尺八課外読み物

飯田峡嶺


5.普化宗(虚無僧寺)


l.普化宗の発生

l.虚鐸伝記国字解等による伝説尺八の歴史に略述せる如く、覚心は末より帰朝に当たり、宝伏(鎮州人)憎恕(〃)国佐(斉州人)理正(幽州人)の四居士を伴い、紀州由良の鷲峰山西方寺(後の興国寺)に落ち着いた後普化禅を広めた。そのうち、宝伏は他の人と別れて山城国宇治の里に庵を構え(吸江庵)普化禅を広めたが、後にその門人、先(キンセン後に金先派ともいう)活聡・法義の三名と東国行脚に出て下総国小金の庄にて人寂した。
斬先は、その地に一宇を建立して(金竜山一月寺)と名づけ、師の法統を継いだ。
活聡居士は、武州幸手藤袴村に「廓鈴山鈴法寺」を建立した。
法義は、現在の高崎市に、金剛山静凌院慈常寺を建立した(慈常寺は根笹派の祖)なお、一月寺・鈴法寺は共に普化宗総本山・全国崩頭(フレカシラ)となる。

2.中塚竹禅師の説による普化宗の成立

@普化道寺の起こりは、一休和尚と朗菴(尺八の歴史にて芦安・一節切の祖と記した)との合作ではないか(黒川道祐著雍州府志:狂雲集等を参考として)朗菴は、また、山城宇治の吸江庵に住した。

A慶長年間の普化宗足利以未の薦僧の普化道者が、逐次年代を経て全国に簡易宿泊所を設けた。
これは、恐らく粗未な掘建小屋で始まったものであろう。これがまた随時立派になって、中でも、稍社会的に頭角を現わしたのが、後の普化宗三本山、すなわち一月寺、鈴法寺、明暗寺であろう。

B寛永年間の虚無僧の状況当時は、まだ薦憎的生活であり、一所不住天涯無宿を常とし、樹下石上を宿に行雲流水の生活であった。この頃の文献に最早普化宗の派が16派に分かれていたと記されている。
日く、
1・ワカサリ派
1・筑紫イヌヤロウ派
1‐北国のノキハ門派
1・中国ノキハ門派
1・伊勢サカハヤシ門派
1・五畿内ヤワタノキハ門派
1・武蔵にカカリ門派
1・美濃に若衆門派
1・上州にサラハ門派
1・中武蔵にヨリタケ門派(寄竹派)
1・下総にキンゼン門派(斬先派)
1・奥州日にタンシャクョロコヒ門派
1・常陸にウメジ門派(梅地派)
1・奥州にタンシャク派
1・北国にカンタンキノハ門派
1・北国にリワカル派

C本当の発生事実の推測

普化宗虚無僧の本当に栄えたのは、徳川時代の元禄年間以後で、それまでは、純粋な意味で普化禅の修行を本領としたためか、禅宗のようには栄えていなかづた。
それまでの記録に現れるのは、暮露(ボロ)梵論字(ポロンジ)薦僧の類で半ば乞食であった。
然るに、薦僧が進化して虚無僧が出来たがこれが普化宗を利用して一勢力となり、徳川幕府に対する治外法権策と、杜会に対する生活擁護策として、「慶長掟書」を按出し、これが幕府に認められて虚無僧の特権杜会が出来上がった。これが元禄年中と推定される。
(注)尺八の歴史にて「虚鐸伝記」は存在しないと記したが、これは誤りで都山流宗家中尾都山邸に保管されて現存する。ただし、その内容の余り信頼性のないものである事は変わらない。
また、富虚山(明暗流小林紫山門下)の説では「・・・国事解」は「虚霊山縁起」を換骨奪胎した伝説的説話であるとしている。

D輿国寺の立場

普化宗の確立の時期に当たり、関西の総本山として明暗寺を入手してこれに当てた(総本山と言っても末寺は伊勢の普済寺と、九州博多の一朝軒のみであるが)が切支丹取締まりのため、新寺の建立が認可されないので止む無
く臨済宗の興国寺の未寺となったことは尺八の歴史に略述したが、興国寺は、また臨済宗総本山の京都妙心寺の末寺であるため、ごたごたもしたが結局妙心寺のまた末寺となったらしい。
また、その後関東の一月寺・鈴法寺と本山争いがあったが、その節、明暗寺との関係を強化した。
従って、博多・朝軒と伊勢の普済寺は、興国寺のまた末寺としての礼を取っていた事は興国寺の古支献に明らかである。然して、寺社奉行に対する折衝は妙心寺または、興国寺がしていた。

