−−−−やみくもに3年間進んで来た道が、少なくとも間違いではないことを感じさせてくれたS水谷高校のK井先生に。
そして、その道に足を踏みいれるきっかけを作ってくれた府教委指導一課のI田先生に。
そして、・・・・誰よりもシープさん(高畑先生)に。
感謝をこめて・・・・・・・・・・。
(おかげでここまで来れました。)
(H野で通用するかどうかはわかりませんが。がんばります。)
卒業式教師用マニュアル
−−−−将来、いずれは書かなくてはいけないと思っている「私的担任論」へのひとつのアプローチとして
そして、I尾で過ごした5年間の総まとめとして
40期生担任 たかし
1.序説
40期生たちと過ごした3年間が終わった。そして、たかしのI尾高校での5年間が終わろうとしている。この機会に、40期を担任し思ったこと、そしてI尾高校で5年過ごして思ったことなどをまとめておこうと思う。
しかし、もともとこの文章は62年度にひとりぼっちで、卒業式をしきらされた経験から次の年度に卒業式をしきるであろうO先生とK崎先生に何か指針となるものを残すことができたら、と考えて書き出した文章であるので、あくまでも主題は「卒業式」である。
(書き出したのは1988年の4月。さまざまの加筆、推敲を経てようやくたどりついた脱稿は1989年の4月である。)
しかし、言っておく。この文にはたかしの毒がたっぷり盛られている。個人攻撃、批判、もろもろである。
でも、これだけは信じてほしい。たかしという男は酒を飲むとむちゃくちゃになるが、しらふの時は一生懸命仕事をしたし、I尾高校の行く末のことも真剣に考えていたということを。決して口だけではなく行動で模索していたということを。
たかしにとって、I尾高校というところは、青春そのものなのである。
いろんな人に出会うことができた。
高畑先生、M野先生、O村先生、S田先生、N村先生、S先生、S瀬先生、I田先生、M井先生、M口先生、M葉先生、S水先生などなど。
青春そのものであるからこそ、「わが青春」の墓碑銘を書き残しておきたいのである・・・・。青春と決別するために・・・・。
「卒業式教師用マニュアル」という表題に戻って、一言付け加えておくと、卒業式関係のことでここに記すことはすべて40期生の3年2学期から卒業式に至るまでのプロセスでたかしがいろんな人の意見を聞いて実行したこと、そしてたかしが独力で思いついて実行したこと、及び「こうすれば良かった。」と後から思った事柄ばかりである。
そしてもう一言付け加えておくと、卒業式をどのように実施すべきかたかしが助言を求めた人、及び助言してくれた人は40期担任ではO村先生、M葉先生(この二人は卒業式を積極的に「学年最後の行事」と捉えてくれていた)、Y川先生、H井先生(この二人は卒業式を「こなすべき行事」と捉えていた)、40期担任以外では”はよ嫁さん見つけろよ”I垣先生と、”S津高校へとんでって奥歯が欠けた”S水大策先生の6名である。
以上の方々に感謝している。
能書はこれくらいにして本論にはいる。
2.生徒の卒業式実行委員会
A。選出時期
生徒の卒業式実行委員を各クラスにおいて選出する時期としては、じっくりと3年間の総決算として卒業式を考えるためにも2学期初頭が理想であると思う。しかし、この時期に選出することは
1)9月15日から各企業の入社試験が始まり、就職希望の生徒はそれが終わるまでは放課後拘束して議論に加わらせることが困難であること。
2)文化祭を控えて、各クラスとも浮き足だっておりじっくりとクラス討論を行う時間を確保することが困難であること。
などの問題点が挙げられるため、実際は文化祭終了後が妥当であろう。
B。構成
各クラス男女1名ずつが適当であろうと思う。注意すべき事はクラス担任によってはいい加減な人もいるのできちんと連絡しておかなければ男子2名とか女子2名の実行委員を選んでしまうことがあることである。40期においては3年6組(N羽クラス)がそうであった。
