尺八課外読み物

飯田峡嶺


4.中期の普化宗

徳川家重(9代将軍1745〜1760)頃には百姓・町人にて尺八を熱望するものが往々あらわれ、それらが窃かに種々の手段を構じて普化宗の許可を得る事に腐心するようになった。
之に応ずるように、普化寺側も綱紀弛緩し利慾の為に宗縁・法縁等と称して武家以外の者に本則を授与するようになった。(本則とは虚無憎の免許の意味である)頽廃に個いた宗規は、ますます私利私欲をもっばらにし、入宗料を出せば誰でも法弟たり得る様になった。このため、不逞の徒が宗門の法威にかくれて不正を犯す事になり、10代将軍家治(1760〜1786)の安永3年1月23日(1774)幕府は、その取締りを厳重にしたが、到底悪弊を防ぎ切れなかった。
そのため、12代将軍家慶の時、弘化4年12月24日(1847)の触書で「慶長19年の虚無憎掟書」の特権を否認して普化宗多年の特権を縟奪した。
之のため、以後の普化宗は衰退の一路をたどった。

特殊虚無憎(虚無憎略縁記による)

  1. 水戸派。常州水戸に虚無僧寺8寺あり是何派不相知、本寺もなし。
    水戸殿にては御匡内御マカナイ寺も上より修覆相成御国内虚無僧他国え出る事なし
  2. 兒派(チゴハ)。昔国々に妻体(帯)の虚無憎あり兒派という。
    是を200年以前の比(ころと読み、頃と同意)清僧の虚無僧より遣す。
    lケ寺残る今備州名護屋の町に有之候。
    則権現様御察礼の節彼一寺の住僧供奉同町の者御供仕。

明暗寺虚無僧分類
寺詰・寺の役僧と共に寝泊まりする虚無僧。
境界・諸国行脚する一所不住の行雲流水の虚無憎。
本則・本則料を収めて一時的に虚無僧の姿をする町家住まいの臨時虚無僧。
普化寺院の諸役。住職・看主・院代・山役・役憎等

宗門の人数。詳らかではないが寺数は記録によれば多い時に120〜130ケ寺、尠い時で70〜90ケ寺であるから、一ケ寺平均10人と見て多い時で1200〜1300人少ない時で700人平均1000人と見て置くべきである。日本全国で1000人の虚無僧だから誠に少ないように思われるが、その大部分は、江戸中心に関八州(別掲虚無僧寺一覧表参照)に散在して居ったため、関東では特に虚無僧が目立ったにちがいない。
此外京都を中心に、若干北丸州を中心にと言う風に存在し、他は此の三大集散地を継ぐ所謂諸国行脚の途にあるものとなる。
今日と異なり、人口も至って少ない時代であり、交通も不便な時代だから、此の異様な風俗の虚無僧がたとえ数は、わずか1000人位でも相当社会の注目を引いたと考えられる。

梵論字と言う事。(虚無僧濫觴一秘伝抄)
唐土にては天竺より渡りし僧を梵論と言う。百済国より日本へ出家渡り建武・弘治の頃専ら虚無の道を行いし故に日本にて  虚無僧の事を梵論字と言える。
  是を僧の名とせるは大いなる非なり。

普化宗門の功罪
  功・吹笙禅をモットーとする宗教団体を育成した。
    虚無憎(浪人)に安住の地を与えた。尺八を禅的に精錬した。
  罪・偽掟書を作って社会を瞞着した。虚無僧が傍若無人に暴れ回った。
    尺八が法器の美名にかくれて音楽的進歩を怠った。

罪の最終項目の間題は、尺八界に取って特に残念な結果で箏・三絃に比べると徳川初期に尺八が、音楽的に一歩進んでいて箏や三絃をリードしていたのに宗門者以外に使用禁止となったため、一般音楽界と交渉を断ち音楽的に取り残され、明治以降一般楽器として立帰った後も、ひたすら箏・三絃の後塵を拝する事になってしまった。

5.未期の普化宗

末期現象

  1. 本則の乱発
    勇士浪人一時の隠れ家の宗派に「一代本則」(終身虚無僧の意味)などと称する特例が生じ、知行百石以上妻帯者(請まり浪人でない仕官している武士)も法縁を結ぷに至った。
  2. 吹合所の開設(尺八指南所)
    西園流祖兼友・西園の師匠玉堂梅山・神保三谷で有名な、神谷政之助・琴古流祖黒沢琴古父子・豊田古童等皆吹合所の指南番であり、広く民間に尺八を教授した。

なお、以上の如き末期現象は普化宗門としては甚だ不名誉な成り行きとなったのであるが、現代から考える音楽としての尺八にはむしろ幸いとなり上記の如く、一般人に使用を禁止された尺八を種々の抜け道から、ひそかに、後には大ピラに一般人の手にも移ることになり、楽器としての進歩があった。
その最も大きな功労者は、何と言っても琴古流祖黒沢琴古であろう。
次に、上記の如く宗門者以外の尺八愛好者が出来、琴・三絃との合奏や遊興用に用いられるようになったので、弘化4年寺社奉行より両役寺(一月・鈴法)ヘ尋問あり、船橋の清山寺看守より提出した答中書を抄録して当時の消息を示す。

御附紙一番
尺八は、普化宗に於いては天蓋と同一法器に候得共百姓町人の遊戯の節は宗門外の事故普化宗の者共強て相咎候にも及間敷候哉。
於普化宗に古より天蓋・袈裟・尺八を三づ具と唱え法器専らと致し候云々。
御附紙四番
今も世に遊興の砌三味線等と合せ尺八吹候ものも析々有之哉に相聞右武家には不構との事に候哉、宗門外のもの尺八を遊戯に致し候は宗具を不備のものヽ事故何も差支候筋は有之間敷の事、遊戯のもの並修行先の外は鳴物停止中都で吹笛難相成儀に可有之哉の事。
日本にて尺八の儀は上世より有之哉処普化宗弘まりしより仏器の最一と相成候は古より琴・三味線に合せ候者堅禁置候処宗門流弊に随い法に背き密々琴三味線に合せ候ものも有之哉に御座候。武家方にては不構と中儀も先規より無御座候。
既に先年諸侯方の御隠居尺八御懇望に付き両役寺より本則被為受御吹笛被成候御方々も御座候。武家方迚無因縁被取扱候様に御座候ては古よりの仕来りも有之候得ば於普化宗門迷惑仕候儀に御座候。
諸宗にて用い候鐃(ドラ)(ハツ)鈴・木魚等の鳴物は遊戯に用い候儀も更に無御座候得ども兎角尺八笛は宗門を椋(むくの木)用い候哉にも御座候。たとえ宗具を不備とも専ら遊戯に用い候様相成候ては法器卑しく相成何共欺かわしく奉存候。