J普化宗と虚無僧の関係

普化宗と浪人との関係と考えても良いが徳川初期以後に至り、武家・浪人が生活の方便上、普化宗道師等の普化禅と、その禅堂に着目し、それを利用して生活の安全地帯となし、急連に内外の陣容を整備し宗派としての体系を整えた。
一宗の創建・一寺の建立の困難は昔も変わりなく頭の良いこれら利用者等はとりあえず、在来の普北禅堂を臨済宗の寺に付属せしめ、在来の普化道帥を寺の役僧とし、自分等は最も自由のきく宗徒(フリーランサー)ト云う名目で雲水生活をした。
以後、普化宗・普化寺・普化僧と称したがその実、国家公認の寺院ではなかった。
然し、長い問の慣習でこれを一づの宗派と見倣し公私共に寺と称するようになった。
茲に於いて、従来の真剣な普化道師は所謂「庇をかして母屋を取られた」即ち、深遠幽玄なる普化禅の修業道場が「勇士浪人一時之隠れ家」となり「武門の正道を不失武者修行之宗門」と化し[面には僧の形を学ぴ内心には武土の志をはげみ、何時にても還俗出来る」という珍妙な宗門と化し失業者収容機関のようなものになった。斯かる変態的な存在を生態化し、或いは美化せんとして、正統な寺格をもった、他京の寺と親子関係を結んで政府及び国民の眼を瞞着した。
抑も普化宗なるものは、臨済禅の一派で唐の普化禅師の創めたものである。
づまり禅宗である。
そこで「臨済禅慧照禅師語録」によると「普化は奇僧である。また寄行に富んだ禅僧である」と言う意味が書いてある由、鎮州城の傍に小庵を結んで臨済和尚と同時代で、或いは、先輩ではなかったかと考えられる臨済より数年前に入寂した。
臨済の流れが栄えて普化の法は「奇行録」の文献が残るくらいである。
その振鐸の音を模したと言う、因縁から普化禅師がかづぎだされている訳である。
その普化の本旨と云う「明頭束也・・・・」の偈が普化尺八の根本義となった。

F興国寺と明暗寺との関係

1・明暗寺は普化宗全国觸頭たる一月寺・鈴法寺両寺の支配下(本意ではなかったが実力上そうなったらしい)に属して、普化宗の本領を発揮するのに努力する傍ら一方では、その社会的生存上止むを得ず臨済宗興国寺の配下に属し寺格を維持した。

2.明暗寺と興国寺の関係は、明暗寺の寺格維持、即ち、住職の任免・院代の届出・僧階の追贈等が主であり、その外は、本寺・未寺の形式的儀礼のみであった。

3.明暗寺は興国寺に関して、その存立の意義着しくば臨済宗の本領等に対し何等発言権をもたなかった如く、興国寺も、また明暗寺存立の意義や普化宗の本領等に対して発言権がなかった。

2.普化宗の碓立

上記の如く、無統一ではあるが兎も角虚無僧宗門がまとまり、それに関して虚無僧は、かくあるべきだと言う、一応の規律を作り、既定事実として幕府の認可を得、普化宗門の確立したのは明暗寺14世住職渕月了源の代辺りと考えられる。
虚無僧掟書には、沢山の年代も異のものがあるが、代表例として下にその一例を示す。
示す。
(これは現在の会社の服務規程と云った内容である)明暗寺中興の祖14世住職渕月了源の家訓23擦(現代文に訳文す)
.開山名、初祖名、山号、寺号を記す。
板倉周方守の召出しで白河橋より、大仏池田に移転の件、五畿内並びに近国の虚無僧支配の件。

.住職継目は門弟の内、器量あるものを門弟・未寺の評議一致で定める。
また、興国寺に登山し剃髪授戒をうける。また妙法院(地主)二條両奉行にお礼申し上げる。

.武士の人宗申し出があったら住職自ら応対して、人品を調べた後、請人つきで入宗させる。人を討って立ち退いた武士は道理があれば入宗許可する。
国許から尋ねられても、住職が一身に引き受ける。人宗した武士が公儀の法度にぶれるものであることがわかったら吟味する。
請人のないものは人宗させない。また、帰参出世を待たない者と見たら門人にしない。
百姓・町人はどんなに頼んでも入宗させない。

