
ただ山田流のみは、江戸に発達したので、その地の風習にならって山田流家元を名乗った。
明治維新と共に、当道職屋敷の特権を解消されたので検校等は一時没落して或いは按摩となり、或は知入の居候となり(福住順賀)或いは寄席芸人となり(徳永徳寿一里朝)等して大変苦労をしたが、その後、地唄業・地唄仲問として組合制度を組織して箏曲・地唄の師匠として逐次立直り、今日の隆盛を見るに至った。

職屋敷について(日本音楽107号Pl9)(原野充著)より

所在は京都仏光寺東洞院にあって総取締は惣検校と言う官名(また、一老と言う)一老以下千老までの検校が居り、別に職事と言う名目の晴眼者が3〜4名居た在職年限不定で長いのは26年、短いのは2年等の記録がある、惣検校と二老は名誉職的で実際の行政は三老から十老の検校がした。

地唄(上方唄とも言う)

地唄の地(ヂ)は、住んでいるその土地の事である。元禄頃までは文化の中心は京・大阪であったので、その中心地である職屋敷のある上方(京・大阪地方の事)で出来た唄と言う意味になる。然して元禄までの上方の音曲が関東を圧していた時は、唯三味線唄、或いは法師唄と言えば良かったが、その後、江戸に文化の中心が逐次移り、劇場音楽(浄瑠璃・江戸長唄等)が発達して一流の存在を示すようになると、当時は一般人から河原者と賎んだ芝居者の伴奏音楽と伝統を誇る盲人社会の上方唄を区別するために「地唄」と称するようになった。従って之の語が使われ始めたのは地唄の「長唄」発生頃からであるが、現在では、それ以前の組唄でも、皆広く地唄と称する,ようになった。