3.教員の卒業式実行委員会
A。構成
少なくとも2名は必要である。40期の場合、たかしが1人で生徒実行委員会の指導に当たったがこれは40期担任団の特殊性(これは後で6.−B。で説明する。)、及びたかし以外の人間に任せるとどうなるかわからない(たとえばA立さんやH井さんに任せたらどうなると思います? それにたとえばたかしとA立さん、たかしとH井さんで組んでやったとしても結局はたかしがひとりでやることになるでしょ?)ということに起因するものであり、他の学年では2〜3名で事に当たるのが適当であろう。
B。役割分担
仮に教員が3名当たれるとしてその役割分担を考えてみる。
1名は総務として、式次第の流れに沿って式全体の進行を生徒たちと話し合っていくべきである。もう1名は卒業記念品係として、生徒自治会から送られる卒業記念品についての手配。残りの1名は答辞係として、答辞の作成の援助を行う。
そして、その際この3名に必要な心がけとして、卒業式と言うのは3年間の総まとめとして、1学年全体で取り組める最後の行事なのだと認識しておくことが必要である。(これがこの小文の主題です。)
一つ付け加えると、答辞係としては一般的にいって自他ともに国語科の教員をあてがちであるが、これはたかしに言わせれば他教科教員の怠慢(「国語のせんせにまかしときゃええわ。」)であり、国語科教員の自惚れ(「数学や体育の教師に文章の指導ができるか!」)である。
その前に言っておかなければいけないのは、たかしは高校2年の夏までは文系だったこと、及び現在でも、いろんな小説を読んでいること。その傾向としては現代米文学、ラテンアメリカ文学及び日本の「前衛」であるということ。決してけちな国語科教員には負けない素養があると自負している。
たかしは国語科教員の文章に関する自惚れが大嫌いである。「おまえ、なに様やねん?」と言いたくなる。
という文脈の上で、ひとつの出来事を述べる。
40期3年時の3学期の授業が終了した頃、答辞の原稿もできあがった。そこで、答辞を読むことに決まった生徒たち(以下答辞委員と略記)を集めて答辞を読む練習をすることになった。第1回目の練習は3年2組の教室で行った。このとき、国語科のH井先生が同席していた。
まずたかしが答辞委員たちに要求したのは「朗読するな!分かりやすく読め!」と言うことであった。しかし、たかしの言った言葉を覆すようにH井先生の言ったのは「心をこめて、朗読しなさい!」と言うものであった。
これには腹がたった。
腹がたった原因の一つとしては、仮にも卒業式実行委員会を主坦している人間が「朗読するな!」と言ったそのすぐ後に、このとき一度しか顔を出さなかった人が「朗読しなさい!」と言うのはいかにも不見識である。
原因の二つ目としてはH井先生の「様式美重視」の考え方である。
現在の卒業式における答辞の位置づけを考えたことがあるのだろうか?
過去の卒業式における答辞というのは式次第の流れに沿って美辞麗句を並べた形式的なものであったが、現在の答辞とは、生徒たちが3年間の高校生活においていかに自らが成長したかを主張する場であると考える。これは、卒業式一般についても言えることである。
卒業式委員会を主担し最も悩むのがこの点である。卒業式一般に対して他の担任教員が何を期待しているかと言えば、「早く終わろう!」と言うことと、「そつなく、無難に」この2点につきる。そうではなく、自分が3年間担任した生徒達が卒業していくに当たっての最後の行事として卒業式を捉えるという視点がまったく見事に欠如している。この点については後に詳述することにして、話をH井先生に戻す。 たしかに「心をこめて」きれいに朗読できれば「美しい」だろう。しかし、果してそれでよいのだろうか。その考え方はあくまでも「体裁」を重視した、古い考え方ではないだろうか?