.五畿内・近国行脚には、老若取りまぜて組合せ身持ちをよくし、托鉢に卑劣のないよう宿泊料滞らせないよう申しっける事。
これら門弟は、武門の出だから住職は油断するな、勿論5寸より長い刃物は持たせない。

.正月と7月に会合日を27日ときめる(初祖了円虚竹の忌日)支障があづても、会合日は変更しない。この会合で、門人中の善悪正邪を厳重にしらべて裁断する。

.門人で会合に出ないものは失格となる。理由を設けて不参するものは咎に応じて罰する。
ただし、病気で不参は罰しないが、よく調べる。
また住職は、剃髪捜戒をしたのだから仏前朝暮の勤行を怠ってはならない。
法衣は、細身衣・着類は本綿一通り以外はいけない。門弟もこれに準ずる。
住職が奢をきままにしたら、門弟とうまく行かないから自戒肝要、また門弟をいたわり続けられるように、はからう事。
住職が、高慢無礼無遠慮になるのは、初祖以来歴代住職も不本意に思われるだろう。
天道を恐れ、貞心の覚悟が第一である。また、寺内並びに住職の身分は禅坊熟立の出家と同様に守ること。後世になって乱れるときは門弟の内の役僧・先輩・末寺住職とが隼まって吟味を加えること。

.行脚修行中、習い覚えた武芸を俗人に指南して尺八修行を忘れたものは、わかり次第宗罰を加える。旅行・閑居の時、互同志で武芸をきたえるのは当然であるが、指南することは宗門の法にないことでいけない。
行脚修行の暇に、俗人と応対するのは禁止。また、門弟が行脚中尺八の弟子を取る事は絶対禁止。
門弟変心して他の寺へ移った場合は一生宗門の努め出来ない様にする。
勿論、これは住職が計うことで不所存あっても、武門の生得を以て正道に改めれば、隠士のことだから在寺の時は、聖賢の書を学ばせるようにして許すよう。
ただし、学歴にまどわされず心底をよく見抜き処置をしなければならぬ。

.住職は年頭と八朔(これは神君家康江戸人国の記念日)には二条城両奉行所妙法院宮にお礼に参上することを欠かさぬこと。
また、門弟行脚修行中俗人が無礼をしても、よくこらえてその地の領主、地頭に厄介をかけないようにすることが掟。
若しも、役人が了解せず堪忍出来ないような場合も、同行の年長者と一緒に寺に帰るよう言いきかせておくこと。
間題が起こったら住職が直々しらべて身びいきな裁きをしないこと。
要すれば、事件の所へ調査人も出して相手の立場も考えてすること。
要は、公儀にご厄介をかけないようにすることである。

.公儀が当宗門を認めていてくれる事の意味を理解して住職はよく気を配らねばならぬ。
また、それだから大事なお尋ね者など有って、そっとご連絡があったら、かねての手配通りにするよう覚悟が必要だ。
その時に、門弟が少なくては御用にたたぬから、平素から相当な人数は用意しておかねばならぬ。

10.末寺の住職継目は末寺門弟一同評議一決した届け出たものをよく吟味して当山にて剃髪申し付けてする。末寺の門弟で不心得のものを個人的感情で住職にしてはいけない。
また、末寺住職並びに本未寺門弟で死罪に相当する不法があった時は二条御奉行に申し出て御指図を仰ぐこと。その他罪の軽重によらず住職の良心により評議の上決断する。
住職は、門弟に対しては、少しも依姑贔屓しないよう、心がけること。

11.会合(正月・7月の)には欠かさないようにし、その会合印(虚無僧の証印)を持っておらないものが、うろうろしているのは、その罪軽からず見かけ次第、持っている道具(三具)を皆取上、着物のみで罰する。(法衣を剥ぐ事か)
ただし、印行不持も理由により参酌する。決して放逸な処置はしない事。
同宗門他の寺院支配内へ当寺の門弟を所用で派遣するときは、その寺へ門弟の身分印書を添えて出させる。修行に行きたいと申しでた場合は承認して右に準ずる処置をする。

12.虚無僧宗門は、浪人が入宗したものだから姿は変わっても、武士の時の礼節を忘れず住職・門弟相互へも礼儀を乱さぬよう慎む事。
また、俗入に対しても同様である。また、隠栖者であることを忘れさせない事。

