尺八課外読み物

飯田峡嶺


3.虚無僧の服装

  1. .天蓋

    編笠に物見の為の窓の有るものは、慶長年間の阿国歌舞伎を見物する武士のかぶっている画がある(目関笠)が「嬉遊笑覧」(巻二器用の項)“我衣”に薦僧の笠、享保より小ぷりにて深く作ると言えり。
    この説非なり、寛政ころの江戸絵にも薦僧を風流に書きたるに、美服きたれど笠いまだ、浪人物もらいの着る前の処に物見の穴あきたる笠にて形を裾広なり。
    今の薦僧笠小ぷりにて上下広狭なく深く蒼みたる笠は宝暦・明和の未の頃の絵よりみえたり。
    また、人倫訓蒙図集(元禄3年京都にて開板)にある虚無僧の連管で托鉢の図があり、l名は法衣1名は道服に袈裟をかけて根竹の尺八を吹いている。
    その天蓋は、禅僧の笠(網代笠)と浪人笠(烏追笠に近い)である。
    これは、禅憎と居士を示していると考えられる。薦僧(普化導師)から浪人虚無僧に、その主体が移る過度期を示すものである。
    次に、虚鐸伝記国字解の虚無僧(旅行姿)は鼻先までかくれて下部がすぼがって居るが、これが、文化・文政・天保・弘化・嘉永と世相の推移と共に深さが深くなって、顎までかくれるようになった。また安永9年(1780)刊行した湘夕・池田舜福の著した「都名所図会」(挿絵は浮世絵師竹原春潮斉)に堀川戻橋畔に立づ虚無僧図がある。
    これでは丁度人倫訓蒙図と虚鐸伝記国字解(寛政7年開板)捕絵との中間の天蓋になっている(これは宝暦・明和・安永頃の姿と推定される)以上「日本音楽」誌所載富虚山著「虚無僧のひとこま」より要するに、当初は禅僧の網代笠から段々端すぼがりとなり、っいに現今見受ける様な形に変化した。従って、現今の深い天蓋に似た姿は宝暦・明和・安永(1750〜1780年)頃から始まったと考えられる。
  2. .掛落(カケラク)

    京都妙心寺より寺社奉行へ提出の書付(天明〜文政1780〜1840年頃)(日附なし)によれぱ五條袈裟なり、虚無僧紺
    か黒か鼠色なり、武者掛落と言う有り、少々違いあり。
    是を掛けたるは魚肉を、そのまま食すとも難有るまじとなり、是江戸鈴法寺の例なり。
    江戸二ケ寺(一月寺・鈴法寺)の番所の虚無僧其外なげ掛落にかけるなり。

    口伝。
       一月寺番所は浅草東中町
       鈴法寺番所は市ケ谷田町

    虚鐸伝記国字解には「かけらくは小さき袈裟の白條あるを云々・・・」とあるなり。
    掛け方は首からダラリと前に下げるのが正式らしい。
    なげ掛落は、虚無僧帯刀時代の掛け方で刀の柄がかくれるようにかける。
  3. .脚布(全妙心寺書付による)

    当世はかけず刀をさし候時かけし由なり、鞘をかくし柄はなげ掛落にてかくすようにせしなりフキンノトキ今もあてしなり(フ
    キンノトキとは意味不明なり)
  4. .衣服(全妙心寺書付による)