腹がたった原因の3つ目はH井先生の姿勢である。先に書いたように、確かに国語科教員は言葉の使い方やその意味に精通しているだろう。それは認めるが、しかしそれを「正義」として押し付ける姿勢には我慢できない。
国語科教員は文章に関して「マイティ」ではない。
4.生徒の卒業式実行委員会において検討すべき事柄
A。式次第にのっとったもの
1)入場順に関すること
2)在校生から卒業生への記念品に関すること
3)卒業証書授与に関すること
4)答辞に関すること
5)仰げば尊しに関すること
6)入退場に関すること(BGM)
以上1)〜6)について以下に詳述する。
1)入場順に関すること
これは式が始まるまでの1.2年生、来賓、保護者、主賓、3年生の入場順である。2学期当初、O村先生と本校の卒業式について雑談していた時いくつかO村先生から「おかしい」と指摘されたものがある。そのうちの一つが、この入場順である。
前年までは
1、2年生→来賓、保護者→3年生→主賓
というものだったのだが、これでは主人公が誰なのかわからないということなので、今年からは
1、2年生→来賓、保護者→主賓→3年生
というように「主人公である3年生が最後に入場するようにしたい」と関係者打ち合せ会に提案したところ(この会にたかしは出席していない。前年までは放送部顧問で出席していたのだがこの年、放送部顧問としてはA田先生が出席している。)管理職の強硬な反対にあい、断念せざるをえなかった。
管理職(と言うか、Y根校長(当時は教頭))の主張は次のようなものである。
卒業式において、3年生が主人公であることは認めるが、それにもまして主賓の人たちは卒業を祝いにきてくれている。この人達に先に入らせて自分達が後から入ると言うのはけしからん。そう言った礼儀を教えるのも卒業式である。
戦中派と戦後派の感覚の違いとばかり笑ってもいられない。今後、なんらかの形で是正しなければならない思想の硬直性である。
2)在校生から卒業生への記念品に関すること
これは本来自治会が行うべきものであるが、自治会に任せておいては連絡がうまくいかず式直前になってあわてることになるため3年生の卒業式実行委員会において検討した。40期において出たアイデアとしては、テレフォンカード、マグカップ、文集、はんこ、アルバム、アメフトボール、Tシャツ、トレーナー、メダル、カセット、オルゴール、パネル、ハンカチ、万年筆、ステッカー等であった。
この中から各クラスで選ばせた結果在校生から卒業生への記念品はテレフォンカードと言うことに決定した。
この、記念品に関しては後にB。で詳述する。
3)卒業証書授与に関すること
これは主に
A。卒業証書授与の際各担任がクラス全員の名前を読み上げるかどうか
B。各クラスで誰が卒業証書を受け取りにでるか
と言う2点の論議に集約できる。
A。については生徒の希望を聞いて決定すべき事であり、たとえ各担任がどう言おうと無視すべきである。
B。については生徒の実行委員会で決定すれば良いであろう。
4)答辞に関すること
これは主に
A。誰が書くか
B。誰が読むか
と言う2点に集約できる。
A。については40期生の場合、たかしの構想としては生徒の卒業式実行委員11名で書くつもりだったのだが時間の関係や実行委員に書ける生徒が根本的に、いなかったため3年3組のS反田美紀(現在一浪の後、甲南大学文学部在学)に書かせた。
B。については「一人で読む。」「複数で読む。」「卒業式実行委員全員で読む。」のいずれかを選択することになると思う。40期生の場合、卒業式実行委員に諮ったところ、「全員で読みたい。」という意見が多数を占めたため、各クラス1名の卒業式実行委員で、すなわち11人で読むことになった。
5)仰げば尊しに関すること
要するに「仰げば尊し」を生徒が歌いたいかどうかである。
40期においては各クラスの意見を聞き、歌うことに決定した。これも3)−A。と同じく生徒の希望を聞いて決めるべきことであり、各担任がどう言おうと無視するべきである。
6)入退場に関すること(BGM)
3年生の入場、退場の際のBGMである。40期では各クラスで希望を聞いた上で、実行委員会において入場がベン・E・キングの”STAND BY ME”退場がボン・ジョビの”NEVER SAY GOOD−BYE”と決定した。
B。在校生から卒業生への記念品について
前にも述べたがこれは本来、在校生代表である自治会、及び自治会顧問が行うべきことである。しかし、そうは言っていられないのが実状であり、40期の場合は生徒の実行委員会とたかしで決定した。
1)記念品を何にするか
最後まで残ったのがテレフォンカードとマグカップだった。結局テレフォンカードに決定したのだが、果して良かったのか?
