尺八課外読み物

飯田峡嶺


14.地唄・箏曲(その5)

生田流箏曲

箏組唄は、安村検校の「飛燕の曲」を以て最後とし、以後組唄を作るごとなく(例外はあるが)組唄の価値低下を防いだが、以後は三絃の流行に圧倒されて来たごとヽ組唄の形式を破った新作曲が出来難くその後は、三絃との合奏(実際は伴奏)の地位に甘んじた形が続いた。

ごの期間を(1700〜1900)三期に区分して箏の地唄伴奏を説明される。

即ち
第一期(1700〜1800)三絃の手をそのまヽ箏で弾いた。
第二期(1800〜1850)三絃の手を変奏して箏で合奏した。・・・大阪市浦検校、江戸山田流
第三期(1830〜1900)京ものの大成・・・・・京都八重崎検校

生田流は北島検校の門下生田検校に始まり生田検校は作曲では箏組唄の「砧]三絃の「思川」があると称されるが、余り之の方面では有名ではない。
然し箏爪の拵らえかたの改良とか、教授法が優れていたとかで、他の流派、新八橋、住山、継山、藤池の諸流を圧して隆盛を見た。
現在、関西中心の地唄、箏曲は全て生田流と称されて居るが、厳密に言えば、菊田、菊武、菊井、富崎等の系統は継山流である。

市浦検校の箏手づけ
改作  鎌倉八景。月見狐会。
新作  (峰崎作品)放下僧。翁(国山勾当作品)玉川。古道成寺。越後獅子(雲井調子)
     阿蘭陀万才(オルゴール調子有名)・・・万才と合奏
八重崎検校手づけは前掲京ものに示す。

箏の独立

前述の如く生田流に於いては三絃の伴奏としての箏の技工巧は発達したが、箏本来の面目を失った事を不満として箏曲の独立を志した人々がある。

光崎検校(弘化3年・1846没)(塚本虚堂説では嘉永6年)
八重崎検校の門下で三絃曲も名曲を相当作曲したが、中年から箏の独立を主唱して箏のみの曲である秋風の曲、五段砧等を作曲し、また「箏曲秘譜」や「絃曲大榛抄」(葛野端山と共著)(天保8年出版)を著した。
「秋風の曲」は門人の学者「蒔田雲所」(高向山人)にはかり、その歌詞を得て竹生島に参篭して作曲した。(天保年問1830〜40)筆曲の独立を志したことは、職屋敷の先輩の忌憚にぶれ京都を追われて越前国坂井郡(酒井郡?)高椋村に退き不遇の世を終わったと称される。
(那智俊宣説)(三絃曲夕辺の雲・・筆組曲菜蕗組と合奏出来る・・はその不遇時代の作品と言う)
然し、京都を追われたと言う説は疑わしい点があり、之にっいては昭和12〜13年の雑誌「三曲」話上で塚本虚堂と那智蒼生子が渡り合っている。
吉沢検校の行動は後輩に多大の影響を写え幕未頃名古屋に吉沢検校出て雅楽の箏を研究して組唄の新形式を作り出し「古今組」を作った。(春の曲。夏の曲。秋の曲。冬の曲。干鳥の曲)
但し春。夏。秋。冬。の曲の派手な手事は、明治年間京都の松阪春栄による。
その為之等の手事は原作の本意を傷っけるものとしての批難もあり、本場の名古屋では松阪の入れ手は演奏しない。

山田流箏曲

組唄の禁止を命じた安村検校は、江戸にも箏曲を植え付けようとして門下の秀才長答富検校を江戸開拓者に命じた。
長谷富は、江戸に下って気長く普及の努力したが、隆盛にならないので門人の町医者、山田松黒に後をゆずって京都に引き揚げた。
山田松黒は、三田斗養一と言う天才児を発見して、之に奥儀を授け山田姓を名乗らせた。
また、名著「箏曲大意抄」(組唄の譜本)を著した。
山田検校(宝暦7年文化14年、1757〜1817)
山田斗養一の山田検校は、当時の江戸の歌浄瑠璃の全盛に見習い河東、一中、富本節等の旋律本位の浄瑠璃を手本に一種の歌ものとしての箏曲を創始した。(文化年問1804〜1817)
斯くして陰気な地唄を江戸の気風に沿うものに変化させた為忽ち江戸はもとより関東一円に確固不動の勢力を張った。なお、山田流では、主奏は箏であり、三絃は伴奏で、その演奏に於いても箏が正面に何面でも並び、末端に三絃は一挺程度が普通で三絃の手は、また、箏の手そのままである。
箏の寸法も生田は本間6尺3寸だが山田は6尺に縮め爪も丸爪に改めた。
弾奏姿勢も生田は箏に対し斜めに座るのを、真向きに座るやうに改めた。
また、山田では箏の絃を強く張り調子を高くした。(生田の平調子を雲井調子に改める等)そして鋭い音を発する様工夫した。
作品には、小督。熊野(ユヤ)。那須野。江の島。葵上。櫻狩。等の山田独特のものがある。
(無論山田流でも本曲である組唄は、八橋以後大きな変化なく伝え生田にある曲は大抵山田にも有るが慈に示すのは山田流祖作曲以来の独特の曲で生田では演じないもの)

◇山田流の主な作品は下の如し
石山源氏上。下。花の雲。ほととぎす。蓬菜。長恨歌。千里の梅。千代の栄。竹生島。千代の寿。岡康砧。かざしの雲。子の日のあそび。雨夜の月。松がさね。松風。松の寿。寿競ベ。近江八景。さらし。都の春。七福神。松上の鶴。須磨の嵐。等

山田流の勢力が盛んになり、門下が多くなって分派が生じた。その内、山登、山木、山勢が最も勢力があった。(三派の家元が出来た)就中山木は、山田門下中嶄然(ザンゼン)頭角をあらわし、山田の後継者と目された。
然して、天保13年(1842)関東総禄に任ぜられた。