    (又明暗寺虚無僧服装に関する申渡による)1.各着類絹・紬・木綿是より外のもの不可着事。
    右色は格椰子染・鼠色・茶類・浅黄花色。但袖へりも茶色にかぎり可申事。
    右の外縞の類又は模様がき、しまもの却て目立物一切可為無用事。
    但襟など掛候とも同色の色はくるしからざる事。
    1. 夏着類・晒・帷子・絹紬・木綿の単もの。但広袖にて着用候義無用の事。
          色右同断。
    2. 帯は竜もん羽二重絹縮緬紗綾紬木綿、色は右同断、巾は2寸に限り候。
          附けさし櫛等無用の事。
    3. 足袋・さし足袋・他自足袋色はうすかきねずみいろと可心得候。
          是より外の色または替わりたる足袋はき候者有之候はば急度仕置可致事。
    ただし、この申し渡しは、服装も時代と共に泰平の世の常で、華美に移るので、それを禁ずるためのものと考えられる。従
    って、実情は上記の禁令よりは美服であったものと思える。従って最終文は下の如く、所謂水野越前守の「天保の改革」
    の主旨を体して服装を制限したものらしい
    1. 寛政10年5月被仰渡候托鉢修行に致歩行候虚無僧共の内結構成袈裟尺八袋その他着服候義不届きに候。衣服
         等寛潤美麗可相慎、木綿絹紬に限り帯も仝様の品相用、巳来袈裟も絹紬或いは鹿末の純子、色は絹黒に限り
         尺八袋も石に準じ縫模様等決して不致目立不申様可相心得旨厳重に相守り限可中事。
         右の條々堅相守、会席不参無之様可相心得、無届不参の者於有之者刪(サン)席帳者也。
                                       皇都     虚霊山  明暗寺
  5. 持物(妙心寺書付けによる)(附属品)
    1. 鉢袋並ロッフク五八寸並ケンコン。江戸はロツフク也。
      ケンコンと言う紙にて袋を巾1尺5寸長さ6尺に両口に作るなり。ロツフクに余りたる時は、是へ米にても入るなり。
      ロツフクは懐に入る也是も紙にて角に厚く作るなり。
      鉢袋(別名ロッフク)は紙製の米入袋(喜捨は金子よりも米が多かった)ケンコンは(乾坤)ロッフクに入り切らない米を   入れる袋。
         宝暦8年版「見津和草」(西川祐信筆)所載の虚無僧図にはまだ「偈箱」をかけていない。
      「偈箱」の記事はない。米よりも金銭を主とする様になったのは余程後世で或いは幕末頃に下がるかも知れない。
    2. 幅子また服司共・中結旅行の時必持べし。道具の一つ也。ただし、其の所にて宿杯取りて支度して出るには持づに
         は及ばず、行掛り体ならぱ無くて叶うまじ。
         これは風呂敷の事で、各派により(金仙とか潤僧・小菊・寄竹等)其の色が異なっていた。
          金仙(先)派  鼠色
          潤僧        水色
          小菊        渋色
          寄竹        浅草色
    3. 手差・脚半
         手差は手指とも書き手覆・手甲の事である。脚半は足のスネに当たるもの。
         虚無僧出あいの節、手ざしをはずし相対する。
    4. 一本針・サスカの事。縫物針ではなく、小刀である規則で、5寸以上の刃物を持ってはいけないが尺八の目掘りに便
          う名目で、小刀を一本別に用意したこれを一本針と称した。
    5. シユキン
      虚鐸伝記国字解に「遠行即服上服手巾」旅行の析りに尻端折をするわけにも行かぬので着物を上の方ヘズリ上げて上から手巾で締める之の締める紐様のものを手巾と言う。
         (歌舞伎の狐忠信・忠臣蔵の道行の勘平等の裾に見られる)
        註  明治26年の朝野新聞連載「虚無僧制度」に修行中、米の施行を受くる袋を六臓と云い銭を人るヽ袋を乾坤とし二種共に厚き紙にて造りし袋なり。砂糖袋と略其物をおなじゆうす。
      昔は、暮露と称せしものありしとぞ後似而非虚無僧出で来りて布の袋を所持したるに布の袋を持ちたるは贋物なりとて施主も袋に注意したりしが文化年間より、何れも布袋を持つことヽなりし由伝う。
    6. 乾坤張(ケンコンバリ)
      板巾2寸9分長さ1尺1寸紙にてはり立裏方に口伝あり。

      表   京都   虚霊山  明暗寺  現住
           一寺   門弟   離ト    (リポク)
           宝暦7年6月13日
      裏   吹は行  吹かねば行ぬ我身なりけり

      これは、位牌であり、一所不住の事故何処で死んでも支障ない様に位牌を用意したもの。
      虚無僧修行心得に虚無僧見掛候節手覆はずす事也、礼儀也。
      虚無僧之儀は紋付不相成縞類の儀は帯にても不相成事とは申し候へ共下着は何にても宣なり。
      紅裏も不相成事と覚え申、併物毎はでに無用に可仕事。
  6. 本則・通印・往来・会判

      本則虚無僧の認可証・通印本則弟子の往通手形(臨時虚無憎用)
      往来本当の寺詰虚無僧の往来手形・会判l月・7月の会合印

    書式例
      明暗寺本則(竪5寸位の細長い紙)
    普化禅師居常入市振鐸伝明頭来明頭打暗頭来暗頭打四方八面来旋風打虚空来運架打
    日臨済令僧把住云或遇不明不暗来時如何師托開日来日大悲院裏有斎僧回挙似済済日

    我従来疑着這漠
               虚無僧本寺  京都  虚霊山 明暗寺
                             年 号 日 現住 誰  印
    宗門之法式堅可被相守者也
                             附与  ()() 子
    明暗寺通印
      通印の写
      ただし、其の日限は当山法眷の可請差図也
      京 明暗寺 印            本則弟子  O O
         此所に割印有之
    右一入不叶要事之節摂津何国々之逗留往通令許容者也
      年号  年正月28日より7月28日限り
    明暗寺往来(日本六十余州自由往来手形)
      京明暗寺門弟誰々拙寺門弟に紛無之、暦々会合相努東西南北自由許之往
      通、宗法相背慮外之者於有之者急度相改地頭江申達如法可行子細者拙寺
      罷出相済者也。依而往来如件。
        年号  月  日
      国々諸々城主公
      国々諸々役人中
        〃  間屋中
        〃  庄屋中       尚行暮之一宿無恙御申附頼人候

    一月寺の会判
      武州金竜山一月寺役印の写
         寺則会判
      下総国金竜山一月寺門弟何某如合札多少出登令楚之者也。
        年号  月 日     一月寺 印
      正月20日より7月20日限
      若真似虚無僧見附次第可令檳罰也。併不如法沙汰禁之。