たかしはまだ使わずに持っているが、使ってしまった生徒はどうしているのか非常に不安である。まさかそんなことはないと思うが、捨てていたりして・・。
今となって思えばマグカップの方が良かった気がする。
そう思う理由がもうひとつある。40期では11クラス中2クラスを除いて9クラスが全員の顔写真をはめ込んだのだが、いかんせん小さすぎてひとりひとりの顔が判別しにくい。
マグカップであれば割ってしまうことはあっても無くしはしないだろう。テレカの致命的な欠点は小さくて無くし易いことにある。
やはり卒業記念品は強烈に存在を主張する品物の方がよいだろう。
2)記念品の手配
テレカと決まった段階でHさん(当時の自治会顧問)が千島のNTTへ行ってパンフレットをもらってきてくれたが後は一切たかしと生徒の実行委員で行った。
マグカップなどのいわゆる「ありふれた卒業記念品」なら12月ごろから業者から見本などを送ってよこすため、手配は簡単である。業者の言うようにしていれば事は進んで行く。しかしテレカの場合は違った。最終的には近畿電話印刷株式会社という会社に発注したのだが、そこへ落ち着くまでに関西テレカやNTT千島電話局に何度も電話して問い合わせた。
2月の卒業式直前に千島電話局へできあがったテレカを受け取りに行ったとき、担当の人(名前は忘れた。名刺をもらっていたのだがどこかへいってしまっている。)から「先生、長い間ごくろうさまでした。」と言われたときは泣きそうになりながら、堅い握手を交わした。
5.教員の卒業式実行委員会で検討すべき事柄
そんなにたくさんはない。
A。卒業生から在校生への卒業記念品
38期はビデオカメラなどの視聴覚器具
39期はパイプテント4張り
40期はグランドの放送設備
という風に贈ってきている。各分掌、教科などに希望を聞いて決定すればよいと思う。
B。3年生の入場コース、及び退場の仕方
入場の際、どのようなコースを通って各自の席につくかである。40期の場合たかしはステージに向かって右から1組、2組の順で着席するつもりでクラスの入場順とその進行コースを決めたのだが、卒業生からの卒業記念品の目録を渡す生徒、在校生からの卒業記念品の目録をもらう生徒が2人とも8組の生徒であり、そのままの席の配置では出入りに不都合なため6組と8組の席の配置と入場順を入れ換えることになった。
退場の仕方はたかしがI尾へ来てから37期、38期、39期と3回の卒業式を見てきたが、それと同じようにした。すなわち、式終了後1列目の生徒が全員起立、中央通路から2列で退場、以下2列目、3列目も同様。クラスごとに退場はせず、前からの列ごとに退場することにした
6.教員にとっての卒業式、生徒にとっての卒業式、・・・みんなの卒業式
A。3年間の総結集の行事として捉える視点
40期担任の中にはもうすでに何度も卒業生を送り出してきた人がいて、その人によく言われた。「あんたは初めてやからそんなにいれこむねんで。卒業式なんてしょうむないもんや、はよ終らしたらええねん」と。そう言われるたびにそうだろうかと思った。確かに何度も卒業生を出していれば、「3年担任として卒業式に出席すること」に慣れることはあるだろう。しかし、それと卒業式を「こなすべき行事」と捉える態度とは別物であるはずである。
たかしは生徒の実行委員たちにこう言った。
「40期らしく、なんか派手なことやって、今までとは違う卒業式にしようぜ。」
その期待に応えて、彼らはいろんなアイデアを出してくれた。卒業式とは直接かかわり合いがないが卒業公演の「蒲田行進曲」、答辞の際のスライド上映、11人で読む答辞、そして最後の大合唱など。