13.公儀の役所ヘ、出頭したとき諸寺院住職と同席の析りは、席の高下は着到順にする。
門弟も右に同じ、門弟中では新参・古参の差別はよく徹底させねばならぬが、元々武士の浪人だから身分の高下はない。
然し、役僧にしたものは新古・老若のかかわりなく、門弟中の上席とする。
その僧の任命は、住職はよく人物をしらべて任ずる事。なお、年令は40才以上の者にする方が良い。若いものを不用意に任命すると色々の支障が出てくるからよく注意する。

14.同宗他寺の門弟が、上方見物のため、寺を訪れた時は、印形、添書をよく調べた上、住職の指図に従わせるようにして逗留印を渡す。そして、五畿内並びに近国を行脚させる。これは、宗門一統の定法である。また、他寺の門弟が当寺入門を願い出て来たときは、先方よりの添書は、持っていな
いものであるから、人物をよく観察して人柄悪ければ人門許可せず。

15.後年になって沢山の人が「本則」(門弟の一種)を希望しても武士の外は百姓・町人へ資格を与えてはならぬ。
然し、京都五畿内並びに近国の浪人は、町人名目なっておるのが公儀の御大法だから其の人物次第で「本則」附写を取計う事。また町人・百姓でも身分卑しからぬものは、宗縁を結ぷことは意味がある。然し、利益に負けて「本則」付与しないよう住職は慎まねばならぬ。
住職といえども尺八一管を以て、相続するが立前と心得よ。
また、俗人に「本則」附与しても、寺の直門弟と宗縁本則人とは厳重に区別せよ。

16.門弟の内悪心をもって、徒党を作ったり、口論けんか等しないよう予め申し渡すこと。
こう言う事は、住職個人の乎素の行状にもよるから自ら慎まねばならぬ。
また、寺内の破損・修理・掃除等によく注意するが、倹約に心がけ人手を出未るだけ便わず住職自らやれ。
次に、女の出入りは禁止する事。

17.末寺の住職には正月7月の会合には欠席しない様にさせる。
また、一年に一度は、不意に末寺ヘ、年輩の門弟を派遣して、正邪を吟味させる事。
また、本寺末寺の門弟が、自分の非行を申訳けするのを簡単に聞きとどけないようにする。
要は、常に門弟各人の心底を見届けておく事が、住職の心得である。

18.正月7月の会合の時の食事は一汁一菜酒小盃に三杯とする。
乱酒は、絶対禁止、勿論、門弟が在寺中門前黄掛り(意味不明)はやめさせる。
門限は戊の刻とし、止むを得ない用件の時は、特別に扱う。

19.門弟中、酒好きが喧嘩したら、両方が上戸なら理非にかまわず法衣を剥いで追放することを少しも用捨するな。相手が下戸の時は、どちらが仕掛けたかよくよく調べて裁断する。
寺内は言うまでもなく、旅行先でも禁酒をするよう、平素からよく達しておく事。
下戸でも行跡は右に準ずる。

20.門弟中で寺にはっきり断らずに、行脚修行先で尺八の本曲以外、乱曲を吹くことを禁止する。
宗門の法器を遊興用に混用することは、申し訳ない事だから、厳に申渡す事。
また、寺内または宿以外では、どこでも天蓋を取って人と顔を合わせる事は古来から無い事だから、この定法をまちがえないよう、油断なく住職より話しておく事。
勿論、公儀役所え出頭の節は、御門入口より天蓋を取るようにする。

21.平素寺内の食事は一汁たること。必ず後代の住職も調菜を考えてはいけない。
また、門弟は旅先等で定まった適りの食事をしておるか、時々役僧を派遣して、吟味させる事だから怠慢のないようにせよ。

22.同宗の寺院から、宗論を吹きかけられたら、止むを得なければ、当山から適当に応酬するが、公儀に対して御苦労をかけるような事は決してしないようにする。後年の住職は慎む事。
たとえ利の有る事と考えても、当方から宗論を吹きかける事は我慢せよ。

右23ケ條は、拙僧老いぼれない内に、これをしらべて後世の住職に残しておく。
役憎、意徹・月山両僧の願いにより定めておくから、後々の住職は謹んで守って行くこと。

     萬治二己亥10月13日   渕月了源   「印」

右当山中興渕月了源禅師定めおかれ候家訓に雨入朽損用に立て申さずにっき、拙僧隠居仕り後住へゆずり候節末寺住職えも相談し、右家訓23條文言少しも相違なく書き改め渕月禅師の印鑑の処切り抜き張りおき候。中興存命の如く心得られ、家訓の通り相守られるべきものなり。

   宝暦二壬申季5月23日    隠居正山理中
                     后住眼山一圭首座