尺八課外読み物

飯田峡嶺


15.琴古流尺八手法(地唄合奏用)

ごの項で説明する事は“地唄尺八”吹奏の基本であって、高遭な吹奏の気分。(軟らかく、鋭く、或いは、なだらかに、節目立てヽとか)
或いは曲の内容を表す為の気分。(衰しみ、寒さ、目出度さ、勇ましさ、幽艶とか)を、表現する為のものでない。
ごのような表現は、奏者の意志であり、各自の判断に俟たなければならない。
尺八に携わる者で地唄、箏曲の吹奏に当たって一通り以上の習練や経験を経て、ごれで合奏をしても「地方」から音律・拍子・緩急度等で注支をつけられたり、苦情もなくなり、自分では一応ごれで良い、三絃・琴との合奏は、もう出来ると考えている人は以下の文章を読んで、頭や指使いを、困惑させない方がよいと思います。
では、この文章はどんな人に読んで貰いたいかと言えば、前述のように、律も良い、音もよく鳴る、拍子も良い、合奏もトチラずに出来るし「地方」からも苦情も出ない様になった。
然し、何か物足りない、或いは師範として教えるのに、もう少し上手に、玄人風にと考えている人達に読んでもらい、参考になればと願っています。
従って、この手法は、どの曲を演奏するにも、基本として必ず利用すべきものとも言えます。

吹奏の原則

l.無意識で吹いてはいけない。
全体はごんな曲想に表現したい。この部分はごの様な表現をしたいと言う意識を持っている事。
2.イージーゴーイングにならない。
手法は困難な指使いが多い。これを省略して簡単にすると楽に吹ける。然し、ごれでは素人吹きになる。困難を克服しないと名演奏にならない。

[みそたねくんより]

以降の部分は尺八音符を使って詳細に解説されていますが、吹き方は、実際に音を聞きながら教わるのが間違いなく最適であろうと考え、省略させていただきます。


16.新曲の吹奏T

新曲とは

新曲と言っても、尺八だけのために作曲された曲、或いは尺八家の作曲した曲は殆どない、または、まれである。
箏曲家が、箏曲独奏用に作曲したものに、尺八の伴奏を行うか箏・尺八合奏用に作曲したものが大部分である。
そごで、この新作箏曲の類を大別すると下の如く分類される。(この分類には異論も有ると思われるが、尤も一般的と考えられる区分をした)

  1. 明治新曲と称されるもの。
    主として、明治維新開化以後、大阪を中心とする箏曲家が新らしく箏のために作曲したもの。
    (生田流が多い)例。稚児櫻。明治松竹梅。大内山。摘草等)
    ごの種の曲の特長は
    三絃と合奏するようになっていない箏のみの独奏または重奏である。
    箏の調子は、従来の平調子、雲井調子等と異なった変調が多く、中には当時の流行唄の旋律から取ったカンカン調子等のものも有る。
    歌詩の内容も従来の四帖半趣味、或いは江戸趣味的なものと全く異なり風景、皇室尊崇、武人の勇武をたヽえると言った、当時の新政府の推奨した健全なる歌詩である。
    若干洋楽風が加味された。
  2. 新日本音楽と称されるもの。
    箏曲家宮城道雄、尺八家吉田晴風(後に中尾都山も)等が作曲、または、演奏をして流布した大正時代から昭和初期にかけ、主として宮城道雄作曲のもの。
    (例。春の梅。谷間の水車。遠砧。高麗の春。さくら変奏曲等)続いて、山田流箏曲家久本玄智作曲のもの。(例。春の恵。光輝。飛躍等)
    また、町田嘉章の作品。(例。春信幻想曲。佐渡の印象。岐草提灯等)
    之等の曲の特長は
  3. 現代邦楽と称されるもの
    前期に引続き宮城、久本曲等は現代も最新曲として作曲され演奏されているが、之れに続いて現れた作曲著の作品を総称する。
    箏曲糸   中島雅楽之都、萩原正吟、中村双葉、山川園松、斉藤松声、坂本勉、坂本歌都子、菊県琴松、中之島欣一、菊井松昔等。
    尺八糸   衛藤公雄、堀井小次郎、山川直春、宮下秀冽等。
    現在に至ると、その作曲意図も巾が広まって全く洋楽との垣を開放した形式のものから、また懐古的趣味の保守系のものまで多種多様である。
    以上の如き区分であるが之の内、1の明治新曲は、当時としては新曲でも現代から振り返れば最早古典となっており、尺八の吹奏法も古典(地唄等)と、とりわけて区別して行わねばならないような点もないので、之は本項から除外し、2の新日本昔楽、3の現代邦楽についてのみ、特殊な奏法を若干述べることにする。

新曲の吹奏U

新曲の譜本
新曲の譜本は、従来の地唄曲の譜と異なる点が有るので次ぎに列記する。

小節
この小節により、まず何拍子の曲であるかがわかる。
何拍子の曲かでアクセントがわかる。
(例)
2拍子  強 弱 | 強 弱 | 強 弱 |
3拍子  強 弱 弱 | 強 弱 弱 |
4拍子  強 弱 中強 弱 | 強 弱 中強 弱 |