ただ、あの最後の大合唱の部分にはいやな思い出がある。S反田が当初書いてきた答辞にはあの部分はなかったのである。それを「あのH井先生」が「普通答辞と言うのは最後は、担任の先生とか保護者に感謝の気持ちを表して終わるねんで。」といって付け加えさせたのである。 正直言って感謝されるようなことをした覚えはない。 自分で言うなよな。
閑話休題
88年の青年部教研でS水谷のK井先生が生徒の自治会をいかに指導するかと言う質問に対して「張りつき、耐えて聞き、要求する。」と言うスローガンを提出された。たかしの経験から言えばこれは少し言葉が足りない、もう少し細かく言えば「段取りを教え、要求し、見守り、考えさせ、援助し、実行させ、総括し、自信を持たせ、より高度な要求を突きつける。」と言うことである。各種行事における担任の態度もこれとまったく同じであるべきであると思う。
卒業式の場合も総括ができないだけでほかの行事と同じだろう。
式次第にそって立ったり座ったりを繰り返すだけなら何も考える必要はない。もう40回も繰り返してきた行事なのだからやることは決まっている。それにそって、やればよい。だけども、卒業式と言うのは「生徒を主体として1学年全体で取り組むことのできる最後の行事」だと言う視座に立てば、そんな卒業式は色あせる。3年間の総決算として生徒たちに考えを出させ、ともに教員も考える。卒業式とはそういう行事であり、卒業式実行委員会と言うのはただ単に全員の名前を読んで欲しいとか、仰げば尊しを歌いたいとか、そういう事だけを話し合う場ではないと思う。(たかしにとっては大好きな40期生たちと遊べる最後のチャンスだったので思いっきり楽しんだ。)
何より、I尾の生徒たちというのは段取りをしっかりと教えてやればすばらしい「ちから」を見せてくれる。I尾でクラスを担任する際、一番肝心なのは生徒を動く気にさせる「動機づけ」と、いかにすれば生徒だけで問題を解決できるか「段取り」をしっかりと教えること、この2点だろうと確信している。
話が出たついでにあの卒業公演の「蒲田行進曲」について書いておく。
あれはそもそも3年3組の卒業式実行委員O出勉の個人的なトラウマからの発案である。最初彼が「先生ちょっと相談があるんですが。」と来たときは本気で考えなかったのだが、次第に実行委員会の中でばかにされながらも盛り上がっていくのを見ていると「これはひょっとするとすごいことになるかもしれんな?」と思い出し、40期担任会に案を出してみた。その前にO村先生に意見を聞いてみたのだが肯定的な返事が返ってきたので百万の味方を得た気分だった。しかし・・・
担任会での詳しいやり取りは忘れたが(無理やり忘れた)結局「40期担任団として指導するのは遠慮したい。卒業生を送る会として捉えて、自主活で考えてもらえないだろうか」というくっさんの意見が大勢をつかみ、不本意ながら自主活部会に提案した。
自主活部会ではもっともな意見として「40期でやるべきことである。」と言うことになり、結局ちゅうぶらりんのまま、たかしが個人的にO出を支援する形で動きだした。
40期担任団の考え方は明らかにペケである。
何より大事なのは生徒たちが自分たちだけでこういうことをやりたいと言い出したことであり、それを尊重しようとする姿勢がみじんも見られない。
ここに卒業式実行委員たちが人集めのために3年生向けにまいたビラがある。その全文をここに記す。
3年生に告ぐ!
高校生活にピリオドを打ちあぐねている3年生のみなさん!!
もう1度ひと花咲かせてみませんか?! 卒業委員会では、もう1度演劇をやろう!と企画しています。
後輩達に最後の40期生を見せるために!
高校生活の終わりをより感動的にするために!
「やってみようかなあ」
「がんばってみようかなあ」
と、少しでも思った人は各クラスの卒業委員まで申し出て下さい。
まってます!!