上記のアクセントを頭において手近の譜本を眺めて見ると、例へ古典の場合でも勝手に息継ぎをしたり、当りを入れたり、メリ音を無意識に吹いたりすることに疑間が生じて来る。
「息継ぎ」にっいては、古曲でも止むを得ず符号以外に行う必要に迫られた時は、必ず裏拍子の終り、表拍子の直前で切るのが原則で、斯くすると自然息継ぎ直前の裏間の音は弱音となり、息継ぎ直後の表間の昔は、強音となりアクセントの原則に副う。
「当り」についても古曲の場合も表間の音がメリ、または、中メリの音の場合は必ず当りを入れて、本来弱い音であるメリ音を、強音と見せかける技術が必要である。
(例)御山獅子、青柳の如く後唄が高三下りとなると「ツ」が主音[トニック・宮音]となるから、之の音を強調するように吹奏しなければならぬと共に、今までの主音であった「ロ」は羽になるから属音となり、余り強調しない方が良いが、往々にして曲の終わり頃となれば、竹もよく鳴って来るので出し易い「ロ]をベラポーに大きく吹くのは気を付けなければならない。
[スラー」記号のかかった音の奏法も、また、注意し同一音なれぱその合計の長さの1個の音と考えて、また、2音以上の場合は多くの場合ポルタメント(一種のスリ上げスリ下げ)で奏し角をつけない。
(このポルタメントの滑らかに行はれることが数多くの欠点の有る楽器「尺八」の捨てられない味の一つである)
新曲においては
全面的に「当り」を入れないのが原則(他流ではそれを実行している)であるが、全廃するよりは良く活用すべきものと考えられる。
「休止符」従来古曲に於ける尺八の吹奏は「元来三曲合奏とは三絃、箏、胡弓の三つの楽器の合奏で行われたものを胡弓に代わって」明治時代に荒木古童、上原六四郎、等の努力で尺八が這入ったものである。(初期都山流の楽譜は殆ど胡弓の手と類似していたが、近来はその煩雑な手を改められた)
胡弓という楽器(擦絃)の性質上殆ど達続的に音が発せられるので、之の真似をして尺八も息継ぎ以外は、休みなく吹奏される。
然し乍ら、新曲の場合に休止符で示された間合いは、必ず吹奏を休止しなければならない。
(但し、之は譜本を読むのを休んだり拍子を取ることを休むことではない)
“休止符は日本画の「余白」に似て居る”
従来古曲のみで成長した尺八家は、之の休止符に対して甚だ寛容で、音から音への変化長短のみを譜本にたより、休止時問は自分の息の都合でしか休まない弊がある。
之は作曲者の意志に不忠実である。
総じて、:古曲に於いては、曲自身の、或いは、作曲者の主張が薄れているか不明であるために、その解釈は多岐となり、演奏者の主観で解釈して種々の演奏法が生じる、それが、また、古曲の演奏の面白さで有るが、新曲では譜本が逐次完備して解釈範囲は狭められ、作曲者の意志が強く打出される。
従って演奏者は思実に、その制約を守らざるを得ない。
故に、新曲の演奏は琴古流・都山流・村治流・竹保流その他何流であれ、全一曲の演奏はピッタリー致する筈である。
「スタカット」之には二種有る。従来の譜本では「V」の記号が記されている。
之は、その音を短く撥絃音の余韻のない昔に似た吹奏をする。
今一つのものは「Y」の記号で記されているテヌートスタカットで、その場合は一音宛必ず切って奏するが、音の長さはその示された時問内は続ける。
「トレモロ」…〜…〜之の奏法は、従未の古曲の「ユリ」と異なり、振動のピッチは終始同一で、段々迫ったり弛んだりしない。
ただし、そのアクセントは始め強く逐次弱く、または始め強く次第に強くなり、また弱く等変化する。
勿論之の「間(マ)」も古曲の如く、拍子を外さないで、指定された時間の制約に従う。
「その他」一切の演奏止の約束は、洋楽音譜の記号による。
また、譜本の終りに、その全体的な演奏の気分、各節の奏法等を記されている場合が多い。
之等の注意もよく読んで、その主旨に沿うように心掛ける。
以上、新曲譜本の読み方に付随した制約を述べたが、余り制約を気にすると「角をためて牛を殺す」ことになるおそれも有るが、全てこれは基本の問題であるから止むを得ない。
丁度絵画の場合に於いても、その習練中は基本となるデッサンにより、忠実に風景・形態・等身等を了解した後、その芸術的解釈に従って、デフオルメ発想が生ずるのであるから、尺八家も、また、充分なデッサンを行って後、デッサンに採色した程度の作品から、逐次音譜の制約内で(時には逸脱して)自己の芸術を発展させるのである。