卒業委員会
このビラは3年3組のS反田が書いたものである。
あのS反田が成長したものだと感心した。2年でたかしが担任したときは余裕がなく、周りを傷つけることをなんとも思わない子だった。
卒業式実行委員、特にO出勉の努力のかいあって卒業公演の「蒲田行進曲」は成功したが、その喜びは40期生たちとたかしの共有財産となって今も残っている。
40期生たちとたかしだけの財産である。
蛇足になるが、現在O出勉は大阪芸大舞台芸術科を目指して浪人中であるが彼の演劇に対する情熱には目をみはるものがあり、心から応援のエールを送りたい。(このあいだ学校へ来たとき「推薦の実技で失敗した。」としょんぼりしていたのと同時に、あの高倉健とマイケル・ダグラスの「ブラック・レイン」に端役で出演し画面の中央にしっかりアップで写ったうえ、健さんに声をかけてもらった、と言ってはしゃいでいた。)
−−−1989年4月19日追記
O出は一般で芸大の舞台芸術科にうかりました。
B。セレモニーとしての卒業式(基本的な段取りはしっかりと)
3.−A。において「40期担任団の特殊性」と言う言い方をしたが、これはどういうことかと言うと。
みんな知らないのである。段取りを。
A。においてえらそうなことを述べたが、基本的な段取りがわかっていなければ何もできない。たかしの場合は38期の卒業式をK井先生が高畑先生にいろいろ教えてもらいながらやるのを見、39期の卒業式をS水大策先生がやるのを見ていたため、基本的なこと、すなわち式次第の流れであるとか、これこれのことをいつまでに生徒たちと決めなければならない、と言うことをおおよそ知っていたのである。そして(これが大事なのだが)知らないことがあっても、誰に聞けばそれがわかるか、聞くべき人を知っていたのである。
向上心を持った人間というのは日々成長していく。教員の場合も同じである。いろんな経験をし、いろんな人に話を聞き、いわゆる「力量」と言うものがついていく。
たかしの場合、その原動力となるものは「生徒に対して恥をかきたくない。」と言うものだった。
たかしという人間は強烈に見栄っぱりである。だから恥をかきたくない。したがって知らないことが出てくるとそれを知ろうと努力する。その積み重ねでここまで来た。知らないことを知ろうとする努力、そして誰に聞けば知ることができるかを把握しておくこと。それが大事だと思う。
しかし、I尾にはたとえばK先生、S先生、A先生などのように向上心のかけらもないように見える先生方がたくさんいる。
何を考えているんだろうと思う。
何のために教師になったんだろうと思う。
7.40期が初めてやったことについての補足
A。スライド上映
「なんか派手なことやろうぜ。」と言うたかしの呼びかけに対して、卒業式実行委員が出してきたアイデアの一つがこの答辞の際のスライド上映だった。しかし当初はどこから手をつければ良いのか皆目わからなかった。他の高校のことは知らないが、たかしの出身校(府立阪南高校)では写真部が年間の行事をすべて記録していた。そこでそれと同じことをI尾でしているところを考えた。答えは「K原フォトグラフ」さんである。
そこでK原さんに相談したところ、40期の3年間を記録している写真はあるにはあるが、ネガの総数は2000枚を越えると言う。そこでうなっているとK原さんがこういうことを教えてくれた。「図書部で毎年その年の行事の写真を何枚かずつ焼いてアルバムにしている。」と。
図書室に行きHさんに事情を説明してそのアルバムを借りることにした。そのアルバムから、40期生の多く写っているものを選び出し、スライドの原版にすることにした。おおよその総枚数はめどとして、たかしが指定したが、写真選びは卒業式実行委員にやってもらった。
次はスライド作りであるが、これはK原さんに頼むことにした。1枚当り、70円でスライドにしてくれる。
できあがってきたスライドを手にして、はたと困った。いったい誰がこのスライドを上映するのか? 卒業式実行委員たちは答辞を読んでいる。まさか3年担任のたかしが真ん中に出ていってスライドの機械をカチャカチャやるわけにもいかない。考えあぐねた末、自治会執行部の生徒たちに頼むことにした。
スライドの機械であるが、これは靭本町にある科学技術センターに借りに行った。実験的に上映してみたとき、それに本番の時、2回借りに行ったがその際、当時の生物科実習助手の山岳スキー部OGのK茂圭子さん(現 N原先生夫人)の運転する車で運んでもらったことを感謝している。
卒業式前日、予行の日にあることに気がついて愕然とした。
スライド用のスクリーンを降ろしたり、上げたりするのは誰がやるのか?これも結局自治会執行部の補佐の生徒に頼むことにした。 この、Y本巧、Y川航(41期生)の二人は、たかしの合図に合わせてスクリーンを降ろしたり上げたりするためだけのために、ステージの隅で式の間中じっと寒さに耐えてくれた。
いくら感謝しても、し過ぎることはない。
答辞を実行委員たちが読み終わった瞬間、同時にスライド用のスクリーンが上に巻き上がっていったが、そのとき何か大きな仕事をやり遂げた感触で胸がいっぱいになったのを覚えている。
写真のことを書いたついでに最後に少し言っておきたいことがある。なぜ、I尾の教師はK原さんのことを「写真屋さん」と呼ぶのだろう? あの人には「K原」という名前があるのだ。なぜ「K原さん」と呼べないのか、僕には理解できない。 僕以外に「K原さん」と呼んでいるのは知る範囲内ではS瀬先生だけである。
B。11人で読む答辞、大合唱、11人で清書
答辞については、同時にスライド上映を行うため、スライドのナレーション的な役割もあった。そのため、とにかく分かりやすく読むようにと指導した。最後の大合唱の部分ではもうスライドは終わっている。11人で声を合わせて聞き取りにくくならないように、それだけを指導した。また答辞は読み終わった後、校長に渡して席に戻るのだが、それ用に11人全員で毛筆で清書した。あれは大失敗だったと思う。実行委員が読んでいた原稿はたかしがワープロで打ったもので、わざわざ清書せずとも、あれを渡せば良かったと思っている。清書のために、1日かかり実行委員の生徒たちに迷惑をかけた。
8.最後に
最後に、あのすばらしい40期生たちに、心から感謝をこめて次の文章を贈り、この文章のまとめとします。
この文章は40期3年1組(たかしクラス)の卒業文集のためにたかしが書いたものです。
「卒業おめでとう」という言葉しか思い付かなくて、、、、、
今を去ること3年前、昭和60年3月19日。合格発表の日。あの日は寒くて僕とI田先生が合格者名簿をネットにかけに行くときには冷たい雨が降ってきました。そして午後のオリエンテーション、「ああ、これから3年間この子達とつきあうねんなあ。」と思うと身が引き締まりました。
そしてあれから3年の年月が流れ去りました。この3年という年月は、確実に僕という人間を変えました。
今から4年前、昭和59年に教師になって初めてこのI尾高校にやってきたときは不安でいっぱいでしたが、君達と過ごした3年間で少しは教師としてやって行けそうな感じがしてきました。
それが果していいことなのか、それとも悪いことなのか今はわかりません。
でも、一つだけいえることは「初心を忘れるな!」ということをこれからも常に心に留めておこうということです。
今、I尾高校を巣立って行く君達にも同じ言葉を贈りたいと思います。
これからの人生、いろいろ辛いことが君達を待ち受けていると思います。だけど、「越えられない壁はありません。」し、「朝の来ない夜はありません。」どうか歯を食いしばって乗り越えて行ってください。
そして、その時は常に初心を忘れずに、謙虚な気持ちで物事に当たってください。
少しくらい自信がついたからといって思い上がることなく回りの人の言葉に耳を傾け、常に「このやり方でよいのだろうか?」と反省を怠らないでください。そうすればおのずと道は開けます。
最後に、、、いつも笑顔を絶やさず、元気で人生を歩んで行ってください。僕からのお願いです。
それじゃ、サヨナラ。いつまでも元気で。
1988.2.22 たかし